自我が生み出す世界

この世界

この世界は自我が生み出しています。目覚める瞬間「意識」が現れ次に意識から「自我」が芽生え次に思考が起こり世界も起こります。世界が起こってから自我が芽生えるのでは在りません。自我が世界を立ち上げるのです。目を開けば世界が存在しますがこれは思考が生み出すのです。思考なしに世界は存在できません。自我抜きに世界も存在できません。意識がなければ自我も存在できません。意識がなければ自我も世界も存在できないのです。

根本意識

では意識は何から生まれるのか???根本意識、絶対意識「気づき」です。これが存在しなかったら「意識」も存在せず自我も世界も何もかも存在できません。深い眠りから目覚める時「意識」が起こり自我が起こり世界が起こります。それらが起こっていない時根本意識「気づき」は意識の不在に気づくのです。気づきは「意識ー自我ー世界」の全てに気づきます。意識ー自我ー世界は気づかれる「側」です。気づかれる側は根本意識「気づき」に何も影響を与えることはできずただ現れては消えるのです。

我々

我々とはこの事実に全く気づかず世界を彷徨う思考のことです。自我という存在が現れた瞬間、不快感、孤独感、苦しみが起こるのですがこれを解消しようと世界を彷徨うのです。彷徨うのは思考が作りだすこの体であり彷徨うば場所も思考が生み出す世界です。本当の自分「絶対意識」は何一つ影響を受けずただこの思考の動きに気づくのです。

うっかりな神??

勘違いした神???

この世界は神が勘違いした自我という存在がいて、、その自我の存在ゆえに苦悩が起こった。これが一般的な通説です。神は退屈になってこの世界を創造した。神は寂しくてこの世界を創造したのだ。多くの意見があります。御免なさい、それは全て方便です。嘘ではないのですが、、そのまま直訳すればそれは間違いです。なぜか????神は、真我は最初から完璧だからです。何も欠けていないのです。ですから神が、真我が何かを求めてこの世界を創造するのはあり得ないことです。

では????

ではなぜこの世界は存在するのですか???なぜ苦悩の人生がここに存在しなくてはならないのか!!!!おかしいではないか!!!そうです。おかしいのです。神が完璧完全なら必要ないでしょ、苦しい人生の私なんて。ところがです。そうではないのです。必要なんですよ。この苦しい苦しい人生が、寂しい寂しい人生が、この重い重い人生が必要なんですよ!!!

勘違いがないと勘違いが晴れたが経験できない

これは神の真我の影です。影には何でも反映されます、神の内部が真我の内部がモロ映りです。そこには何でも写っちゃいます。何でもです。なぜならば神は真我は「無限の原液」だからです。「無限という原液」の鏡に映った姿には全てが映し出されます。全可能性が映し出されます。そこには怒り、ては憎しみ、悲しみ、憎悪、妬み、嫉妬、罪悪感、、、、全てが映し出されるのです。この人生はその一つです。だから勘違いも起こるし勘違いの解消も起こります。起こらなくてはならないのです。

真我は何も欲していない

真我は最初から完全完璧

真我は最初から完全完璧です。何も必要としていません。何も要らないのです。ですから「腹減ったなー」という思考は「真我」の思考ではありません。真我は腹が減らないのです。だからこそ「私」の思考と思ってしまうのですが。。。。それも違うのです。この世界には真我しか存在しないので「腹が減った」という思考の主体は存在しないのです。では腹が減ったの主語は誰ですか????

存在しない

では答えを言います。木が水を根っこから吸い上げるとき「主語」は存在しますか???存在しません。自然に水は木に吸い上げられるのです。その時に「水を吸い上げてやる」という思考が起こりと起こらまいと何も関係なく木は水を吸い上げます。そして「木」という独立存在は存在しません。自然界ではただ水分が木と呼ばれる植物に吸い上げられるだけです。つまり水を吸い上げるぞ!!!という思考は「木という独立分離した存在が存在する」という確信が作り上げた妄想です。妄想こそがこの思考を生み出したのです。

絶対に成功してやる!!!

つまり人間から現れる思考の全ては「妄想」が作り出すのです。今も思考が現れていますよね????それ妄想が生み出しているのです。次から次へと思考が現れているから「私」がそれを生み出しているに違いないと確信します。するとその確信が「私」という感覚を生み出します。完全な相互作用です。真我は何もしていないのです。唯一の実在真我は最初から完璧でありただここに在るのです。

危ない状況

ないもかもがどうでもいい

周囲から見れば(本当はないが)悟り、非二元にどっぷり浸かっている期間は危ない状況です。価値観が180度ひっくり返ってしましますから、、それは危ないのです。「私」と関係性がある「個人」は危機感を覚えます、見かけ上。この人なんか変わってきたぞ、、、です。でも本当は周囲に関心がなくなるのではなく、、全く違う存在に変わってしまうだけなのです。

画像

周囲とは単純に画像でしかないことが分かると、、、、そこへの執着が消えるのです。友人への執着、家族への執着、仕事中仲間への執着が消えます。努力して関係を築いたからそれを失うのは損だ、、この感覚がないのです。損得という概念が消えるのです。だからシンプルに会いたいから会う、、会いたくないから会わない、、、に切り替わります。この感覚が周囲からは脅威になります。

好かれるための行動ができない

得をするために、好かれるために、、、という行動ができません。要は目的のための行動ができないのです。世の中は(見かけ上)損得のためにしか逆に言えば行動できない人が多く、、そこで行動原理が異なってしまい合わないようになります。ですが本当の意味ではその全てが愛おしいから関係性が変わるのです。個対個ではなく、、、「見た目上の個」対「見た目上の個」です。

鏡に写った顔

だから???

鏡には間違いなくこの体の顔は写りますよね?????だからこの顔は私であるということに何の疑いも持たないわけです。ですが、、、この顔は、この体は、、、景色、背景の一部です。。。本当の私とはこの目の前の景色全部です。そしてこの景色を作り出す存在です、スクリーンです。この顔は景色の一部であり、、現象の一部、です。つまり我々は我々の本質の中のたった一部を自分と呼んでいるんです。だから苦しい、だから欲求不満、だから寂しいのです。

鏡を見る

鏡を見てください、、そこにはこの体、この顔、、、が映るでしょう、、、、ですがこれが私ではないですよ。。。。私とは鏡を含めた全画像、全景色です。私とはこの景色を作り出すスクリーンです。ですから、、、この顔を自分だと思わないでください、、この顔は、、、私のほんの一部です。全背景の中の一部です。私たちは、、、この顔でもなく、この体でもなく、、全背景です。

周囲は

周囲はこの顔に向かってこの体に向かって声をかけてくるでしょう。その時は、、、役になり切って演じてください。その瞬間だけ偽りの自分を作り出し演じるのです。ですがこれは役です、、瞬間芸です。だから絶対にそのままにしないでください、、、すぐにスクリーン、背景に戻るのです。できれば背景、スクリーンとして、、人間関係を作るのです。

完全な安らぎ

背景、スクリーンとして毎日を生きますと、、、真の安らぎ、真の癒し、真の平和が訪れます。この体、この顔を自分だと信じて生きていたのが嘘のようです。存在感が全く違う、、全体として生きるのと、個人として生きるのでは、、、スケールが違い過ぎるのです。

リッチな最弱最小

無限

ここが無限の存在が現れる場所であることを実感するためには最小最弱な存在が必要です。宇宙空間の無限さを実感するためには最弱最小な存在がなくてはこれを実感できません。そのために生み出されたのがこの体です。そしてこの体を自分と勘違いして初めて「宇宙は半端なくでかい」ことが実感されます。我々とは最弱最小な実感を伴うこの体で宇宙の広大無辺を実感するために生まれたのです。

その最弱最初は

その最小最弱な私は最小最弱の実感ゆえに常に常に居心地が悪いのです。だって最小最弱を常に常に実感しなくては宇宙は広大無辺であることを実感できないからです。ゆえにこの最小最弱な私は居心地が悪いから少しでもリッチに、少しでも豊かに、少しでも大きく感じたいわけです。最小最弱を忘れたい、そのためには本の少しでも大きく感じたい、、それがこの星で生きる私のモチベーションなのです。

だがしかし

どんなにリッチになってもどんなに安泰を手に入れても、、最小最弱のこの感覚は拭えるわけがないのです。なぜならば宇宙の偉大さ、無限さ、広大さを実感するためには「最小最弱」を常に常に実感していなければならないのですから。ゆえにこの最小最弱の策略は常に常に失敗に終わるのです。そうですこの最小最弱は何を得ても「真の平安」には辿りつかないのです。本当はこの最小最弱なのではなくただ「この体を自分」という感覚が起こってしまっただけなのだということを見破るまでは。

クリスタル

映像

ここに一つのクリスタルが存在します。このクリスタルに光が貫通した時そのむこうに映像が写りました。それがこの現実と呼ばれる世界です。その現実を眺めてみるとその現実と呼ばれる映像は動いています。その映像は毎秒毎秒変化し続けています。これが現実と呼ばれる存在です。クリスタルは微動だにしませんがそこを貫通する光が映し出す映像は移り変わっているのです。

その中に

その映像の中心にはつねにこの体が写りこみそれを「私」「自分」と呼ぶことが起こりました。これが人生と呼ばれる現象です。移り変わる映像の中には常にこの体が映り込み「自分」「私」と呼ばれる現象が起こり続けます。時間、空間があるという思考概念が現れます。重要なことそれはクリスタルは微動だにしないということです。映像は変化するがクリスタルは何も起こっていません。

ふと気づくと

ふと気づくと全く違う方向からもクリスタルに光が貫通しその先に全く異なった映像が映り込みます。その映像の中心にも体が映り込み「私」「拙者」「I」「我」と呼ばれる現象が起こっています。注意深く見れば何億という光がクリスタルを貫通しその先には映像が映っています。微動だにしないクリスタルに何億という光が貫通しその先には体を中心とした映像が映り込むのです。

その全てが

その全ての映像は移り変わりそこには時間空間があるように見えます、実感されます。そしてそこには自分という存在があるように実感されます。何億という人生ドラマがあるように写りますが実際にはたった一つのクリスタルに光が投影され全く異なった映像が映し出されているのです。映像元のクリスタルは微動だにしないことからそこには時間、空間は存在しないのです。ただし映り込む映像は変化変遷するのでそこには時間空間があるような感覚が生まれます。

自分感

緻密な絵

ここに世界一絵が上手い人が描いた絵があるとしましょう。そこには花、鳥、昆虫、人間、雲、太陽が完全完璧に描かれています。その中の花、昆虫、鳥、人間、全てはまるで存在しているかのようにそこには存在します。それを子供に見せればそこに紛れもなくそれが存在するかのように存在します。これが「存在感」です。もしも子供がその事実を知らなければ彼は「花、昆虫、鳥、人間がそこに在った」と認識し次に進みます。

感覚

我々が花、鳥、人間、雲の存在を認識する時、、「存在感」のことを言います。「存在感」を感じたからそこに「存在」を認識するのです。存在感を感じたからそこにはそれが「あった」と判断するのです。「自分感」「私感」も全くこれは同じです、、、この存在感を感じたからそれがあるのだと判断してきたのです。

もしも

もしもこの「自分感」「私感」を脳によって強制的に作られてしまったら?????どうでしょうか?????その紛れもない感覚があるのだから「自分」「私」の存在を信じてきたとしてそれを反論できますか?????そうなんです、、「自分」「私」とは脳が作り出した「自分感」「私感」だったのです。この感覚が紛れもないから「自分感」=「自分は在る」という誤認識が生まれたのです。ですが実際には一枚の絵の中に「個別分離した自分」は存在できません。なぜならばそれは一枚の絵だからです。

つまり

つまり我々はこの現実と呼ばれる一枚の絵の中に「花」「樹木」「犬」「鳥」「人間」「私」という「存在感」を感じ、感じたのだから存在するのだという誤認識を続けてきたのです。本当は存在感だけがあって存在は存在しないのです。そこにはただ変化する一枚の絵だけが存在します。現実とは「空」「絶対」から放射された投影であり、、一枚の絵のようなものです。その絵の中に「存在感」が起こり続けドラマが生まれます。

観念のあぶり出し

現実

現実とは観念のことです。「これが真実だ!」そう信じる内容を観念と呼びますが今目の前に広がるこの現実は観念が投影された世界です。「人は必ず裏切る」そう信じた場合、その観念を100%信じた場合あなたの世界には「裏切り者」がしっかりと現れ出て「やっぱり!!!!!」が起こります。本当人間って最後は裏切るよね!!!!という観念が強化されます。

そんなことないよ

そのことを友人に話せば、、いやいやあなたはそう思っているかもしれないけど「私は裏切らないよ!!!!」と話すかもしれません、、、、ですがあなたが「いやいや絶対こいつも最後は裏切る」そう信じればその友人も最後には裏切ってこの観念を支えるのです。観念とは生き物のように生き残りをかけてこの現象界を牛耳るのです。

見抜く

だからこの現象界を眺めて「世界ってこうだよね!!!!」って判断することに意味はあありません。そこには観念に支えられた現実が漂うのです。そうではなく今ここに漂う現実が「人は裏切る」ならば私の観念は「人は裏切る」なんだと確認するだけです。その時今まさにここで起こる裏切りに「ショック」が起こりません。ただ観念が投影されたんだという確認のみになるのです。そしてこの観念という生物は「発見」されると消えます。

体が在るという感覚

在る

体がここに在るという感覚があります。このことが気づかれています。体がここに間違いなくあり、、その感覚があるのが目を開けている状態の時です、、そのことに気づく存在がいます。熟睡時体が在るという感覚が消えます、そのことに実は気づいています。そうでなければ朝目覚めた時、パニックになるでしょう。ですが実際にば「あー寝ていた」と寝ていたことに気づいています。そしてそのままに目覚めたことにも気づくのです。この気づきこそが空、絶対です。

夜夢を見ている

夜夢を見ています、その時意識が確実にあります。だから夢を見ていたことを目覚めた後に覚えていたりします。その時100%意識がありました。そして意識があったことに気づいています。目が覚めて意識がそのままにあり続けています、そのことに気づいています。意識の存在に気づく存在がいるのです。「気づき」です、これが空、絶対と呼ばれる存在です。

「空」「絶対」という自覚のままに

そこに意識が現れ、、、あらゆる感覚が起こるのです。五感が起こり、思考が起こり、感情が起こります。そのことに気づく存在がいます。それが空、絶対です。つまり今空、絶対という存在が五感に気づくことにきづいたのです。空、絶対という存在が存在することに気づいたのです。色が空によって気づかれることに気づいたのです。この時、色(現象)は空の投影であり、、今までの色(現象)はもうかつての色ではありません。今は空から起こっていることをはっきりと自覚された現象(色)になります。