偽りの自分

雨が降る

苦しいとは

苦しいとはこの世界、ここいま、、これに雨が降っている状態です。苦しいって個人的なものだと思っていますよね????残念、、、苦しいっていまここに起こっている現象です。つまり雨みたいなものなんです、、、いまここに雨が降る時、、苦しいが起こります。天気予報みたいなものです、苦しいって。個人とは関係ないんですか?????違います、、、個人がいるって強く信じるが起こった時に同時に苦しいという雨が降るんです。つまりつまり個人が現れた時の合併現象です。

雨が降れば土砂崩れ

苦しいと感じたらなぜ起こったかを観察してみてください、、、間違いなく「思考」が湧いた時なはずです。思考がグルグル回っている時に、、、苦しいという雨がガンガン降っているはずですよ。「私が何かをされた」この思考が起こったっ時に同時に「苦しい」という雨が降っているはずです。もしもそのような思考が全く湧いていないにも関わらず「苦しい」が起こったならば私のこの意見は嘘ということになりますが確認してみてください。

雨が降ってそれをまた個人が所有する

苦しいという雨が降った時に人は「私が雨に濡れた」とまた思考を起こします、、、、するとまた雨が降ります、、するとなんとかして私がこれを解決しなくては!という思考が起こり、、また雨が降るのです。こうやって雨と格闘することで雨が降り止まないのです。これを見抜いてください。雨が降る理由はただ一つ、私が居るという前提の思考が起こっている時です。

究極の観察の弱点

松本人志

松本人志の笑いを一言で説明すれば「観察」です。究極の観察力で、、タレントさん長所、短所を言い当てます。聞いている客はまさに!!!と唸るのです。有吉のあだ名芸しかり究極の観察力なくして成り立たないのです。松本人志はそういう意味で最も観察力に秀でた芸人だったと言えます。これを悟りで分析しますと、、彼は観察中、、完全に気づきの意織でいるのです。松本人志ではなく、、気づきの意織に入るわけです。つまり悟っているのです。相手を観察する際に完全に無我に入り観察、気づきの存在に成り切るわけです。

それを有我が奪う

悟った状態、無我の状態の気づきで得た芸能力を松本人志という有我、自我が全取りしようとする動きが起こります、、、俺の才能だ!!!!です、、、だからもっと評価をされるべき、もっと称賛されるべき、もっと持てはやされるべき、、、となるんです。本当は無我に入り気づき意識そのものに入ることで、、得た気づきを、、、自我が、、、、、俺様の手柄だと乗っ取るわけです。この動きに無意識(無我の反対)になると、、、やられます、、人生を壊されるんです。

無我のままでは困る

究極の観察力は究極の無我力が為せる技ですが、、、、そのまま無我でいられたらたまったもんじゃないのです、、、自我が消えてしまいます、、自我が消滅してしまう、、自我が崩壊してしまうわけです。そこでその無我の功績を自我が所有するという動きが強烈になるのです。無我力ゆえの自我力です。強烈に強烈に自我に帰ろうという動きが起こるのです。ここを多くの人は見抜けず自我に翻弄されるのです。

自我の動きに無意識ではやられる

松本人志ほどの観察力をもっていてしても自我の動きには完全にやられてしまいます。自我の逆襲です、、究極の無我の状態での気づきを、、、、自我が強力な力で奪い取り、、自我を維持しようとします。この功績は私の力だ、この功績はもっと評価されるべきだ、、もっともっと、、、、、この声に気づきの意織(本質)が耳を傾けたら大変、、、、恐ろしいほどの渇望が生まれるわけです。松本人志ほどの功績を自我が所有したらどうなるか、、、、恐ろしいことです。

「私」が感動を壊して「私」が回収する

観念

お金がないと絶対不幸だよね!!!この観念が起こりますと、、その人は本当にお金がない時緊張します、焦ります、辛くなります。人に会っても見下された感じになります、何をやっても楽しくないが起こります。そこで頑張ります、絶対にお金を稼いで幸せになるんだ、、が起こります。そして頑張るでしょう、一生懸命に。10年後給料が高い会社に就職し本当に大きなお金を手にする、、その人はそこで初めて感動を味わうのです。

お金がないと不幸

この観念が実はこの世界から感動を既に奪ったのです、最初にこの観念で感動を奪っておいて、、お金を手にして感動を味わいました。自身で作り上げた感動ストーリーです。この事実が悪いとかそういう意味ではありません、ですが真実はそうなっているという話です。自分で感動を壊しておいて自分で感動を回収しているんです。

観念の構築

お金に関するストレスが多かったからそのような観念が構築したんじゃないんです、自我が芽生えストレスを感じるようになった時にその環境にお金がなかったんです。もしも両親の仲が悪ければそこがトラウマになります。もしもクラスメイトと揉めていればそれがトラウマになります。もしもその時勉強ができなければそれがトラウマになります。観念とは「ストレス」が最初にあってその時の環境が作り上ます。ですが本当は自我形成こそが「ストレス」を生み出していたんです。

強い刺激を得た時に起こること

大金を得た時に

大金を得た、気になる異性を手に入れた、株が10倍になった、、、大きな大きなターゲットを得ることは自身のとっては大きな大きな刺激です。刺激的な日であることは間違い無いでしょう、、最高の1日です。ではその日になぜ最高の幸せになるか知っていますか?????そのターゲットがなぜ私を幸せにしたのか???それはそれを望まなくてよくなったからです。お金を異性を地位を名誉を望む必要が無くなったからです。マグロを一本吊した際に、その瞬間もう何もしなくて良くなったのです。頑張らなくて良くなったから、、幸福なんです。緊張感から解放されて幸福になったのです。

刺激からの緊張の解放

大金という大きな刺激を得て、、頑張って努力する必要がなくなったから幸福を感じたのです。実はこれってゼロからプラスになったんじゃないんです。マイナス(緊張)がゼロになったのです。全てのターゲットって、、実はゼロをプラスにするんじゃなくて、、マイナス(緊張)をゼロにしていたんです。つまりつまり、、私たちはマイナスが基本なんです。だから宝くじ3億円、世界一周旅行プレゼント、最高級乗用車プレゼントに食いつくのです、、、全マイナスをそれらが解消してくれる気がするからです。

マイナスの原因は????

ではこのマイナスの原因はなんですか????このマイナスの原因が分からなくては全くもって問題解決にはならないじゃないですか!!!そのマイナスとは、、、、、勘違いです、、人間としての勘違いが全マイナスを作り出しています。。。勘違い?????そうです、、我々はただ勘違いをしていてそれがマイナスを作っています。

勘違い

例えば人は何かを達成したら幸福になると思っています、、事実は違います。例えば人はここ以外に世界があると思っています、、ですが事実は違います。例えば自分の行動の責任は全部自分にあると思っています、ですが事実は違います。例えば人は自由意志があると思っています、ですが事実は違います。このような勘違いの連続で人は自分を責め、人を責め、後悔し、恨み、、不幸を作り出しているのです。

何かに価値があると信じると

この世界の何かに

この世界の何かに価値があると信じた時点で、、それを失う恐怖心、それを獲れないストレスの両方の緊張感を味わうようになります。学歴が重要だと信じればそれを得るための緊張感、それを獲れない場合の緊張感を感じます。お金が大重要だと信じればそれを得るための緊張感、失うことへの恐怖心という緊張を味わうことになるのです。つまりこの現象界の現れては消えていく何かに価値を見出すこと自体が「苦しみ」の元なのです。

何も価値はない

この世界の中で至福をくれる何かは一切ありません、至福を約束してくれる何かは全くないのです。そこに気づくことが何よりも至福への入り口です。何も至福を約束してくれないのならば一体何に向かって生きればいいのか????何にも向かわなくていいのです。そして今の緊張感、喪失感、絶望感を作り出した大元が「思考」「私が居る」という概念であることに気づくのです。

これは絶望ではない

何もかもが「私」を至福には向かわせない、、この事実に早く気づくべきです。お金、友情、パートナー、家族、現れては消えていく何かに至福を約束してくれるものはないのです、そして「私」も現れては消える概念です。「私」すらも現れては消える概念であるならばもう「私」を幸せにしようと頑張る必要もなくなります。この諦めが起きた時に、、ベクトルが横から縦に変わります。全現象がこの私で、、完全完璧な現象が常にある、、そのことが至福だったのだと分かる日がきます。横に向かってもう「私」が頑張らなくていい、、という解放が真の安らぎを連れてきます。

神経症の連鎖

付き合わない

この世界に登場する人々の多くは神経症です。なぜならばこの個人が居てこの個人が人生を歩んでいるという錯覚を真剣に信じているからです。ですからここで出会う人々の多くは神経症的にならざるを得ないのです。そうなると真の安らぎの中で生きるには無理をして付き合わないことが重要になります。そして神経症的な動きがあってもそれを解決しようとか抱えこまないことです、なぜならばそれをコントロールできる個人は居ませんし、解決した「私」も本当は居ないからです。

大丈夫ですか???

働かなくて大丈夫ですか???貯金がなくて大丈夫ですか???持ち家がなくて大丈夫ですか???今の年金で大丈夫ですか????周囲は「私」にあらゆる心配をしてくるでしょう。ですがそれらの心配を汲んでこちらがそれに対応したところで何一つ幸福度が上がらないことは確かです。なぜならば物質的次元で安心を得ようとしても何一つそれは叶わないからです。見かけ上の安心を得ることで今度は異なったストレスを抱えるだけの話です。

幸福の定義

これを叶えたら幸せ、これを成就したら幸せ、、個人の人生を歩む人々はこれを信じて生きていくわけですがこれらの全部は推測の域を出ません。そして歩んでも歩んでも真の幸福が全く手に入らないことから神経症的になっていくのです。重要なことは早くそのことに気づき諦めること。真の幸福は悟り、覚醒、解放以外にないことを悟ることです。この瞬間幻想に向かって走るという焦燥感から抜け出せます。

目覚める誰かはいない

たった一つのエネルギーで

いまここにはたった一つのエネルギーしか存在していません、その中でこの私が居るという思考がたちがりました。この思考はその場でたった一つのエネルギーに読み込まれイメージ化されます。このイメージが「私が居る」を作り出します、イメージとして。このイメージがそのまま緊張感と分離感を生み出すことからこれが不快なストレスになります、これがたった一つのエネルギー上に起こります。この不快感を解消するために「私はお酒を飲む」という思考がさらに起こり、、この動きも起こるとしましょう。すると、、これによって新たな緊張と分離が起こるのです。

この湧き上がりが無くなる

「この私が目覚め悟りに至った」というのは思考です、、この思考は私ありきなので、、そのまま緊張と分離を作り出します。この状態は悟りではありません、悟りとはこのたった一つのエネルギーの世界から緊張と分離が消えることなのです。つまり私の悟り体験はこの事実とは真っ向から異なるのです。解放とはこのたった一つのエネルギーの世界に「私」という思考が起きないことをいいます、私を前提にした思考が起こらない時、、この世界に緊張と分離が起こらないのです。

思考が勝手に起こらなくなれば終わり

思考を起こせる個人というのは居ないので、、、私を前提とした思考が起こるか起きないかが全てです。この事実を聞いてそのまま私を前提にした思考が起こらなくなるのかどうかは誰にも分かりません。一つの方法として呼吸法があります、、思考が湧き上がるたびにそれに気づき、、呼吸法をして思考への意識を解除します。呼吸に意識を集中することで強制的に思考の自動湧き上がりプログラムを解除してしまいます。思考の自動立ち上がりが消えると、、苦しみを作り出す機能がなくなりますからそのまま解放に至ります。

最後はまた「私」が持っていく

周囲からの評価

この世界では無我に入って事に当たれるようになりますと周囲から評価されるようになります。毎日毎日無我に入りバイオリンに打ち込めば、、、評価を受けれる域にどこかで達成するでしょう。ですがその評価は「私」が達成したことではなく「私」の不在時に達成したことです。ところが「私」はその達成を横取りします。不在時の達成を「私」は横取りするのです。周囲は「私」を便宜上評価することから「私」はこの評価を享受していいと判断し、、「恐縮です」になるのです。

周囲の化けの皮が剥がれる

無我時の達成を評価する周囲とは一体何なのか?????実はこの達成を評価する周囲とは画像です、イリュージョンです、マジックです、幻影です。画像の中の動く画像です、、、この画像からこの体という画像に向かって「あなた」は凄い、、、、というありもしない(一時的存在)人格に対して、、評するという動きが起こったのです。「そうか、この達成はこの私がやったんだ!!!」という勘違いが起こると「素晴らしい私」がカムバックするのです。

真実を見抜く

真実を見抜いていきますと、、、言葉でのやりとりは真実ではないことが分かります。言葉でのやりとりが真実ならば、、そこから「苦しい」が生まれることはないのです。真実ではない言葉が飛びかい、それを信じるという動きが起こりますと「私ストーリー」が強化され「苦しい」がまた起こるのです。周囲が評する「私」は便宜上のアイデアであり評価する周囲も画像でしかありません。

自我のプロレス

巻き込まれたら負け

例えば会社に通うとしましょう、、、行ってみたら、社長と部長が仲が悪くいつも喧嘩している。部長が心身を病んで鬱状態に、、社長はストレス発散でアル中状態。さらに一個上の先輩は性格が悪くこちらに当たってくる、いったい私はどうしたらいいですか?????簡単です、、その起こっている現象は全て幻で、誰も苦しんでいないことを悟ることです。苦しみを体験できるのは誰ですか???幻はその体験はできません、つまり、、誰一人苦しんでいる人物(幻)は居ません。もしも苦しむことができる存在が居るとするとたった一人神です。

いやいや「私」が苦しいのは百も分かっています。

何を言っているのか????私はそれで十分に苦しい思いをしていますよ?????この私が!!!違います、、私っていうには100%幻です、、幻が苦しむのは不可能です。もしも苦しんでると自覚があるのならばあなたが神だということです。だとしたら部長も社長も神でしっかり苦しんでいるのでは???もしも今あなたが神であることが自覚できたならば、、部長、社長の苦しみの全部今神であるあなたが感じているはずです。

つまり

少なくとも100%言えることは、、この見える世界で苦しんでいるのはこの私をやっている神だけです。だから全くもって周囲の苦しみを背負わなくていい、構わなくていい、社会通念上問題にならない程度に振る舞えばいいのです。そして今この私をやっている神が背負っている苦しみをなくすことに専念するのです。なぜ苦しみが湧くのか????そこに注力します。

壺であり大地でありスペースである

この体は壺

この体は壺です、土でできた壺です。壺は意識を持ち私はこの壺で在ると気づきました、、、ですが同時に壺の構成要素である土でもあるで、、壺の土は常に常に大地であった記憶に襲われ、、、大地に戻りたいと探求するのです。壺として生きているだけでは満足できず、、大地に戻りたいという欲求が起こり続けます。ですが同時に壺は既に完成していますから、、大地に戻るためには、、、粉々に自身を壊す以外にありません。

自殺とはつまりそれ

自殺とは壺としては大地に戻れないことを悟り絶望して自らを壊す行為です。壺自身が壺を壊すことで大地に戻れることを知っているからこその動きなのです。では我々は壺として大地に戻れないいじょう、、絶望しながら生きていくしかないのでしょうか。そのようなことはありません、実は大地に戻らなくても大地に戻る方法があるのです。日本語としては成り立っていないですよね?????

大地であったころ

大地であったころの記憶とは、、なぜ起こりえるのでしょうか????もしも世界に大地しかないとしたら、、大地は大地と認識することは不可能です。なぜならば大地しかないのだから。大地以外があって大地は大地と認識できます。ですがこの世界には大地しかないと仮定したら、、大地は大地と認識できません。でもしっかりと大地としての認識があるのです。これは難問ですね????唯一答えを導く方法があるのです。自分の本当の姿とは、、、大地が存在するスペースです。それならばそこに大地が現れた時にそれに気づけるのです。そうです、私たちの本質は大地でありそして大地を出現させたスペースに他ならないのです。これによって壺は自らを壊して大地に戻る必要は全くないのです。