呼吸法

観察する王のデバイス体験

デバイス体験は疲れる

我々の本質は王です、全現象に今気づいている王です、太陽の光、雨の滴、風の動き、花の香り、、、これら全部に気づくのはこの体ではありません。王です、王が気づくんです。この体は現象でしかなく、、この体には気づく能力はゼロなんです、、、この体は王の気づきに同期するシステムがあるだけです。つまりこの体とはデバイスの一つです。王はなぜこの全現象に気づくことができるのか???それは王が非全現象だからです、、全現象の全く正反対のエネルギーだからです、、だから気づくのです。

幼稚園児までは

幼稚園児までは、、王が絶対的に居て、、、この体はデバイスでしかなかったのです。だから人生に苦しみはゼロでした。。。ところが小学校ぐらいに入ると、、、王がデバイスから起こる思考に気づき始めたのです、、デバイスから起こる思考に気づき、思考に気づくを繰り返すようになりました。。この思考とは、、、イメージです、、分離のイメージ、この世界とは独立した体というイメージ、、この世界と分離した私というイメージを作るのです、、王がこの思考に気づくことでその度にイメージ画像が浮かび上がり、その中でだけ苦しみ、孤独、分離感、緊張感が生まれるのです。

騙される

この苦しみを解消するため、、またデバイス(体)からあらゆる思考が湧き上がります。あれをしたらどうだ???これをすたらどうだ????人気者になったら解消するのでは????成功したら解消するかもよ、、、、その度に王はその思考をイメージ化させて、、、また「苦しい」が起こるのです。これがデバイスにより人生ストーリー、渡る世間は鬼ばかりです。

デバイスの思考から王を外す

王はデバイスから湧き上がる思考に集中し過ぎるがゆえに思考の湧き上がりに着目し過ぎています。これではいつまで経っても喜怒哀楽ストーリーから抜けれない。。。。ということでこの王の思考着目構造を壊したい、、これが悟り、解放、覚醒です。王が思考に着目しなければそもそも思考は湧かないのです、、、ですから意図的に思考以外に王に着目させるというトレーニングを行います。それが呼吸法です。

観察する王

音に光に香りに

私とはこの全現象に気づく王です、、、鳥の声、鳥、鳥の動き、鳥の色、、、これは人間の体が捉えているんではないんです。人間の体はこの王の気づきに同期しているだけです。王が気づき、それに体が同期します。全てに気づいているのは王です。王以外にこの現象に気付ける存在は居ないんです。友人が話しかけてきました、その友人の表情、顔色、声、、全てに気づくのは王です、、気づきの存在です、、、これにこの体が同期します。

王は最初から最後まで王

王が王じゃなくなる時はないんです、、、この体はしょっちゅう画面上から消えますが、、、王がこの画面上から消えてなくなることはないんです、この世界は王の所有物です。王の所有物でなかった時など存在せず、、王に気づかれない現象もまた存在しないのです。その気づきがこの体に同期します。だからこの体は王の同期媒体でしかなく、、それ以上でもそれ以下でもないんです。王のデバイスの一つです。

王の威厳が損なわれる????

王の威厳が損なわれる、王が自信を無くす????そんなことはあり得ないのです、、なぜならば王はこの世界全ての現象を生み出し気づきそして現象を消し去っていく存在です。その能力が損なわれることあありえずそしてこれからもありません。ただしこの体というデバイスは調子が良い悪いはあるでしょう、、時に失敗し、時に成功し、、時に称賛され、時に避難もされるでしょう。。ですがこの体は体でしかなく、、王のデバイスに変わりはなのです。

デバイス(体)のトリック

このデバイス(体)には脳があり、、、ここの王が意識を向けますと、、、思考が湧き出してきます、、この思考に王が意識を向けますと、、、このデバイスの人生映画が展開されます、、イメージ化、映像化されるのです。。この映画が流れ続ける間、、、、楽しい、苦しい、喜怒哀楽のストーリーが始まります。ですからもしも「苦しみ」を終わらせたいのならば、、、王はこのデバイスの脳に意識を向けない、、をしないといけないんです。それが呼吸法、断食法です。

悟りを目指さなくてはいけない理由

勘違いのままでは幸福になれない

平々凡々で食べていければ何も問題ないんですよ、多くは望みません人並みの生活ができていればそれでいいんです。多くの方は今の生活に絶望するわけでもなくかつ至福を目指すのでもなく、、なんとなく生きてければいいとそこで安心します。ですがこれは決して健全な状態ではないのです。本当の安らぎ、本当の平和、本当の愛を知らないからこそでる言葉なのです。

知らないことは幸せ????

本当に美味しい料理をしらないまま生きることは幸福なことでしょうか???不幸なことでしょうか?????本音を言ってしまえば不幸なことです、、、知らないって実は幸せなことでは???違います、、、知らないで幸福ならば一歩も部屋を出なければそうなりますよね?????でもそうはならない。。つまり人間とは知りながら体感しながら至福を目指すものなのです。

ではどうやって目指すのか?????

簡単です、、その人のやり方で目指せばいいのです。読書が得意ならば読書、動画が好きならば動画から、ヨガなどの動きから入りたければヨガ、、、呼吸法や瞑想など静かな実践が好きならばそう、、、となります。実は悟りとは無限大な方法でそこに至れるようになっているのです。ですから無限大の道から何かを選べばいい。ただそれだけです。そして最終的にはその道を進む個人も実は居なくて、、その道自体が悟りであることに気づきます。

最初からこの世界の王なのに

なぜかマリオで王になろうとする

我々の本質は完全にこの世界の王です。だってこの世界で起こる全てに気付けるのはこの本質、王だけなんです。今私が、、風に気づき、光に気づき、気温に気づき、、、と思っていると思いますが、、実はこれ本質が気付いています。ゲーム上のマリオ(私)ではないです。マリオ(私)には気づく能力は備わっていません。つまり本質の存在、王として、、、、気付いているんです、全てに。

ところが

ところが、、、自身が王であることをすっかり忘れてしまい、、自身をマリオと勘違いすることから、、なぜかマリオとして王(本質)を目指すという意味不明な行動にでます。本当は最初から王なのに、、マリオとして王を目指すという意味不明ゲームが始まるんです。マリオ(私)はこんなもんじゃない、、という感情が溢れ、もっと評価されもっと賛美されもっと称賛されるべきだ、、、が起こるんです。当たり前ですよねだって私は王であってマリオじゃないんだから。

ここからがきつい

しかしながらマリオはマリオであって、、、王じゃないわけです。マリオは単純にキャラでしかないですから一長一短、得手不得手、上手下手、があるわけですよ!!!!!王になれるわけがないんです。能力が最初から決まっているのですから。。。。だからこの勘違いが地獄の勘違いなんです。そして今もこうやって全現象に気づく王なわけですからマリオで王を目指す必要は全くないんです。

マリオと王を分離する

ということで悟りとは、、、マリオと王は別人で、、我々の本質王はマリオで天下を取る必要がないという気づきを体現することです。俺マリオじゃない、、、この気づきを体現することなんです、体感することなんです。そのためにはどうすればいいのか?????呼吸法です、断食法です。マリオに同化してしまい、、、すっかり自身をマリオだと勘違いしている王を叩き起こすのです。マリオから湧き上がる思考をシャットアウトしてしまい、、王がマリオに同化できない状態を作るのです。呼吸法と断食法はこれを体現するためのツールです。

いつかどこかで

その思いこそが悟りの表現

全表現はいまここで起こります、「いつかどこかで悟りたい」この思考も悟り、解放の中で今起こるのです。今は本当に苦しいけれど、、いつかどこかで悟るんだ!!!この思考が悟り、解放の中で今起こっています。理解できますか????つまり我々は今どこにいようと悟り、解放の中にいるんです。悟り解放以外の場所に住んだことなど一度もないのです。悟り解放の中で、、私は孤独で苦しい存在だという悟りの表現である思考が起こっただけです。

悟り、解放を出たことなど一度もない

私たちは悟り解放の中にいつも居て、、その中で孤独を想像しています、悟り解放は全思考を受け入れますから「私は孤独で悲惨で地獄だ」という思考も起こり、、それがイメージ化されるんです。その思考に善悪は全くなくただ悟りのアートとしてそれが起こるのです。個人が居るという思考も、、その個人が幸福なるという思考、そのために頑張るんだという思考も全部が全部悟りのアート、表現です。

悟りは概念ではない

悟りは概念ではありません、、、悟りはいまここ、、このスペースのことであり、、このスペースで起こる現象、思考、感情の全てです。概念とは悟りのアートのたった一部でしかないのです。悟りとはどのような信念でもなく、、その信念を支える全てです。全信念、全思考、全概念、全感情を生み出す大元です。

体感する

悟りとは全部であって全部を支える空です。これは概念ではないのですから感じる以外に悟りはありません。ではどうやって感じるのか??????見かけ上のこの私は「呼吸法」「断食法」をお勧めしています。これらは実は行為ではなく、、、、、思考しない、余計に食べないという行為を終わらせる行為です。雑念を起こし続けるメカニズムを呼吸法、断食法で打破した時に残るもの、それが悟りです。

呼吸がどんどん深くなる

安心感がある時

安心感がある時、温泉に浸かっている時、、、人は呼吸が深くなります。リラックスは呼吸を深くするんです。この原理を逆に利用します、、、、呼吸を深くすることで究極のリラックスに至るのです。最初から究極のリラックスに持っていっちゃうのです。呼吸法を実践しますと、、ただただリラックスが起こるんです、、、呼吸を深くすることで最初からリラックスを起こします。

リラックスが呼吸を深くする

リラックスが呼吸を深くし、、深い呼吸がリラックスを起こします。我々は深い呼吸を意図的に起こせるわけですから能動的に深いリラックス状態に入れるのです。深い深いリラックス状態とは悟りですがこれを呼吸法で能動的に導けるわけです。そんな簡単に悟れるならば苦労はないよね!!!!その思考こそがトリック、戦略です。悟りとは究極のリラックスでありそれは呼吸で意図的に導けるのです。

意図して悟りに入る

意図して悟りに入れないのならば、、、悟りは全くもって奇跡になってしまいます。ですが実際は悟りは意図して入れるもなのです。悟りとは今入ろうとして今は入れないといけないのです。意味不明ですよね、、ですが実際はそうなんです。悟りとは意図的に入るものなのです、、偶発的ではなく能動的必然的に入るものなのです。いやいやそんな簡単に悟りに入れたら苦労はしないですよ!!という思考こそが自我の策略です。

悟りと断食

マトリックスの世界は食事が必要

思考の世界、マトリックスの世界は非常に疲れるため食事が必要になります。暴飲暴食を重ねてしまうのは思考の世界マトリックスの世界が苦しく、、、この苦しみを一時でも取り除くのに食事が有効なのです。ところがこの有り余った余剰エネルギーは、、思考回転、雑念の餌として使われてしまうために次の日に雑念が酷くなるのです。結果マトリックスの世界にどっぷりと浸かるために、、また食事を暴飲暴食するという日々が続くのです。

食事から悟りに入る

まったくもって思考が回転しない、雑念が起こらないならばそれはもう悟りです。この状態を食事から入っていきます。朝食事を抜きます、昼にも食事を抜きます、、そしてお腹が鳴ったら、、、食事をスタートします。これを毎日続けます。。。お腹が鳴るまでは食べないそう決めます、、、すると最低限の栄養素しか得ないので、、そのエネルギーが雑念に向かないのです。つまり苦しみが消えるわけです。そしてお腹が鳴ればしっかりと食べていいわけですから栄養不足にもならないということになります。

呼吸法

断食中に呼吸法を実践しますととんでもなく頭がスッキリします、、、呼吸が深く深く入っていくため、、意識が思考から外れやすくなるのです。お腹が空洞状態であるために深い呼吸を妨げる要因がないのです。呼吸法の土台を断食で作り呼吸法で意識のコントロールに入っていきます。マトリックスの世界から出るのは直ぐです。マトリックスの世界は実はこの体が作り出しています、、思考に意識が意識することで毎秒ごとにマトリックスの世界を自身で作り上げているのです。この創造行為を根本から打破していくのです。

断食の極意

人にあった断食を行う

ファスティング、断食は危険であるような情報が出回っていますが危険であるはずがないのです。野生動物は調子が悪い時は食べ物を食べずに回復を待ちます。もしも今あなたが雑念も含めて調子が悪いならば断食をすればいいのです。夕食だけを食べる、朝だけを抜く、、週に二日は完全断食にする、、その方にあった断食で十分です。もしも本当に慢性病などがあるようでしたら断食を始めますと逆に食欲が全くなくなります、その症状が消え去るまで食欲が起きないのです。ですが実際には固定観念があり固定観念が食欲を作り出してそこまでスムーズにはいかないでしょう。

呼吸が自然と深くなる

断食を続けていきますと、、自然と声が大きくなっていきます。腹の底から声が出るのです、話をしているだけでお腹が響くのです。横隔膜が脂肪によって邪魔されずスムーズに動くのでしょう、、声が腹の奥から出ていくようになります。呼吸も必然的に深くなっていきます。呼吸法を実践する際にも深く深く息が入っていくためスムーズです。意識が明晰になり、、、小さな悟り状態に入っていきます。

思考に向かうエネルギーを断つ

断食の素晴らしい点は毎秒毎秒ごとに思考がクリアーになっていくことです、、無駄な思考が毎秒ごとに減っていくのです。それは当然、思考に使うエネルギーを根本から絶っているからです。体は体脂肪をエネルギーに変えてこれを消化していくわけですがこのエネルギーが雑念に奪われてしまったらたまったもんじゃないのです。ということで思考が消える体験を経験できるのです。思考が消えるといかに楽かを既に体現できるのです。この状態で呼吸法を実践しますと成果が圧倒的に早くなります。

ブッダを見かけたら殺せ

有名な言葉

道でブッダを見つけたら殺せ、、、有名な禅の言葉?でしょうか。。この意味実は深いです。この世界の全現象は空の現れです、意識の現れ、、、幻想です。この世界でブッダやキリスト、覚者と呼ばれる人々は居ますが、、彼らは何を見つけたのでしょうか????彼らはこの体は自分ではなく、、この体を認識する存在、意識こそが自身だったと気づいたのです。つまりこの体も現象の一部であり、思考も現象、名前も現象、、、全現象の一部でしかなくゆえにこの体についた名前は暗号、記号でしかない気づきを得たのです。だからブッダと道で会ったとしてもそれも現象でしかないという意味です。

現象は軽薄という意味ではない

全部が全部現象だからだから価値なんてないんでよ!!!であるならば悟りとは何の価値もないものになるでしょう、、そんなことを目標に悟りを目指すのは馬鹿げています。実際にはこの幻想は恐ろしいほどの輝きを持ち、綺麗で神々しいのです。音も、味も、手触りも、、全部が神々しいわけです。この幻に価値がないなどは全くありません。ただしその価値は「私」にとってじゃないんです、価値そのものなわけです。

思考も感情も軽薄ではない

悟りにおいてのラスボス、、雑念、、、この雑念も軽薄という意味ではないんです。思考は全部この空のアートであり、、アートしか存在しないのです。ですがこのアートはイメージ化した瞬間に苦しみにかわるため、、危険なアートなのです。現代人はこの危険なアート言葉を、、全くもって慎重に扱っておらずゆえに「人生は苦」と称されてしまうわけです。

呼吸法と断食

釈迦は山に篭って悟りを開いたと言われていますが、、、山に籠もれば、、必然的に粗食、断食状態になります。この時余分な栄養が思考に回されないがために我々の本質「意識」が思考から外れる可能性が高くなります。さらに瞑想に入ることで「意識」が「意識」そのものに「意識」が向き「分かった!!!」が起こるのです。釈迦が呼吸法を用いていたかは分かりませんが瞑想という意識そのものの状態に至ったのは間違いありません。

現象の正体

空の影

我々が今見ている現象って何で出来ているんでしょうか?????空です、絶対です、不変の自己です。。。いやいや不変の自己でできているならば、、、変化しちゃおかしいですよね?????そうです、、不変の自己の影なんです、、、影だから変化していいんです、、嘘だから変化していいんです、、、、でも影だとしたらそれはどこで影として存在しているんですか?????不変の自己の内部です。不変の自己は全部だから当然影も不変の自己の内部に存在するんです、影として。もしもこの現象が実在ならば不変の自己も変化してしまい、、それでは不変の自己は不変の自己ではなくなってしまうんです、、だからこの現象は100%影なんです、実在しないんです。

実在しないから変化できる

この現象(色)が実在ならば、、、これを作り出した空(絶対、不変の自己)は不変ではなくなってしまいます。。だからこの現象は幻想、影、反映、なのです、、しかも100%。その証拠に我々はこの現象の中で経験しかさせてもらっていません。景色を感じる、味を感じる、、音を感じる、、、、全部経験だけです。。。それを経験した実在がまったくどこを探しても存在しないのです。この体は実在でしょ?????いやいや、、、どこまでいっても実在しているように感じているだけです。

影(体)を調べると影が出る

いやいやこの体は、、、、切れば中から血が流れていますよ、、、それが影です、、、その血を顕微鏡で調べれば中には赤血球が、、、それが影です、、、その赤血球を調べると中には細胞が、、、、それが影です、、、影だからエンドレスに影を量産できるのです、、、影だからです。もっと調べようと「意識」するから「意識」が現象化したのです。

理屈ではいくらでも証明できるが

このように我々の本質は調べれば簡単に見つけることができます。。ですがこのことを頭の中で理解するだけではダメなんです、、、、それでは空、絶対、不変の自己を体感できないわけです。影(体)がどんなに影のメカニズムを理解してもそれはやはり概念、思考、イメージなんです。。。。これ(空、絶対、不変の自己)は概念、思考、イメージが抜け落ちた時に、、、感じるものです。そこで私は呼吸法や断食を勧めています。