いまここという言葉の難しさ

いまここを感じているのは誰だ?

いまここしかない、、悟り系スピーカーがよく話すワードですね、いまここしかないじゃないか、だから時間なんて存在しないんだ、空間もここしかないのだ、、、ですが結局それを感じているのが「私」ならば本質を理解できていない、、なぜならば「私」は時間と空間の中でしか生きれないのだから。だから常に時間を使って生きるし空間の中で行きますよね。本質は「私」という存在が不在の時に現れるのですからこの言葉を誰に向かって語っているかは重要になります。

今日は良い話を聞けた???

悟り系のスピーカーの講演会に行って本質の話を聞いて帰れば、、今日はなんて面白い話をきけたんだろう、、となります。大変貴重でためになったと、、、ですが恐らく次の日も何か知識を求めるでしょう、なぜならばその話を聞いたのは「私」だからです。そしてその私は次の日に起きればまたより進化した私を目指すはず。ですがどれほど私が進化したつもりになってもゲーム、幻想の中を彷徨っているのに変わりはなく苦しみからは解放されないのです。

「私」からの解放

講演会を聞いているのは「私」ではない、「私」の奥に居るあるがままなのだ、、そしてそのあるがままが「私」を再吸収した時に至福が訪れる、、このメッセージに気づきが起き始めた時に解放は近いかもしれません。「私」は悟ろう、「私」が目覚めよう、、、という主体客体、二元の感覚が抜けないうちは夢の中、ゲームの中にいる可能性が高いのです。

ストーリー上の私とそれを意識する意識

突然地球が爆破したら

突然地球が爆破したらどうなるか???地球上の人々は木っ端微塵に吹き飛ぶでしょう。つまり全員死ぬわけです、ですが本質は実は全く損なわれることはありません。地球という惑星も本質の表現、本質が作り出したゲームですからそれが消えるだけで実は何も起きないのです。私も当然居なくなりますよね???そうです、肉体の中に居るはずだった私が消え去ります、ですがそれを居ると信じ込む思考に気づてきた意識は全く何も損なわれることなくそこに居ます。

私ストーリーが消えてなくなるだけ

マリオが消えて無くなってもスーパーマリオというゲーム本体は何も傷つかない、、ただそれだけです。全く違うルイージを主人公にしたゲームが始まるかもしれません、クッパが主人公かもしれない、、ただそれだけ。マリオが主人公のゲームは地球の爆破かもしれない、、ただそれだけです。今私が居るこの地球がどのようなエンディングを迎えてもゲーム本体は何一つ影響を受けないのです。

誰にも救ってもらわなくてもいい

誰かに救ってもらわなくていけない人はいない

私たちはあるがままのアートです、神のアートです、ですから誰にも救ってもらわなくて必ず至福に至ります。至福が作り出したアートの一部ですから原料は至福なのです、つまり今苦しんでいること自体がゲームなのです。至福という原料で作り出したゲーム上で苦しいという感情を楽しむゲームをしているのです。そしてそのことを全員が本質的には分かっています。

幼少期は至福そのもの

私たちは幼少期至福そのものでした、自我が目覚めるまでは至福そのものだったのです。ところが自我が目覚めるとともに苦しみが襲ってきました、至福ではなくなってしまったのです。ですが全員が幼少期の至福感を覚えているのでなぜ私の人生はこんなふうになってしまったのか???と疑問に思っているのです。これが現実だから、これが人生だから、、、いやでも昔はこんなふうじゃなかったような、、です。

至福という原料で作り出した壮大なアート

この世界は至福という原料で作り出したアートです、核兵器も遠隔魚雷すらもまさかの至福という原料で作られています。ですからこの世界が争いが絶えなくても、、それさえもアートなのです。死人がでてもそれも至福が作り出したアートだということです。争いも親睦も競争も助け合いも全てが神、あるがままのアートです。そして自分自身と思っていた存在も神のアートに過ぎないことに気づくと自分が神に再吸収され至福に至るのです。

真実と概念は違う

私たちが信じているのは概念

ノンデュアリティ、悟り、非二元のメッセンジャーが伝えるのは真実です、真実は概念ではありません、、、言葉という制限されたツールで真実を伝えていくわけです。多くの人が信じているのは概念です、概念は真実ではありませんからこの概念の中に生きていることで苦しみから解放されないのです。もし今自分が苦しいならば概念の世界に居る、ただそれだけです。

真実と観念は違う

真実と観念が異なります、真実は真実です、、観念とはその人が信じている考え方、概念です。それぞれの人はその人の観念を持ち、その観念に影響された幻想の中に生きているのです。この幻想の世界は苦しいので早くここから出たいと本質レベルでは感じているのです。友人が少ないと寂しく、友人が多いと人間関係が複雑で疲れる、、どこまでいってもこの世界は苦しいのです。

お金を得ても人気を得ても苦しいのは観念の世界に居るから

「自分」がこの世界に生きていると思っている間は常に苦しみに襲われます。「自分」がお金を得て、人気を得ていると思っている間は苦しみに襲われ続けます。なぜならばそこは本当の世界ではないからです、そしてそのことを本質では常に感じています。だから人は救いを神に求めるのです。ですが神とは「自分」とは異なった違う場所にいるのではなく今ここ、「この私」すらも含めて神なのです。今見ている世界そのものが神自身のアート、神そのものなのです。

このことをみんなに伝えてあげなくちゃ

真実の少しでも触れた人間は周囲にこれを伝えなくては!!と思うはずです、ですがそれは喜憂、無駄、大きなお世話です。なぜならば「私」も「あの人」も「この人」も全部あるがまま、神のアートですから最初から救われているのです、あるがままのアートが救われないのならばあるがままはあるがままではなくなってしまいます、神のアートが救われないのであれば神は神ではなくなってしまうのです。ですから全員が最初から救われているこれは神の、あるがままのアートなのです。そしてそのことも全員が本質的には分かっています。

至福に至るには「私」だ

この私が至福から追い出されただけ

どうやらこの世界には至福が常にあってそれはいまここにあるらしい、時間もなく空間もなくたったひとつのエネルギー至福がいまここにあるのならばこの「私」が絶対に見つけ出してやる!!!自我はこの作戦で至福に戻るのを妨害します。自分という存在こそが至福から幻想の世界に飛びたした張本人にも関わらずその自分がこの幻想の世界でそれを見つけ出してやると意気込むのです。

私があるがままに再吸収される

この私が消滅された時にあるがままは現れます、いつでも、、私という存在があるがままの世界から幻想の世界に入り込んでいるのです。勿論「私」もあるがままの表現の一つですがその「私」がいる世界は幻想のストーリーの世界(あるがままの表現)ここは苦しいのです。この世界に居る限り至福には至れないのです。「私」が至福を見つける時にはまだ「私」が存在します、、これでは絶対に至福に至れないのです。

私を無くすことなどできるのか????

私を無くすことなどできるのか????先ず大前提でこの世界には自由意志は一切存在していませんから意図を持って無くすということは不可能です。ですがあるがままの表現といて「私」があるがままに再吸収されることはあるでしょう、その時がくればそうなります。もしかしたらそうなるかもしれない、少なくとのこの「私」が自由意志を持って再吸収されよう!はないのです、、見かけ以外には。

しばらく会っていないあの人

最近何してるかな?

私の目の前に登場していない人はこの世界には存在していません、同窓会で10年ぶるに会った友人は10年間存在していなかったのです、あるがままの世界に。10年ぶりにエネルギーが変化してこの世界に登場しました。では10年間は何をしていたのか????何もしていない存在しないのですから。あるがままの世界はたったひとつのエネルギーですから今ここに実在しないのであれば存在しようがないのです。

電話はしたけど

電話はしていたしFacebookでは活動を見ていた、、、つまり音、画像としては存在していたのです。体ではなく、、たった一つのエネルギーが音、画像として表現していた、、ただそれだけです。つまり一年間誰とも会わなかったら私以外誰も存在しないということでしょうか??その通りです。この世界はたった一つのエネルギーですからここ以外にエネルギーが存在してしまったらたった一つではなくなってしまうのです。

東京に上京した息子が心配で

大丈夫です、あなたが見ていない瞬間、、、子供は存在していませんこの世に。あなたが電話をしたときにだけ声だけ登場します。今何をしているだろう???大丈夫です、存在していませんから。しっかりと食べているだろうか?????存在していないのですから何かを食べるということは不可能です。では痩せちゃうのではないか???それは分かりません、あるがままがどのような表現をするかです。

見えていない世界に関心を持たなくていい

今目の前に広がる世界だけが全てです、これ以外に世界はないのです。ですから見えていない世界の心配をしても意味がない、地球の裏側では、、、お隣の韓国では、、、全て無駄、、、存在していないのです、いまこの瞬間。息子の将来が心配で心配で、、、時間がないのですから息子の将来などないのです、、ただたった一つのエネルギーが誰の関与も受けずに変化するだけ、、、つまり誰にも何もわからないしコントロールできない、、これが真実です。

時間がないのだから原因と結果はない

因果関係は時間があってこそ

本質の世界、あるがままの世界には時間はありません、そうなると原因と結果の法則はありえないということになります。ですがストーリー、幻想の世界ではあるように見えているだけです。実際には時間は存在しないのですから原因と結果の法則は嘘です。原因と結果の法則があるように見えているだけです、本当はただたった一つのエネルギーが変化しているだけ、この変化を原因と結果の法則に基づいていると自由に解釈しているだけです。

あるがままが起こり、原因と結果の法則が働いているように解釈が起きる

あるがままの世界には一切の時間がありません、たった一つのエネルギーが変化しているだけです。この変化を「私」が観察し原因と結果の法則が働いていると解釈が始まります。「私」はこの移ろう世界に原因と結果の法則があると信じることで生きやすくなりたいわけですが実際にはその法則は成り立ちません、なぜならば時間は実在しないからです。

みんなを助けなければ

助けるべきみんなは存在しない

正義感が強い人は、周囲の困った人々を放置できません。私がなんとかしなければ、、、となります。ですが実際には困ったその人々は存在しません、、、困っていないのです、、困ったように見えているだけです。その証拠の困った人々の困ったを代わりに感じることはできませんね、これが証拠です。だとしたら医者も看護師も弁護士も誰のために活動しているのですか????誰のためにも活動していないのです、そしてその医者も実在しないのです。

全自動システムの中でただ遊ぶ

例えば覚者として有名人になりサットサンには数百名の迷える人々が訪れてきたとしましょう、、、ですがそれは迷っているように見えるだけ、、その証拠にその悩みを誰も代わりに感じることはできないのです。だから遊びです、迷っているように見える人々にメッセージを伝えるという遊びが始まるのです。では何の意味もないのでは?意味は全くないのです、最初から完璧なのですから。

こんなに困っているのに見捨てるのか???

周囲がこれほど困っているのにお前は見捨てるのか????と言われてしまうかもしれませんが、、困っているという証拠はないのです、、何度も言いますが、、代わりにその感情を感じることができない以上、証拠がないのです。そしてこの世界は100パーセント幻想です。ということでどれほど罵倒されてしまっても放置で構わないのです。

自由意志がないという完璧さ

迷える人も完璧

この世界に自由意思、個人の自由意志がないということはこの世界は完璧な表現であること言えます。悩みに悩んでいる個人も完璧なあるがままの表現です。個人が居て自由意志があるのならばミスも起きるのでしょうがミスが起きようがないのです。全自動ですから。つまり完璧なのです。ノイローゼになりようなほどに悩んでいる人がいるとしても完璧??そうです、、それが今あなたの目の前に起きているならば完璧だということです。

悩んでいる人が目の前にいるのに

では放置していいと、どんなに苦しんでいるように見えても放置でいいのか????そうです、、完璧なあるがままの表現としてそう見えているだけで本当にその人が悩んでいるという事実はありません、その悩みをあなたが代わりに体験しない限り、、本当とは言えないのです。そして見えている世界は幻想ですから実在ではないのです。

辛そうに見える、痛そうに見える、苦しそうに見える

私の周囲にはたくさんの困った人たちがいて、いてもたってもいられない。。。そうかもしれません、ですがそれは困っているように見えているだけなのです。とてつもなく冷酷な表現に聞こえるかもしれませんが実際に困っているという証拠がないのです、代わりにその感情を味わっていないのですから。何度も伝えますが見える世界は幻想です、幻想ですから実在ではないのです。全てはあるがままの表現、アートであり完璧なのです。

時間

時間は自分が登場してから

時間の存在を疑う人はいないでしょう、時間って必ずありますよね、、、、本当でしょうか???もしもこの世界に自分という存在が存在していなかったら時間って存在しますでしょうか???自分が居ない????そうです、、、自分というパーソナリティーが存在しているからその自分が過ごす時間が登場したのです。マリオが存在しないスーパーマリオゲームには時間が存在しないのです、マリオがゲーム上に降臨してから時間が誕生したのです。マリオが自由意志でゲームを進むこからこそ時間が存在したのです。

自由意志もマリオも居ない

自由意志が存在しないマリオはいません、マリオとは自身の判断でゲームを攻略していく存在です。全自動システムならばマリオは存在できなくなってしまいます。自分でマリオが動くから時間が次の自由意志を行使するために時間が登場します。マリオを全く自由に動かせないのならばそれはただの風景でしかなく、、移り変わる風景のみです。そしてこれがあるがままです。自由意志があると思っているからマリオというキャラは成立しそのマリオが次々に自由意志を行使するために時間が登場するのです。

マリオと自由意志はセット

自由意志が使えないマリオなど存在せずマリオが自由意志を使えなくなったらゲームが破綻します。そうです、これが我々が生きている幻想の世界のポイントなのです。自由意志があるから時間が誕生したのです、、今はこの行動、次はこの行動、その次はこの行動と、、流れができます、、だから時間は存在するという理屈です。魚が生きている世界に時間が存在しないのは魚には自由意志がないからです。

私も自由意志も時間も存在しない

本質は私も自由意志も時間も存在しない世界です。その世界に私も自由意志も時間もあるように感じる世界ができました、ですが本当はないのです。だから虚の世界に居ると疲れます、嘘ですから。人間は眠っている時だけがあるがままです、朝起きて目が覚めると虚の世界に閉じ込められるのです。私が誕生し、自由意志が誕生し、時間が誕生するのです。