中毒

友人に恋人を取られた!!

一生許せない。。。。

「私」はこの事実を絶対に絶対に許せないでしょう。「私」は被害者であり「私」は裏切られた人間「私」は一生この人を恨んでもおかしくない存在。。。。こうなります。これはドラマとしては当たり前でしょう。ですが信じつではこうなります。「私」の観念がこのような現象を引き起こしました、そう「友人に恋人を取られた!!」そう見えるような観念を私は持っていたのです。そして「友人と恋人が一緒に居る」というのは事実ではなく幻想、現象です。

恋愛ドラマを見過ぎると、、、、

恋愛ドラマが大好きな人っていますよね、、韓国ドラマなんてかなり入り組んだ内容のものが多いような。裏切り、大病、倒産、親の介入、駆け落ち的な、、、、恋愛ってそういうもんだよね!!!!これが観念化しますとこのドラマ、夢でも同じようなことが起きます。だからだから「友人に恋人を取られた!!!」が起きた時に「やっぱり!!!」が起こるのです。

私は「何か」で不足感を埋める

私とは常に不足感、違和感、憤りを感じていますからなんとかしてこれを何かで埋めたいのです。その際に女性は「恋愛」でこれを埋めようとする傾向が高いのです。女性は恋愛に夢を見るわけですから関心が高い、つまりあらゆるドラマに興味があるんです。そこで恋愛漫画、ドラマ映画に釘付けになっていきます。するとそれが観念化され自身のドラマ夢でもそれが上映されてしまうというオチがつくのです。

最大の中毒「自分」

自分中毒こそが最強の中毒

中毒とは意識していないにも関わらずそこに依存してしまうこと、、、いつの間にかそれを手にしている、、、お酒、タバコ、ギャンブル、買い物、異性、、、、これらはこの自分劇場では中毒の対象です。ですが本当の中毒とは「自分」です。いつの間にかこの自分を意識しています。自分という実際には存在しない記憶上の概念、これに中毒するのです。「自分が居る」「自分が言われた」「自分は何をしよう」「自分になぜ不幸が」とこうなるのです。すべてを自分ごととして捉える、、中毒です。これを解消しようとする動きこそがタバコ、お酒、異性、ギャンブル、買い物などです。この瞬間は自分を忘れることができます。

要はこの体を自分と思い込みすぎる、、、

マリオを初めてプレイするプレイヤーはマリオに成り切ることはできません、なぜならば思うようにプレイできないからです。全然自分の思うようにプレイできないマリオに感情移入できないのです。ですが何時間も何日間もプレイを続けるとまるでマリオになり切ったかのようにプレイがスムーズに進むようになります。そうなるとこのスーパーマリオが楽しくて仕方がない、、マリオになり切ってプレイするようになるのです。そしてどんどんステージが進みかなり難しいステージに至った時に壁にぶつかった時に非常に苦しい時期を迎えます。もうすでにマリオになり切っている、だがこの壁を突破できない、、、帰る場所がない状態です。八方塞がりの状態です。人間もこれと同じでこの体が大人と同じように成長していくとやりたいことを何でもできるようになっていきます、この段階は全体が人間に成り切る状態です。最初のうちは何でもやりたいように動けるこの体が楽しくて仕方がない、、、ところが徐々にステージが上がり責任が増えていく、、、壁にぶつかる、、、そんな時にもう戻れる場所がない、、、こうなるのです。

人間になり切った全体は、、壁にぶつかり、、、諦める

マリオになり切ったプレイヤーはステージが進むにつれて難易度が上がり、、途中で我に帰ります。俺はマリオじゃなかった、プレイヤーだ。。これが人間ゲームでも全く同じように起こるのです、人間になり切ってゲームを進めていくうちに徐々にステージが上がる、就職、結婚、出産、出世、お受験、転勤、大病、、、、とステージが上がっても上がってもどこまでも続くこの人間ゲーム、、、責任だけは以上に増えて重さが増していきます。もうこれ以上は重さに耐えられない、、、そんな時に我に返るのです、、、それが悟り、一瞥体験、目覚めです。自分はこの体ではなかった、、、全体、ワンネスだった、、、

偽りの自分は自暴自棄になる

偽りの自分は時に自暴自棄になる

これは神が見る夢です、神が人間に扮して登場する夢です。全知全能の神が無知無能の人間に扮するわけですから強烈な挫折も味わいます。人間扮する神は時に自暴自棄にもなります。神が自暴自棄になるなど信じられないかもしれませんがだからこそ人間に扮している時は自暴自棄をしたくなるのです。神にとっては自暴自棄最高、ということです。神は神の状態ではできないことをこの人間体験中に全部やりたいわけです、神のヤサくれ、神のイジケ、神の投げやり、神の妬み嫉妬、、神が神ではできないことを人間体験で全開にやりたいということです。ということで自分が自暴自棄になっても心配する必要は一切ありません、その状態を神は喜んで認識します。

自暴自棄になろうともそれを意識明瞭に認識する神がいる

自暴自棄になろうと、ヤケ糞になろうと、それを冷静に明瞭に認識する神がいます。どんなに自身が酷い精神状態であろうとそれをハッキリした認識で見つめる神がいます。神にとって人間の精神状態などどうでもいいのです。それを認識し楽しみます。自暴自棄最高、やけくそ最高、妬み嫉み最高です。神が神では味わえない経験は最高の醍醐味です。神が人間に扮するからこそ体験できる感情は至上の喜びです。

麻薬中毒、自殺、DV、、なぜこんな酷いことが、、

ということでYAHOOニュースに載るような無残な事実は、、神にとってはモーマンタイです。神は神であってはできないことを全部経験したいわけですから人間の問題行動を問題視するわけがないのです。ニュースを賑わすような悲惨な事故は神の大好物でもあります。ただしそこが理解できる境地に居るならばもうそれは卒業したい、人間扮する神が神に戻る準備にシフトしたいものです。

神はこの夢の中で人間に達成感という褒美を与えた

達成感とは小さな悟りである

これは夢です、神が作った夢物語です。この夢の中で神は人間を作りこれを主人公にしてこの物語を形成します。この夢物語はバーチャルリアリティーですが人間に成り切った神はこの物語の中で不足感を生産し続けこの不足感をあらゆる感情、欲望に切り替えそれを満たすために彷徨っていきます。神がこの小さな体である人間に成り切るわけですからそのストレスは尋常ではありません。そのストレスをあらゆる形で解消しようとする試みこそが人生です。希望大学に受かる、希望会社に受かる、希望住居に住む、希望の相手と結婚する、希望の年収を得る、、、ありとあらゆるこれらの目標は達成することで抱えたストレスを一時的に取り去ります。人間であることで生まれるストレスを一時的に消し去るのです、その瞬間だけは神が神に戻るのです。

悟りとは神が神に戻ること

悟りとは人間が神になることではありません。人間に成り済ました神が神に戻ることです。人間というバーチャルリアリティーにどっぷりと浸かった神が神に戻ること、バーチャルリアリティーから覚めて神に戻ることを言います。人間という役柄が抜け落ち神に戻ることを覚醒、悟り、ノンデュアリティーと呼びます。もしくは解脱です。人間という仮想の実態、マリオ、ピカチュー、から神に戻ることです。

達成感を通じて神は神に戻る準備をする

達成感とは人間に成り済ました神が、不足感を何かを成し遂げることで埋め、一時的に神の状態に戻ることを意味します。人間とは不足感製造機でありこの不足感が一時的でも解消された時は神の状態です。安堵、平和、歓喜です。この状態をどうしても再び感じたい人間に扮する神は目標を達成することでそれを成し遂げるのです。人間という形を取る以上次の瞬間からまた不足感が湧き出てきますから神に戻るのは一瞬です、、ですが自身は実は神であったという感覚をその瞬間思い出します。人間が達成感中毒になるのは神中毒のことです。人間は神中毒になることで神に戻る準備を重ねます。

セックス中毒は思考抜け落とし中毒

セックスは思考から体に意識を強制シフトさせるツール

これは夢です。ワンネスが見る夢です、そしてその夢の中に埋没すると不足感、欠乏感が湧き出してきます。セックス中毒という言葉を聞いたことはあるでしょうか。これは男性女性問わず実はたくさんいます。一般的にはsexをすると幸福ホルモンが分泌されて一時的に至福感に至れるということになりますが悟りの観点からも説明がつきます。セックスは体を使った行為です、セックス中に考えことをするってなかなかできません、明日の予定や来月の予定、仕事のブレスト、、できません。思考を強制的に止めてくれる動きなのです。思考が全く止まらなくなってしまった人間の強制思考停止ツールなのです。そして体に意識を完全集中することで何が起きるか?無心が起きます、無思考が起きます、無感情が起きます、無我が起きます、、するとこれは夢から覚めた状態、ワンネスの状態、大いなる一つの状態に至るのです。これによって多くのストレスを抱えた社会人や悩み多き学生、一日中考え事をしている主婦などがハマるのです。

セックスが悪いのではない

セックス=悪のようなイメージを持つ人もいますがそんなわけがありません。ですがセックス中毒になってそのままそこから抜け出れないのは不健全と言わざるをえません。というのは全く自由が無くなってしまうからです、そこから抜け出せない状態は。あらゆるリスクも厭わないようになる可能性もあります。多くの場合はセックス中毒は不倫や浮気、セクハラ、暴漢など、、次のリスクに切り替わっていきます。

セックスから体の感覚の重要性を思い出す

体に意識を向けますと歓喜、至福、安堵が押し寄せてきます。思考が抜け落ち、無思考、無心、無我に至るのです。だからこそ悩みやすい思春期は部活動が設定されています。体に感覚を戻すことを国単位で行っているのです。セックスから至福を思い出したらそれに溺れるのではなく体の感覚に戻すルーティンを作るのです。ヨガ、スポーツ、登山、マラソン、、積極的に無我に入る方法を探ります。

お酒を飲み、爆音の音楽が響き、ダンスを踊る場所

クラブ、ディスコとは

ここはワンネスの夢です。大いなる一つが作り出した夢です。基本この夢は苦しい場所です、そんな中でこの苦しみから解放してくれる場所があります。それがクラブや昔はディスコと呼ばれた場所です。この場所は爆音の音楽がかかり、そこではお酒を飲みながらみんなが踊り狂います。では何故この場所はストレスから一時的に解放できるのでしょうか?それはこの場所が完璧に身体感覚を取り戻せる場所だからです。この場所にいて思考に更けることは難しいでしょう、お酒も、音楽も、ダンスも体に意識をシフトさせる大きなポイントです。この場所に入った瞬間、思考をフル回転させるのが逆に難しくなります。音楽、お酒、ダンスが思考をストップさせます。つまり強制的に無心、無我に入れる場所なのです。だからこそ若者がそこに群がります。

賢い若者はそこにはいかない

残念ながらクラブやディスコは健全な場所とはいつまで経っても言われないでしょう。それはこれらの場所が中毒性があるからです。お酒、爆音、ダンス、これらは一時的な快楽を体に与え強制的に思考をストップしてくれる場所なのです。その瞬間、無心、無我になれそこから歓喜、平和、安堵が現れます。ですがこの場所を出れば再び思考が渦のように踊り狂い苦しみの世界に逆戻りします。一時的な至福の場所に興味を持つのは賢い行動ではありません、それ故賢い若者がここに群れることはないのです。

体に戻ることで至福が訪れることを学ぶ

良い音楽を聴く=至福が訪れる。美味しいお酒を飲む=至福が訪れる。体を動かす=至福が訪れる。この事実からこの夢から覚めるヒントをもらいます。この夢の中で至福に至るヒントをもらいます。これはワンネス、大いなる一つの夢ですがその中でこの夢から覚めるヒントがあらゆるところに点在しています。どうやら思考を離れ体に意識を戻すことで至福が訪れるようだ。シンプルかつダイレクトに至福に至るヒントがあらゆるところに点在しています。

過食症とは何か?

食事を食べる時、思考から身体感覚に戻る

ストレスが溜まった時に食事に走った記憶がある人は多いでしょう。ストレスが溜まった時のお菓子や、ケーキ、嗜好品は大変美味しく感じます。今回はこの点を悟りの境地から説明したいと思います。多くの方はストレスが溜まった時に思考グルグル状態になります。このストレスをいかに解消するかで思考がフル回転するわけです、そして思考がフル回転になればなるほどに自我モード、この心身こそが自分自身であるという思考も強くなり結果不足感、欠乏感が湧き出てきます。つまりストレスを解消しようとすればするほどに不快感が増していくという負のスパイラルに突入するのです。自我はストレスを餌にさらに自我を強化していきます。この負のスパイラルの救世主こそが食事です。食事を食べる時に体はこの食事を五感で味わいます、味覚、触覚、嗅覚、視覚、聴覚、、、この五感がフル稼働するのです。これによって何が起きるか?思考が止まるのです。人間の体は思考と五感を同時進行で使うことができません。思考がストップすることで自我が弛まり結果幸福感、至福感、安堵感が訪れます。つまり食事をしている時は強制的に無我の境地に至れるのです。

食事を食べると至福に至る

これは夢です、ワンネスが見る夢です。その夢の中で何故食事中は至福感が湧いてくるのでしょうか。体とは今にしか居ません。体が過去や、未来にシフトすることはできません。逆に思考は過去か未来にしか意識を向けることができません、思考は今にあることができないのです。この夢は今(ワンネス)が現象化したものです。今が過去から未来に向けての夢物語化したものです。この夢には実は今は存在しません。だからこそこの夢は基本苦しみストーリーなのです。そんな中で食事中は体に戻れる一時のチャンスです、食事をするときは今に戻れます、何故ならば体は今にしか居れないからです。体に意識を集中する時今にあります、つまりワンネスになるのです。つまり至福、歓喜になるということです。

タバコを吸い、お酒を飲み、食事をする、、これが体にシフトする人間のテクニック

お酒を飲みながらタバコを吸うと美味しい、食事をした後のタバコは美味しい、、、何故でしょうか。これは簡単です。食事もお酒も、タバコも全ては身体感覚が活性化するものだからです。その瞬間思考がストップして無我に入ります。無心に入ります、この状態は自我が抜け落ち今にある状態、ワンネスの状態、歓喜、安心、安堵の状態なのです。人間はこの夢の中で居る時は不足感、欠乏感、孤独感が湧き続ける状態にあります。ですが身体感覚に戻る間だけは至福、歓喜、安堵に戻ることができるのです。故にこれらは中毒化します。

今がどんなに苦しくてもその苦しみの全ては悟るためにある

苦しみの全ては悟り解明の衝動

苦しみとはなんでしょうか、苦しいという感情はどこから生まれるのでしょうか。苦しみを解決する人が現れたならばこれはノーベル賞100個分の価値があるといっていいえしょう。しかしこれまでこの問題を解決して評価された人はなかなかいません。実は釈迦、キリストはこの問題を正確に解明し答えを出しました、結果大々的に二人は評価を受けましたがやがてはその教えは形骸化しそして書き換えられ事実無根の内容になってしましました。苦しみの解明は大変ショッキング過ぎて正確に伝わっていく内容では絶対にありません。

苦しみとは何か?それはこの心身こそが自分だという勘違いから始まった

苦しみとは何か?答えは明快です、この心身を自分自身と勘違いすることからスタートします。この体、そしてこの思考、感情を自分のものと勘違いすることでこの人間ゲームはスタートするわけですがこれが誤解、錯覚、間違いなのです。結果はこの人間ゲームでは何を達成しても、何を手に入れても、何を評価されても不足感、欠乏感が湧いてくるという無限地獄に突入します。答えが永久にでないこの地獄が続くわけです。世界中から評価された俳優がドラッグ中毒になり、世界中から称賛された政治家が自殺をする、世界中から評価された科学者が鬱で苦しみ、世界中の富をえた資産家が飛び降り自殺をするという答えが見えないゲームがスタートするのです。

答えは簡単、この心身が自分ではないと見抜くこと

この心身が自分ではないと見抜いてしまえばこの不足感は湧いてきません。大いなる一つがこの心身を自分と勘違いすることでこの人間ゲームはスタートしますが同時に不足感、欠乏感が自動生成されるというおまけが付きました。この不足感、欠乏感を埋め続けるという人生ドラマがスタートするわけです。大いなる一つの代替品を探し求め続ける旅です。大いなる一つに再び戻る、洗脳が溶けるまでこの欠乏感、欠落感は続きます。

仕事中毒の解説

仕事も中毒になる

常に孤独感、欠乏感、不足感が湧き出てくるこの人間という生き物は仕事すらも中毒化してこの感情を感じないように努めます。少なくとも仕事をしている間はこの不足感、欠乏感、孤独感を感じずにいられるからです。ですがこれらの感情から逃げるための仕事は大変疲れるために結局違う苦しみになって取って代わるだけです。体力を消耗し、思考を消耗し疲れ果てていきます。仕事をしていないと不安になるのはただ不足感、欠乏感を感じないように逃げているだけなのです。

仕事に集中し切ることでそこから悟りに入る

仕事に集中し無我の状態に至りますと、即歓喜、安心、安堵に至ります。仕事に入り込むことで安堵、歓喜、安心を体験できるのです。そうなりますと人はいつでもどこでも平和、安心、安堵に至れることを学習し仕事以外にも興味を覚えますし、スポーツ、エンタメ、あらゆるところから悟りに入るコツを掴むのです。集中している時は歓喜、安心、安堵そのものになれるのです。ですからもう仕事中毒にはなりません。

仕事中毒と集中は全く違う

中毒と集中は似ているようで全く違います。中毒はただの逃避であり集中は思考を削ぎ落とし歓喜、平和、安堵そのものになる行為です。中毒である逃避は一時的なごまかしを延々と続ける行為です。中毒行為に至る人はやればやるほどに疲れ果てていき、集中に専念する人は元気そのものです。なぜならば無我とは元気そのものだからです。

予定を入れたがる中毒について

予定を埋めていないと不安になるメカニズム

全存在であることを忘れ一個人の分離した人間であるという思いこみを始めた瞬間から孤独感、虚無感、不足感が湧き出てきます。そしてこの感情を自分の中で湧いていると勘違いをします。これがこの夢の仕組みです。なぜこの夢劇場ではひたすらにこの孤独感が湧くかといえばそういう理由なのです。予定を埋めて常に人に会う約束をすればこの孤独感が無くなるとさらにまた勘違いをします。人間が抱える孤独感とは実はこの孤独感なのですがこれを人は勘違いをして人に会えない孤独感なのだと解釈するのです。そのため365日人に会っても実はこの孤独感は解消されません。この孤独感を感じないように逃げ続けているだけなのです。

カンの鋭い人は途中で気づく

人に会っていても全く孤独感は癒されていないと、その通りなのです。人間が抱える孤独感とは人に会って解消されるものではないのです。勿論人に会うことが良くないとかを言っているわけではありません。人に会うことでその人に無心になって集中し真摯に向き合えば向き合うことで無心になり無我の状態になります。この状態は歓喜、安堵、平和、愛の状態です。何人の人に会うか、何時間会うかは実はどうでもいいのです。人と会うという行為を大切にすること、相手に集中することが重要です。ただの時間潰しではなくどこまで相手に寄り添えるか、相手に真摯に向き合う会話であればそこから悟りに入れます。その瞬間、歓喜、平和、安堵の中にいます。

孤独感と向き合うことで悟りに入る

一人でいることを人間は孤独だと勘違いしています。人間であることが孤独なのであって一人でいることは孤独なのではありません。何十人と一緒にいても本当の孤独感は一切解消されないのです。それは孤独の意味を履き違えているからです。孤独感は大いなる一つの勘違いから生まれてきています。ですから一人になることを恐れるのではなく一人の状態から悟りに入る、歓喜に入る、安堵に入ることが重要なのです。