負の感情観察

「怖い」の真実

怖いは、、、自分が原因

よくよく考えてみればこの宇宙の動きは完全完璧であり何も怖いことは起きようがない、、、ただ自然現象、宇宙現象が移りゆくだけです。人間というこの浅知恵の動物の何億倍完璧なゆらぎの中で我々人間は生きています。ですが人間はその完璧なゆらぎの中で「怖い」を抱えながら生きています。これほど怯えた野生動物はいるでしょうか???将来不安、将来不安、老後不安、日本の行末、、、、病気でしかない

そうです、完璧なる神経症

人間という動物に完全同一化しますと「怖い」を抱えた神経症が完成します。人間という動物をただ動物だと俯瞰できると神経症は治ります。ただそれだけです。5歳児、6歳児の子供は学校から家に帰ると僕は僕は。。今日こうだった、ああだったを連発します、、、これは自分の存在を認めて欲しいからです。これは自然な流れです。ですが大人になると自然に気づきが起こります、、、この自分自分の自分は一体何だ?ただこの体、思考、感情を自分だと定義しているだけでその定義がなければ一体誰だ?ということです。

神経症脱却はこれだけ、、、自分を辞めるだけ

この体、思考、感情をひっくるめて「自分」とすると神経症に襲われます。怖い怖いが押し寄せてきます、波のように押し寄せてきます。この体、思考、感情を自分としないと決めると、、、怖い怖いが押し寄せてきません、、何のこっちゃです。映画の中に主人公になりきってミッションインポッシブルを見てみてください、、怖くて観れたモノじゃない、、、、心臓が破れそうなぐらいの衝撃を受けるはずです。。。。ですがあれは映画だから楽しめている、、、、

「自分ではない」として生きていけるのか?

逆にしっかりと生きていけます、常に冷静に冷静にこれまでの「自分」を観察できます。負の感情が襲ってこないので飄々と生きていけます。何をしていても負の感情に襲われることがなくなります。怖い、不安、危ない、危険が襲ってこない、、、常に平和、歓喜、安堵の中で動くことができます。なぜならば怖い、危険、不安は体、思考、感情との同一化が生み出してきたからです。マリオゲームをやるときにキャラに成り切ってやるか、プレイヤーとして冷静にやるかの違いです。

思考との同一化から脱却した意識

気が抜けたような感覚

「思考こそが私」これが99.999999パーセントの人々の認識の仕方です。ですから会議の場所で何も発言をしていないと心配になります。飲み会で発言は少ないと心配になります。ボールに一切触れていないサッカー選手のような気持ちになります。だからこそなんとか思考し発言したい、、私はここに居るよと。ですが「この思考は自分ではない」この気づきを得た意識はもう思考との同一化に興味がありません、なぜならばそれは苦しい世界への入り口だからです。何も正解がない世界、話せば話すほど、思考すれば思考するほどに苦しくんる世界です。そんな人生御免被りたいという話です。

思考を使えとひたすらに沸き続ける

思考との同一化をしている意識にとって思考ほど当てにならない存在はありません、なぜならば常に不安定極まりないからです。毎日瞬間瞬間全く違う思考が湧いてくるわけでこれを自分とする不安定さたるや半端ないという話です。感情も然りです、不安定極まりないという話です。不安定であるからこそ思考も感情も泉のように湧き続け同盟関係を維持します。ですがこの同盟関係のしんどいところは湧けば湧くほど「同一化した自分」が肥え太り苦しみも増大するのです。

今日の機嫌はどうですか?

大御所タレントになるとどのスタジオでもこの機嫌というのを周囲は気にします。結局にところ機嫌が良ければ変な発言はしてこない、ですが機嫌が悪ければどんな発言すらしてくる、当然粗探しのような発言を。つまり思考などは感情の処理でしかないのです、どんなに正論をかざしても結局は思考とは感情の処理です。負の感情が湧き続ければ思考もその処理に使われているだけです。自分でも分かっている、機嫌さえ良ければそれでいいのに。。ですがその機嫌をとることが一番難しい、、、、

思考も感情も自分じゃない

残念ながらこの事実を発見しない限り思考と感情の二人三脚に一生を費やすことになります。思考と感情を自分のモノ、自分と定義して生きている限り常時このパターンです。思考と感情は自分ではない、、、この境地をいかに身に付けるか、、思考が湧いても感情が湧いてもそれは「本当の自分」とは全く関係がない、、この感覚をいかに掴めるかにあります。この感覚をしっかりと掴めるように不思議なことに思考も感情も湧いてこなくなります。

湧いては消えていく思考が真実を捉えられるわけがない

思考は雲のようなモノ

湧いては消えていく思考はまるで雲のようなモノです。この思考が真実を捉えることなどできません。この思考が全く湧いていないときに真実が現れます。ですからこのブログで散々お伝えしているように思考のメカニズムを理解して思考がない状態を実感していく以外にありません。思考はあくまでも現れては消えていく雲であり真実はこの思考、雲がない空にあります。思考をグルグル回す行為は空に雲がたくさん現れて空を隠している行為であり思考・雲が湧けば湧くほどに空は曇っていきます。真実が隠れていきます。

思考・雲ができることはこれらがない状態が真実・空であることを伝えるだけ

朝から晩まで思考をグルグル回すことは空に雲がガンガンに湧いている状態のこと、、、思考・雲が出現すればするほどに空は曇っていき空が見えなくなっていきます。この状態は居心地が悪く辛くなっていきます。にも関わらずく空が曇れば曇るほどに思考・雲がフル回転することで空は真っ黒に曇っていくわけです。そして真っ黒になって意気消沈し疲れ果てて考えるんを諦めた時にまた空・真実が現れるという皮肉なことが起きます。ですがすっかり思考はそのことを忘れまた一日中考えるという行為を没頭します。思考中毒とはそのようなことです。

どうしたら思考が湧かないで1日を過ごせるかを考える

思考というものが雲ようなモノで出現すればするほどに空を曇らせる、そして曇れば曇るほどに真実の光が遮られ苦しくなることは理解できたと思います。そうなれば答えは簡単、1日を思考抜きでいかに過ごすかだけを考えればいいのです、何かに集中する時人は思考を忘れます、全作業を集中して行うことだけを考えす、集中して行えれば思考は湧いてこなくなるので空が晴れてきます。さらに負の感情が湧いてきた時に思考が自動反応で起きないように観察します。負の感情からの思考自動反応が起こったら直ぐにそれを観察することで思考の湧き出しを止めることができます。すると空は一日中晴れた状態を維持できます。空が晴れている状態を意識的に作れるようになりますとその状態が当たり前になり思考・雲の自動反応に鋭敏になっていきます。

起動からアプリケーションが止まらなくなったPCの末路

作動が止まらなくなったPC=人間

人間は分かりやすくいうと動作が止まらないPCです。PCを起動したにも関わらずあらゆるアプリケーションが起動し続けて止まらなくなることがあります、最終的には強制終了をかけるのですが、、また起動すると同じことが繰り返されてしまう、、、これが人間の苦しみです。PCのアプリは相互に反応して起動が止まらなくなっています。例えばウイルス性のリスクがPCに起こるとウイルスバスターが起動しますがこれによってまたウイルスが起動する、これによってまたウイルスバスターが起動する、、みたいなことが延々と起こるようになります。これが思考と感情で起こるメカニズムです。負の感情が起こりそれを消し去ろうと思考が起動する、思考が起動すると負の感情が起動する、、、、パンク。

このメカニズムに気づけばアプリをオフにする

もしもこれがPCで起きた時PCに詳しい人間はアプリ(思考)の起動をオフにします。アプリ設定に戻って起動オフにするはずです。これによってもう一つのアプリ(感情)の起動も自動的に起こらなくなります。PCに関してはアプリ設定に画面に意識を向けることでこれを行います。人間であれば思考の起動に意識を向けることでこれをオフにすることができます。感情が起こった時に思考が立ち上がるのが定石ですがこの瞬間に意識を向けることでアプリ起動(思考)をオフにします。

起動が止まらなくなって苦しんでいるにも関わらずあらゆる思考をアップデートし続ける人間

感情が起き上がった時に思考が立ち上がり、それによってまた負の感情が湧いてくる、、また思考が起動される、、この負のメカニズムに気づかない人間は思考をアップデートしようと頑張ります。もっと優れた思考(価値観)に切り替えれば負の感情が起動しないはずだ、、、こう考えます。ですがどれほど優れた思考を手に入れようと思考が起動することでまた負の感情が起動するというメカニズムは変わることはなくこの作戦は徒労に終わるのです。

アプリ(思考)オフは絶望

いよいよ負の感情抑制に疲れ果てた人間は絶望的な気分になり始めて思考起動をオフにします、、、するとまさかの負の感情が湧かなくなる、、というジョーク。今までの努力は一体なんだったのか?というズッコケです。あなたの思考が幼稚だから、あなたの価値観が低いから、あなたの情報が古いから、、、このような固定観念で思考をアップデートしてきたにも関わらず実はこの思考の自動起動こそが負の感情を起動させていたのだという深い気づきが起こるとき負の感情の連続起動は終わります。重要なことは負の感情が起きた時に思考を起動させるのではなく思考アプリをオフにするということ、、労力は遥かに低いことです。

「人間こう生きるべき」の嘘

人生とはその人の思考が作り出した世界のこと

全員が全く違う世界を生きています。我々はそれぞれの視界を持ちそれぞれの価値観の中で生きています。価値観というのは全く目に見えないモノですが実際にはその価値観は確実に見える世界を変えます。これはイリュージョン、物質そのものを変えるというよりもどこに価値を置くかで目に入る情報が確実に変わってきてしまうことを意味します。このブログでも何度も説明していますが渋谷駅で知り合いが居た時、その人以外が視界から完全に外れます。一年ぶりに渋谷駅で知り合いを見つけた際にその瞬間その知り合いにフォーカスが集中しそれ以外の人々が視界から外れます。これが価値観です、価値観とは何にフォーカスし何を視界から外すかに繋がります。

見ている世界が違うのだからこう生きた方がいいという絶対的価値観はあり得ない

価値観はその人の見える世界を変えるということは世の中に住む人全員が全く違う世界を生きているということになります。そうなればもう何が正解な生き方かは決めようがないということになります。ですから世界中に数多ある宗教が統一されないのはこのためです。どう生きるかという壮大なテーマを提示しても全員が違う世界を生きている以上応用が効かないわけです。では人間はどうしたら至福に至れるのか?ということになりますがそれこそがこのブログの主軸、人間が人間のままでは至福には至れないということになります。人間という仕組み、構造を理解しない限り至福には戻れないということです。

どのように人間というもの自我が形成されたかを理解すれば簡単

人間が人間として至福に至ろうとするからこの世は苦しい迷路のようなものになります。そうではなくそもそも自分とは何か?ここに迫れば答えは見えてきます。初期設定の「自分」こそが苦しみ、悲しみ、孤独、退屈を生み出しているわけですからこの生み出し、負の感情生産を止める以外に苦しみから逃れる方法はあるわけないのです。人間が人間として幸福になるために24時間365日フル回転で活動しても無駄なのです。この体・思考・感情を自分であると勘違いすることからこの苦しみは始まりました。疑いようのない、、この在るという感覚を、、、体、思考、感情と同一視することで人間自我活動はスタートします。ですが本当は「在る」という感覚以外は全部後付けです。目の前にる体、思考、感情をひっくるめて自分だと宣誓した時からこの自分ストーリーはスタートしますが人間以外誰もこの事実を応援していません。人間が勝手にこの体、思考、感情を含めて「自分」と宣誓しただけなのです。これを既成事実として人間同士だけがこれを疑わず生きています。この後付けした「自分」こそが負の感情の生みの親、生産者です。

負の感情を「自分」が生み出しているとしてではどうするか?

負の感情を生み出しているのが自分だとしてではどうしたら人生は幸福になるのか?という疑問が湧いてきます。簡単です、自分を辞めればいいのです。???意味不明ですね。でもこれは意味不明ではないのです、後付けで自分をこしらえたのですからこしらえる前の状態に戻せばいいのです。人は何かに集中すると自分を忘れます、後付けでこしらえた自分がいなくなります。自分というアイデアへのフォーカスを辞めて他の対象にフォーカスをすれば当たり前ですが自分はいなくなります。自分というのは体・思考・感情を自分とする思考です、これを外すにはである他に意識を完全集中すればいいのです。この状態を無我と呼びます。1日の中でこの時間を意識的に何度も行うのです。何か作業をする時にあえて集中するのです、どの作業に打ち込む時も集中を絶対的にするのです。「集中できないことは最初からやらない」ぐらいの覚悟でもいいぐらいです。こうすることで1日に何度も無我の状態を作り出すことができ「自分」を意識的に消し去ることができます。これによって負の感情は湧かなくなっていきます。そして無我の状態がより無我の状態を作り出しやすくしていきます。

負の感情蓄積体=ペインボディー

負の感情を抱え込んでいく体

負の感情を無視したり誤魔化したり、気晴らしに逃げ続けていきますと、、その負の感情は体に蓄積されていきます。エックハルトはこれをペインボディーと表現しますが要は負の感情蓄積体です。この負の感情蓄積体は自身の体の中に形成されやがてそれらは集団的ペインボディーとも共鳴するようになります。社会的ストレスなどが個人とリンクしてしまうということです。例えばストレスフルな環境に行くと自分まで気分が悪くなるというアレです。重要なことはそれらの場所に行かないということではなく自身のペインボディー、負の感情蓄積体を解消することです。

先ずは無視をしないこと

仕事がストレスフルな人はギャンブルにハマりやすくなります。あれこそ負の感情の完全無視、負の感情を忘れるつもりでギャンブルに興じますが負の感情を生み出すストレス源を断ち切ることには行かないので日に日にストレスが増えていくことになります。ですがこの負の感情を見ることから逃げ続けていきますと気晴らしの度合いもまた増えていく傾向にありギャンブル依存症にまでなっていくのです。そして体には負の感情が着実に蓄積されペインボディーが形成されていきます。ギャンブルに逃げるのではなくストレスをしっかりと見つめる、しっかりと観察する、、それを誤魔化さない、、これをすることで一時的には辛いですが、そこから無心無我に入れるようになっていきます。それをしっかりと観察することで観察する存在に昇華していきます。

負の感情を無意識に抱え込んでいくと

負の感情を無意識に抱え込んでいきますとそれは確実に人間関係に影響を与えるようになります。相手の攻撃性を引き起こしてしまうこともあります、例えば職場で絡まれる、お店で絡まれる、、など溜まった負の感情は接する人間のやはり負の感情蓄積体を刺激するようになるのです。睡眠不足の時に色々悪いことが続くのはこのパターンです。要はため込んだ自身の負の感情がそれを爆発させたく接する人間を刺激しているわけです。このストレス、負の感情を無視し続けた結果の成れの果てです。

「程々の幸せでいい」という思考すら自我の策略

並程度の幸福さえあればいいの罠

自我、思考は平均程度の幸福な生活ができればそれでいいじゃないか、平均以上の年収があるんだからもうこれ以上は求めずに平均的な幸せを謳歌すればいい、、このように一見謙虚なアイデア、メッセージを自分自身に囁きます。ですがこれは自我の策略です、今の生活を続けていく限り自我の存続は安泰なのです。例えあらゆる不満、不平、批判が湧いてきても私は十分平均的な幸せを得ているという思考の呟きで全てを封印していきます。ですがこの囁きの本心は自我存続のみです。

無理やり封印するのではなく、、

無理やり封印すれば負の感情が体内に蓄積されていきます。本心、本音が消化されずにただ隠されていきます。思考でむりくり押し殺した感情は体内に確実に蓄積されエックハルトが言うペインボディー、負の感情蓄積体になっていくのです。この負の感情を無視するのではなく観察していきます、私はこういう感情を持っているんだな、、ここにしっかりと向き合うとともにそこに思考解決を入れないようにしていきます。感情観察に集中するのです。

退屈だ、、、が湧いてきたら

退屈だなーが湧いてきたらしっかりとその感情を観察します。そこで思考を使いごまかすのをしないのです。しっかりと湧いてくる負の感情を観察しそこに集中します。退屈だなーが湧いてきたという事実のみをしっかりと受け入れるのです。思考でこの感情をうやむやにしないのです。思考は直ぐにこの退屈だなーを打ち消そうとしますがそれをさせません。思考に主導権を握られれば自我が肥え太り益々負の感情が湧いてくるようになります。多くの方はこの無理くり消し去られた負の感情が着実に体内に蓄積されていきペインボディーが肥え太っていきます。負の感情の噴出を助長させていくのです。思考でごまかすのではなくしっかりと観察し、、、そこから無心無我に入っていきます。そして主導権を観察する存在、大いなる存在に戻していくのです。

主導権を大いなる存在に戻すと

負の感情が湧いてきた際に思考でごまかすのではなく、、しっかりと観察していきますと観察する存在に自然になれるようになります。観察する存在とは大いなる存在のことです。負の感情から逃げるのではなくそのままそれを受け入れていくことで無心無我に入っていきます。この状態は安堵そのものですから負の感情は自然と無くなりなおかつ思考のフル回転を防ぐことで自我の肥大化を防ぐことができます。さらにこの安堵の感覚を一度でも感じることができるようになると目標達成においてもこのゾーンに自然と入れるようになっていきます。無心無我に入って集中して全作業に当たれるようになるのです。

悟りを独自の世界観で表現する苫米地英人氏

この人実は悟ってる

苫米地氏の書籍を読み始めたのは5年以上前になりますが彼の本を読み進めていく時、これは実は悟っているのでは?という疑問が湧いてきました。彼は脳科学の権威で全てを脳科学的に表現してますが実は人間の悟り方を伝えています。大乗仏教では人間の欲を肯定しながら悟りに導くという方法を取り入れますがまさに彼の理論がそれです。大きな目標、ゴールを設定しそこに向けて自身のコンフォートゾーンをシフトさせ続けていく。大きな目標とは自己実現、自己超越的な目標レベルにまで持っていき最終的には悟りの観点にまで昇華するというモノです。悟りという言葉は出てきませんが彼の本意はそこにある気がしてなりません。

自我をコンフォートゾーンで表現

彼は自我をコンフォートゾーンという言葉で表現しますがこれがまた見事です。下手に自我を悪者扱いするのではなくこの心身を永続させるためのプログラムであると表現します。まさにその通り、自我とは自己永続プログラムでありそこに悪意は全くないのです。ただ自我、コンフォートゾーンに取り込まれると退屈、苦しい、つまらない、孤独、、あらゆる負の感情が湧き続けていきます。これもまた事実です。彼は大きなゴールを設定することで無我に入り、、自我の制限を外してしまう方法を彼独自の理論で展開していきます。

情動すらも遊びになると、、

いづれ人間の情動は娯楽になる、、、このように解説します。これはまさに負の感情観察を遊びにするということ、、、負の感情が湧いてきても全く気にならなくなる、、それを脳の発達で表現します。前頭前野を発達し続けることで情動が湧いても理性的に処理できるようになるということです。情報を取り入れ続けることで前頭前野を刺激し続け自然とそうなるというのが彼の理論です。悟りを脳科学で解明した世界初の人材ではないでしょうか。

ゴールを自己超越

彼の理論の肝はゴール設定です。今いる環境では絶対に達成できないようなゴールを設定しましょう。ということです。これ自我の枠を外させる方法です、自我は今の自我ができることだけをやらせることで自我の存続を維持しますがそこから真っ向から反対します。ですがそれもゴールということで決して拒否反応が出ないようにしています。自我を拒絶するではなく自我を肯定しながらいつの間にか自我を消滅させてしまう、、ゴールは自己超越であり自我を完全に理解した人の応用であることは直ぐに理解できます。大きな目標を前にした時に我の出る余地がない、、、我を無視する、、我を消滅させる、、、自己超越。。。

イチロー選手すら負の感情観察が苦手だった

インタビュー取材時の不機嫌

イチロー選手の取材嫌いは有名です。彼は取材時には意図的に不機嫌さを隠さないようにし記者からの無駄な質問を受けないようにしていました。彼は練習中常にそこに在り、無我夢中、集中のゾーンに入りこみ無我の境地に達していました。自分という存在との付き合い方においては完璧にいつでも無我に入る感覚を習得していたと感います。ですが対記者相手となるとそうはいきません、相手をコントロールするのは不可能だからです。ということでイチロー選手は取材時に湧き上がる負の感情の処理に困り果て意図的にピリピリさせるという方法をとったのです。

負の感情観察の絶好の機会

本当のことを言えば取材時の失礼な質問を受けた際の自身から湧いてくる負の感情、これを観察する絶好の機会だったのです。負の感情が湧いてきたならばそれを面白がって観察するのです、ムカつく、イラつく、誰もわかってくれない、、失礼な奴だ、、、これらの感情が湧いてきたらそれを楽しんでしまいます。こんな感情が自分から湧いてきたぞ、ここまで感情が湧くのか、、凄い感情だ、、、こう観察を続けることでそこに集中します。負の感情観察の驚くべきことはそれを集中して観察し始めると次第に感情が湧いてこなくなるということです。思考とは自我であり思考が湧いてこなければ自我が弱っていくのです。この自我こそが負の感情を湧かす張本人です。

負の感情は他人事のように楽しむ

人がイライラする姿を見てもそれほど深刻にならないのは他人だからです。なぜあんなにイライラしているのか?冷静にその人を観察できます。ですがなぜか自分ごとになると途端にそうならなくなります。イチロー選手のように自分に正直に向き合う人ほど自分から湧いてくるこの負の感情を無視できません、むしろしっかりとそれについて真剣に考えてきたはずです、ところが真剣に考えれば考えるほどに自我が強化されてさらに負の感情が湧き出すという恐ろしいメカニズムに飲まれてしまうのです。イチロー選手ほどの選手でも負の感情観察はできなかった証拠です。

相手の失礼な質問から湧いてくる負の感情を笑って観察する

すべらない話という人気番組がありますが、、あそこで繰り広げられていることこそ負の感情を笑って観察する行為の集大成です。自分から湧いてきた苛つき、むかつき、怒りを笑いに変えています。「お店で大変失礼な目に合い、、怒りで狂いそうになりました、、、」これを笑いながら解説しています。なぜ笑って話せるのか?負の感情を観察していたら面白くなってきた証拠です。そうです、これは誰でもできるのです。負の感情と真摯に向き合わなければならない、、、この強迫観念がそこからの思考フルスロットルに繋がっているのです。

負の感情からの脊髄反射に気づく

脊髄反射こそが苦しみの元凶

負の感情が湧いた時に脊髄反射で思考がグルグルと湧いてきます。この感情をいかに迅速に解消するかのミッションの元にです。負の感情を噴出からの思考フルスロットルです。このメカニズムが働くことで自我が強化されていきます。思考とは自分自身のことだからです。そうなると思考を駆使して悩めば悩むほどに自我が強化されて負の感情が噴出するという恐ろしいメカニズムが完成します。そのことがなんとなく理解できる人は嫌なことが起きると気晴らしに逃げるという作戦をとるのです。この作戦は決して間違っていないわけです。

嫌なことが起きる=気晴らしに逃げるも。。。

嫌なことが起きた時に多くの方は思考がフル回転になり自我が強化されてさらに負の感情が湧くとうメカニズムを完成させます。このメカニズムを本能的に気づいている人は悩むのではなく気晴らしに逃げます。お酒、タバコ、ギャンブル、エンタメ、美容、音楽、YOUTUBEなどです。そこに逃げ込めばなぜか嫌な感情も無くなり楽になることを知っているからです。これは自我のメカニズムに適っています、ですがこのやり方ですと嫌なことそのものを消し去ることができませんからひたすらに気晴らしに逃げ続けなくてはならなくなります。これが気晴らしの中毒化です。

負の感情からの脊髄反射を起こさない

私が推奨する方法はこれです、嫌なことがあった、負の感情が湧いてくる、、これを先ずただ観察します。そこから思考の渦に巻き込まれないようにします。その上で問題解決に向けて集中していきそこから無我に入ります。負の感情観察も集中して観察することでそこから無我に入り、さらに問題解決に当たる時も集中することでそこから無我に入るのです。全ての出来事、そこからのアクション、、これらを無我に入る入り口にするのです。

無我には実はどこからでも入れる

嫌なことが起きてもそこから無我に入り、行動を起こす時もそこから無我に入る、、、これで全ての点から、無我に入れることに気づいていきます。これ決して難しくないです、なぜならば無我に入るというこの単純行動に尽きるからです。多くの方は思考が回転することに対してあまりに無警戒、無意識になっているだけなのです。思考は自分のモノでありどれほど使おうと何も問題がない、、このノリで思考を使い倒しているのです。これでは延々と無我に入れるわけがないのです。無我とは平和、歓喜、安堵そのものでありこの感覚を一度でも知ってしまった人はもう他に興味が無くなります。