霊的向上

自我はなぜ霊的向上、霊的進化が好きなのか???

それは時間を稼げるから

霊的向上、霊的進化に興味を持ってもらえる自我は大変助かるのです、、、霊的向上というファンタジーの中で、、多くの時間を費やしてもらえる、、、その間自我はヌクヌクと自身の存在を誇示できるのです、夢の中で。何かを目指すというのはこの夢を維持するには最高に都合が良いのです、夢の中は何でも作り出せるので、、霊的進化を目指してくれれば、、何百年、何世代、何回もの輪廻転生を繰り返してくれるわけです。夢の中で。だから自我はこの発想と相性が良いのです。

夢ですよ

この夢の中では何千回の輪廻転生も歩むことができます、、、夢ですから無限にできるのです。ですがコレが夢であることが分かれば、、、重要なことは覚めることです、今覚めることです。霊的進化や霊的向上ではないんです。夢を長く見ていたければ、、、どうぞお好きにやってください、、霊的進化、霊的向上を。もしも夢から覚めて至福に至りたいならば、、、ただ夢から覚めちゃうことです。

マリオが最強になる

マリオが最強になることと、、、マリオが夢から覚めることとは全く因果関係がないんです。これってゲームじゃん、、、にマリオの進化は全く関係ないのです。毎晩見る夢において主人公のキャラ、人格、人望が夢から覚めることに関係があるのか???という話です。ないんです、そんなものは。

悟りにハマる人は幼少期の至福感を覚えている

私は悟りに魅了されたのか???

私がなぜ悟りに魅了されたかと言えば、、、幼少期の万能感、至福感をはっきりと覚えていたということがあります。何も条件なくただ幸福だったと言う時間を克明に覚えています。だから一般的幸福に興味が持てない、、車、家、立場、家族、地位、名誉、、、では絶対にここに辿り着けない、、、それは最初から分かっている、、、ただそれがどこにあるのかが分からない、、、

ブッダの言葉が刺さる

この世は無常、、、解脱だけが至福に至る道である、、、、いや絶対そうだよね、、、!!!この言葉を待っていた、、、釈迦最高、仏陀最高、、です。自分の中で何かが発火したのが分かりました。この発火は今まで味わったことがない発火、、だがこの個人という感覚が無くなるとは到底思えない、、、だからそこからはスピにハマり個人としての霊的向上にガッツリはまったのです。

霊的向上に努めるが、、、

霊的向上に努めるが、、、どこか焦燥感が抜けません、、、向上した霊魂が取るべき行動は何か???と今度はそこに縛られてしまうのです。解脱はいつか訪れるもの、、解脱に対する関心も落ちていきました、、、ですがノンデュアリティメッセージの五年前ぐらいから触れることで解脱が決して遠い未来に話ではないことが分かります。釈迦、ブッダの言葉が身近な存在から届けられるようになったのです。

コンプレックスでは感情回収できなければ見かけ上成功させて試してくる

コンプレックスの次は成功

コンプレックスでは一切落ち込まなくなった見かけ上の「私」が次に狙われるのが見かけ上の「成功」です。女性に本当はモテたい、、とコンプレックを抱えていた見かけ上の「私」はもう女は要らない、、そんなことではどうせ満足できない、、と良い意味で諦めると、、、今度はモテることを起こし、、そこで逆に苦しめます。モテる自分は、、もっと評価されたい、仕事でも評価されたい、、ともっともっとが湧き起こるのです。こうして欲求の渦に全体は私を陥れるのです、見かけ上。

これだけ達成したのにおかしい

コンプレックスは解消し仕事で大成功めたにも関わらずなぜこんなに苦しいのか???むしろどんどん苦しくなっている、、こうして見かけ上の私は精神的飢餓状態に陥っていくのです。どこまで成功すればこの精神的飢餓は解消されるのか????もう願望実現は終わりにしよう、、、こうなると次は精神世界での霊的向上が待っています。霊的向上こそがこの精神的飢餓を克服できるのでは???ところがここも最短速度で登っているにも関わらずまた苦しい、、、

最後に残ったのが悟り

最後に残されたのが悟りです、、悟りとは精神的成功、物理的成功をする「自分」が居なかったという全く違うメッセージです。この私は3D映像、幻想、蜃気楼で実在を全くしていなかったという気づきです。「自分」に成り済ましていたのが全体でこの全体が全ての感情を回収していたのだと、そしてまだ半信半疑の自分が起こり続け揺さぶられ続けていきます、見かけ上。全体総指揮「自分」ストーリーの完結に向かいます、完結とはこの「自分」が実は幻想だったという大気づきです。

自分をなくすための努力は自分を強化する

残念ながら悟ための努力は自我を強化する

苦行、瞑想、お経、霊的向上、座禅、、、あらゆる悟るための努力の多くは自我を強化していきます。なぜかと言えば悟ろうとするのが「自分」だからです。どうしても「自分」は悟ることすらも自分が成し遂げようとするわけですがこの努力は逆に自分を強化する結果に終わります。自分を維持する自我のメカメニズムは自らそのメカニズムを放棄するわけがなく結果「自分」が行おうとする行為は逆に自我を強化します。

自己認識を変えるのみ

悟りとは視点の転換です。自分として何かを達成するのではなく、自分が居ないという認識です。では一体この在るというこの感覚は何なのか?間違いなく「在る」という感覚は確実にあります。自分が仮に幻想であったとしても「在る」というこの感覚に嘘はなく、、いくら幻想であると言われても幻想しかないということには納得できません。この自分が偽りであることを腹落ちできた時この在るという感覚だけが残るのです。これが答えです。

物も自分も全ては幻想

我々は生まれてきてから何度も両親に名前を呼ばれ続けてこの体を「〇〇ちゃん」と認識するようになりました。名前を呼ばれ続けることで脳がその名前を記憶し、、、この体がどうやら〇〇ちゃんであると意識し始めます。全体意識の個別意識化の成功です。全体からこの体、思考、感情が分離します。そしてそこからあらゆる見える物に対して名前を記憶していき名前が付けられた物が全体から分離していきます。この事実を理解することで自分、その他の物の分離のメカニズムが理解できます。この理解が分離のトリックを解消します。

自我の欠落こそ真のアイデンティティー

真のアイデンティティーは自我の欠落である

自我は本当の自分は誰か?本当の自分とはより崇高な自分ではないか、、と自身の向上に努めます。魅力ある自分、崇高な自分、霊的向上を果たした自分、バイブレーションが高い自分、、、、とこのように自分というものを大前提としてどこかに真の自分になれる機会を常に探していきます。ですが実際には皮肉にもこの自分の欠落こそが真のアイデンティティー、真の自分です。これは分離世界の消滅であり、全体の現れでもあります。

分離世界とは全く違う場所に真のアイデンティティーがあるわけではない

神はどこか遠くにいるのではなく、ノンデュアリティーもどこか遠くに在るのでもない、非二元も。そうです、自我が神、非二元、ノンデュアリティーを隠しているだけであって今ここにそれは存在しています。人間の脳が自分を作り、世界中に分離したあらゆる物、人を創造しました。これは全部人間の思考が作り出した幻想です。この魔法が溶けれ今ここに神、全存在、非二元が現れます。

自我はこれまで自助努力を尽くしてきた

自我はこれまで最大の努力をして人生をなんとか幸福に近づける努力をしてきました。ですがこのラットレースは尽きることがない地獄です、いかに早くこれは地獄だと悟ことが重要になります。そしてこの自我ベースの人生には限界がありこれを死ぬまで続けても至福には至れないことをいかに早く気づくかです。そして今再び自分に問うのです、自分とは何か?この探求が始まるといつかどこかでこの世の真理にぶち当たります。この自分こそが幻想であり、自分が見る世界もやはり脳が作り出した幻想である、、それを見抜くとそこに真実が広がります。