小我

真実を知るものは、、深刻になれない

真実は人を究極なレベルで癒す

本当は何一つ、、、自由意志はなく、、、ただ起こりが起きているだけ、、、この真実が我々を待っています、、この真実に我々は最終的に吸収されます、、、、真実から逃げることは誰もできず、、、、この真実に向かって我々は生きているのです、、、この夢は最後は真実に吸収されるのです。

真実は、、、、一つ

この世界に真実以外のものは存在せず、、、構成要素は真実の一点です、、、この真実が、、、あらゆる形に変化し、、あらゆる体験を引き起こしているだけです、、、ですからこの世界で救済されない人は誰も居ません、、、その人を構成する要素が、、、真実だからです、、、、我々が救済される唯一の方法は、、、そこに気づくことです、、、絶対的体感によってこれに気づくことです、、、

真実は完璧なプロセスで、、ここに至らせる

真実は、、、完璧なプロセスで、、、ここに人を至らせます、、、自我は完璧なタイミングで解体され、、大我にシフトします、、、大我という決まったものはないのですが、、つまり我々は我々という認識が突然シフトします、、、小我は大我に吸収されるのです、、、完璧なタイミングで、、、、我々ができる唯一のことはそれが起きるのを待つことだけです、、、、完璧に起きる自我の解体を待つということしかできません。

小我とはブレーキ、大我がアクセル

ブレーキを解体する

子供が大人になる過程においては、、、自身を守るという意識がどうしても必要になります、、、財布を持ってお店に入れば、、、財布を盗まれないように、、、「自分の財布」という意識が必要になります、、これが自我形成の目的です。守る、守る、守る、、、、車でいえばこれはブレーキ、、、ブレーキが無くては車は直ぐに壊れるのです。。。。ですがこのブレーキばかりを踏んでいますと、、、車が全く前に進まないという状況になります、、、これが苦しみです、、、、何かをスタートしようとしても、、、ブレーキが直ぐに踏まれていまう、、、人生が退屈の局地になっていきます。

頑張るが、、、、ブレーキから起こる

よし毎日、、ランニングしよう、、、、これがブレーキ(小我)から起こります、、、ブレーキがランニングをするのですから、、、何も何も進んでいる気がしない、、、、そうです、、、、見た目は進んでいても何も起きていない、、、ブレーキですから、、、、、ではアクセルである大我を働かせて、、、、無理です、、、ブレーキがかかってしまっているからです、、、

大我(アクセル)はいつでも踏まれている

アクセルは常に常に踏まれているのです、、、全員がこのアクセルの中にいますから、、、アクセルは実は全開なのです、、、ただブレーキが踏まれてしまっている人が多い、、、だからこのブレーキを剥がすだけでいい、、、ではどうしたらいいか????体の緊張を物理的に解体するのです、、筋肉を解してしまう、、、筋肉という緊張、、収縮したエレルギーを物理的に解放するのです、、これが完全にブレーキです、、ブレーキの物理的現象です、、、この現象をそのままで解放します、、小我というブレーキが効かなくなる、、小我というブレーキが忘れさられる、、、、大我(アクセル)全開になっていきます。

全現象を作り出しておいて

じゃあこの体の中の私は今後どうなるのか???

全現象を作り出している存在こそが本当の私、真我なのは分かった、、、では今後この体の中の私は一体全体どうやって生きていけばいいのか?????何も変わりません、、、これまでも本当の自分が全部が全部思考、感情、行動を起こしてきたのですから、、、、これからも全部が全部本当の自分がそれを起こすのです。

事実の再認識が起こる

悟りとは事実の再認識が起こることです、、どこで起こるのか???全体、本当の自分の中でそれが起きるのです、、、全部自分がやっていたという究極の気づきが、、、突然起きるのです。。。そしてこれからもこの体の小我はそれを踏まえた上で言動が起き続けます、、、ただし大我、真我の存在がはっきりと気づかれてしまった後に小我は頻繁には現れ得ない、、、大我、真我の中で全部自分がやっていたという気づきが起きた以上、、小我が今までのようにこの体をコントロールしているという動きは起きにくい、、、という話です。

今も動く、、全体の動き

今も必ず何かが起きています、、、冷蔵庫の音、風の音、、日の光、、全部が全部この私が起こし、経験、感覚を作り出しています、、、、全部です、、、、小我は、、、、この真我の中で、、、何をでしゃばれるのか????解決しなきゃいけない問題は、、、この私が全部作り出しています、、、本当にそれは問題なのか???友人から先週罵られた、、、その経験、友人、全部をこの私が起こしました、、、これは問題と言っていいのか???疑問です。