無限

主体客体の世界を超える

起こることを気づきの意識で認識する

私(有限風無限)がこの音楽(有限風無限)を聴いている、私(有限風無限)がこの雨音(有限風無限)を聴いている、私(有限風無限)が友人(有限風無限)と話をしている、、、これらは全て主体客体の世界、対象と被対象の世界、見るものと見られるもの世界です。無限が有限を作り出し有限が有限を認識する世界です。ですがこれが実は無限が無限を認識するということになります、全ては無限のエネルギーの出現同士なので。この事実が理解できてきますとこの世界はただ無限のエネルギーが出現しているだけだということがわかります。確固とした分離したモノは一切なく全ては無限のエネルギーが作り出した表現に過ぎません。有限風無限が有限風無限を認識しているに過ぎません。そしてこの有限風無限が湧き上がる場所はやはり無限の世界です。この湧き上がる有限風無限を認識するのは無限です。

我々は無限である

見える世界に本当の有限は存在せず在るのは有限風無限です。そしてそれが起こる場所は無限です。ではこの起こる有限風無限を認識しているのは誰か?それはやはり有限風無限の自分です。つまり有限のフリをした無限です。ということでこの世に起こる有限風無限を認識するのは有限風無限(自分)でありそれが起こる場所、無限です。音楽がこの部屋に響き渡るとき、それを認識するのは有限風無限(自分、体)でありそれが響く場所(無限)です。有限風無限(体)が有限風無限(音楽)を認識する世界が主体客体の世界でこれは虚の世界、夢の世界です。なぜならばこの無限しかない世界に本当の有限は存在しないからです。この事実が理解できてきますと音楽(有限風無限)はただ無限に認識されます。主体客体の世界を超えていきます。

色は空から現れそして空に吸収される

この体も、音楽も空から現れた色です。そしてこの体(色)が音楽(色)を認識する世界があります。この体(色)は記憶によって自分(虚)を作り出しこの自分が音楽(色)を聴き続けるという夢の世界に入っていきます。自分劇場(虚)が誕生します。我々の本質は空(無限)であり色(無限)が浮かび上がるのを認識する存在です。無限が無限の現れをただ認識します。有限風無限(体)も有限風無限(音楽)も全て無限の表現であることが理解できますとただ無限だけがあることに気づきます。

無限が有限になることで無限に憧れる

我々の本質は無限

我々の本質は無限です、この無限が有限のこの体になり切ることでこの有限人生がスタートします。本来は無限ですから有限体験は苦痛でしかありません。何をやっても制限に邪魔をされます、体の制限がまさにそれで全てにおいて限界が用意されています、身長、体重、筋力、思考力、忍耐力、努力、睡眠、体力、、、全部が全部有限、制限に支配られる、、、これが体有限人生です。時間と空間にも制限を受けます。ですが本質は無限ですからどこまでいってもこの体有限人生は錯覚、夢、ゲームであることは間違いありません。無限のエネルギーがなぜ有限になれるかという話です。どこまでいっても無限は無限です、有限に見せることはできますが実際には無限です。有限体験、制限体験はできますが無限は無限です、どこまでも。

この体は有限に見えますが無限でできている

今このブログを書いているこの私は体に支配されていまして、この体は全部が全部有限、制限を受ける存在です。ですがこの制限を所有するこの体は無限のエネルギーで形成されています。ですから本質は無限です。ゆえにこの体は無限に憧れます、本質は無限ですから当然です。無限が制限有限を経験しているだけですから常に自己矛盾を抱える存在なのです。無限はどこまでいっても有限にはなれないのです、有限体験しかできません。よってこの有限の体は常に無限に憧れながら有限体験をし続けていきます。無限の有限による葛藤体験が続きます。

葛藤が閾値を超える

無限であるエネルギーがこの体を作り出しこの体を同一視することでこの有限風体験は作り出されていきますが、本質は無限ゆえにこの有限風体験は居心地が悪いのです。この有限風体体験は脳に記憶されていき思考と感情に雁字搦めになっていきます。有限風体体験が積み重なっていき居心地の悪さがより増していくことになるのです。居心地の悪さが極限まで行ったこの有限風体体験は次にこの居心地の悪さの解消に本格的に乗り出すことになります。するとどこかで気づくことに、この有限の体は無限でできていると、、じゃあこの有限の体は無限ではないか?となるのです。ということでこの有限風体体験は実はハッタリ、ジョーク、虚像だったという気づきに至るわけです。

夢の中での自由は至福とは何も関係がない

夢の中は自由

毎晩見る夢の中でいくら主人公が自由であってもそれと永遠の至福とは関係がありません。主人公がいかに自由に夢の中で動きまわっても永遠の至福に至ことはありません。動いて動いて動き回る理由とは止まってしまったら不足感が湧いてくるからです。まさか夢の中でもこの不足感は常に湧いてきます。夢の中の主人公は当然全体から分離しています、分離しているから独立した個人として動いているのです。ですがこの分離感こそが不足感を湧き出すのです。逆にいえば自由に動き回れば回るほど分離感は強化され無限地獄に入っていくのです。だからこそ夢の中の自分は止まることなくストーリーが展開していくのです。もしもそのままで至福ならば動くなどという意味のないことはせず夢の中で瞑想でもしているでしょう。ですがそのような自分は夢の中に居ません。

一方リアリティーでは

ではこのリアルな世界では主人公である私はどうなのか?間違いなくそのままで至福ではないでしょう。幸福すぎて今日一日何もしたくない、、こんな日は当たり前ですがありません。至福過ぎて何もしないという状況があるとするならばお腹いっぱい大好物のお寿司を食べた時ぐらいのこと、3時間後にはこの至福感は消え去ります。そしてまた次の食事を考えるという動きの世界に入っていきます。そろそろ気づきましたね、そうです、このリアルな世界も夢の世界と全く同じで動かずにはいられないということです。そのままの状況では至福に至れないのです、そのままにしていたら不足感が滝のように流れてきます。「自身がこの体の中にある」この分離感を持った瞬間から人間は分離感に苛まされます、孤独感が湧いてきます、もう一人ではいられません。この世界に独立した自分がいるという錯覚を所有した瞬間から不足感、孤独感、欠乏感が湧いてくるのです。そしてその感覚を解消するためにモノやヒトを追い求め続けるという無限地獄が始まるのです。

夢の中ですら渇望しているのにリアルな世界で渇望しないわけがない

自分が毎晩見る夢の中ですら主人公は動き回っています、どこかに永遠の至福に至れる道がないかと。ですがありません、ストーリーの中は時間の世界ですからそこに永遠の至福があろうはずがないのです。永遠とは時間の制限を超えています。だとすればこのリアルな世界の中で永遠の至福などあるはずがありません、この体の中に自分がいるという錯覚をもち、この体の外は自分ではないという錯覚も所有します。この錯覚こそが不足感、欠乏感を生み出す原因ですからこれを解放する以外に至福の道はないのです。結論を言ってしまえばこれも夢です、リアルだと感じているこれも夢です。だからこそ毎晩見る夢と同じ苦しみを味わいます。

夢の中で「あなたは既に知っている!」

夢の中での至福体験は至福ではない

もしもあなたが夢の中で最上級の幸福を手に入れたとしても幸せすぎて起きてしまったということは少ないはずです。人間がみる夢とはリアリティー全開でミシュランレストランの味覚も、高級ホテルの寝心地も、人間国宝のお皿の渋みも全て再現ししかも感動できます、夢の中で。ですがにも関わらずその夢の中で永遠の至福を手に入れたことはありません。夢の中ですら人間は至福に至れないのです。これかなり重要なポイントです。夢の中で人間は最高の感情を味わうことができます、夢の中で金メダルをとっても涙を流して感動できます。夢の中ってその点においてかなり自由です、にも関わらずその夢の中で永遠の至福を手に入れたことがないはず。結論をお伝えします、夢の中だから至福に至れないのです。夢の中というのは分離体験であり分離体験の主人公が至福に至ことは絶対にないのです。分離しているから。

この現実社会も同じ

この現実社会、あなたが見ているこのリアリティーにおいてもあなたは永遠の至福を手に入れたことはないはずです。勿論一時の幸福、歓喜、喜び、感動を得たことはあるはずです。ですが永遠に続く至福を手に入れたことはないはずです。なぜでしょう?そうこれが分離体験だからです。人間という主人公を使った分離体験だからこそどんなに頑張っても至福に至れないのです。毎晩見る夢の中と同じで一時の幸福しか持てないのがこの現実社会です。つまり毎晩見る夢と、この現実は同じなのです。同じく分離体験なのです。これは神が見る夢です、夢の中で主人公(人間)は絶対に永遠の至福に至れません。夢ですから。

夢の中でも永遠の至福になれないのに、この現実でなれるわけがない

毎晩見る夢と、このリアリティーには共通点があります。それは其々に主人公が登場し、その主人公が右往左往するストーリーということです。ストーリーとは時間が必要になります。空間が必要になります。そうです、時間と空間が存在するこの分離体験ゲームでは永遠の至福は不可能なのです。永遠とは時間ではありません。時間を超越した状態です。この時間軸の中に居ながら永遠の至福は存在しないのです。だからこそ主人公は一瞬、一瞬の幸福をかき集めるという無限地獄を続けます。そしてそのことに薄々気づいているのでこのゲームは苦しみなのです。釈迦が伝えたたった一つのこと、、夢から覚めて解脱せよです、この意味はここから来ています。

結果に飢える動物がいない理由

動物には結果が存在しない

これは夢です。神が見る夢です。この夢の中で人間は結果を出せる人間は優秀であるという価値観を持っています。結果を出す優秀、結果を出せない劣等であると。このような価値観を持つ理由は人間が神に比べて無知無能であるという大前提があります。だからこそ結果を出す=有能であるという思いが強くなるのです。ところが本来は全知全能の神がこの人間の正体ですから結果を出せなくても全知全能です。神そのものが結果です。自らを無知無能であると勘違いしたことから結果に飢える動物になりました。一方動物は自我がありませんから自らを無知無能であるという劣等感がありません。全知全能のままです、だからこそ結果に飢えるなどの意味が理解できません。

結果を出しても無知無能は無知無能のまま

自らを無知無能であると判断を下している人間が結果を出したところで自らを優秀であると勘違いできる期間は一瞬です。だからこそ一度優秀であるという結果をもぎ取った人間は結果を出し続けるという呪縛に縛られます。一生結果を出し続けていかないとならない呪縛に縛られます。これは果たして幸福でしょうか?いな地獄です。結果を出せなくても地獄、結果を出しても地獄、これが人間という神の夢の中での主人公に突きつけられた宿命です。

この呪縛から解放されるには結果ではなく、人間を辞めるしかない

神はこの夢の中で自身を人間であるという錯覚ゲームを始めました、この錯覚ゲームは無限地獄、不足感全開ゲームです。本当は結果全開、全ての結果である神が価値ゼロの人間になりきってしまった結果として結果に飢えています。解決方法はこの勘違い、錯覚のメカニズムから目覚めること解放されること。これだけです。これが錯覚であるという心からの気づきが生まれると価値観は逆転します。この見える世界すべてが自分自身でありもう結果に飢える感覚が分からなくなります。空腹だと思っていたら満腹だった。

それでも分離体験最高

神は無駄なことをしない

これは神の見る夢です、神が人間体験をする夢です。夢を物語化するために脳という記憶機能を作り出し過去を誕生しました。これによって 人間は成長し成人し、年を重ねやがて老い、死を迎えるという一連の流れを経験できます。このストーリーは神が神のままでは経験できないことです。神は過去を悔やむことも過去を振り返ることも過去を後悔することもできません。全て人間様があってこそです。憂鬱に過去を悔やむ神はいません、人間あってこそです。ということで分離体験最高ということになります。もしもあなたが今最低最悪な気分だとしてもそれは記憶をベースに比較してのことでしょう、過去の私と。それは神のままではできないことです。

人間ストーリーは最高だがそれでもしんどい

そういう意味で人間ストーリーは神が神のままでは経験できないことを経験できますから神にとっては最高です。ですがこれは同時に非常に苦しいことでもあります。そう人間に成り切った神としては最高でも人間としてはただ辛い、、ということで辛さでお腹がパンパンになったならばもうこの辛さ体験は終わりにしましょう。この無限地獄、不足感解消ゲームは終わりにしてもいいかもです。貧乏があるから豊かさがわかる、孤独があるから仲間の大切さが分かる、病気があるから健康の有り難さがわかる、、、ただそれももう十分ということはあります。

もう人間なんてしない、絶対

釈迦は悟りこの人間ゲームが苦であることを理解しました。そして苦行が悟りへのツールではないことも知りました。夢から覚めるのに苦行はいらないと。そしてこの夢から覚めることを解脱と称してその方法をその後の人生で伝え続けたわけです。輪廻転生をしながらカルマを解消しダルマを積むのではなくその輪から抜けてしまいなさいと。終わりのないこの夢物語を継続するのではなく夢物語から覚めてしまいなさいと提案したわけです。

偽りの自己は偽りゆえに自己保身が強い

自己保身とは偽るモノの妨害

これは夢です。神が見る夢です。神が人間に成り切ることでこの夢物語を作り出します。神は自分自身を人間であると錯覚する、偽ることでこの仮想ゲームを作り出しました。これが夢です。仮想ゲームですから全てのものには実態がありません。人間の五感が感じることを現実と呼んでいるに過ぎません。人間の五感が感じないものは現実ではない、こういう論理です。人間というこの自己は偽り、錯覚ですから当たり前ですが実態はなくそれゆえ自己は自己保身が強くなります。吹けば飛んでしまうようなこの偽りの自己を自己が保身するのは当然のことです。

悪口を言われれば過度に反応する

偽りの自己は偽りゆえに自己保身が強くなります。全く実体がないにも関わらずあるという大前提でことを進めていますから自己の存続に関わることには敏感に反応します。悪口を影で言われていれば機嫌が悪くなりますし。影で褒められればご満悦です。影で妬まれれば落ち込み、影で称賛されればご満悦です。この自己は偽りゆえに外部の反応を異常に意識するわけです。それゆえ非常に疲れます。人間関係の輪に入れば偽りの自己同士がこの無限地獄を引き起こします。

本当は神だから保身も糞もない

人間とは神の化身であって本当は神です。神は保身に走る必要など全くありません。神は陰口を言われて落ち込む必要はないのです。神が妬まれて落ち込む必要もありません。神は称賛されて意気揚々とするのも変な話です。神が持ち上げられて鼻を伸ばすのも不思議です。ということで偽りの自己は神に戻ることだけを考えるのが手っ取り早いでしょう。全ての動作から無心に入る、全ての仕事から無我に入る、全部を書道、花道のように無我に入る道具にします。何にからでも無心に入れることができれば周囲の反応を気にする必要はなくなります。

偽りの自分は名声に飢える

著名人に憧れるのはそこが桃源郷に見えるから

偽りの自分は常に何かに飢えています。偽りの自分は不足感製造機です。それゆえ偽りの自分は他人から称賛されることを望みます、他人から称賛されたら何かを得ることができるのでは?もしかしたらこの不足感を満たすことができるのでは?そう考えます。そして名声をすでに得ている著名人などはこの不足感を超越しているはずだ、この不足感を解決しているはずだと都合よく思い込みそこに憧れます。ですが自分の存在こそが不足感製造機なのですからその自分が何を手に入れようと不足感の製造とは何も関係がありません。

不足感の製造を止めろ!

偽りの自分が一番気づかなくてはならないことは「不足感の製造を止める」これに尽きます。不足感の製造を止めることなく名声、収入、安定を得ても何も解決にはなりません。何を得ようと次から次へと湧いてくるこの不足感が止まらないならば無限地獄は永続します。答えを言えば偽りの自分が本当の自分に戻らなければこの不足感解消ゲームが終わることはないのです。

偽りの自分がこれが偽りだと気づくには

偽りの自分が、、この偽りに気づくにはどうしたらいいのでしょうか?これが偽りであると気づくためにはこの偽りの自分を消してしまうことが一番です。自分を消す?意味不明に聞こえるかもしれませんが実は簡単です。無我夢中でゲームにのめり込む子供は自分を忘れています。実際にこのとき自分がいません、自分とは思考ですから。要は何かしらの作業、タスクに無心になって取り組むときこの偽るの自分を消せます。損得勘定、要領、利害を一旦忘れてその行為に入り込むことに意識を向けます。全ての行為を書道の達人のように入り込んでいきます、すると1日の中で無我の時間が増えていきます。偽りの自分がいなくなる時間が増えます、これを積極的に行うのです。損得を優先すればこれはできません、無心になる、無思考になる、、これを最優先することで皮肉にも自身が得そのもになります。利害を考えて一所懸命になるかどうかを考えるのではなく一所懸命に最初になってしまう、そうすることで利そのものなれます。

偽りの自分同士が争い合うこの世界

争いには参加しない

人の争いに参加する必要はありません。争いとは偽りの自分同士が不足感を埋め合うために行っているものです。自身から湧いてくるこの無限の不足感をいかに埋めるか、その解消のために争っています。ですからこの争いは無駄です。一時的には何かしらの不足感を解消できるかもしれませんがそれは何の根本的解決にも至らずまた次の争いに進みます。地球上で戦争が終わらない理由はここにあります。

争いを発見したら思い出す

争いとは自身から生まれる不足感を他人を使って埋めようとする行為です。本人は相手の非難すべきポイントを上げへつらいだから争うのだとそれを正当化しますが実はその目的は自身から湧いてくる不足感をそこで埋めようとしているのです。不足感を生み出しているのはこの偽りの自分を本当の自分だと勘違いしていることにあります。ですから争いに入るのではなくそこから本当の自分を見つけることに入ります。人の争いを見るときはそのような視点で眺めればそこから悟りに入れます。

偽りの自分を維持するのは大変

この心身こそは自分である、この体の中に自分がいる、、この発想を維持するのは大変です。なぜならばそれは偽り、錯覚だからです。この思考、プログラムを維持するのは大変だからこそ人は争うのです。争うことでこのメカニズム、プログラムを維持するのです。これは神の夢であり、神はこの夢の中で人間に扮しています。役にのめり込んでいます。ですが所詮は役ですからこれは危ういことでもあります。この体があるという錯覚はリアリティーがあり勘違いするには最高のアイテムです、五感という疑いようのない感覚がこれをよりリアルにします。ですがこの心身こそが自分であるという発想はどこまで行っても予想の範疇を超えることができずだからこそ人は争いを通じてその疑念を隠します。

夢の中にどっぷりと浸かると視界全てから活気が無くなる

思考の世界にはまり込むと視界から活気がなくなっていく

これは夢です、神が見る夢です。神が人間に成り切ることでこの世界は広がります。人間の視覚、聴覚、触覚、嗅覚、味覚という五感を利用してこのバーチャルリアリティーゲーム、夢が広がります。人間としての人間活動において人間は形上経験を積み、それによって価値観が形成されていきます。この価値観が「これは夢だ」という真実から離れて行けば行くほどに活気がなくなっていきます。つまり地獄界に入っていきます。そこに出てくる登場人物は信用できない人ばかり、罵詈雑言、陰口、妬み嫉妬の世界です。夢であるという事実から離れれば離れるほどに生きていくのが苦しくなります。思考の世界、分離意識が進めば進むほどに頼れるのは自分だけという無限地獄に入ります。

本当は活気しかない

これは色の世界です、空即是色、空が色として出現する世界、生命が光の世界に変化します。これは生命です。夢は生命の多様性です。ライフの表現。神の表現、アートです。神のアートが濁って見えるのは勘違いが進んでいるからです。ある人を友人に紹介する時に「実はこの人は犯罪歴があって、、」と嘘をついて紹介すれば友人は歪んだ見方でその人を見るでしょう、そうすると本当に犯罪者のように見えてきます。つまり歪んだ見方で、価値観で真実を見ればこの神のアートはそう見えるのです。本当は活気しかないこの神のアートが濁って見えてきます。

生まれたばかりの子供たちは世界が光って見える

生まれてから3歳ぐらいまでの期間はこの世界は光って見えたはずです。なぜならばこれは神が見る夢であり、神のアートであり、生命の表現です。ところがあらゆる経験、知識を取り入れることによってこの夢を現実と誤解するようになり、誤解が進めば進むほどに歪んで見えてくる。真実とは遠く離れていくわけです。真実はこれは夢、以上です。大人は子供と違って見える世界が濁っています、この濁った世界で不足感が沸き続けそれをなんとか処理していく。このメカニズムを暴く時が今です。