ブッダ

ブッダを見かけたら殺せ

有名な言葉

道でブッダを見つけたら殺せ、、、有名な禅の言葉?でしょうか。。この意味実は深いです。この世界の全現象は空の現れです、意識の現れ、、、幻想です。この世界でブッダやキリスト、覚者と呼ばれる人々は居ますが、、彼らは何を見つけたのでしょうか????彼らはこの体は自分ではなく、、この体を認識する存在、意識こそが自身だったと気づいたのです。つまりこの体も現象の一部であり、思考も現象、名前も現象、、、全現象の一部でしかなくゆえにこの体についた名前は暗号、記号でしかない気づきを得たのです。だからブッダと道で会ったとしてもそれも現象でしかないという意味です。

現象は軽薄という意味ではない

全部が全部現象だからだから価値なんてないんでよ!!!であるならば悟りとは何の価値もないものになるでしょう、、そんなことを目標に悟りを目指すのは馬鹿げています。実際にはこの幻想は恐ろしいほどの輝きを持ち、綺麗で神々しいのです。音も、味も、手触りも、、全部が神々しいわけです。この幻に価値がないなどは全くありません。ただしその価値は「私」にとってじゃないんです、価値そのものなわけです。

思考も感情も軽薄ではない

悟りにおいてのラスボス、、雑念、、、この雑念も軽薄という意味ではないんです。思考は全部この空のアートであり、、アートしか存在しないのです。ですがこのアートはイメージ化した瞬間に苦しみにかわるため、、危険なアートなのです。現代人はこの危険なアート言葉を、、全くもって慎重に扱っておらずゆえに「人生は苦」と称されてしまうわけです。

呼吸法と断食

釈迦は山に篭って悟りを開いたと言われていますが、、、山に籠もれば、、必然的に粗食、断食状態になります。この時余分な栄養が思考に回されないがために我々の本質「意識」が思考から外れる可能性が高くなります。さらに瞑想に入ることで「意識」が「意識」そのものに「意識」が向き「分かった!!!」が起こるのです。釈迦が呼吸法を用いていたかは分かりませんが瞑想という意識そのものの状態に至ったのは間違いありません。

疲れない

呼吸法を毎日続けると

呼吸法を毎日続けますと疲れなくなります。頭に意識が生き続けストレス物質を量産していた時期に比べると全くストレス物質が出ない状態になります。頭に意識が行く、思考量産、ストレス量産です。この流れをぶった切ります。腹に常に意識が行く、、思考、雑念が全く量産されない、、結果ストレスが全くでない、、となるのです。人間は活動するとストレスが溜まると信じていますがこれは頭を使って生きている、思考を使って生きているからです。

ストレスが出ない=疲れない

人間て基本疲れますよね????とんでもない話です、、疲れません、、、人間の頭に意識が登り続けると疲れるんです。だから呼吸法で強制的に下腹部に意識を向けます。これによって思考湧き出しモードが崩れ、下腹部安定モードにシフトチェンジします。思考が湧き出している期間、ひたすらに思考が湧きそれを全体、神が読み込みます。この読み込みによってイメージが湧き続け、、、イメージの世界に住うことになるのです。このイメージの世界は緊張感、孤独感を伴い疲弊します。

思考の流れをシャットアウト

思考の流れを完全シャットアウトします。たったこれだけで疲れなくなります、、仕事をすると疲れるのは無意識モード、思考モード、雑念湧き出しモードに入っているからです。この流れをいつも作らないように呼吸に意識を向けます。そんなことをしたら考えられなくなるんじゃないですか????違うんです、いつも考え続けて疲弊しているんです。この疲弊のリズムを断つんです。

ストーリーの中で悟るという嘘

ストーリ上で悟ることはない

これは夢です、、この夢の中で悟るのは不可能です、、夢だと気づくことはできます、これが悟りです。。夢の中で私は悟りブッダになった、、、これは理論が破綻しています。。。この現実世界(夢)で私(イメージ)が悟りました、、、おかしい、、、、悟りとはこの現実世界(夢)が現実世界ではなく、、夢っだったという気づきです。私だと思っていた存在がイメージだった、、実は居なかったという気づきです。

この言葉こそが夢を作り上げていた

この言葉こそが、、、夢を作り上げた張本人でした、、、見かけ上の「私」が使うこの言葉がこのたった一つのエネルギーを分断し個別化し、私を作りあげ、、この私の物語を作り上げていたのです。この言葉とはワンネスの世界のプログラム言語、、この世界になんでも作り上げてしまします、、その第一番が「私」という存在、、さらに数万の言葉を覚え、、この世界は完全な分離の世界(見かけ上)になります。ここはもう既に夢の世界です。

自我の根っこをぶった切る

勘違いの大元

自我の活動、反応は、、勘違いという大きな土台の上で起こる化学反応です、、化学反応ですから、、これを静止できる個人、自分は存在しません、、、化学反応を止める唯一の方法は、、この勘違いという土台に完璧に気づく以外に道はないのです。。。その大きな勘違いとは、、、この自分が自由意志で物事を決めているという勘違いです。これが嘘だった、勘違いだった、、、という大どんでん返し、天動説が地動説に切り替わるようなパラダイムシフトを超こします、、すると自由意志がある個人を前提にした、、思考、行動が湧いてこない、、もしくは途中で気づくようになります。

地動説を信じ切った後に。。。

地動説を信じ切った後に、、今日の太陽は早く動くなーとは思いませんね、、全く同じメカニズムです、、、全ての言動は真我から勝手に起こっている、、、これを腹の底から信じた時に、、感情、思考、行動が変わってしまうのです、、、勝手に。蜃気楼を見て早くあそこに行きたい、、とは思いません、蜃気楼という気づきが起きたあとに、、その衝動がもう起きないのです。

これは人類の新しいパラダイムシフト

個人の思考、行動、感情が、、、全部真我からただ起こっていただけだった、、、この気づきは、、、人類のパラダイムシフトです、、この気づきは地動説後の人類の発展と同じです、、、それぐらいに大きな気づきです。この気づきが今人類に起きそうになっています。情報革命が進み、、悟り、ノンデュアリティのメッセージが徐々に世間に浸透し始めています、、これは奇跡です。

悟りにハマる人は幼少期の至福感を覚えている

私は悟りに魅了されたのか???

私がなぜ悟りに魅了されたかと言えば、、、幼少期の万能感、至福感をはっきりと覚えていたということがあります。何も条件なくただ幸福だったと言う時間を克明に覚えています。だから一般的幸福に興味が持てない、、車、家、立場、家族、地位、名誉、、、では絶対にここに辿り着けない、、、それは最初から分かっている、、、ただそれがどこにあるのかが分からない、、、

ブッダの言葉が刺さる

この世は無常、、、解脱だけが至福に至る道である、、、、いや絶対そうだよね、、、!!!この言葉を待っていた、、、釈迦最高、仏陀最高、、です。自分の中で何かが発火したのが分かりました。この発火は今まで味わったことがない発火、、だがこの個人という感覚が無くなるとは到底思えない、、、だからそこからはスピにハマり個人としての霊的向上にガッツリはまったのです。

霊的向上に努めるが、、、

霊的向上に努めるが、、、どこか焦燥感が抜けません、、、向上した霊魂が取るべき行動は何か???と今度はそこに縛られてしまうのです。解脱はいつか訪れるもの、、解脱に対する関心も落ちていきました、、、ですがノンデュアリティメッセージの五年前ぐらいから触れることで解脱が決して遠い未来に話ではないことが分かります。釈迦、ブッダの言葉が身近な存在から届けられるようになったのです。

good dreamかbad dream の違い

人間の思考が見せる世界

我々は思考が見せる世界に住んでいます。世界を見渡せば物や人物、風景で溢れていますが全てに名前がつけらえていて実は我々はその名前が付いたものだけを見ています。名前がついていない物はこの世に存在していないと同じ我々はそれを感知できません。これが分離の世界の定石です。この世界の始まりは自我というものが目覚めていき先ずは自身の分離がスタートです、これによってその自分が見る世界が広がりました。だからこそ我々が望む生活とはその世界がグッドなモノ、そして避けたいのはバッドな世界です。ですがそれらは全部分離の世界という枠から逃れられないという特徴があります。

ブッダは言った「この世には苦しかない」

分離方法を変えていけば確かにこの世はグッドな世界になるかもしれません、ですがそれも分離の世界であるということに違いはなく、、結果自身からネガティブな感情が湧き出し続けます。こに分離の世界に住んでいる状態でネガティブな感情が湧かないということは絶対になく常にその処理に追われ続けます。ではこの分離の世界の枠から抜け出すにはどうしたらいいか?先ずは自身の分離の罠から抜けることです、自身が実は思考によって分離した存在であるというこの罠から抜けるのです。思考によって独立した自分が居るという洗脳にかかっておりこれを見抜くことです。

人間とは考える葦である

誰が言った言葉かはわかりませんがこれが人間の共通認識です。人間、私とは考える葦である。この体の中に考える私が居る。。これで自身の分離はスタートしたのです、ですがこれはアイデア、発想の域を抜けることができません。実際には考えることによってこの私は確実に居ると信じ切っているのです。でも時々この嘘に人間は気付いています、大震災や、大事故、大怪我、大ハプニング、、、自分のことなど完全に忘れ去って事にあたっている時に恐ろしいほどの安堵が襲ってくることを。絶対絶命のピンチになぜか心が穏やかになることを、、、このことを人は実は知っています。これらの経験が積み重なり人はこの大嘘に気づくようになります。

ネガティブな感情が湧いてきたら、、、自分ごとににしないで観察してみる

先ほどのようなハプニングは人生で何度もないために人はすぐに自分というモノに引き戻され普段の生活に戻ります。普段の生活はまたネガティブな感情が湧き続ける生活です。仕事も辛いのが当たり前、家事も辛いのが当たり前、人間付き合いも面倒で当たり前、金銭事情を世知辛くて当たり前、、、これが人間のデフォルトです。ですがこの感情を使って悟りを開く方法があります。このネガティブな感情が湧いてきたらそれを自分ごとにしないでそれを他人事のようにじっと観察します。湧いてきた瞬間からその感情を誰のもにもしないでただ観察するのです。この感情を観察する事に没頭してみてください、、、するとその感情が消えていきます、むしろそれを通じて平和が湧いてきます。意味がわかりません、、、、辛いを観察していたらそのまま平和に切り替わる???意味不明、、、これが人間を騙し続ける自我のカラクリです。

自我は全感情を自分ごとにして自我を存続させているだけ

自我の策略を解説します。自我は湧いてくる感情を全部自分ごとにします、そして多くのそれらのネガティブな感情を思考を使って解決します。この人間としての当たり前の行動、これが自我の策略です。当たり前に湧いてくるネガティブな感情、これをまず自分ごとにしなくてはこの自我システムは維持できません、そのため湧いてきた感情を全て解消します、、そしてしれを思考(自我)が解決するのです。思考とは自我のことです、自我を作っている大親分が思考です。思考がネガティブな感情処理に活躍すればするほどに自我は大きく肥え太っていきます、結果ネガティブな感情もより肥大化していくという流れです。ネガティブな感情が発生するには仕掛けが必要でありそこには大きく自我が関わります、というよりも自我というシステムこそがこの感情発生装置なのです。このメカニズムを打ち砕く一番効果的な方法、それは湧いてくる感情に反応しないということです、、、信じられないかもしれませんがこの感情に思考でもって解決を図ると自我が肥大化するというとんでもないカラクリが働くのです。これで人間は自我システムから逃れられなくなります。悟りを開くなど夢のまた夢、、となるわけです。でも実はこんな簡単なカラクリを見破るだけで自我システムは発動しなくなるのです。この自我が解体した状態、思考がただの思考に戻った状態こそを悟りと呼びます。

思考は果たして人間を至福にできるのか?

思考には人間を至福にすることはできない

人間という存在は基本不快、快適、退屈、刺激的、悲しい、嬉しい、悔しい、爽快、、、、という二極の世界に生きています。これはコインと裏表のようにセットです。快適でなくなりと不快になり、刺激的でなくなると退屈に成ります。要はこの二つは行ったりきたりの関係なのです。どちらか一方だけを感じ続けることは絶対に不可能なのです。お酒を飲んでハイになればその後に確実にローが来るようにどちらかだけを味わい続けるのは不可能です。この状態を釈迦、ブッダは苦と表現しました。

人間から湧いてくる感情を思考で解消する限り、、、

人間から湧いてくる感情を思考で解決する限り、このコインの表裏から脱却することは絶対にできません。負の感情を一時的に解消しても必ずまたその負の感情は湧いてきます。このいたちごっこは延々に続くだけではなくさらにこの負の感情は威力を増していくというおまけまで付いてきます。なぜならば思考に解決を頼めば思考を所有している自我、自分はさらに大きくなっていくからです。反社会勢力に一度でも問題の解決を委ねればもうその問題はより大きくなって返ってくる仕組みによく似ています。これ思考による解決の大きな問題点です。

それでも思考は常に俺に解決を任せろと言ってくる

思考こそが自我を形成する張本人です、この張本人こそが負の感情を生み出す根源です。この根源が負の感情の解消に乗り出せば当たり前ですが負の感情はより激しく生み出されるようになっていきます。ですがそれでも人間の中に生まれた負の感情を思考は黙っていません、とにかく俺に任せろとシャシャリ出てきます。こうして人間は負の感情を生み出し続けるという生き地獄から抜け出せないのです。生き地獄とは借金を抱え、大きな問題を抱えた人だけのことではありません。これはほぼ全員の人間が抱える問題なのです。

思考乗っ取り時代は終わるのか?

私が思うにこのメカニズムを理解できている人間はまだ少しです。ですが人間はこれだけのテクノロジーを生み出してもまだ苦しみから脱却できていないことに対し違和感を覚え始めています。幸福になるための心理学にはもう興味が湧かなくなってきています。思考を変えれば成功する、ポジティブシンキング、、、これらに対し違和感を感じ始めています。思考こそがこの苦しみを生み出している、、、これに気づく時代がすぐそこに来ています。

空即是色とは

空は常に色として現る

ブッダが2500年前に発見したこと、それは空即是色です。この世に見える世界は空が現象化した幻想でこれは空が見る夢です。この夢は空が作り出しその夢を人間という生命現象を通じて夢物語を体験させていきます。この夢物語を歩むのは人間ですが人間が体験する内容を認識し、意識するのは当然空です。空がこの夢を体験する以外に体験者はいません。体験者という者は実際にはないのですが体験者という幻想を使ってただ体験だけがあります。全部は夢ですから空が自身を変幻自在に現象化してただ体験があります。

なぜこの体験は基本苦しいのか

釈迦が発見したこと、それはこの世は苦であるという。これが最初いまいちわかりませんでした。なぜわざわざ空は苦しみを人間に味合わせるのか?それが分かりませんでした。今はわかります。実は苦しんでいる人間はこの世にはいません。なぜならばこれは全て夢だからです。全て夢ならば感情を味わっているのは夢を見ている張本人しかあり得ないのです。ではなぜ人は苦しいとか悲しい、とかいう感情を持っているように感じるのでしょうか。それは実は感じていません。感じているのは全て感じる存在、気づきの存在です。それを人間が感じていると常に勘違いしているのです。夢の中で苦しんでいるのはいつでも夢を見ている張本人で登場人物ではないですよね。ですからこの苦しみも実は勘違いです。信じられませんが人間はこの感情を自分のモノとしているだけで今まで全感情を味わっていたのは夢を作り出した全存在です。

エックハルトがいう思考の観察は今までも普通に気づきの意識がやっていた

これは夢ですから夢の創造主はいつもこの夢を見ています。今まで一度たりともこの夢をよそ見したことはりません。そして今もやはりこの夢を見ているのは気づきの意識です。思考を観察せよ、これがエックハルトの言葉ですが気づきの意識は常にこれをやってきました。全ての感情を観察し、全ての思考を観察してきたのは気づきの意識です。感情を認識し、思考をしてきたのは人間ではありません。人間も気づきの意識ですから人間が認識してきたと仮定してもそれも気づきの意識が人間として認識しただけです。要は同じことです。夢を毎晩見ている時に誰がどういう形で感情を抱こうとその感情を認識しているのは夢を見ている張本人しかいないのです。

海であることを忘れた波は無価値観を感じながら生きていく

海であることを忘れた波は自分は小さいという無価値観を持つ

本当は広大な海であるにも関わらずその中のごくごく一部の波であるという錯覚、自覚、誤解を抱えた波は地震には価値がないと当然思うようになります。この広大な大海原で1%にも満たないこの小さな波に価値を見出すのは難しいものです。この無価値観をベースに今後この波を人生を歩んでいくことになるのです。これが波物語無価値観編です。

無価値観をベースに物語を作っていくからこれは辛い旅になる

自分自身は本当に小さく、弱く、影響力もなく無価値な存在であるという初期設定をした波はその後この観念をベースに大海原を動きていく旅を続けていくわけです。これは非常に辛い旅です。ですが実際は波ではなく海ですからこれほど悲惨な勘違い、大間違い、大誤解はないのです。そして自分にとって都合の悪い事件が起こる度にこの無価値観という観念を強化していくことになるのです。無価値な波が何を手に入れようと、何を達成しようとそもそもの設定が無価値ですから不毛感が無くなることは絶対にないのです。

ふと自身が海であることを思い出してしまう波が現れる

キリスト、ブッタ、トニーパーソンズ、ラマナ・マハルシ・大和田菜穂さん・雲こくさいさん、、などといった覚者と呼ばれる人がたまに現れるのは当然です。無価値だと思い込んでいた波が突然自身は海であることを思い出すという事故が起きるのは当然だからです。なぜならば波として生きながらもそこにはしっかりと常に大海原が広がり1秒たりとも自身からこの大海原が離れたことはないからです。無価値である波と思い込む観念以外そこには最初から何もなくただ海が最初から広がっていたのです。