ラットレース

救わなくていい

救っている暇はない

マリオはゲーム中常に苦しいのです、マリオの中に自分が居るというこの感覚によって違和感不足感が消えないのです。常に憤りを感じゆえになんとかこれを解消しようと前に前に進んでいきます。より高いステージに上がれば人生は向上するはずだ、、この違和感が癒えるはずだと。ところがマリオが感じる感情の全ては根本の不足感を癒すことは絶対にありません。なぜか???この不足感違和感はマリオから生じていないからです。生じているのは本質からです。だからクッパを倒した、レベルが上がった、楽勝だった、、というマリオありきの感情がこれを癒すことはあり得ないのです。

マリオになっちゃった苦しみ

マリオになっちゃった苦しみこそがこの苦しみの本質にも関わらずマリオがこれを解消しようとする動きは本末転倒、意味不明、無理ゲーです。ということでマリオの中には自分が居ないという気づきは起きるその時までこのラットレースは続くのです。だからだから、、途中でノコノコも救わなきゃ、クッパも救わなきゃ、クリボーも、、、は邪念です。

マリオじゃないが分かれば

自分はマリオじゃない、、、これが分かれば、、、、全ての苦しみから解消されます。その時にクッパもノコノコもクリボーも、、、救わなくてはいけない可哀想な人々だということがないこともわかるんです。世界に救ってあげなきゃいけない人々は実は居ないことが明白になります。明晰な意識がそれを露わにします。

夢の中で解決しようとする動き

私が居るという感覚が苦しみを生み出すが

私たちはこの体の中に私が居るという感覚を何年もかけて生み出していくわけですが同時にそれは苦しみ、憤りを生み出します。そしてその苦しみ、憤りを「私が」所有することでこの「私」が解決しようという動きが起こります。つまり私というイメージ、感覚を覚えたことで苦しみが生み出されたにも関わらずそれをイメージの中感覚の中でさらにこれを解決しようとする動きが起こるのです。すると解決しようとするのはイメージ、感覚である「私」ですからまた苦しみ、憤りが起こるのです。

ラットレース

この「私」というイメージが、、苦しみを解消しよとすることでこの苦しみ解消劇場はラットレース化します。これを釈迦は「人生は苦」と表現しました。つまり人生とはラットレースですよ、、ということです。周囲を見渡せば当然ながらこの体の中に「私」が居るという大前提で動いています、つまりこのイメージの世界の住人なのです、全員が。そうなるともう解決方法は無いよね!!と諦めも起きるかもしれません。

ところが

ところが実際には、、「周囲もラットレースをやっている」というのがまさに思い込みなのです。周囲の人間もラットレースをしているように見える感じるだけなのです。これは最大のトリックです。周囲もラットレースで苦しんでいるのだから私も、、、がまさにイメージ化なのです。本当は全部イメージ、幻想なのでそれはないのです。今私が私という存在をイメージ、感じることでこの苦しみを所有しているだけなのです。

「この体この思考」が自分という思考

この思考が孤独感を生み出す

私たちはなぜお酒、お菓子、タバコなどの嗜好品を欲するのか????それは「この体この思考こそが自分」という思考が生み出す孤独感を癒すためです。本当は「この体この思考は自分」という思考は真実ではありません。真実はこの体、この思考、そして全ての現象を生み出すスペース、スクリーンこそが自分です。この体、この思考に限ったことではなく、、今目に映る現象の全てを生み出す存在こそが自分なのです。この勘違いにより発する感情が孤独感です。

「この体この思考が自分」という分離思考が分離感(孤独感)を作る

このメカニズムで人は孤独に陥り病んでいきます、、これを紛らわすために、お酒、タバコ、ギャンブル、暴飲暴食、買い物中毒、、と何かに中毒になり解消しようと心がけるのです。ところがこれは当たり前ですが根本解決にはなりようがなく、、、体もしくは経済が壊れるまで続くのです。この体もこの思考も自分ではあるのですが、、実は見える全てを生み出すスペースこそが自分自身なのです。これを認識しながら孤独感を感じることはできません。

思考が感情を作る

ネガティブな感情を作り出すのはネガティブな思考です、ネガティブとは分離のことです、、ポジティブとは統合のことです。ネガティブな思考はネガティブな感情(孤独感、虚無感)を作るのです。つまり我々は感じる感情から思考を確認し、、、その思考が真実とは異なることを認識できるのです。真実は至福でしかなく、至福の中に真実とは異なる思考が生まれる(この体、この思考が自分)ことで体と反応し孤独感が発生します。

ネガティブな感情を見逃さない

本当はここは至福しかありません、本質は至福だからです。ここに思考(この体、この思考が自分)が湧き出しました、、これによって同時に孤独感が湧き出します。この孤独感を解消するために「この体この思考が自分」は思考するか行動を起こします。ですが「この体、この思考が自分」という思考を保持し続ける限り孤独感が消えることは絶対にないので動いても思考してもラットレースのように解決しないのです。この全く解決不能な状態を釈迦は「苦」と表現しました。

自我は選ばれたい

存在しないからこそ

自我は選ばれたいのです、、MVP、最優秀賞、チャンピョン、ナンバーワン売り上げ、、、とにかく選ばれたいのです、、、なぜか????存在しないからです、、存在しないから選ばれることで、、存在しているという夢を見たいのです、、、ホッとするのです、、、私は実在していると、、、、ですが存在しないのですからまた次の日から、、、また選ばれることを望むのです。

選ばれても、、、

MVPにはなった、、、ですが全く満足できない、、、全く嬉しさが続かない、、、となり、、、次はまた何かに選ばれなくては、、、になります、、、、、実在しないのですから当然です、、、、これだけの人に選んでもらえたのだから私は実在している、、、、、と喜べない、、、、また虚しさが襲う、、、おかしい、、、つまりは我々はラットレースを延々と走るようになっています。

本当は居ないのでは???

本当は居ないのでは???この発想がある日突然湧いてきます、、、居ないかもしれない、、、、自我の解放、自我の終焉、、、、色々なメッセージが頭をよぎります。でも間違いのない、、この感覚、、、私が居るという感覚は完璧にある、、、、おかしい、、、、違うのです、、、「居る」「在る」という感覚だけが確実にあるのです、、、「私」は後天的に学習したアイデアです、、、「在る」という感覚が絶対的過ぎて、、、「私」という勘違いが、、、、強固になり過ぎたのです。だから我々はもう選ばれなくていいんです。

ああしよう、こうしよう

自我のおしゃべり

向こうはこうやって思ってるのでは、、本当はこれを伝えた方が良いかなー、、、でもそれを言ってしまったらこう誤解されるのでは、、、、自我はこうやって常に状況の中で最善の結果を出すかを探し出します、、、そこには次のアクションが成否を決めるのではという期待と不安が隠れています。。。これは苦しみのラットレースに中にいます、、、次の行動を決めるのは真我です、、自我ではありません、、、そしてこのえ私が居るというイメージの中にいるから苦しいのです、、この苦しみを少しでも解消したくて今状況に悩んでいるのです。

苦しいんでいる大誤解

何故おの状況で最善を尽くそうとするのか???それは今が苦しいからです、、ここをバッサリ切らないと意味がない、、全ての自我の行動、イメージの世界での改善は全く報われないのは、、、これがイメージの世界であるという気づきがないからです。。みんな真剣にこの世界をリアルだと信じ込んでいます。。。リアルの上に独立分離したイメージ「私」「私以外」を作り上げ、、、その中で私の幸福を追い求めています。この初期設定こそが苦しみを作り出すのです。。イメージの世界を作り出し、、その中で幸福を追い求めている、、、しかしイメージの世界に居ることこそが苦しみを作り出している、、という絶対的理解抜きにこれを解決する方法はありません。

イメージと見抜き俯瞰して生きる

言葉を暗記することで、、その言葉をイメージすることができ、、このイメージが、、この現象界に、、分離した風のモノを生み出します。言葉を覚えれば覚えるほどに、、、覚えた分だけのモノが溢れてきます、、視界を見渡せば、、、知っているモノばかりになっていきます、、、このモノはイメージが最初にありますからこれに対するイメージがどんなものかによってこの世界は全く意味を持ち始めるのです。。これが我々が全く異なる世界に居ると言われる所以です。

所詮はイメージ

どんな世界に生きていようと、、あくまでそれはイメージですから、、、そこを見抜きます、、、、高級時計は、、多くの方が価値があるというイメージから生み出された商品です。。。あくまでイメージなのです、、エルメスのバッグが何百万という価値がつくのは価値があるというイメージを多く方が共有したからです。あくまでこれはイメージですから、、、イメージを購入しているのです、、、この私というイメージは、、高級時計をはめるにふさわしいと、、、ここを見抜きます。。。周囲はみんなイメージの世界に閉じ込められ、、見かけ上の私もかつてはイメージの世界に振り回されていたと。。

本当はただ現象があるだけ

本当は私もイメージ、全部イメージです、、、そんなイメージの中で幸福を追い求めても無駄、、これを手に入れたら、、あれを手に入れたら、、全部イメージです、、幸福になるわけがない、、その理由は全部イメージだからです。そして周囲からリア充な「私」とイメージを持ってもらってもそのイメージが幸福を作るわけがないのです。イメージの世界に居るのが苦しいのですか。

思考に取り込まれても、、

思考に取り込まれても反省しない

思考に取り込まれないようにしよう、、、ですが実際には気づけば、、取り込まれます、、、本当に思考というのは現代人にとって最強で、、、簡単に思考に取り込まれます、意識が。ですからそのことに一々反省しないことが重要です、、思考にこれまで24時間取り込まれてきたのだから、、、多少取り込まれるぐらい大したことではないのです。取り込まれ続けるのが当たり前、、、そこから抜け出せたら大成功です。

その日から、、何かが変わる

思考に取り込まれないことを始めると、、、その日から何かが変わります、、静寂が突然漂っているのに気づきます、、しかもなぜか疲れにくい、、、????一体何が起きているんだ???そうです思考に取り込まれていない状態は霧が晴れるような感覚、、今まで霧が掛かっていたことに気づくのです、、、なんだ??こんなことだったんだ、、という気づきが起きます。

もう何も達成しなくていいじゃん

思考に取り込まれない、、、たったそれだけで、、、こんなに気分が晴れるとは、、、今まで何を一体全体頑張っていたんだ????いつも追われているような感覚、いつも焦っている感覚、、常に前に前に何かを達成しなくてはならない感覚、、、それが急に無くなる、、、なぜならば達成する前に静寂、平和だから、、、これまでは今は静寂、平和じゃないから、、先に何かを求めていたのです、、今が至福じゃないから、、、先にあるはずの何かを探し求めていただけ、、、このラットレースが終わります。

幻想の自分を逆に大切にする

幻想としての自分をしっかりと大切にしていく?

一番辛い状態、それは幻想の自分を完全な実在として思い込み、、自分を強く強く守ろうとすることです。強く強く幻想の世界に入り込んでいます。大人は現実を見ろと子供に言いますが大人こそ現実ではなく幻想をしっかりと見ています。子供はこの大人は何を言っているのか最初意味が分からないのです。この大人はなぜいつもイライラし焦っているのか???幻想の中にどっぷり浸かってしまった大人は何をしても分離感、孤独感、不足感が湧き続け苦しんでいるのです。先ずは自分という感覚を無自覚から自覚的になることからスタートするのも一つです。

自分という感覚を持っていることに自覚的になる

自分という感覚をしっかりと持っている、本当はただの肉の塊である生命現象の一部を「自分」という言葉を付けてそれが実在するように振る舞っている、本当は根源の現れの一部にも関わらずそこに名前を付けて実在しているように感じている、、朝起きて直ぐにこの体を自分だと再認識しストーリーを始めている。こうしてこの自分ストーリーに自覚的になっていきます。

全ての経験を「自分」が所有している

朝のコーヒーの味、仕事での成功、友人との楽しい食事、、、これらを「自分」が獲得したと信じているのです。自分というこの確かな感覚が全経験を所有しています。ですがこれはあくまで幻想なのです。ですからどこまでいっても分離感に襲われ続けるのです、この分離感が辛いからさらなる経験をしてこの分離感を埋めようとするわけですからそれを所有するのは結局「自分」という感覚ということになりこのラットレースは続くということです。こんな「自分」を愛するのです、こんな一生懸命な自分を愛してあげてください、ラットレースを走り続ける自分という感覚を微笑んでください。この自分という感覚が無ければこの幻想ゲームは成立しないのですから。

自我の欠落こそ真のアイデンティティー

真のアイデンティティーは自我の欠落である

自我は本当の自分は誰か?本当の自分とはより崇高な自分ではないか、、と自身の向上に努めます。魅力ある自分、崇高な自分、霊的向上を果たした自分、バイブレーションが高い自分、、、、とこのように自分というものを大前提としてどこかに真の自分になれる機会を常に探していきます。ですが実際には皮肉にもこの自分の欠落こそが真のアイデンティティー、真の自分です。これは分離世界の消滅であり、全体の現れでもあります。

分離世界とは全く違う場所に真のアイデンティティーがあるわけではない

神はどこか遠くにいるのではなく、ノンデュアリティーもどこか遠くに在るのでもない、非二元も。そうです、自我が神、非二元、ノンデュアリティーを隠しているだけであって今ここにそれは存在しています。人間の脳が自分を作り、世界中に分離したあらゆる物、人を創造しました。これは全部人間の思考が作り出した幻想です。この魔法が溶けれ今ここに神、全存在、非二元が現れます。

自我はこれまで自助努力を尽くしてきた

自我はこれまで最大の努力をして人生をなんとか幸福に近づける努力をしてきました。ですがこのラットレースは尽きることがない地獄です、いかに早くこれは地獄だと悟ことが重要になります。そしてこの自我ベースの人生には限界がありこれを死ぬまで続けても至福には至れないことをいかに早く気づくかです。そして今再び自分に問うのです、自分とは何か?この探求が始まるといつかどこかでこの世の真理にぶち当たります。この自分こそが幻想であり、自分が見る世界もやはり脳が作り出した幻想である、、それを見抜くとそこに真実が広がります。

自我は「悟り」以外に興味を持たせ続ける

いつか〇〇になったら私は幸せになる、、、自我の常套文句

自我はいつでもこう言います。いつか〇〇になれたら幸せになれるよ、、いつか〇〇が達成したら楽しくなるよ、いつか〇〇を買うことができたら最高だよ、、こんな調子で延々とこの私に耳元で呟きます。私が今不幸なのは〇〇のせいなんだ、私が今満たされて居ないのは〇〇が達成できてないからだ、、、全部が全部この調子、いやこれ以外の手口を自我はできません。こうして我々は生まれてこの方ずっっとこのやり方で生きています。ラットレースのように。途中で「あれ、もしかして今回の問題が片付いても、、結局同じなのでは?」この疑問が湧くまでは延々とこの手口です。

いつか悟ったら「私」は幸せになる

悟りに興味を持ち始めた私は悟りの勉強をするようになります、悟りこそが自分を幸福にしてくれる、、、悟りだけは私を裏切るはずがない、、、そんな理由で悟り系の本を読むとビックリします。そこには「あなたは実は居ない」こう書かれているのです。これで99%の人は撃沈します、自分が居ない???なんのこっちゃです。悟りは意味不明、、、これは辞めとこう、、、、こうなるのです。自我は悟り以外には何にでも救いを求めますが「悟り」だけは意味不明、、これは頭に入りません。

そうではない「私の否定」こそが最後の真実

ですが本当に眼を開いて、、真実を眺めて見てください。。。成功者と呼ばれている人の自殺、幸福だと思っていた家族の遺産相続、、DV、夫婦喧嘩、、、世の中のトラブル、惨事は常に普通だった人々に起こっています。まともと思えるような人々が次の日は犯罪に巻き込まれ、巻き込んでいる、、、人間が生きていくことで本当に幸福になる方法などどこにも存在しないのです。。そこまで理解が進んだ時にもう一度悟り系にメッセージを読んでみます、、見事に真実をついています。幸せになろうとしていた「私」こそが幸せの邪魔をしていたということです。この「私」という絶対的大前提こそが勘違いだったというこのショッキング過ぎる事実がこの私を消滅し平和、至福、歓喜が押し寄せてきます。

自我生存戦略

思考を使わなくてはならないことを用意する

自我とは思考です、今思考をいつしか自分であると勘違いするのがこの人間です。体も勿論ですがこの思考こそが最も自分を自分たらしむモノではないでしょうか。思考が湧けば自分の存在を強く強く感じることができるはずです。このために自我は思考が湧くことを積極的にします、周囲に問題を作る、自分に問題を作る、、、こんな調子で自分には解決しなくてはならない問題が山積みであるという流れです。思考を常に使い倒し解決を図っていきます。思考を使えば使うほどに自分を意識できるはずなのです。

思考を使わない状態を知ってしまった時の自我の反逆が一番怖い

私自身思考を使わないで物事を達成できるようになったのは中学生の頃です。高校受験の塾に通うことでそこでの勉強が無我に入り込めないとこなせない程のハードルの高さだったので獲得しました。無心、無我に意識的に入り込めるようになりその状況で受験勉強に取り組むという感覚を獲得したのです。そこから全部が全部そのやり方で物事を習得していきました。すると自我はそれをできる自分を特別視するようになりある種傲慢になっていきました、他人と同じ評価などツマラナイ、、終始こんな感じです。自分は特別な存在なのだという強い優越感を持つようになりました、これは人間関係を結ぶ上で非常に大変になっていきます。社会人になってもこれは続き、何か私にとって特別な仕事があるはずだ、なぜならば自分は特別なのだ、、、という思考はフルスロットルで湧いてきます。会社を辞めて起業独立した自分はそこで自分は特別であるという深い満足感を得ました、ですが日常はいつも同じことの繰り返し、やはりこれでは自我は死んでしまいます。そのため自我は次々に目標を自身で打ち出しそれをこなしていくように自身を仕向けるのです。私は途中からこの目標設定には終わりがないことを悟りました。どれほど難しい問題をクリアしても翌週にはもっと難しい問題、目標をクリアしようとする自分が居るのです。目標中毒のようなモノです。

それでも思考を使わないで目標を達成し続けた結果

それでも次々に目標を無我の状態に入って達成していった結果、私は次第にこの目標地獄を終わらせたいと思うようになりました。自我存続のために目標を追い続けるのはごめんだ、そんな感情が湧いてくるようになったのです。そこで私は次の目標は悟りを開くことに決めたのです。自己実現ではない、自己超越だということです。ここを本気で取り組まない限り延々と目標達成をし続ける人生になってしまうという絶望です。自我は自我存続のために次々に自身の目標を設定してきます。ですがこのラットレースは終わりがないため疲れるのです。こうして私は今悟りにまつわる様々な文章を描き続けています。このチャレンジは自身にとっての自己超越チャレンジになります。