腕と指

自己実現とは自我の緩みの証拠

自分が好きなことで食べる

自分が好きなことで食べよう!YOUTUBEが世の中を席巻した時のキャッチフレーズです。この自分が好きなことで食べるというスローガンに多くの方は  ????になります。なぜならば自分が好きな事など考えてきていないからです。そのような感情は自我ベースで生きていると感知していないのです。だから好きな仕事と言われても意味不明なのです、そんな事感じたことがない。。。。自我ベースで生きてきて、、自我の目的をしっかりと遂行していきますとマズローの欲求五段階ではないですが欲求のレベルが上がっていきます。すると最終的に自我に対する俯瞰した視点が養われ次第に自分の好きを感じることができるようになります。それが自己実現のスタートです。

自我は生き残ることに必死

戦後の日本で好きなことで食べようなど意味不明な発想でした、、、生き残るには何をするか???これだけです。ですが時代が進み生き残るを着実にクリアーし、社会的評価を得た、、、すると次に何かを達成しようと試みる中で自分の好きなこと、、、という感覚を感じることができるようになります。この感覚は全体から湧いてくるわけですがこれを強烈に感じることができるようになります。そしてこれを達成することに思考を使えるようになっていくのです。

自己実現すら達成

自分の中から湧いてくる衝動を感じることができ、さらにそのために思考をフル回転できるようになるとその衝動すらも形に変えて生きていけるようになります。これが自己実現です。この境地を達成すると、、、自分とは何か???という疑問が湧いてきます、、これが自己超越、悟りへの入り口、誘いです。この段階では自我の最後の抵抗が起こります、湧いてくる衝動を叶えようとすると自分という存在に構っていられない、ですが自我は自己主張を繰り返します。こんなことをやったら恥ずかしい、こんなことをやったら周りに示しがつかない、、自我との最終決戦です。

自我の全力の抵抗

自我は全体に戻ることを全力で阻止する

悟りに関する情報、メッセージが巷ではほぼ出回らないのはこのメッセージが自我から圧倒的に嫌われるからです。自我は全体への帰還を全力で阻止しします。もしも全体への帰還に成功すれば自我は消滅します、これは実は自我の死を意味します。ですから自我はどんな手を使ってもこの帰還を阻止するのです。私も悟り系のメッセージを学び始めて15年以上になりますが本格的な悟り本は全く読む気になれませんでした。自我の全力の攻防にあったのです。

自我は分離の世界に気晴らしを作り自我維持に努める

人間として生きていくことはこんなに楽しいよ、こんな楽しみが人生にはあるんだよ、、、、と自我は自我存続のための努力を惜しみません。気晴らしという名の娯楽がこの世には山のようにあり、それが自我存続を可能にします。ですがその気晴らしは何かといえば無我を垣間見るような仕組みになっているのです、皮肉にも。ギャンブル中は思考が吹き飛び無我になります、歓喜がそこにあります。異性に夢中になるのはその期間思考が停止するからです。買い物に夢中になるとはその期間思考が抜け落ちるからです。

自我の動きが愛おしくなるまで理解する

自我とは分離を引き起こす思考です、この思考を愛おしくなるまで自我を俯瞰していきますと、、、自我に苦しまされてもそれが面白くなっていきます。お笑い芸人などは自我観察のプロフェッショナルです。どの分野でも一流と呼ばれるようなプロは実はこの自我観察を無意識に行っています。自我を観察し無我にウェイトを置いた生き方をしっかりと行っているのです。自我を観察するのは自我ではなく無我です。

指を指たらしめているのは「思考」

思考がなくなれば腕全体と指の境目は消える

我々はこんな簡単なトリックに騙されてきたのか????これが覚者が悟った後に気づく感想です。こんな簡単なことなのになぜ気づかなかったのか???悔しい、、、、要はこういうことです。腕全体の中の指が独自に思考を操るようになり、、その思考によってこの指は腕全体とは何も関係がないという思考を持ちました。これは思考です、、、そしてその思考を通じてこの世界(腕全体)を眺めるとまさかの本当に指が腕全体から切り離されているように見えるのです。なぜならば我々が見ているこの世界は脳内で見ているからです。思考を信じ抜いた際には脳内ではそのように真実が変換されるのです。これが究極のトリック、人類が騙され続けてきたトリックです。そしてその騙した存在こそが思考と脳のセットです。この二つの存在によって我々は何万年間という歳月騙され続けたのです。

腕全体と指には境目はない!!

人間であればそんなことは全員が知っています、指と腕全体には境目はなく、、、人間が勝手に指という名称を使い出し指はこの世に誕生しました。ですが実際には腕と指には確固とした境目はなくこれはあくまで概念です。ですがそのように概念が作られ、さらに指から見える世界では指が完全独立して見えるならばそれはもう概念ではなく事実に置き換わるのです。脳というのは凄まじい機能を持っていて名前をつけた対象は脳の中で完全独立して見えるという事実があります。この事実こそが人間を全体から完全分離した存在であると錯覚を起こすことに成功しました。

脳のトリックを見破れ!!

人間は実はこの全体から全く分離独立していません、にも関わらず脳にかかってしまえば完全分離した存在に見せてくれます。脳のトリック、脳の幻想上映です。だからこそ人間はどこまで行っても腹が空く、満足ができず、違和感が拭えず、居心地の悪さが解消されないのです。これが人間という存在のカルマ、宿命、苦しみです。ですがこの事実に気付けたならばもう大丈夫、徐々に徐々に自身が全体であったことを思い出せばいいのです。

独立国家「指」は腕全体の中を彷徨う

指は腕全体の中にあって理由もわからず彷徨う

腕全体から完全独立(錯覚)した指はなぜか焦燥感、孤独感に襲われ動き回るようになります。それが時空間です。時空間とは腕全体なのですが腕全体には指は見えません、、、なぜか独立した指はそこに両眼がありその「両眼」を通じてこの世界(腕全体)を見ることになるのですが本質とは全く異なった世界に写っています、なぜならば指には価値観というものが発達しているのでその価値観を通じた世界しかもう見えないのです。だからこそ目の前にホーム、全体、腕全体があるにも関わらず全くの幻想の世界を歩き回ることになるのです。これが独立国家「指」の地獄のストーリーです。

「指」は朝起きるとなぜかやることが沢山

指は朝起きるとやるべきことが沢山あります、会社に行く、学校にいく、買い物にいく、地域の集会に行く、会合に行く、、、、、ととにかく忙しいのが指の特徴です。ですが冷静に考えるとやるべく事など一切なく、、、腕全体の中で指が動き回るのはおかしな事です。老後の心配、年金問題、就職問題、結婚問題となぜか独立した指には解決すべき問題が恐ろしい勢いで襲ってきます。そもそも独立などしなければこれらの問題は皆無にも関わらずなぜこんな問題を抱えてまで独立したのか?という話です。しかも独立は錯覚です。

腕全体が、、、指体験をしてみたかった

腕全体は腕全体では腕の偉大さ、大きさ、力強さを感じることができません。腕以外の存在があればそれも比較検討できるのですが腕は全体ゆえにそれができません。そこで腕全体は指を形式上完全独立させて指体験を積ませたのです。完全独立と言っても指は構造上指自体では何も動くことはできず、、、決定権も一切ない、、、そこで独立したと錯覚させてその感情を味わい尽くすことにしたのです。人間が最終的に全員が至福に戻るのは、、、人間には何一つ自由意志はなく至福に帰る以外の選択肢がないということです。指が最後には腕全体であったことに気づくように、人間も全体であったということに気づくことになります。

腕全体の感覚、独立国家「指」の感覚の逆転

腕全体として生まれてくる

我々は腕全体として生まれてきます、形状は指ですが、、、腕全体の中の指がこの現象界に飛び出た感覚です。ですから感覚は腕全体なのです、見える姿は指ですが感覚は腕全体なのです。ところがこの世界の中に両親と呼ばれる存在が現れ、、、指に向かって名前を何万回も呼び続けてきます。これによって腕全体として生まれてきたにも関わらず指だけにフォーカスが意識されていくのです。指に個人意識が生まれ始め、、まさかの指として生きていくというストーリーが始まっていきます。指としてまさかの腕全体の中を動き回るという摩訶不思議な現象が始まります。距離があり時間がある世界が突如として生まれたのです。

指には両眼があり、その両目から全体(腕全体)を眺める

指には両眼が発達し、その両目からこ腕全体を眺めるようになります。すると不思議にもこの腕全体がまさかの大海原、ジャングル、荒野に見えてきます。両親からあらゆる情報を植え付けらえていくと同時に腕全体が全く違う別世界に変化するのです。これが人間と世界の関係です。どの両親のもとに生まれるかで生きる世界が全く違うのです。なぜならば見える世界は脳内で写っておりこれと知識は密接に関係しているのです。そして腕全体は全くなくなっています、表面上は。

各指は各指の見える世界を生きている

人間の指は両手で10本ありますがこの指が世界中で70億個あります。この指は一人一人全く異なる知識、経験を所有していますから全く異なる脳内映像を見ています。つまり全員が全く異なった世界を生きているのです。この状態で他人と価値観を共有しようという発想が完全に無理ゲーなのです。見ている世界が完全に異なっているのに生き方を共有するなどなぜできるでしょうか。

腕全体として生きる、指として生きる、、綱引きが続く

腕全体として生きる、再び指という錯覚で生きる、、これを延々と繰り返していきます、生涯。多くの方は指としてしか生きたことがないと勘違いしています、実は多くの時間を腕全体として行動しています、ただしその後にこれは「指がやった」という思考が湧きそこに取り込まれます。多くの時間を指として生きるのは疲れます、なぜならば指という独立国家は存在しないからです。腕全体として多くの時間を生きる方は疲れません、なぜならば本性が腕全体だからです。この綱引きを意識的に眺めれるようになりますと、、、指の時間は激減します。

腕全体であったという気づき後もひたすらに思考は湧く

指ではなくなっても思考は続く

腕から完全独立したと錯覚した指も途中でこれは錯覚で本当は腕全体でしかなかったという気づきが起こります。これによって指の完全独立錯覚は消え失せるわけですが、、、それでも思考は湧いてきます。この思考の湧き出しをまた腕全体が掴みとってしまうとまた腕全体の中に指という独立国家が誕生します。ですから気づき後の後も思考の湧き出しには注意が必要です。私自身無我の状態を意識的に作れるようになった後もその成果を我がモノにしようとする思考の取り込みに何度も負けてきました。

無我に入るとは腕全体になっているということ

悟りという決まった形式というのは当たり前ですがあるわけではなく、、意識的に無我に入れることが悟りと私はしています。思考に乗っ取られ、思考に振り回されている状態が悟りが閉じている状態、、、思考の湧き出しに意識的になりいつでも無我の状態をキープできることが悟りを開いた状態です。友人と話をする際には当たり前ですが相手はこの私に話しかけてきますから、、、私という独立国家を演じなくてはなりません。ですが会話が終わればまた独立国家「私」から無我に戻ります。指から腕全体に戻るのです。そんなことは可能なのか???という話ですが「私」というのが思考でありそれを維持する方が大変なのです。

無我は虚しい???

自我ベースで生きている人は、、無我なんて虚しいのでは???と思うはずです。ですがこれはおかしな感覚で指という独立国家として生きるのと、、腕全体として生きるのとどちらが虚しいか??という話です。本当は独立していないにも関わらず指という独立国家があると信じ込んで生きていく方が虚しいのです。腕全体よりも指の方が、、、快適で安心で楽しい、、、というのは幻想です。

自我から解放された腕全体は大活躍するが、、、

自分との同一化から外れた後の罠

完全分離した指であるという錯覚から抜け出した腕は、、腕全体の一部である指を完全に取り戻し、、指を自由自在に操れるようになります。指から重さが抜けることで腕は今まで以上に指を世の中で活躍できる機能にします。周囲からの評価もいい、、、ところがです、、、ここで眠っていた自我に火がつきます。今回の指の活躍こそは自分の手柄だという主張です、思考は再び指に成り切るとこで徹底的に今回の活躍を自分のモノにしていくのです。これが怪しいカルト集団のリーダーのカラクリです。

なぜこのようなことが起きるか???

このような悲惨な結果が起きてしまう理由はなんでしょうか???単にコンフォートゾーンが完全に腕にシフトしていないからです。指であることにコンフォートゾーンがまだまだ在るということです。本当完全独立分離した指などは存在しないので、一旦自身は腕全体なのだという気づきが起これば再び指に戻ることは考えにくいのですがあまりに長い時間を完全分離した指として生きていたので何かのきっかで指に意識が戻ってしまうということです。

コンフォートゾーンを完璧にシフトする

思考とは腕全体にシフトしたコンフォートゾーンを指に戻すための道具です、ですから思考の湧き出しに対し不注意になると指に戻ります。湧き出してくる思考に注力してしまうと、かじりつくと、、完全独立した指で在るという大いなる思い込み、錯覚が起こってしまうのです。要は簡単なことです、思考というものを真に受けないということ、ただこれだけです。思考の策略に対し意識的で在るということです。

指の完全独立が解けるとなぜ逆に活躍できるのか??

完全独立した指は怖がり

腕の中で指が独自の進化を繰り返し指が完全独立したとしましょう、ですが実際には指は完璧に腕の一部です。そして指の自由意思で指が動くことも絶対にない、、それは機能的にみて間違いありません。指自体は脳からの指令で動くのであって指自体が主体的に動きを決めるメカニズムがないのです。指ができることは指に起こる動きを自分が決めたと「勘違い」することだけです。これが人間の姿です、理解できたでしょうか???ということで完全独立したと錯覚する指は大いなる矛盾を抱えているため実は恐れに満ちています。

人間には独自に思考し独自に動く機能はない

腕の中の指が独自の動きをすることが不可能なように人間も独自の動きや思考ができるようにはなっていません。これは機能の問題です。人間ができるのは動き、思考が湧いた時に、、、それを自分が湧かせたと勘違いするこのことだけです。本当に可愛らしい存在なのです、人間とは。そのことを知らない人間はプレッシャーを抱えながら生きています、全責任は自身にあると勝手に自身にプレッシャーをかけて生きているのです。ですが本当は機能上行動も思考も自分では決めることができないのです。

成功しても失敗しても天まかせ

自分が意思決定できる機能が無いにも関わらず自己責任で生きていると思う可愛らしい存在、それが人間です。ですから成功しても失敗しても実は全体からの衝動でそれが起きています。そして究極的には失敗、成功などこの宇宙にはありません。それも思考です。スケールが大きな話になってしまいましたがこれが事実です。そしてこの事実に気付いてきますと自然と無駄な思考が湧かなくなっていくので行動がシンプルになっていきます。

思考に気づくとは自身が指ではなく腕であることに気づくこと

指とは思考である

なぜ指が独自の感覚を持ち、腕とは全く関係がない存在だと勘違いできるかといえばそれは思考がそうさせているからです。指は独立しているという絶対的な思考があり、その上で指はこの全体(腕)を眺めることで腕が分離した世界に変化します。これが指の独立宣言です。これを可能にしている存在こそが思考です。ですから思考が湧いた時にこれに気づくことは指ではなく腕として存在していることを意味します。指は思考に完全同化しています。指は思考に気づきません。

一日中思考を放置してみる

一日中思考を放置するということは、、、指を放置するということです。腕に完全に成り切って指の存在を忘れてしまうということです。指からしたらたまったもんではありません、せっかく指として独立宣言したにも関わらず存在が薄れていくからです。これを指は嫌います、ますます思考が湧き出して指を主張するでしょう。ですがこれも放置します。すると徐々に指は存在性が薄れていきます。主導権が腕に戻ります。

思考との完全同一化は指の完全独立

思考が湧いてもそれに気づかず一日中思考に振り回されている状態は、、指に成り切っている状態です。指とは思考ですから、腕の中に指という完全独立した存在することを許すことになります。これは悪いことではありません、ですが非常に心苦しい体験であることは間違いありません、孤独感、喪失感、居心地の悪さ、焦燥感が湧いてきます。なぜならば本当は腕から完全分離した独立した指など存在しないからです。

各指は全行動、全思考を自分がやったと認識するメカニズム

各指が完全分離したわけではない

腕全体を神、全体、大いなる一つとした場合、指がこの人間、自分です。そもそもが指には何一つ決定権はなく腕の一部としての活動がありました。ですがある時に指に思考が湧き出し指を腕とは全く違う独自の存在とする認識が起きました。それが自我、自分です。自分は何かをする力があるのではなく、、起こった行動、思考を自分がやったと思い込むメカニズムです。そしてこの自分が見る世界は、、自分の価値観が反映され価値観に準じた世界に形成されます。

引き寄せの法則とは

個人、自我に何かを引き寄せる力は絶対にありません、なぜならば自分は幻想だからです。ただの思考です。思考に何か現象を引き起こす力はありません。思考もただの起こりだからです。ですが価値観はその人間が見る世界を価値観に準じたように見せることができます。本質を価値観に沿って切り刻むことができます、なぜならばその人間が見る世界だからです。価値観に準じた世界を作ることはできますからそれを引き寄せの法則と呼ぶこともできるかもしれません。

腕と完全分離した指はない

指はあくまで腕の中の一部であって完全分離した指などあろうはずがありません。指が完全分離してしまえば指の機能は消え失せます。人間もこれと同じで全体から完全分離した人間などあろうはずがなく、、それゆえ人間は完全分離しているという認識が強ければ強いほどに苦しむことになります。人間の姿形は指よりも分離しているように見える分その誤解は深刻を極めるのです。