蜃気楼

気づく私、気づかれる私

色と空は一つ

気づく私とは空です、気づかれる私とは色です。この世界で言えば、、、全現象が色です、、、そして全現象に気づくのが空です。色と空は一つです、、どちらも「私」色即是空、空即是色、、、全現象は全てこの仕組みで起こっています。これだけ。体の中の私が、、現象に気づく????そのようにはこの世界はできていないんです。

この体がしっかりと音を聞いてますよ!!

聞いていません、、、体という現象が他の現象に気づくというのは不可能なんです、、色とは現象のこと、、蜃気楼のようなものです、、蜃気楼が他の蜃気楼に気づくなどあり得ないのです。ということで体が気づいてきたのは嘘で、、本当は空が色に気づいているのです、、、しかしこの表現も実は嘘で、、、、本当は色として現象化すると、、、気づくが起きるのです、、、空と色の間で、、、これは化学反応のようなものです。空には気づくという動きすらありません、なぜならば空とはそのままで完全完璧、進化も退化もしない、不動の存在だからです。

気づくは色の中で起こる

空の中で何かが起きることは絶対に絶対にありません、、空とは絶対、完全、完璧、不動です。ですから気づきはあくまでもこの現象界の中(色)で起こるのです、つまり気づきが起きるのも現象の一つです。その気づきという現象を、、、自我は取り込み、、私(自我)が気づいている、、、という大嘘を作り出したのです。これによって私が主導権を握って人生を切り開くという「私」ストーリーが始まったのです。全気づきはこの体の機能によって起こり、、それを踏まえて自由意志で人生を切り盛りするという話です。ですがそれは真実ではありません、嘘です。

自我の根っこをぶった切る

勘違いの大元

自我の活動、反応は、、勘違いという大きな土台の上で起こる化学反応です、、化学反応ですから、、これを静止できる個人、自分は存在しません、、、化学反応を止める唯一の方法は、、この勘違いという土台に完璧に気づく以外に道はないのです。。。その大きな勘違いとは、、、この自分が自由意志で物事を決めているという勘違いです。これが嘘だった、勘違いだった、、、という大どんでん返し、天動説が地動説に切り替わるようなパラダイムシフトを超こします、、すると自由意志がある個人を前提にした、、思考、行動が湧いてこない、、もしくは途中で気づくようになります。

地動説を信じ切った後に。。。

地動説を信じ切った後に、、今日の太陽は早く動くなーとは思いませんね、、全く同じメカニズムです、、、全ての言動は真我から勝手に起こっている、、、これを腹の底から信じた時に、、感情、思考、行動が変わってしまうのです、、、勝手に。蜃気楼を見て早くあそこに行きたい、、とは思いません、蜃気楼という気づきが起きたあとに、、その衝動がもう起きないのです。

これは人類の新しいパラダイムシフト

個人の思考、行動、感情が、、、全部真我からただ起こっていただけだった、、、この気づきは、、、人類のパラダイムシフトです、、この気づきは地動説後の人類の発展と同じです、、、それぐらいに大きな気づきです。この気づきが今人類に起きそうになっています。情報革命が進み、、悟り、ノンデュアリティのメッセージが徐々に世間に浸透し始めています、、これは奇跡です。

悟りとは観念ではない

悟りとは観念を粉砕すること

我々が考えている全ては観念です、、、この個人が居てこの個人にとって何がベターで、何がベターではないか???それが観念です。その観念が全部及ばない世界、それが悟りです。つまりこの個人が居るという大前提が嘘であるという発見こそが悟りです。この世界、この分離の世界が嘘、ファンタジーであるという再発見が悟りです。

ファンタジーは神羅万象の一つ

ファンタジーが駄目ということではありません、、、ファンタジーも神羅万象の一つの表現です、、、そこに良否、善悪、優劣は一切ありません、、、、ですがこのファンタジーの世界に住むのは疲れる、苦しいが必ず伴ってきます。ですからこれがファンタジーであることを見抜き、このファンタジーから抜けることを釈迦は悟り提唱したのです。かといって悟れる個人はいません。

悟りとは真実に気づくこと、気づきの意識が

悟りとはズバリ、、、観念の渦から抜け出して、、真実に気づくことです、気づきの意識が。これに気づくのは個人ではありません、個人が居ないことに気づくのです、気づきの意識が、これが悟りです。個人という蜃気楼が蜃気楼であることに気づく、、、この気づきが悟りです。悟りによるメリットを得る個人は居ません、悟りによるメリットを得る存在は皆無なのです、そういう意味では悟りとはただ真実に気づく気づきの意識のプロセスに過ぎません。

矛盾

悟りのメッセージは矛盾だらけ

悟りのメッセージは矛盾が多いのも特徴の一つです。これは主語が変わると全く異なったメッセージになってしまうからです。私という主語、、、この私をこの体の所有者としての私、、、全体そのものである私、、、神羅万象としての私、、神羅万象すらをも起こす存在としての私、、、とそれぞれ異なるのです。。。主語が違えば、、、結論は全部異なりますから混乱します。

コミュニケーションでは、、、

コミュニケーションでは、、、この体の所有者としての「私」が必要になります、、、相手はこの「私」に話しかけてくるからです。。。ですがこの「私」の不在を悟りではお伝えするわけですから混乱します、、、「私」が「私」の不在を説明するという意味不明な現象が起きるわけです。「蜃気楼」が「蜃気楼」の不在を説明するという現象が起きます。

神羅万象が「蜃気楼」を通じて蜃気楼の不在を説明する

悟りメッセンジャーとは、、、神羅万象が「蜃気楼」を通じて「蜃気楼」は実は無いんですよ、、と説明しているようなものです。蜃気楼が説明してしまったら、、、あるじゃん!!になってしまうのが辛いところ、、、ですが蜃気楼が実在しなくとも、、、視覚としては100%ありますね、、これと同じです。。人間は五感レベルでは100%在るのです、、そこに脳の六感が加わり、、その中に「私」が居るが100パーセント感じられているのです。

友人からの悪口にすら全体を感じる

全ての発言は全体からの起こり

全発言は全体からの起こりです、、、悪口も称賛の声も、無駄話も、、全部が全部全体からただ起こっています。友人から痛烈な悪口を言われてしまってもその言葉は全体からただ起こりました、、、これが理解できますと会話の一つ一つに全体、神、至福を感じることができます。全体以外から湧く言葉はないからです。

個人にとって有益か否か

この視点に立てば世の中のほとんどの会話には興味が湧かないでしょう、、、なぜならばその会話のほとんどは個人には無益だからです。ですがその会話が全体から起きていることを腹落ちできますとそこから全体を感じます、神のアートを感じます、神そのものがそこに在ります。個人は常にその会話を判断します、つまらない、面白い、と。ですが全部全体のアートです。

老人の戯言のも

朝から晩まで不平不満愚痴を言っている老人のその言葉の全ては全体から起きています、個人と成り切った全体からの叫びです、、そう捉えて観察していきます。個人として生きることがどれほど大変なことか理解できます、ご苦労様、、という気持ちが自然と湧き上がります、、ですがそれも全て現象でありそこを深刻にとる必要はありません。3D映像、五感で感じる蜃気楼です。

あのタイミングで結婚しなければ良かった、、

離婚した人の多くは後悔をするが、、、

あの時もう少し考えていれば結婚を避けれたのに、、、、あの時もう一人のBさんを選んでおけば、、こんな悲惨な結婚生活を回避できたのに、、、、、残念!!!結婚するかしないかを決める自分は存在しません、全部全体からそれが起こりました。。もう少しだけ考えていれば、、、、違います、、、もう少し考えるが全体から起きなかったのです。

今回の離婚で多くを学びました、、、

いやー1回目の結婚では多くを学びました、、、やっぱり家庭的な奥さんが一番だと悟りました、、、、残念!!!今そのような思考が湧いていようと、、、それとは全く関係なくまた別の思考が全体から湧き、、、それとも全く関係ない誰かと結婚するが起きるのです、全体から。どこまでいっても学んだ「個人」は存在しないのです。学んで成長した個人は存在し得ないのです、、、この個人はこのゲーム、ストーリー上の見掛け倒しです。五感で感じる蜃気楼です。

結婚ってこういうものだから、、、君も気をつけて、、、

結婚生活10年の俺から言わせてもらうと、、、、「お金の管理は自分でやったほうがいいよ」、、、残念!!!結婚生活10年の俺も俺の奥さんも全ての言動は全体からただ起こっています。その結果として「お金の管理は自分でやったほうがいい」がただ起きたのです。誰一人この結婚生活に関わっていないのです、見かけ上はしっかり関わっていても。これで何を後悔し何を学ぶのでしょうか。

筒と筒の争い

筒には思考も行動も作れない

我々はただの筒です、、全体から湧いてくる思考、行動を通すだけの存在です、、、ですから我々には実はなんの言動も作ることはできません。スポーツ選手ははメジャーリーグでMVPを取った時に「自分を褒めたい」みたいな話をしますがこれは事実ではありません、事実は「私という筒を通じてMVPを取れる努力が起こったようですね」、です。これをインタビューで言えたら悟っています。この事実を忘れて我々筒人間は相手の筒から起こった言動に対して怒ったりします。これはおかしなことをやっているのです。

所詮はただの筒、、この事実に向き合う

この世界は現象界、色の世界、、、どこまでいっても実在がない世界、見えるだけの世界です、、、ですから相手に中身がどれほどあるように見えても見るだけなのです。これが事実です。すると相手という現象も、相手の言動もただ全体から湧き上がっているだけということになります。全体とは関係なく個人(蜃気楼)が言動を作ってしまったらもう全体の存在価値はゼロ、全体はこの世界を終了させなくてはなりません。筒と筒が勘違いをして争い続けるのが餓鬼畜生界、筒と筒が協力しあって助け合うのが菩薩界、、そのそも筒だから、、筒が幸福を追いかけても意味ないじゃん、、という気づきが起こるのが仏界です。

あの筒は素晴らしい、、、はない

あの人は偉大な人だ、、これはしっくりきます、、、あの筒人間は偉大な人だ、、、これはしっくりきません。あの人は酷い人だ、、、はしっくりきます、、、あの筒人間は酷い人だ、、、これはしっくりきません。つまりこの世の苦しみとは筒人間を人間と勘違いするこよからスタートしているのです。子供に立派な筒人間になってね!!というのはおかしい、しっくりこないのです。ですが事実人間は筒人間なのです。妖怪筒人間がただ筒として行動しているだけです。

自分のゲームでは、見える世界は変わっていく

これはあくまでゲーム

このゲームは現象です、3Dです、五感で感じる蜃気楼です。このゲームの性質上、、観念が変わると見え方が変わります。見かけ上の私の価値観が変わるとそのフィルターを通じてこの現象を見ますから、、見え方が変わります。例えば子育て中は、、街を歩けば子供が沢山登場します、、例えばポルシェを買いたい、、そう思うと、、ポルシェが街中で登場します、、、エアージョーダン1がどうしても欲しい、、、街を歩くとエアージョーダン1が登場します、、現象を捉えるフィルター(価値観)が変わると現象の見え方が変わります。

事実を知ると当然価値観が変わる

頑張らない人間を見れば、、あつはなんて怠惰な奴なんだ、、、これが多くの日本人が持つ価値観でしょう、、ですが事実を知ってしまうともうそう思えない、、、事実はただそれが起こっているだけです、、そう見える現象が起こっているだけです。自分の意思で行動できる存在は居ません、全部全体からの起こりです。価値観ではなく、、事実に変わっていきます。。究極の事実を知る者、、、それが覚者ですが、、、これも実は嘘で究極の事実を知ると、、、知る自分が存在しないことを知るのです。

価値観が無くなる

価値観とはあくまでこの現象界での見方のことですね、、そうすると、、これが現象であること、これがただ全体からの起こりであること、そこにはどんな自己の介在も起きていないことが分かってしまうと、、見方がなくなります、、先ず見る「自分」が居ないのです。価値観とは「自分」とセットになっていることに気づきます。そうなると価値観が壊滅します、価値観が粉砕します、価値観が火炙りにされます。そこにはただ事実(全体)が残ります。

自分とは記憶に依存した存在

記憶はこの現象界に存在しない

この現象界はどこまでいっても在るように見える世界です、、この現象界に「何か」が在ることは絶対にないのです。すると記憶はどこに在るのか???記憶は空(サーバー)にあります。そして会話のたびにこのサーバー(空)から記憶が湧き出し会話は成り立っているのです。そしてこの記憶を受け取る場所こそが脳です、、脳も見かけ上の物、実態はありません、あくまで見かけ上、ゲーム上、、脳が記憶を受け取ります。

自分の存在を絶対視できるのは記憶があるから

見かけ上のこの体を通じて得た経験の全ては空(サーバー)に記憶されており、、、ゆえにこの体の存在を絶対視するという思考が起こります。そしてこの体の行動を全て決める存在「自分」が居るという感覚が起こるのです、全体(空)から。この体は自由意思で(見かけ上)動きますからこの自分がこに体の言動の全てを牛耳っているという思考が起こります。事実からみればこれは勘違いですが、、「勘違いだ」が起こらない限りこの「自分ゲーム」は何の問題もなく進みます。ただし全体(空)がこの体が私だという成り切り(起こる)は、、、同時に閉塞感を生み出しこれが「苦しい」を土台としたこの人生ゲームになるのです。

釈迦は悟り「人生とは苦である」と語った

人生とは苦なのです、、人生が無くなると絶対幸福になります。人生がない瞬間は熟睡と死です。もしくはこの自我、自分のメカニムを完全腹落ちし、、全体としてこの体を操るという全体主体のゲームに戻すほかありません。見える現象は全て蜃気楼、3D画像でありそこには中身はなく、、ゆえにそこには思考も感情もない、、これを虚無と捉えるか、、面白いと捉えるか、、、それすらも全体から湧いてきます。

「人生という旅」の完全否定

旅はない、夢の中でしか

人生を旅に重ねることがります、人生という大海原を彷徨って、、、のように、、ですが実際には人生は存在しません、、、人生があると断言するには記憶が絶対的に必要になります、ですがその記憶を司る脳が実在していないとしたらどうでしょう???人間の体は五感で感じることができる蜃気楼です。蜃気楼ですから実在していないのです、すると脳も実在していないことになります、すると記憶とはどこに存在するのでしょうか、、、記憶は空(ゼロ、サーバー)にあります。

色は現象のみ、色に記憶はない

この世界は色(現象)です、、現象ですから物があるように見える世界です。見える、、ですから実際には存在していないのです。すると記憶を司る脳も実在していませんから記憶はこの現象界には無いことになります。記憶は空(ゼロ、サーバー)に在ります。その証拠に過去の人生全部が今ここに有るという実感が有る人はいないでしょう。記憶とはその時その時に蘇り湧き出すものなのです、全体(空)から。この記憶があるかた「自分」という感覚が全体から起こり、記憶が全体から湧くから人生というアイデアも湧くのです。

本当はこの色(現象)だけが在る

本当はこの個人もゼロからの記憶がそれを起こし、、この個人の人生も空からの記憶によって形成されています。どこまでいっても空の独壇場、色はその独壇場を支える場所です。記憶と個人の二人三脚でこの人生という旅が完成されます。記憶があるから個人が居る、個人がいるから記憶ができる、、、現象しか無かったは見抜けない、、、