大いなる存在

外部環境のエージェントスミスは大したことはない

映画マトリックスとの相違

この世界の住人、登場人物は全てエージェントスミスです。彼らは思考の世界にどっぷり浸かっているなど全く気づいていないですから、、、当然こちらにも同じ感覚で話しかけてきます。この感覚を共有しようよ!!!です。ですがこれがまさにマトリックスの世界に入れ込む罠なのです。自分が居ないとか何言っちゃってんの???のノリでマトリックスの世界に誘います。

答えが分かれば

答えさえ分かってしまえば、真実さえ分かってしまえば、、、周囲の人間は全く怖くありません。外部のエージェントスミスはなんてことないんです、、だって手の内が完全にバレてますから。。ただマトリックスの住人として当然の行動をとる、、、ただそれだけです。こちらはただマトリックスの住人として冷静に扱う、、これだけなんです。

怖いのは心の声

エージェントスミスの恐ろしさは外部環境ではありません、、心の声です。この心の声が半端なく最強です、、心の声は、、さも重要な内容のようかのように湧いてきます。この体にとって超重要な内容ですよ!!という切り口で湧いてきますから思わず、、、え?????となるんです。これで引き摺り込まれるんです。いつの間にか思考を観察する神ではなく思考そのものになってしまうんです。この状態が「苦しい」です。

心の声を観察する

心の声であるエージェントスミスは、、、観察されるだけで勢いを減らします。観察されるだけで、、、急に威勢が無くなるのです。観察とは、、、もはや思考そのものになっていない状態、、大いなる存在は大いなる存在そのものになっている状態ですから、、、その瞬間から思考は勢いを減らすのです。だからただ観察するだけでいい、、、何もしなくていいんです。何かをしようとする動きも罠です。

思考を観察してみる

呼吸を観察してみる

呼吸を観察してみてください、、驚くべき変化が起こるんです。何か?????呼吸が突然大人しくなるんです、、あれ????俺ってこんなに呼吸遅かったっけ?????です。呼吸に意識を向けるだけで呼吸って遅くなるんです、静かになるんです。そしてこれが正しいリズムです、神の呼吸です、大いなる存在の呼吸です。

では思考を観察してみる

では次に思考を観察してみてください、、、一気に思考が大人しくなります。ですが思考は決して止まることはないでしょう、、、、ですがそれでいいのです、、、全く気にしないでください。呼吸のリズムが遅くなっても決して呼吸が止まらないように、、思考も止まるなんてことはないんです。必ず思考も呼吸も湧いてきますからただこれをキャッチしてください、つまり気づいて観察してください。この行為を行うだけで思考が静かになることに気づいてください。

神の定位置

今あなたが呼吸、思考を観察しようと、、、決めたその場所、、、、そこが神の定位置です。神が神であるための場所です、、、この定位置を離れなければ全く苦しみは湧かないんです。神がこの場所を離れ思考そのものになってしまった時、苦しみが湧き上がります。神が思考に気づく存在から思考そのものになってしまってはダメなんです、、苦しみが湧き出します。

思考から神を剥がす

思考そのものが悪いのではないんです、思考に神が同化する、思考に神がへばり付く、思考に神が一心同体になっている状態が「苦しい」のです。ただこれだけなんです。だから神は常に定位置、思考に気づく場所に座るのです。思考に比べると呼吸に気づくのは簡単です、この呼吸に気づくという行為を通じて徐々に徐々に思考にも気づいていきます。神が神の定位置に座る時、、、真の安らぎが訪れます。

理解するのは誰だ???

思考はこれを理解できない

ノンデュアリティのメッセージだけでなく全ての知識は個人が理解していません、個人とは現れては消えていく存在でありそのような幻想は知識、メッセージを理解するというのは不可能です。雲が雲を理解することはできません、幻が幻を理解することはできません、それらは全部理解される側です。思考という理解される側が、、メッセージを理解するってありえないんです、全客体は、、神にとって気づきの意識によってのみ気づかれるのです。

本は読んだけど、、、

悟り本を理解できているんですが悟りが開かないんです、、、全く迷う必要がありません、悩む必要がないんです。なぜならばそれを理解したのは気づきの意織、大いなる存在、神です、、、にも関わらず悟りが起きないのならば、、それは「あなた」の責任ではないのです。「あなた」とは現れては消える存在ですから「あなた」は常にこれらの存在に認識される側です。

染み込む染み込む

本当にノンデュアリティへの理解が起きますと、、今までの私ストーリーを歩むことは不可能です。「私」が全責任でこの人生を歩むという体験はもう起きなくなります、、本当にそれでいいのか????この私ストーリーにまだ執着があれば悟り、ノンデュアリティ は起きないでしょう。それが起こるかどうかにおいて個人は全くの無関与です。

たった一つの景色

実は何も起きていない

私たちの生活は日々色々なことが起こっているように見えますが実は何も起きていません。全体からあらゆる現象が起こり、思考が起こり、感情は起こります。思考の内容は「私はしなくては」「私はするぞ」「私はこれを守る」、、、と私前提の思考が湧き続けますが、、実はそれ以外何も起きていません。この体はその思考に反応し感情を作り出しますが、それだけです。この体は思考とは何も関係なく動きがあえばない時もあります。その動きに合わせてまた思考が湧き上がりその動きを評価判断反省するのです、、しかし実際には何も起きていません。

思考とは何も関係なく

明日はこれやってあれやってこうしてこうしてから寝よう!!!!しかしこの思考の内容とは何も関係なく、、体の動きは起こります、細かく言えばその思考の内容によって化学反応が起こり、、その化学反応通りの動きがこの体に起こります。それはコントロールではなく、ただの反応です。そしてその動きに応じてまた評価判断反省の思考の動きが起こるのです。その思考が体に化学反応を起こし感情が起こります。

視点の変換

体という視点から見れば我々には間違いなく自由意志、自由行動、自由思索、自由思慮がありますが、、、この背景という視点から見ると全ては背景から湧き起こっています。背景とはこの画面の背景ですが、、その背景はまさに大いなる存在、気づきの存在、在る、動きのある神です。。そしてその湧き上がるという現象の大元には空、絶対、THE ONE、動きのない神、、、が居ます。

究極のリラックス

真実を受け入れますと、、無駄な思考が止まります、無駄な感情が止まります。体の動き、周囲の現象に対する思考の判断が減ります。すると無駄な感情が減ります。喜怒哀楽という感情が抜け落ち、、真の感情、、これは感情ではなく、、BEING,STESTE、大いなる存在から起こる真の安らぎが漂ってきます。自由意志、自由行動を諦めた時、、大いなる存在として「私」の行動を観察する観察者になり、、ここには真の自由があります。

悟りを本を読んでいるのは誰だ???

「私」じゃないんですか???

マリオがゲームの中で本を読み理解するって可能でしょうか????桜木花道が漫画の中で本を読み理解するって可能ですか????間違いなく無理です、、、ゲームをやっている人、漫画を読んでいる人しかそれは不可能ですね。つまりつまり悟り本を読んで内容を把握するのは「真我」「神」「大いなる存在」です。だんだん悟り本が分かってくる????その気づきは神から起きているんです。

神以外は誰も経験していない

この世界、この夢の世界で、、経験できる存在はこの夢を見ている神だけです。神以外に経験者が居るとしたらその時神は何をしているのか????暇すぎますよね????私が経験し神は見守るだけとしたら神は暇人になってしまいます。。。私が極旨ラーメンを食べている時、、神がそれを観察するだけならば神はめちゃくちゃ暇ですよね、、だいたいなんのための世界なんだ???ということです。ですからこの世界の経験は全部私と思い込んでいる神がやっているのです。

美味しいラー麺は神が味わっている

美味しいラーメン、エグい映画、めちゃくちゃ強いタバコ、、、味わっているのは全部神です。神が全部味わっておいて「私」が味わったという勘違いを神が起こし、、そして美味しい、不味い、という感情を起こし、、神がそれを経験しているのです。この全てが完全自動運転で起こっているのです。これを操作する神はなく、、ただ全現象が神から起こり神が感じるを続けています。

神が腹を立てる?????

もしも全経験を神がしているならなぜ神が腹を立てるんですか????ショボすぎでしょ、、、、、残念!!!この世界は全感情、全思考、全行動を経験する場所なのです。そのために神があらゆる仕掛けを起こし腹立つ!!!!という仕組みを作ったのです。「私」という存在を立ち上げ、、「私がやられた!!」という思考を立ち上げ、、それに体が反応し、、怒り!!が湧きます。全ては全部化学反応です。「私」という感覚すら化学反応で起きたのです。「私」という思考が「私が悪口を言われた」という思考を作り出し「私が悪口を言われた」という思考が「怒り」という感情を起こしているのです。化学反応が連鎖しているだけです。

毎晩見る夢の傍観者は誰だ?

もしも私じゃなかったら

もしも毎晩見ている夢の傍観者が、、私ではなかったらあれは一体誰が見ているんでしょうか?????気になりますよね。。。じつはあれ私ではないんですが、、、じゃあいったい誰が見ているんでしょうか????全体です、大いなる存在です、、、存在があの夢を作り出し、そしてあの夢を見ています。もっとももっと究極の話をすれば夢自体が夢を見ているんです。さてではこの現実という夢を見ているのは誰でしょうか????そうです、同じです、、大いなる存在です。大いなる存在がこの夢(現実)を作り出しこの夢を大いなる存在自体が見ているんです。もっと究極を言えばこの夢は夢自体が見ているんです。

じゃあこの私は?????

その私がこの夢自体です、、この夢を毎日見ている私こそが夢を作り出し夢を見る存在です、もっと究極を言えば夢(私)が夢(私)を見ているんです。この私という感覚はこの夢自体の感覚です、、夢自体の私なのです。だからこの私はいつもいつも存在に気づかれていますよね、、、意識を失うことはないですよね。在るというこの感覚、、これが私の本性です。その在るという感覚がこの夢(現実)を作り出しそのまま夢を見ているんです。

出演者も私なのに

このドラマに出てくる出演者も当然私の中に出てきます、私の変容体です、ですが彼らは名を名乗り全くの別人と宣うから混乱するんです。ですが100%私が作り出した出演者であり、、私自身です。私が居ないところでは彼らは存在できませんし、、私が居る場所でしか登場できません。夢の中で、、味覚痛覚触覚視覚聴覚を作り出せるのは、、夢の創造主だからです。ではこの現実(夢)の中でもそれを作り出せるのは創造主だけです。だからこの世界には五感が登場するのです。

全ては練習問題

練習問題としてのエージェントスミス

心を揺さぶる問題が起こるといましょう、、この心を揺さぶる問題はなぜ起こるのでしょうか????簡単です。自我の延命です、、心が揺さぶる問題が起きれば自我をこれを解決するか逃げるかするでしょう、つまりこの自我ストーリーの中でアクションを起こすのです。その際に心を揺さぶる問題はどうあがいてもこのストーリー上に自身が居ることを強く強く意織させられます。これが映画マトリックスのエージェントスミスです。今お前はこのドラマの中で解決を図らないと大変な目に遭うぞ、、という戦略です。

関心ごとの全て

例えば見た目に全く興味がない男性が、、、ファッションを揶揄されても全く問題にはならないでしょう。問題とはその方が関心を持っている分野なのです、、例えばその男性がキャリアに意識が高ければ、、、そこで問題が起きる可能性が高くなります。会社の倒産、左遷、低評価などです。これによって彼は心を揺さぶられこのストーリー、この自分に強く強く関心を寄せます。自我はエネルギーが注がれ益々このストーリーにのめり込むのです。

問題が起きても

関心が高い分野は問題化(エージェントスミス化)し襲ってきますが、、そこに関心を向けてしまっては自我システムの思う壺です。そこに関心を寄せるのではなく、、練習問題がきた、、私はどうもキャリアに執着しているようだ。。本当に重要なことはこの私は大いなる存在であってこも見かけ上の私ではない、、だからキャリアの問題はそれを示すために起きたのだ、、と真実に戻ります。つまり執着が形になって執着を教えてくれているのです。

キャリアの問題は重要なことではない

キャリアの問題は、、自身が大いなる存在であるという気づきに比べれば全く問題がありません。自身が偽りの自分ではなく大いなる存在であるという気づきが起きればその問題は真の安らぎの中で解決されるからです。そして仮に解決されなくても執着に気付くことで、、自我の柵がまた一つ無くなり自我はパワーを失います。その時景色が輝いていきます。問題の背景が輝いてくるのです。

全執着が溶けていく

何か大きな問題、心が揺さぶられる問題が起きたときは、、その分野に執着があることを教えてくれています。その問題が執着を露わにしてくているわけですから非常に有難いことなのです。なぜ私はキャリアに執着があるのだろう????それは私がそこで高い評価をされたいと願っているからに違いない、なぜ評価をされたいかと言えば自分(自我)の存在をそこで証明したいからだ。だが自我は幻でありそこで存在を証明したとしても本当は証明されないのだから同じことなのだ、、となります。

空の揺らぎ

色とは影

色とは空の影揺らぎです、、我々は全体で空の影、揺らぎをやっています。空から影が現れるその根源が大いなる存在、存在、我あり、気づきの意織などと呼ばれます。そこでは常に意識が起こります。そしてその意識は我々の根源に常にあり、、その感覚は我々が起きている間存在している「在る」という感覚です。そして我々は影でありますからそこには自由意志はないし(ある感覚はある)、自己という分離独立した(あるという感覚はある)存在もいません。だから時間はないし空間もないのです。

分離と緊張

我々はこの体の中に自己が存在するという錯覚を持った瞬間に(分離と緊張)を生み出します。この分離と緊張が苦しいので、、我々は、、この感覚を振り払うためにあらゆる活動をするわけです。ですがその活動の全ては自己が行うことであり、、根本の分離感緊張感が抜けることは絶対にありません。ですから途中疲れ果てその活動に疑いを持つことから悟りに関心を寄せるのです。

影に自由意志があったら

我々は空の影です、、空の影ですから本来はたった一つのエネルギーです。たった一つのエネルギーの影の一部に自由意志があるとしたら、、それは分離であり、、そうなるとたった一つのエネルギーはたった一つではなくなってしまいます。あくまでこの影の中で起こるのは分離ではなく分離感です、自由意思感です。分離という錯覚、自由意志という錯覚です。自由意思感という錯覚を所有する自分という錯覚が歩むドラマがマイライフでという錯覚です。

ある時この錯覚に気づく

ある時この私、この自由意志が錯覚だという気づきが起きます、そしてこれは空の影、反映であることにも気づきます。この気づきはこの私ではなく気づきの意織、大いなる存在、我ありから起こるのです。その時同時にもう何も抗わなくていい、影の動きに身を委ねよう、どうせこの身が滅びても影に吸収されるだけだという気づきが起きます。影はどこまでいっても影でありこれが空に影響を与えることはないのですからこれほど気楽な活動はありません。「私」の活動は最初から最後まで遊びです。

全く魅力のないメッセージ

絶望の終わり

自我とは分離感です、自我=分離感です。この枠からは絶対に絶対に自我は抜け出ることができません。自我が向かうところ分離感しかないのです。ですから自我は絶望的な存在なのです、そしてそのことを自我の向こうの何かは気づいています。ですから覚者は自我の終焉以外にこの苦しみを終わらせることはできないと断言するのです。ですがこのメッセージは自我を維持しようとする動きにとっては全くもって魅力のないメッセージなのです。何かを埋めれば何かを足せば、何かに気づけば、、いずれ私は幸福になれると信じて何十年間も走ってきた自我にとって、、、自我の消滅ほど不快なメッセージはないのです。

何かが幸福になるのではない

この世界にある何かは全部現象です、ですからその何かは幸福になるということは不可能なのです。今回の何かとはこの自分ですがこの自分もご多分に漏れず、、現象です、、つまり現れては消える幻想です、幻です。幻は幻ゆえに幸福になるということは不可能なのです。これが自我が絶望的な存在である理由です。自我という現象自体は完璧です、現象は完璧の表現であり自我は完璧なのです。ですが至福という観点から言えば自我は絶望的なのです。

絶望的な存在を終わらせるしかない

もしも出来ることがあるとすればそれは自我(絶望的存在)を終わらせることです、絶望的存在が終われば何が残るか、、、真の安心感、真の安らぎ、真の喜びです。自我とは引き換えにこれを手に入れるしか方法はないのです。自我とは引き換えに????誰が自我とは引き換えに真の安らぎを手に入れるのか????誰が自我とは引き換えに真の喜びを手に入れるのか????それは真の安らぎ、真の喜び、大いなる存在そのものです。

病気になりたがるエゴ

エゴの延命作用

信じられない話かもしれませんがエゴは病気を手放そうとしません、エゴは病気になることで周囲から構ってもらえると、、自身の存在を証明できます。すると病気を手放そうとはせず逆に病気にしがみつくのです。エゴは本当は非連続性の存在であり現れては消える儚い存在なのです、よって確実に永続するためには病気にしがみついて存在を証明したがるわけです。

治るわけがない

つまり病気でもってエゴを確立している人は、、病気を手放すわけがないのです。もしも手放してしまったら大変次は何か他の方法で自身を証明しなくてはならなくなるのです。ということで周囲から心配してもらえる病気はエゴの大好物なのです。万が一病気が進みすぎて命を落とす危険性がある、、そこまで病気が進行した時には本気を出して治そうとします。

この手法に気づく

本当は治したいんだ、、その気持ちが強くなってきた時にはこのエゴの手法を完全に俯瞰します。周囲から構ってもらいがために病気になるという手口をエゴは利用する、、するとエゴはこの手法を使わなくなります。エゴの動きを見抜くのは誰でしょうか?????エゴではないですよね?????エゴではないとすると大いなる存在、本当の自分です。つまりこの手法を見抜く時真の安らぎを手に入れることができるのです。