真理

最後の気づきが個人を壊しこれまでの全てを壊す

人間として価値観を積み上げるのは正しい

人間はこの体の中にアイデンティティーがあるという思考を学ぶますと、、このアイデンティティー、自我を通じた世界を経験していくことになります、、、この自分が何を経験したかが全部が全部記憶されていき、、太い太い価値観を徐々に形成していくのです。。戦争を経験した個人は、、食べていくためのお金は絶対に大切だという価値観が築かれ、、、災害を経験した個人は、、全ての財産は一瞬で奪われるという価値観が深く刻まれます。全くもって反対の価値観を各個人が所有していくのは、、、個人は置かれた環境、状況によって全く異なった経験を積むからです。個人とは価値観製造マシーンなのです。

価値観の共有は不可能

個人としての個人体験が全員が全員異なるわけですから、、、価値観は全員が異なります、、これがこの夢の世界での絶対的真理です。。人間関係とは価値観が全く異なる同士の関係ゆえに難しいのです、、、そしてそれぞれの価値観がなんであれ正しい価値観は一切存在しないのがどこまでいっても価値観はその人の経験からしか生まれないからです。私の価値観、他人の価値観には完全なるズレが生じます。これが個人間の争い、戦争に繋がります。

価値観自体を壊す

つまり人間は各々の独自の価値観を所有し、、その価値観に沿った世界を今見ています、、全く異なった世界を今みんなが生きているのです、、、、そしてどのような価値観を持とうと、、、その価値観は個人という存在を絶対的なものにしますから、、、全員が苦しくなるという共通点があります。逆に言えば苦しくない人は存在しないのです、、、ですから個人の最終目標は全員が同じ、個人を終わることです、、、個人を終わるにはどうsればいいのか????簡単です、、個人が全くもって存在しないことを確認すればいいのです。この体の中に個人が居るという価値観を注意深く観察し、、実在していないことを見抜くのです。これで今までの観念、価値観、、個人が居るという大前提で起こった価値観を粉砕します。個人は何も経験していなかったのですから価値観、観念はビル崩壊のように砕け散ります。

全体と自分のどんでん返し

周りが自分でこれが自分以外

究極の騙し絵、、これがこの世界の真実です、、、究極の騙し絵、、どういう騙し絵なのか???それはこの体が自分以外で、周囲が自分だったという気づきです、、、真逆、、そうです、、このコントロールできる体こそが自分以外で、、全くコントロールが利かない周囲が自分です。全くコントロールできないのに、、自分ってどういうこと????コントロールが利かない、、のが普通なのです、、これが真理なのです、、真理とは何もコントロールできる存在は居ないという気づきです。つまりコントロールできない存在こそが自分自身、見える世界の全ては自由意志ではコントロールできませんから自分です。

だとしたらこの体は何だ???

周囲は全部コントロールできない、、だから自分、、、では、、コントロールできてしまうこの体、、この体は誰のものだ????心臓の動きはコントロールできない、、自分、、、、腎臓の動きも、爪も、肌の育成も髪の成長も、、、分泌物の生成も、、全部コントロールできない、、つまり自分、、、、唯一コントロールできる存在思考、行動のみ、、、、これは誰のものだ????この究極の例外は誰だ???

コントロールできているという思考がただコントロール無しに湧いている

「唯一コントロールできているこの思考と行動は私がコントロールしている」という思考がコントロール無しにただ湧いています、、、これでコントロールできている存在が完璧になくなりました、、全部が全部コントロールされていない、、、全部が全部真我の動き、つまり自分です。。。最後の難関、、、思考と行動、、、これはコントロールできている思い込む思考が湧いている、、、コントロール無しに。

「私が居る」の中で何もコントロールなく起こり続ける

真実はこうです、「私が在る」この絶対的感覚の中で、、、何一つコントロールなく、、、あらゆる現象が起き続けています、、この体も含め、、全部が全部コントロールなく事が起こり続けています、、この体を通じた経験の全てはコントロールなく起こり続けます、、、この起こる動きのエネルギーが自分、真我、無我、ワンネスです。

だから何だ?

だから何だ?が出る内は理解していない

頭に鳥の糞がついてますよ!だから何だ??にはならない、、、直ぐに頭を触るはず、、、そうです、、真理の理解とは、、疑問が起きない、、、、分かったらもう戻れない、、、気づきとはそういうもの、、今ここに全部がある、真我の活動のみ、、鳥も声も太陽の光も、それを感じるという動きも、全部が全部真我の動き、、求めていた全てはここにあった、、この理解が起きるのを待っていた、、、何処に行かなくてもいい、、、全部ここに在る、、、

動かなくては、、と動きたい

人間活動の特徴は忙しないこと、、、あれは、、、今が苦しいから、、ですが悟りが起きれば、、苦しいがないから焦らない、、、焦って成し遂げたいことはなくなる、、、ただこれをやりたいは起きる、、、満腹にケーキを食べた直後に、、直ぐにラーメンを食べたいが起きない、、この状態、、、精神的満腹状態、、、これが悟り、、

この体しか自由にならないから

この体だけしか自由にならない、、この体しかコントロールが利かない、、、だから悔しい、、モドカシイ、物足りない、、、そこで個人は他人をコントロールしようとする、、、なんとなく偽りの万能感を味わう、、偽物、、他人から評価を受けることで万能感らしきモノを味わう、、虚しい、、、大誤解が続く、、、全然ポイントがズレてます、、、そうじゃない、、全部が全部自分の活動、、それしかない、、全感情、全思考、全経験、全物質がこの自分、真我の活動、、、、全く視点が違う、、論点が違う、、、

今に居るのに不幸になれない

今は静寂しかない

今年は大不況ですよ、今年の会社の売り上げはとんでもなく下がることに、、税金がまた来年上がるらしい、、このような情報が入ってくると思考はフル回転、、、どうしよう、どうしようと、、、エンドレスに回転を始めます、、、ですがこの回転こそが不幸への入り口、地獄への入り口です、、、、信じられないかもしれませんが我々は一生こうして思考に取り込まれ続けるのです。

状況は変わって当たり前

状況は毎秒毎秒変わります、、これが森羅万象の動き、諸行無常です、、、これが事実、真理です、、、、この変化に人間は名前をつけてニュースにします、、、そこにさらに大変だ、、まーまー大変だ、、ちょっと大変だと、、、解釈を加えていきます、、この状況の変化に対してこの体の動きも変化します、、、ただそれだけ、、、ここに思考の解釈が入ります(これも森羅万象の動き)、、、これで苦しくなります、、変化の中で自由意志を発揮する自分が登場します(森羅万象の動き)、、ここが苦しみの場所です、、

事実をただ淡々と受け入れる

状況の変化に意味は一切ありません、、それだけが森羅万象のルールだからです、、、この変化、、、そしてこの体も動く、、これも森羅万象の動き、、唯一のルールです、、、、これに対して本来は思考の解釈は必要ありません、、、思考の解釈がなくとも、、、、変化が起き続けるからです、、、さらに言えば思考の解釈がこの森羅万象の動きに影響を与えることもありません、、、もっといえば思考の動きも森羅万象の動きです、、、どこまでいっても森羅万象の動きしかない、、、ならば黙ってこれを観察するのが良いということになります。観察する場所こそが静寂、平和、安堵です。。。

探求も神羅万象からの起こり

探求は悪くない

個人が真理を探求する、、、その個人が真理を隠している、、、その通りです。。ですがその個人の探求もまた神羅万象から起こっておます、神羅万象の動きそのものです。ですから行動が劣っているなどは絶対にないのです。ですが個人が真理を、神羅万象全体を探しても、、見つからないというのは事実です。ですが真理、真我、への探求が起こっているという時点で何かしらの存在に気づいている真我がそこに居るのは事実です。何も気づいていないにも関わらず真我、全体、気づきの意識への探求が起きるとは思えないからです。

探求が止まらない

探求が止まらないようならばそうなのです、、、そのような人はほぼ居ませんから、、それは凄いことです。探求することに義務も要求もなく、、ただ探求は真我へと誘っていきます、、、益々真我気づきの意識が身近に感じれるようになっていきます。。。最後は真我、気づきの意識が個人の不在を見つけ、、そのメカニズムに気づきます。その時に自分、自分以外の概念が紛糾し、、真我そのものが残ります。気づきの意識そのものが残るのです。

自分と自分以外

自分が居て、自分以外がある、、、、これが我々の認識です。自分がこうだから、、自分以外がこう、、です。自分+自分以外で全部です。自分以外とはこの見える世界全てのことです、、、ところが自分という存在自体の概念が壊れ、、真実を発見しますと、、、自分が居ないことが分かってしまいます、、すると自分以外の概念がぶっ壊れるわけです、、、今までの誤認識がはっきりと分かってしまう、、気づきの意識がそこに気づく瞬間です。

「優しい」人

優しいに個人をくっつけた

無我に入る習慣がある人、、、瞑想などで無我を過ごす機会が多い人は、、、、優しい人は多い、、例えば大谷翔平選手などは性格の良さが滲み出てますね、、、、無我に入る習慣があると、、、無我に直に触れていきますから万物の真理そのものが、、大谷翔平を演じているだけになっていきます。すると優しそう、性格が良さそう、、になります。優しいのは個人ではありません、、優しさ(真我)が、、大谷翔平を通じて話をしているのです。

性格が良いを演じても無駄

性格を良く見せよう、、、この試みがほぼ失敗に終わるのは、、、優しさとは作れるものではなく、、、どれだけ多くの時間を「優しさ」そのもので居れるかにかかっているからです。真の優しさとは真我、気づきの意識そのものであり、、、それを演じるのは不可能です、、触れる、、成る、、、時間を増やすしかありません。一瞥体験で、、、真理が分かってしまっても、、、真我になっている時間を作れない方は、、、「優しさ」が先行しません。

ただ「優しさ」に触れ続ける

性格が良いというのは、、、相手に損をさせないとか、、厳しい発言をしない、、とかそういうことではないのです。毎日の中で「優しさ」(真我)そのものになっている時間が長くあるか否かなのです。。。ですから優しくなるのは不可能です、、、優しさそのものになることは可能です。性格が良い人になろうとする試みは失敗に終わります。

人間活動とは悟りへの抵抗

人間活動が悟りを遠ざける

今目の前に悟りがあります、、、今目の前に究極のリアリティがあります、、、今目の前に真我、、、神羅万象があります、、、、これを遠ざけるのが人間活動です。。。個としての自分が、、、、活動をする。。。。この分離の世界で、、、、これで。。真理は見えなくなります、、、真我が隠れます、、、、神羅万象が物質世界に変化します、、、、だから苦しい、、、、結果人間活動が加速されます、、、もっとこうすれば、、もっとこうなれば、、、もっとこうしてみれば、、、、が続きます。

個人は真我を見つけることができない

個人はこの真我を発見できません、、、なぜならば、、、個人という存在が真我を隠しているからです。。。。個人が実は、、、後天的に付けられた名前に過ぎないこと、、、にも関わらず本当に自分が居ると信じ切っていること。。。。この摩訶不思議な事実を覆い隠し、、、みんなそこには一切触れずに生きています、一生懸命、、、、そこにメスを入れます、、、、その矛盾、そのパンドラの箱を開きます、、、、

確かに、、、

後天的に付けられたこの名前、、、になぜ自分というパーソナリティーが宿るのか????考えてみれば不思議な話です、、、、ですがこの後天的存在を自分は全体に手放さないのです。。。。。ということでこれを手放すまで苦労は続きます、、、、八方塞がりになり、、、常軌を逸した状態にならないと。。。。自我を手放さない、、、、ですが徐々に徐々に人間活動は疲れていきますから、、、いずれは全員が悟ります。

空(0)から色(数字)が現れた

空とは0(零)

この現象界は数字で現せる世界です。りんごが1個、2個、、、人間が1人、2人、、となります、、、そしてこの現象界を起こしている全体(空)はカラという漢字からも分かりますが、、ゼロです、0です。そうですこの世界は零から現れているのです。本当はゼロ、0ですから1、2、3、4は幻想、蜃気楼、空想なのです。その証拠に空をこの現象界で現すとどうなるか、、、1(現象)✖️0(空)=0(空)です。2個(りんご)✖️0(空)=0(空)です。この現象界に空を巻き込めば、、、空になります。空と色は相入れない関係なのです。もしくは1(現象・色)✖️0=0(空)ですから色と空は一つということでもあるでしょう。

本当は0だから、、、

10000円(現象)✖️0(空)=0(空)ということは、、、この現象界でどれほどお金を得ても本当はゼロですよ、、とも取れます、、、本当はゼロだったということを知ることが悟りです。この現象の世界は物に溢れ、数字に溢れ、物質があるように見えてしまいますいからどうしてもこの物質に囚われてしまうのです。私は一時霊的真理探究の旅に出ましたがそれだけでも本当に気持ちが軽くなったのを覚えています。物質しかない、、この認識は完全な誤解であり苦しみを生み出すのです。

魂という概念でどれだけ救われたか

私は魂という概念によって本当に救われました、、、今世(概念)に全く縛られなくなったのです、、それまでどれほどこの今世というものに縛られていたのか、、、です。そして今は前世、今世、来世すら概念に過ぎないことを知っています。概念ですからそれは思考です、幻想です、空想です。事実ではありません。事実は今この場所に全部がある、、今この場所に空(ゼロ)があり色(現象)が全部あります。そこには自分という個別独立した存在は現象以外では居ません。この個人を認識する意識(全体)がただ在るだけです。

人生とは常にその人にとって完璧

人生=観念

人生はその人にとって完璧です、例え周囲からは最悪の状態、その人にとっても最悪な状態であってもやっぱり完璧なのです。なぜか???それはその人の観念が完璧に反映された世界だからです。その人の目の前にあるのは紛れもなく神エネルギーが漂っています、これは全員同じです。ですがこの神エネルギーがその人の脳内の反映であることも全く平等です。ということでその人の目の前にはその人の観念、価値観が反映された世界が漂っているのです。

人生イコール観念ならば、観念を変えるだけ

たった一つの神エネルギーが目の前に漂い、それは全員同じこと。この神エネルギーがその人の観念によって書き換えられる、、これも同じ。ということでもしも人生を変えたいならば観念、価値観を変えればいいのです。どのようなことを体験したいか、、体験する現実はその人のこれまでの観念が反映されたものです。たった一つのエネルギーが観念によって分離独立し今目の前に出現しています。これが現象化の正体です。

観念で現実が変わるという事実に着目する

最重要事項は、、観念でガンガン現象界を変えていきましょう!ということではなく変わるという事実に隠されたこの世の真理に気づくことです。なぜ観念が変わると世界が変わるのか??ということです。正確には観念を明日から変えようで突然変わるなどありえず、、、観念を変えることよりもその事実に着目することが重要です。我々が小さな神、ミクロコスモスと呼ばれる所以です。マクロコスモス(神)はマクロコスモスのままでは何も体験できずミクロコスモスを創造することで小さな神体験を回収します。

思考は真理を見つけることはできない

思考こそが真理を隠す

これはもう本当にギャグです、何か苦しいことがあった時に思考が必ず湧いてきてこの問題を解決しようとします。これはもう自動反応として起こります、何も問題はありません。ですが多くの方がなぜ苦しんでいるかと言えば真理から離れた人生を生きているからです。それが苦しみを生み出します、そして真理から遠ざけるメソッドこそが思考なのです。これが自分自身であるという思考こそが自分を全体から切り離し、あらゆる単語を記憶することでこの幻想の世界を成立させています。その思考が苦しい時に湧いてきて、、、今回の問題はこうではないか??と囁くのです。借金を作り出す金融業者が借金返済のためにお金をさらに借りて事業をしたらどうか??と嘯く感覚と同じです。

思考が苦しみを生み出し、思考がそれを解決する

思考とはリボ払いを勧めるカード会社と全く同じです。リボ払いを勧めておいて実は返せなくなことを画策しています。思考もこれと全く同じ、思考こそがこの苦しみを湧き出す根源であるにも関わらず苦しい時は必ず出てきて思考を使ってこれを解決しようと呟きます。とんでもないメカニズム、闇金融業者、詐欺師です。ですがこの経験を願っていたのが全体です、全体の確信犯的な思考しようということです。そういう意味では思考は何も悪くないのです。

思考は闇金業者

闇金業者というのは実は借金を全体に返済させません。借金を返済させてしまったら利子を取れなくなります。そこで闇金業者は借金を意図的に返金させないようにして利子を延々と取り続けるということを平気でします。思考もこれと全く同じでこの体を自分であるという認識を思考で作っておいて苦しめ、その解決方法を思考で行おうとします。これによって自分=思考という隠密関係を絶対に壊さないようにするのです。自分に根本解決をさせない、、どこまでもしゃぶり尽くす、、これが思考の罠、闇金業者の罠です。