開放性

情報を得れば得るほどに

TVの垂れ流し

我々はネガティブなニュースを観れば観るほどにそれが真実であるという錯覚を起こすので、、観念を書き換えていきます。このまま行くと大変なことになる、、、この恐怖感が消えないわけです。ですからなんとかこの恐怖から脱げるためにそれを回避するための行動を取るようになるのです。ですがこの行動が楽しいわけがないのでその道には常に苦悩が続きます。

世の中の情報に真実は一つもない

この世界に流れる情報に真実はありません、経済危機、国家財政問題、国際紛争問題、、、あらゆる恐ろしいニュースが流れますが、、これらは全て現象に過ぎません、、現象というのは現れて消えていくものであり、、それを真実であると取ることしかできないのです。本当の真実は、、、全部私の中で起きている、、ということだけです。この開放性の中でただ現象が起きては消えてを繰り返しているのです。

三億円の宝くじ

もしもあなたが三億円の宝くじに当たり、、、全くもって経済的な問題を気にする必要がなくなったとしても、、、実はこの苦しみは消えることはありません。それまでお金の心配をして生きてきましたが、、それが無くなった時に、、、ハッピーな人生が始まるかといえば全然そうではないのです。次の日から苦しみが始まっているのに気づくはずです。それが本当の私は誰だ????という憤りです、違和感です、そこからの孤独感、分離感です。この体の中の「私」をやっている限り苦しみから脱却することはできないのです。

救うべき人は誰もいない

全ては開放性の表現

この世界は開放性による開放性のための開放性のドラマです。このドラマに個人というのが居るように見えるのは非開放性という自我を見かけの上で作ることに成功したからです。ですが実際には開放性の中で起きるドラマですから真の非開放性は存在できないのです。そしてそのドラマに出てくる見かけ上(非開放性)の人々は開放性の上に立つ見かけ上非開放性の人々です。このドラマでは見かけ上非開放性に映る人物しか出演はなくよってその本質は全員が開放性の中に居るのです。

私(非開放性)を含め最終的な運命は全員が決まっている

この舞台は開放性の舞台です、、その舞台の中で非開放に見える存在が現れました、それが私あなた、、その他大勢の人々です。私そして彼らは見かけ上非開放性ですがこの開放性の世界の中に真の非開放性は存在できません。よってこれは全て見かけ上、錯覚に過ぎません。ですから救うべき人は実際におらず、、何も問題がないのがこの開放性の世界の特徴です。勿論ドラマ上は救うべき姿に一見見えますが、それはそう見えるだけ、そう感じるだけです。

かといって

かといって目の前に車に轢かれそうな子供が居れば助けるでしょう、、それで勿論問題はありません。ですが不幸にして助けることができなくても、、それはこの開放性の中のドラマでしかないことに気づかなくてはなりません。非解放に見える全てのキャラクターは実は開放性でしかなくつまり最初から救われているのです。

願いが叶ったその瞬間

何も得る必要がない状態

受験勉強に成功し志望校に受かった瞬間、就活に成功し志望企業に受かった瞬間、最良のパートナーを得た瞬間、、これらの瞬間人は、、、もう何もいらない、、という満足感を得ます。お腹がいっぱいという感覚よりも真の安らぎをその瞬間に垣間見るのです。その感覚が忘れられないがために人は次の目標に進むわけです。ですが実はこの手に入れた瞬間の苦しみから開放された感覚こそが開放性、真の自己の感覚なのです。

何も心配ない

多くの人は次々と目標を叶えていくことでこの真の開放性に出会う経験を実はしているのです。その経験は絶対に忘れることができない経験なので人は中毒になり次を追いかけるわけです。ですがそれは対象を手に入れるというやり方では常に一瞬、一過性のものであることも徐々に気づいていきます。すると人は対象ではなく真の自由、真の安らぎ、真の平和はどこにあるのか????という疑問を持つのです。

未来ではなく

未来に常にその対象を求めてきたのですが、、そのやり方では当然一過性の幸福を追いかけるだけであり、、そこに答えがないことに気づきます。すると初めて「悟り」という言葉を思い出すのです。そういえばそのような言葉があったなーです。関心が手に入れるではなく手放すに行くようになります。するとこのドラマ上でそれらに関する情報が集まり始め真の探求が始まるのです。

開放性が私(非開放性)を再吸収する

質問が消えるまで

この世界は開放性の中で繰り広げられる閉鎖性(自我)ゲームです。この舞台は間違いなく開放性でありですが自分とは閉鎖性、非開放性の存在です。開放性の中で非開放性(自我)が活動するのは矛盾しています、そのため非開放性(自我)は常に常に異分子扱いを受けるのです、この開放性の中で。つまり存在をイメージした瞬間に(お前は誰だ???)が湧いてきてそれがこの体に反応し違和感、憤りとなって発生します。その憤り、違和感を非開放性(自我)はこのストーリーの中で何を手に入れることで解消するという旅にでるのです。これが開放性が作り出した非開放性ストーリーです。

開放性が開放性に目覚めると

このカラクリが溶けて非開放性である自我が開放性の中に溶けてなくなった場合(開放された)、、質問が出なくなります。それまではなぜ?????がお前は誰だ????がエンドレスいに開放性の中で起こり続けるわけですが、、これがもう起きないのです。開放性が非開放性(自我)を認識できないからです。すると小さい子供のように真の安らぎの中でただ遊ぶが始まるのです。

開放性はいつ私(非開放性)を再吸収するのか????

私はこの開放性の中で存在する自体が苦しいのですから、、開放性を探しまくるわけです、、どこにあるのか???です。そしてどうやらこの世界(非開放性のドラマ)には存在しないことに気づきます、この気づきは開放性の中から起きます。すると関心が開放性に向かいます、、このドラマは関心が投影された世界ですから、開放性に関する情報が出現し始めるのです。そして開放性が開放性に関する情報を読み込み続け、、非開放性の自我の存在に関心が行かなくなることで非開放性の自我は感覚が薄れていき最終的には忘れ去られます。

開放性として、、

そこからは開放性の中でこの見かけ上の体が、、真の安らぎの中で活動します。そこにはかつての非開放性はこの体の中には存在せず周囲の非開放性に見える人間関係の中で生きていくのです。真の安らぎ真の平和の中で子供が遊ぶような活動が始まります。