マリオ

世界一嫌われるメッセージ

今までの苦労を返せ

我々がなぜ一生懸命勉強し、努力し、運動も頑張って友人作りも頑張ってきたのか?????それはこの体の中に自分が居てだからこそこの体を生き伸ばせていかないといけない、、、そう信じてきたからです。だから人よりも努力して人より我慢して耐え抜いてきたんです。にも関わらず「この体の中に自分なんていないですよ!!!!」なんて冗談じゃない、、、私の人生を返してください。。。という話です。

でも居ないんです

それでも居ないんです、メカニズムを理解すれば明白なんです、、、、自分とは、、、たまに湧いてくる概念、感覚でしかないのです。この画面上に現れる感覚、概念です、、そしてこの体もこの画像には頻繁に出てくる映像でしかありません。この体という画像、この自分という感覚思考というちょいちょい出てくる現象を、、、絶対居るよね!!!という固定観念が支えているんです。ラスベガスのショーは、、、子供から見たら真実なんです!!!!このマリオゲームは大人が見たら真実なんです。ですが覚者から見たらショーです。

ショーと見抜いて今を生きる

それが分かって何が変わるんですか????結局やることは一緒ですよね!!!!変わるに決まっていますよね、、だってラスベガスのショーを本物だと思ってあの舞台で生きていたら大変ですよね。。。。人間が真っ二つに切られるのを真実って、、、怖過ぎないですか????つまりこの現実は本物だと思って生きたら怖すぎるんです。。。。。でもこれがショーだと分かっちゃったら、、、変わりますよ、行動が。

量子力学

観測者の影響を受けない結果はない

これが夢であるという理論は次々に出てきています。。。量子力学などはその一つ、、、観測者の影響を受けない観測結果はない、、ということをこの量子力学は証明しようとしています。つまりここで起こる現象の全てはその結果を観測する人間の観念の影響を受けるということです。これって毎晩毎晩見る夢で、、、完全にみなさん分かっていますよね?????

夢の中で観察者の影響を受けない夢はない

毎晩毎晩見る夢で、、、観察者の影響を受けない夢ってありえないんです。そしてこの現実と呼ばれる世界も全く同じなのです。ではその観察者って誰ですか??????この現実を生き抜くマリオじゃないですよ!!!!マリオもまたこの現実と呼ばれる夢で、、見られる側です、体験されられる側です。今この現実と呼ばれる夢を見ているのはこの現象に気付いている存在です。私と呼ばれるマリオではありません。

幼稚園児まではこのことは分かっていた

幼稚園児ぐらいまではこのことは分かっているんです、、私とはこの体以上の存在で、、この夢自体を創造している実感があるわけです。創造主がしっかりとこの分離体験を楽しんでいるのです。ところが、、言語を覚え、、嘘を信じることをやらされていくことで徐々に創造主としての実感が薄れていったのです。特にTVはさもこれが現実だ!!!のノリでそれっぽく流れてきますから、、、大人になる頃には完全に騙されます。

マリオから起こる思考の内容に着目する

マリオが居ることを前提の内容を無視する

あの人私のこと嫌っているのかな???これはマリオが居る前提の思考です、、無視で大丈夫です。私の人生って今度どうなるんだろう????これもマリオが居る前提の思考です、、無視で大丈夫です。この服を着たらあの人からどうみられるだろうか????これもマリオが居る前提の思考です、、無視で大丈夫です。マリオから湧くほとんどの思考はマリオが居る前提の思考、マリオのための思考でしょう、、、これらは無視でいいのです。

それで上手くいく

ちゃんと思考しなかったら行動ができませんよ!!!それがそうじゃないんです、、それが全く関係ないんです。行動は勝手に行動として起きるんです、、、そこに気づいてください。。。郵便受けに届いた電気代の書類に思考は必要ないんです、、ただ払うだけですから。友人に会う前に事前にあれやこれやと会話の内容を準備する必要ってありますか???ないんです。行動は次から次へと勝手に起こるのです。その行動を捕まえて「本当はこうやったほうが良かったんじゃないか????」と思考が起こるかもしれません、、無視で大丈夫です。なぜならばその思考こそが「私が居る」をイメージ化させる思考だからです、、しっかり把握しますと「苦しい」が生まれるのです。この苦しみが邪魔なんです。

「私」前提の思考は邪魔

思考のほとんどは私が居る前提の思考であり、、この思考はイメージ化されて「苦しい」を生み出します。結果(幸福)とはつまり熟考が生み出すのではなく、、、思考しないことで生み出されるのです。多くの方は勘違いしているのです、、、思考して思考して少しでも損をしないように、、、得をするように、、優位に立てるように、、劣位に立たないように、、、が「苦しみ」を作り出すのです。思考さえなければ得をしても損をしても優位になっても劣位になっても、、、「楽しい」のです。だから「楽しい」を奪わないでください、思考で。

マリオは観察する王のアート

分離はない

この世界には本当は分離はありません、ということは全現象を観察する王、我々の本質は、、マリオ(体)とは分離していないということになります。そしてその通りです。ですがこの現象の世界はどこまでいっても分離しているように見えてしまう世界です。。このマリオも背景の中で自由に個別に動けるように見えるのです。なぜそのように見えるのか???それは観察する王がそう見えることができるから、それだけです。

そう見えることに感動する

本当は全く分離していないにも関わらずそう見えること、これこそがこの世界の脅威なのです、感動なのです。真実が分かってきますと感動のポイントが変わるんです。完全に分離して見えるそのことこそがこの世界が神の遊び場、王の遊び場である証拠でしょう。絶対に分離していないにも関わらずそう確実に見えるということ、、これがアートと呼ばずして何なんでしょうか。。。

だから分離を楽しむ

だからこの分離を逆手にとって楽しむのです、、分離というアートを観察する王として徹底的に楽しむのです。マリオ体験は強烈な分離体験でありそれ自体は何も悪くもありません。ただしこのマリオを完全な分離体であると信じると「苦しみ」が湧いてきます。マリオは分離体験を起こしてくれるアートであるという認識が重要なのです。

マリオの思考に釘付けはやり過ぎ

マリオから湧いてくる思考の数々、、この世界が分離の世界であるという前提のニュースの数々をあまりに信じ過ぎてしまうと苦しくなります。それは嘘です。ですからこの嘘を嘘であると分かってこの世界で遊ぶのか、、、分離を現実と信じ切って遊ぶのかは大きな違いがでます。どこまでいってもこの世界は分離が起き得ない世界なのです、構造的に。

マリオ(私)と王(本当の私)が分離すると

悟った状態

マリオと王が分離した状態を悟った状態と言います、解放、覚醒、ノンデュアリティ です。もうそこにはマリオを自分だと勘違いする王がいないんです。ではその時マリオはどうような活動を起こすのでしょうか?????マリオそのものの行動を起こします、、、マリオのキャラを謳歌するのです。そこには王を目指さなくてはいけない、、、という負荷も重荷も重責もなく、、ただマリオが起こるのです。これを真の至福、平和、愛と言います。

何かになろうとしないマリオ

私はマリオだ!!!という勘違いが抜けた王は、、、もうマリオに成り切って何かを目指すという動きが起きません。だって最初から今も王で、、、この現象の全てに気づいていますから。クッパの動きもノコノコの動きもクリボーの動きも全部把握しているのは王で在る私です。マリオにはその能力は一切備わっていないのです。だからこれからはマリオを大きく見せなくていいんです、マリオを目立たせる必要はないんです、バカにされたと怒らなくていいんです。いつでも私は王としてこの場所に君臨しているのですから。

マリオを好きにさせると

本当の私としてマリオ(私)を好きにさせると、、、、緊張感がありませんからマリオが周囲から好かれるという皮肉が生じます。今までは一生懸命王がマリオに成り切って好かれよう評価されようと頑張っていたにも関わらず、、、マリオ(私)を好き勝手させれば、、、逆に人気者になっちゃうんです。だって全くもって狙いがないから、打算がないから、駆け引きがないからです。

マリオの思考から離れる

マリオからはあらゆる思考が生じます、、あれが欲しい、これが欲しい、あれをしたくない、、あれもしたくない、、、これらの思考に王が執着することで苦しみが生まれます。。。。全部放置です、、、勝手に生まれた思考は勝手に消えますから放置です。マリオの勝手な行動も勝手に起こり勝手に消えます、、だから放置でいいんです。王がマリオの究極の観察者に戻れた時、、、ゴールです。

騙される

悩める人々

私の前にはあらゆる悩める人々が登場するでしょう、恋愛で困っているように見える人、仕事で悩んでいるように見える人、進路で悩んでいるように見える人、結婚で悩んでいるように見える人、、、ですが全部が全部そう見えるだけで本当は何も起きていません。世界から貧困を無くそう!世界から孤独を無くそう!!!素晴らしいスローガンではありますが、、真実とは異なります。

見える全ては幻想

せっかく私がこれだけ頑張って助けたにも関わらず、、、、悔しい、、、、全部間違っています。助けたあの人は実は全く苦しんでいませんでした、全く苦しんでいなかった人を救ったと勘違いし、、代わりに何かを受け取ろうとしてそれが起こらず、、さらに悔しがる。。。。が起きました。最初から救うべき人はこの世界には存在せず、、だから助けても感謝も起こらないが起きたのです。

クッパもノコノコもクリボーも

クッパ、ノコノコ、クリボー、、全部幻ですから、、悩んだり、苦しんだり、怒ったりは彼らには起きません、経験者風の雰囲気を出しますが、、実は何も起きていないのです。経験者は全部神であり、、その神とは「私」をやっている神でもあります。今この画像、画面、現象で起こる全てを回収する神が今感じていることが全てです。人間関係の悩みとは、、相手の心情を察して、、こちらも苦しむが多いのですがそれの全てから今解放されてください。

なぜ今ここなのか????

今ここが私(神)

神がTVゲームの画面に入り込み、、画面そのものになってマリオをやっているのがこの世界です。つまり神とは画面です、、、画面とは今ここにあります。ところが画面上のマリオは将来のこと、過去のことを悩んでばかり、、今ここに神が鎮座しているにも関わらずこの画像には一切興味を持たず、、イメージの世界に入り込みます。マリオは実は神で画像も全部神だから、、そこが一番のホームにも関わらず、、イメージの世界に入り込みます。ですがそこには神は居ません、、これによってアウェイになり苦しいのです。

今ここに戻る

今ここが苦しいから将来や過去を振り返っているんです、、今ここが安心安全最高ならば、、将来に期待なんてしませんよ!!!!今ここ、画面が神でマリオも神、クッパも神、ノコノコも神で、、、なぜこの世界は争いばかりなのか?????おかしいじゃないですか??????今この世界を見れば争いが起こり続けていますよ!!!だから将来に期待をしているんです。

マリオ(画像)は神だが経験者ではない

マリオは画像です、この画像は間違いなく神です、、ですが、、画像はこの中では経験者にはなれないんです。つまりあなたはマリオとしてマリオの人格として経験を積んでいるつもりかもせんが、、実は経験者は神です。つまりマリオの人格だと今神がそう勘違いを起こし、、その勘違いこそが苦しみを生み出しているのです。その勘違いが終わった瞬間にこの世界には一切の勘違いが消滅し、、神は神の安らぎを得るのです。

マリオゲームの限界点

視覚聴覚以外は体感できない

TVでマリオゲームをやります、、、視覚、聴覚ではこのゲームを楽しむことはできるでしょう。ですが味覚、触覚、嗅覚は全く体感できません、それはずプレイヤーが画面の外に居るからです。ではどうしたら全五感を使ってゲームができるのか???それはどうやったらいいのでしょうか????簡単です、プレイヤーが画面の中に入っちゃえばいのです。プレイヤーが画面の中でマリオに一体化すれば、、五感を使ってやれます。

だがしかし

残念!!!!マリオの中にプレイヤーが入り込んでも、、周囲はデジタルですから、、触ることはできません。クッパもノコノコもクリボーもデジタル画素ですから触れもしないし、匂いもない、味も全くしないんです。マリオの中に入っても無駄でした。違います、マリオの中じゃだめんです、、画面そのものになってクッパもクリボーもノコノコも全部中に入るのです。すると全デジタル画像がアナログ(リアル)になるんです。

画面になっちゃったらマリオ(主人公)を味わえない

いや、、それじゃあ、、、全画面だから、、マリオをやっている感が全くないですよね?????私がマリオに成り切ることが出来ないじゃないですか????いやいやそれができるんですよ!!!だって今までもマリオじゃないのにマリオになり切っていたじゃないですか???全画面になっておいてマリオになり切るのはできます。

感情じゃない

ゲームをやっている時の感情は全部フェイク(刺激)

TVゲームをやっている時の感情って全部フェイクなんです、、毎日毎日ゲームに夢中になる少年はその中で喜怒哀楽の全てを堪能するかもしれません、、、毎日毎日ゲームをやって「悟った」「解放した」「至福に至った」ってならないんです、、なぜか????それはゲームの主人公に成り切った状態で味わう全ての感情はゲームの主人公になり切った故だからです。これは刺激なんです。

人間をやっている時の感情は全部フェイク(刺激)

この人間ゲームを自分がやっている間に味わう感情の全ては全部フェイクです。卒業式、受験失敗、卒業旅行、友人との親和、、、仲間との絆、恋愛、結婚式、、全部フェイクです、、主人公をやっている間は。なぜ毎日毎日感情を求めるのか????それは主人公は私だと思っている間の感情は全てフェイク、刺激でしかないからです。だから毎日必要なのです、何かしないといけないんです。

自分ってマリオじゃないかも、この体じゃないかも

本当の安らぎ、本当の愛、本当の平安って、、、自分ってマリオじゃないかも、この体じゃないかも、この思考じゃないかも、、、ていう気づきから起きます。要は一生懸命マリオやったりこの体をやっているうちは起きえないのです。「このマリオ、この体、この思考、この感情が自分」っていう思い込み、感覚が苦しみを生み出し、それを一瞬でも忘れるためにあらゆる感情が起きていたんだという気づき、、それが真の安らぎ、真の愛、真の平和を生み出します。

言葉とはゲーム用語

ゲーム用語で本体を語る矛盾

ゲーム用語ってゲーム内でしか成立しないんです、マリオ、クッパ、ジャンプ、Bダッシュ、、全部スーパーマリオゲームの中でしか通用しない言葉なんです。我々のこの言葉とはまさにこのゲーム内幻想内夢内でしか通用しない言葉なんです。だからこの言葉で真理を語ろうってこと自体が無理ゲーなんです。語れば語るほどにゲーム内夢内に入り込んでいくんです。

悟り、解放、解脱

この言葉を使った瞬間に全体はこの言葉を読み込んでイメージ化します、、このイメージの世界がこの夢、ゲーム、幻想を作り出すのです。だから「私を解放しましょう!!!!」という言葉はそのまま全体に読み込まれイメージ化されます、、私が解放されるイメージが誕生します。ここから抜けたいにも関わらず。だから覚者は「黙して語らず」「言葉が指し示す先に悟りがある」「あなたが悟るのではない」と意味不明な言葉を発するのです。言葉はこの世界に誕生した瞬間イメージ化されるのです。

イメージの先にあるもの

言葉が作った世界から抜け出すためには言葉が何をしているかに気づく必要があります。言葉がこの世界に誕生した瞬間に何が起きているかが分かれば今ゲームが上映されていることに気づきます。ゲームが上映されていることが分かればもうゲームの外に居ることになります。ゲームの外に居るのは誰ですか????「私」ではありませんよ、だって「私」はゲーム内のキャラですから。つまり私から脱出できているんです。そこには本当の安らぎ、平和が漂っています。