マリオ

ゲームをクリアしたマリオは探求の旅に出る

マリオゲームクリアの次に来る絶望感

マリオはゲーム進行中はそれほど迷わないものです。ゲーム中はゲームクリア以外にそれほど思考が巡らない。ところがです、いつの間にかクリアしてしまった、ここが実は地獄の始まりです。多くの場合はもう一度ゲームを最初からスタートするか次のマリオゲームにチャレンジする。そういえば友人がマリオカートも面白いと言っていたな、、こういう発想になり次はマリオカートへのチャレンジがスタートします。ところがです、マリオカートもクリアしてしまった、、そうなる次はマリオゲーム最難関のマリオスタジオにチャレンジ、次はマリオインターネットプレイを、、と難易度を上げ続け、、、最終的にやることがなくなる。。。。これがマズローの欲求5段階の流れです。安全欲求から始まり所属の欲求、承認欲求、社会的欲求、自己実現欲求と階段を上っていくわけです。そしてその階段も上ってしまったらどうするか?ゲームを辞めるしかありません、それが自己超越欲求です。マリオとしての卒業です。

そもそもマリオゲームってどんな風に作られているのか?

これがマリオが疑問に思う次の衝動です、散々自分はマリオゲームに時間を割いてきた、、そして次から次へとゲームをクリアしてきた、、もうここからゼルダシリーズに切り替えるパワーも好奇心もない、、、ということでマリオはマリオゲーム製作秘話に興味を持ちます、というよりもそこにしか救いがない。マリオはこのゲームの仕組み、カラクリに興味を持ち始めていくのです。そして調べていくうちに面白い事実に突き当たっていきます、マリオは実は幻想でマリオの中に人格も個人もいないという話。???どういうことだ?この自分がいない?マリオはこの話を聞いても全くピンときません。今まで散々この体に鞭を打ってゲームに没頭してきた、常に一進一退の攻防を繰り広げ生き抜いてきた自分がいない?意味がわからない、、こうなります。

一番の驚きは自分が進んでいたのではなく、画面が動きマリオが進んでいたように見せていた

マリオにとって大きな驚きの一つは、、自分が進んでいたのではなく背景が変化していたということ。自分が前に進んでいたと思っていたら実は背景が変化して進んでいたように見えていたという事実。自分が動いていなかった????自分というものが動こうと意思が働くとなんと背景が変化していたのです。こんな恥ずかしい話あるでしょうか?進んでいたと思っていたのは自分だけで実は全体がそう見せていただけ、、、恥ずかしい。。知らなかったのはこの自分だけ。そうです、このマリオゲームで勘違いをしているのはマリオだけです。クリボーもクッパもプヨプヨもマリオにとっては全体の一部で、マリオだけが自分が動いていると勘違いしていたのです。

人間ゲームに戻ってみる

我々人間も全く同じメカニズムで勘違いしています。自分がこの背景の中を歩いていると勘違いしています。実は全く別です、自分が動こうとすると背景全体が変化しているのです。駅まで歩けば背景が変化し続けていきます。このゲームの中心には常に私が存在し私を中心に背景、全体が動き続けるというストーリーを我々は生きているのです。そしてこの私が経験した全てを記憶機能に記憶させ「我が人生」が作り出されていきます。何か事件があった時にはこの記憶を遡り何が原因かを考えます、そしてこの記憶の中から最適解を探し出し解決を図るのが人間です。

選択を失敗したマリオはいない

選択を失敗したと思い煩うマリオ

マリオがどれほど思い煩い自身の失敗を悔やんでいたとしてもそれは茶番です。マリオがクッパとの対戦で大間違いを起こしジャンプするところをダッシュをしてしまった、、このことについて10年以上悔やんでいる、、これは無意味です。なぜならばジャンプボタンと間違えてダッシュボタンを押したのはマリオではないからです。それはプレイヤーです。もしもマリオに記憶機能があり過去の失敗を悔やんでいても無駄です。記憶機能が作り出した幻想ということになります。記憶ははっきりとマリオの失敗を記憶します、ジャンプではなくダッシュをしてしまったマリオ自身を。ですがこれは記憶違いです。本当はプレイヤーがジャンプボタンの代わりにダッシュボタンを押した、、、これが真実です。

記憶とは勘違いを明確に刻んだモノ

記憶機能とはマリオの行動を完璧に記憶していきます、記憶が重なれば重なるほどにマリオの失敗傾向、気分の浮き沈み、マリオの長所、マリオの交友関係、マリオの対キャラ別成績表が刻まれていきます。最近のマリオは調子がいい、過去何年間は気分にムラがあり失敗が多かった、、、と反省もできるし喜ぶこともできる。ですがこれは全部幻想です。マリオは一度たりとも自身でプレイしたことなどないのです。記憶がそう確実に見せているだけです。5年前のマリオは頭がキレキレで冴えていた。という感じです。残念ながら我々人間もこのパターンです、自分で全部決めていると思っていますが実は決めていません、そう思わされているだけです、記憶と自我のメカニズムによって。

だったら徹底的に自暴自棄になってやる、、、

自分の意思でプレイしていなかったと突然気づいたマリオは、、、絶望し、呆気にとられ、、もうプレイする気力がなくなります。そんなバカな、、、、もうプレイはしない、、、もう冒険はしない、、冗談じゃない、、、こうなります。ヤサくれます。さじを投げます。焼け酒に走ります。、、、ですがまた次の日に冒険に出ました、、、なぜか?マリオに自由意志はないからです。マリオの感情に関係なくプレイは続きます。これは人間も同じ、今日まさかの真実に気づき自分は何も選択していなかったと分かっても明日も何か選択をしていきます、明日からも選択の日々が続きます。ただし人間自分としての選択は皆無です。ただ選択したと思いこまされる日々が続くだけです。

人間ゲームの製作過程が面白い

人間だけが自分の人生を歩む

「我が人生に悔いなし」これは人間ゲームとしては最高の言葉、、ですが悟りの観点から説明すれば「自分の人生はなかった」これが答えです。マリオの人生はなかった、、、これがマリオに訪れた悲劇の気づき、、、でもこれでマリオは救われます。もうクッパとの格闘で胃酸過多にならなくていい、円形ハゲにならなくていい、、ストレス性アトピーにならなくていい、、、嘘だ、、これだけ壮絶な戦いを続けてきたこの人生(マリオ)が作り物だったとは、、マリオという全体と完全に分離した存在が誕生したことでいきなりマリオの大冒険が始まったのです。クッパもプヨプヨも、ノコノコも全部敵、ヨッシー、ルイージなど仲間はいるがみんな分離した別々の存在ということ。マリオが断固として確実に存在するのだというこの間違いが全てを起こします。

この体は確実にある。。。

この体は確実にあります、ナイフで刺せば痛い、抓れば痛い、くすぐれば耐えられない、、ですがこの中に「自分」がいるというのは記憶をベースにしたアイデアです。マリオの中に人格があると錯覚するのと同じです。この体の中に別個の人格がありその人格向上こそが人生、、これがこの人間劇場を作ります。人格も個性も記憶に基づいたアイデアです。もちろん、クッパ、ルイージ、よっしー、このボディーによって活動、性質が異なるのは間違いありません。ですがこの中に人格があると考えると途端にその人生がスタートしてしまうのです。経験を記憶できることによって経験者(マリオ)が誕生しマリオの人生がスタートしたに過ぎません。

それでも周囲は皆我が人生を生きている

自身がマリオであったと気づき全体が作り出した一部に過ぎないと自由奔放に生きていても周囲は皆自分の人生、我が人生を生きています。周囲は皆人生を考えろ、老後の人生を慎重に考えろとアドバイスをしてくるでしょう。どんなに周囲が「自分の人生」を生きていてもそれは思い込み、錯覚であることを知ってしまいますともう真剣に聞くことはできません。地球が回っていることを知ってしまった後に、天動説集まりの会に参加しづらいのと一緒です。どんなに周囲が人生を生きていても、人生とは記憶が作り出したストーリーであることに違いはありませんから事実に向かって全体は動いていきます。

マリオは覚醒後全体とともにプレイが続く

マリオに何かが起きるわけではない、視点が変わる

覚醒とはこのゲームのメカニズムは理解できてしまうことです、腹落ちすることです。覚醒後マリオはゲームのキャラに成り下がります。それまでこれは現実で自身でこの自分だけを頼りに必死に生きてきました。ですがそれからはこのゲームのキャラ、主人公としてのキャラの全うだけが役目になります。この広大な宇宙で頼れるのは自分だけという絶望状態が終わり実はこの宇宙そのものでその中でマリオというキャラを演じていたことに気づきます。マリオという分離した存在はいなかったというビックリするオチです。しかも自由意志と思い込んでいいたこの思考は全体からの現れであり、記憶に基づいてこの思考が湧いていただけだという理解が起こります。感情も記憶とリンクしてこの得体のない不足感、孤独感が変換されたモノだったという気づきが起こります。

気づきの意識はマリオにはなり切れない

全体、気づきの意識はもうマリオになり切って頼れるのは自分だけという心境にはなれません。マリオの裏にプレイヤーがクリエイターがいてそこから自動運転が起こっていたという気づきの後に再びマリオに成り切るのは不可能です。記憶のメカニズム、自我のメカニズムの解明が起きることでもう自我に1日中振り回されることもできなくなります。これまでは何か悲惨な事故にマリオが巻き込まれると、、過去を振り返り何が悪かったのか、何の準備が足りなかったのか?親との関係か?など記憶との格闘が始まりました。ですがその記憶に頼った格闘こそがこのマリオをストーリー夢に引き込む要因です。マリオという分離した存在が所有した記憶に答えを求めてきました。ですがこれが錯覚であることに気づくのです。起きた事件は全体がただ起こしただけ、それにマリオが関わっただけ。もしくはそれを自己として認識するマリオがいただけということになります。全体が起こす出来事に本来は善悪はないのです。

何か事件が起きる度に反省を続ける人間

何か事件が起きる度に反省を続けるのが人間です、事件は全体が起こしたモノでありそこに善悪は全くありません。全体が作り出したアートです。そのアートが人間にとって都合が悪い時にそれを深刻に受け止め反省します。全アートが人間活動を重くしていきます。そうではなく全体が作ったアートとしてそれを観察しマリオは今日もやりたいことをしていきます。自身が全体、気づきの意識であることを認識しマリオをプレイしていきます、全体と、全体がプレイするマリオの遭遇がただ起こり続けていきます。マリオと脇役との重要度の違いはもうなく、マリオも脇役も同価値、同列です。マリオと同じぐらいに価値がある脇役がたくさん出てくるのですから楽しい。

マリオは気づいた、苦しんでいるのは自分だけだ

マリオゲームで苦しんでいるのは自分だけ

マリオゲームの中で感情を持っているのはマリオだけ、マリオだけが苦しみ、楽しみ、喜び、落ち込んでいる。クッパもプヨプヨもノコノコもクリボーも苦しんでいるようには見えない、、これがマリオゲームの真実です。人間ゲームは違う、自分は確かに苦しんでいるが、、他の人間も苦しんでいる、、、いやそれは違います。この人間ゲームはそのようの見せているのです。苦しんでいるのは自分だけではない、、そう見せています。ですから覚者は問う者に伝えます。あんたがただ解放されればいい、あなたがただ真実に気づけばいいのだと。マリオにとってクリボーの存在が関係ないように、この人間ゲームも私が真実を知ればいい、ただそれだけです。

楽しめるのもマリオだけ

この人間ゲーム、自分だけが世界中の不幸を背負っているそのように見ることもできますが楽しめているのはこのゲームの中で自分だけです。だから楽しみを何も考えずに追求すればいいのです。他者は所詮ゲームの脇役キャラでしかないのです。ただこの楽しみを追求するのがまた厄介でそれはそれで骨が折れるのです。楽しみ続けるって実は難しいのです。買い物を追求しても、食事を追求しても、異性を追求してもハードルは上がるばかりです。もしくは途中で飽きます。

全体から分離しているのは自分だけ

この自分ゲームにおいては全体から分離してるのは自分だけです。この体と言い切るのも間違っています、例えば腸の動き、血液の動きなど自身が全く感じることができない動きは全体が行なっています。足を動かした時にそれを感じるのはそれを行なっているのは自我、自分だからです。体全部が自分が動かしていると思ったら大間違いでほとんどは全体がこれを行なっています。全体が全体としてそれを行う時、それを感じることはできません。例えば傷を負ったとしてもそれを治すのは全体です、ですから傷が治る感覚を得ることなく勝手に傷が治ってしまうのです。思考がわき起こる時にそれをしっかりと感じるのはそれについては異物(自我)が関係しているということになります。

マリオは気づいた、動いているのは自分ではない

マリオゲームをやっていても騙される

大人はマリオゲームをやっていると気づきます、動いているのはマリオではない、背景だ。ゲームクリエイターならばそれは常識、キャラがゲーム上を自由気ままに動いているように見えますが動いているのは背景です。これはこの人間ゲームも同じ、動いているのは人間ではない、背景です。ではなぜ人間が動く感覚は実感できるのに、全体、背景が動くのは実感できないのか?これはこのブログ史上最重要質問です、答えは簡単、自分自身が実は背景そのものなので自身の動きに気づかないのです。いやそんなことはないではこの私の動きを私が感じるとはなぜだ?これも最強の質問、自分自身が背景そのものだからこの体(自分)異物の動きを敏感に察知しているのです、全体が。いや全体が察知していない、察知しているのはこの自分だ、違います。全体が察知した経験を自分(異物)のモノとしているシステムこそ自我です。

マリオは何も知らずに今日も自分が動いていると活動する、呑気者

この地球に住んでいる人間の中でどれだけの人がこの事実に気付いているでしょうか?恐らく1%もいないでしょう。この自分の五感、感覚、経験には絶対的なモノがありこのカラクリを見抜くのは至難の技です。ですが覚者と呼ばれる人々の意見が一致していることからもこの新しい事実は真実です。天動説が地動説に切り替わった時の大発明、「動いているのはマリオではない、背景である」「動いているのは人間ではない、全体である」動いているのはマリオではなく背景だ、、、この事実を突きつけて驚く大人がいないのは当たり前だからです。ですが人間に置き換えると途端に納得がいかなくなる、なぜならばそれほどまでにこの人間ゲームは緻密だからです。

大人を信じるな、大人は人間の苦しみを全く解決できていない、、

思春期になり大人に近づく若者が親のことを絶対的に信頼していない理由は何か?それは両親が幸福そうに見えないからです。ほどほどには幸福そうに見えるかもしれません、ですが絶対的に幸福には見えない、むしろ日々のニュースに狼狽、振り回され、絶望すらしているではないか。若者が将来に対し日々不安になっていくのは当然です。答えは簡単、地動説を信じこの自分の存在を勘違いした状態で至福に至ことは不可能ということです。

自分活動が非常に疲れるのは記憶と一体化しているから

PCが重くなっていくように自分も重くなっていく

マリオはどのステージに進んでも行動が重くなることはありません。マリオはステージを変えていっても何かを背負っていくことは基本ないでしょう。ですがこの自分は経験を重ねていくた度に記憶が増えていき何か新しいチャレンジをしようとすればその記憶が作動します。何をしようとしても記憶の照会作業が始まり過去にはこういう失敗があったなど思考がグルグル回転します。さらにその時の記憶から感情が湧き出しその感情にも振り回されるという始末。大人になると気軽なチャレンジができなくなるのはこのためです。子供の頃はなんでもやってみたいで実践できたのが、大人になるとやってみたいの後に記憶に裏打ちされた情報が脳内を飛び回り結果やらないという思考が湧いてきます。何かを始める前から異常に疲れるという始末です。

一年間を通じて結果何もチャレンジできなかった、、となる

人間ゲームにおいてこの自分は記憶を溜め込んでいきます。これまでの何十年間分の記憶が溜まっているわけです、結果何か新しいことをしようかなとアイデアが湧き上がってもこの記憶からあらゆる感情、思考が湧き上がりグルグル状態に。そのまま疲れて何もしないが継続します。年々何もチャレンジできなかった傾向が強くなっていきます。そして最終的には何もチャレンジしないのがデフォルトになります。好奇心は消え去ります。

記憶を頼りにすれば結局何もしなくなるのが分かったら

人間ゲームにおいて記憶を頼りにすれば確かにこの体を安全に維持できる可能性は高くなります。ですが安全を確保した結果として人間が人間ゲームをプレイしている間は不足感が解消することは絶対にありません。安全だろうと危険だろうと不足感は絶対に無くならないのです。この二元の世界、ゲームの中で人間としてのゲームが継続する限り快楽も苦悩も不足感の根本解消にはならないのです。それが分かってきますと記憶を頼りに思考や感情に振り回されてもあまり意味がないことが分かってきます。マリオ同様にゲーム上は安全にプレイできてもそれが根本解決とは何も関係がないのです。身も蓋もない話ですがマリオも人間も記憶を頼りにこのゲーム上で上手く立ち回っても不足感、分離感、退屈感という罠から抜けれることはありません。このメカニズムを理解してキャラクターからプレイヤーに、プレイヤーからクリエイターへのシフトが大切です。

人間ゲームの最重要機能、記憶

恐らく脳は記憶を受信する場所

スーパーマリオが大ヒットした当初記憶機能というものが存在しませんでした、ゲームはスタートしたらまさかの最後まで一気にクリアーしないと完結しなかったのです。記憶機能が存在しないからです。ところがスーパーファミコンが誕生してからスーパーマリオには記憶機能が完備しました、これにより途中でゲームを辞めても次の日は続きからプレイできるようになったのです。この人間ゲームは当たり前ですが記憶完備です、朝起きればしっかりと昨日までの記憶が蘇ります。ではその記憶はどこにあるのか?人間はこれを脳にあると認識しています、脳が機能不全を起こすと記憶が飛ぶからです。ですがよく考えてみてください、マリオゲームの記憶はマリオの中には存在しません、マリオゲーム自体に記憶されます。ということはこの人間ゲームの記憶は人間ゲーム自体に記憶されている可能性が高い、そしてその記憶をリンクさせる場所が脳ではないか、、、ということです。その証拠に幽体離脱をした人間の話を聞くとしっかりと過去の記憶を持っている、、、

人間ゲームとしては人間は脳に記憶がある

この人間ゲームとしては脳に記憶がしまってあります、ゲーム上はです。ですが本当は人間ゲームそのものに記憶があります、全体、神にあるということです。神制作人間ゲームにおいて記憶が人間の脳の中にだけあるなど考えられないということです。ゲームがスタートするとゲーム上人間の脳の中に記憶は貯蔵されます。人間ゲームのゲーム進行上どこかに記憶がなければゲームが成立しないということです。脳の記憶障害を起こした人間がある日突然記憶が戻ったということがあるのは記憶は神全体、ゲーム全体に記憶されていてそことのリンクが戻ったということです。スマホのデータがクラウド上に存在するように人間の記憶もクラウド、神、全体に存在します。

テクノロジーの発展はこの人間ゲームの種明かし

私はこの人間ゲームをマリオゲームで例えて説明しますが、、人間が発明したテクノリジーはこの人間ゲームの種明かしにあまりに最適です。釈迦やキリストがこの世のカラクリを明かした時とは違い説明が楽すぎる、、、どうやら神は人間ゲームの種明かしをする時期に今を設定しているのでは?そのような疑問が湧いてきてしょうがありません。一時期若者のことを悟り世代と呼んでいましたが、、これはあながち間違っていない。積極性がなく無欲な若者を悟り世代と言って揶揄していましたが違った意味でこれが真実を突いているかもしれません。

マリオゲームは2時間、人間ゲームは16時間が限度

プレイヤーはゲームが終われば夢から覚める

プレイヤーがマリオゲームに熱中している時はマリオになり切っています。自身がまるでマリオであるかのように感情丸出し、思考丸出し状態です。悔しがり、喜び、歓喜に狂い、マリオに成り切ります。ですがゲームに疲れてゲームを辞めれば元の生活に戻ります。マリオになり切っていた自分からプレイヤーに戻ります。とはいえマリオはどうか?もしもマリオに人格があるとすればマリオは常にゲームの中です。マリオが我に帰ってゲームをやらないという選択肢はありません。マリオとはゲーム進行中しか存在できないし、ゲームが始まればマリオの選択肢は大冒険を続けるのみです。マリオと大冒険は常にセットです。マリオとはゲームの中でしか意識を持てない存在なのです。

神は人間の熟睡中は夢から覚める

一方この人間ゲームはどうなっているか?人間ゲーム絶賛活動中、神は人間になり切っています。神などこの世にいないかのように人間になり切ってゲームを遂行します。そして夜が更けて疲れてきた時に人間は熟睡と言って意識を失います。この瞬間神は神に戻ります、人間ゲームに疲れた神は神に戻るのです。TVゲームは2時間ぐらいで疲れ果てプレイヤーは我に帰りますが、神は人間ゲームを15時間ぐらいして我に帰ります。そして人間8時間の睡眠の後また再び神は人間になり切ってゲームがスタートするのです。人間の記憶装置が機能して私は〇〇太郎であるという感覚が戻ることで意識ががっつりここに焦点が合わさるのです。人間になり切った神の完成です。朝は意識が朦朧としますが神意識から人間意識へのシフト期間です。マリオゲームスタート時にプレイヤーがジャンプ練習などをする期間です。

悩みが多すぎると、人間意識から神に戻れない

神は人間活動中にあまりに多くの悩みを抱えますと、意識が人間に集中し過ぎて神に戻れない状態になります。思考がグルグル回り過ぎて人間意識が解除されないのです。そんな時は人間はお酒などを飲んで脳を麻痺させて思考を強制遮断し人間意識から神に強制帰還させます。神にとって人間に意識を合わせている期間は居心地が悪く疲れます。全知全能の神が無知無能の人間になり切っているわけですから当然です。記憶を使い私は人間であるというストーリーに入り込み続けるのは、人間がゲームキャラに成り切る、映画の主人公に成り切るのと同じです。人間は2時間ぐらいでゲームも映画も疲れ果てて辞めます、それはそこに意識を合わせ続けるのはパワーが必要だからです。本当はゲームキャラでも映画主人公でもないからです。

マリオにとっての完璧とゲームとしての完璧は違う

マリオにとっての完璧は、、、

マリオにとって完璧なゲームとはクッパに勝った時に最大限の祝福を受け、ステージが上がるごとに見た目も精悍になっていき、服装もゴージャスに、豪勢な食事にありつけ、、ピーチ姫からの感謝も盛大に、、こんなことかもしれません。ですがゲームとしての完璧さは違います。マリオのレベルに完璧に合った敵が完璧なタイミンングで現れる、一面をクリアーすると二面は完璧な微差でレベルアップされている、低過ぎても高過ぎても駄目、ちょっとだけ難しくなっている、そこが完璧。マリオにとっての完璧とゲームの完成度の高さは全く違うのです。

この人間ゲームはもっと完璧

人間にとっての完璧は、、完璧な家に住み、完璧なパートナーがいて、完璧な仕事があり、完璧な子供が居る、完璧な友人がいて、完璧な週末を送る。。。ですがゲームとしての完璧さは全く違います。その人間のレベルにに完璧に合ったレベルの仕事、パートナー、環境、週末、、、ということになります。マリオがどう思うおうとゲームとは難し過ぎても簡単過ぎてもダメなのです。この人間ゲームも同じ簡単過ぎても難し過ぎてもダメ、、その人に絶妙に合った難易度になっている、これが完璧。人間制作のマリオですら、マリオを扱うプレイヤーレベルに完璧に合った進展をみせることができます。この神制作人間ゲームがそこを踏襲できないわけがない、、もしろもっと正確無比にそこは行われる、そう思った方が賢明です。

今自分に起こっている問題は完璧な難易度

スーパーマリオにチャレンジするプレイヤーは自身のレベルに合ったステージで思考錯誤するはずです。何かの間違いでいつの間にかクリアーしてしまった、、それがありません。初心者は一面、中堅者は4、5面、上級者は最終ステージでの試行錯誤が起こります。これは人間も同じその方が今思考錯誤しているステージこそが最適ステージということになります。この神制作人間ゲームをそのような視点で眺めますと試行錯誤の意味が変わってきて面白くなります。