幻想

真実を知るだけで思考が湧かなくなる

分からないから思考の連打が始まる

なぜ????苦しいんだ??なぜストレスが溜まるのか????考えても考えて思考が止まらないのは?????本質は至福を求めてうるからです。至福生まれ至福育ちの本質は、、そこをしっかりと覚えています。幼少期の至福に包まれた感覚これをしっかりと覚えています本質が。その本質の中にこの私(体と思考)が突如誕生し、、急に雲行きが怪しくなってきました。なんだか知らないがストレスが溜まる????

イヤだイヤだ病

おもちゃをあげても直ぐに捨ててしまう、、全部イヤだイヤだ、、、が始まる。。子供のこんな光景みたことありますよね????お母さんもどうしていいか分からない。。。。至福しかしらない本質に自我が芽生えていくことで、、同時に憤りを感じるようになるのです。自我とは思考です「この体この思考は自分」という思考です。この思考が湧き上がるたびに、、それは体に反応し「憤り」を感じるようになっているのです。星飛雄馬の強制ギブス、、これが自我です。

本当は誰だ????

このドラマ、この映画をみているのは本当の私なんです。本当の私が今このドラマを見ているんですから、、「本当は誰なんだ????」という疑問は常に実は起き続けています。ですがそれが深い深い場所で起きているから気づかない、、だから憤りだけが起こり続け、、その憤りがあらゆる感情に変容しているのです。幼児のイヤだイヤだ病、中学生の反抗期、高校時代の酒、タバコ、大学時代のギャンブル中毒、、などなど。

「この体この思考が私」という偽情報を信じる本当の私

世界80億人が「この体この思考が私」という思考を信じていようと、、この夢を見ているのは本当の私ですから、、、「本当の私は誰だ???」は常に常に起こるのです。本当の私は「この体この思考が私」になる前の感覚をしっかり覚えていますから、これがフェイクなのは分かっているんです。だから思考が湧き出し湧き出し次のアクションを求めるのです。

本当の私とは???

本当の私とは「この体、この思考が私」という偽情報が起こるスペース、スクリーンです。そしてその偽情報に気づく存在です。そしてこの体、この思考を起こす場所です。そしてこの体、この思考以外の現象の全てを起こす場所です、そしてそれに気づく存在です。この大いなる存在の中で私劇場が起きているだけなのです。「この事実を理解する」が起きた時に、、思考の荒波が止まります。「憤り」が消えるのです。

ゲーム上は脳が五感を作っているが実際は気づきの意識が気づいている

マリオの脳には五感を作り出す力はない

スーパーマリオが進化して五感の全てを再現したとしてもマリオがその五感を感じているのではありません。感じているのはプレイしている人間ですよね。これは全く人間ゲームも同じで人間の五感はゲーム上脳が作り出していることになっていますが実際には気づきの意識がその場で気づいています。味覚もゲーム上は舌にある組織から脳に繋がってとなっていますが、、、実際には気づきの意識です。

思考に気づくのも気づきの意識

ゲーム上は思考もマリオの脳内で作り出し脳内で感知しているとなっていますが実際には気づきの意識が湧き上がる思考に気づいているだけです。ゲーム上はマリオが思考を作り出したという思考が湧き出しそれを気づきの意識が気づくのです。ゲーム上はマリオの脳が全思考、全行動を作り出したことになっていますが実際には湧き出した思考、行動を気づきの意識が気づきます。この気づきを「私がやった」という感覚が湧きますがそれを気づきの意識が気づきます。

脳が実在しているを証明するのは無理

ゲーム上は全部脳が感知していることになっていますが、、これは全部幻想です。その証拠に脳が実在していると証明するためには視覚、聴覚、触覚、味覚、嗅覚が必要になります、ですがこれは脳がやっていることになっています。ですがその脳が本当に実在していることを証明するにはまた視覚、聴覚、味覚、嗅覚が必要になります。五感を使っている人間が脳の存在を証明するのは不可能なのです。

全てを気づきの意識が気づいている

全てを気づきの意識が気づいているとなると時間の存在が必要なくなります。音が鳴ればそのばで音に気づき、風が吹けばその場で風を感じる、何かを食べればその場で味を感じ、思考が湧けばその場で思考を感じる、、全ての現象は湧き出た瞬間に気づきの意識に気づかれています。それをマリオが作り出した、マリオが感じたんだ、、、という感覚が湧き出した時にその場でそれも気づきの意識が気づきます。つまりタイムラグがないのです。原因と結果の法則が成立しなくなってきました。

スーパマリオには時間はあるのか???

スーパーマリオとうゲーム本体には時間という存在をしっかりと埋め込まれてしるのでしょうか???答えはNOです。TIMEという表示が変化するように設定されているだけです。マリオは動くのではなく、、その瞬間瞬間に移り変わる点灯によって動いているように見えているだけ。その点灯の動きに気づく存在がいて初めて時間があるという思考が湧く、、その思考を気づきの意識が気づきます。

森羅万象の動きも同じ

この人間社会、森羅万象も全く同じです、、現象の動きの全てに気づく存在、気づきの意識がいるので、、その変化に常に気づきます、、、気づいた変化をつなぎ合わせた時に時間があるという思考、概念が湧き出し、、それを気づきの意識が気づくのです。猫という現象、、これが変化していく、、その動きの全てに気づくから、、猫が動いている、、という思考が湧き、、その思考に気づきの意識が気づく。。。です。時間も空間も全現象に気づく気づきの意識があるからこそ、、そのような概念が湧き出しそれに気づく気づきの意識があってなりたつのです。

経験しかしていない

マリオは実在しない

この世界はあるがままの体験の場所、ゲーム、マリオ体験の場所です。マリオ、クッパ、空間の全て、時間の全てはそおれらを経験する場所でしかなく全ては幻想です。その証拠にマリオにとってこの世界は実在しているように見えているだけ、触っているように感じているだけ、香っているように感じているだけ、味がしているように感じているだけ、、音が鳴っているように聞こえているだけと五感を使った経験しかしていないのです。クッパが実在しているという証拠は一切ないし、マリオが実在しているという証拠が全くありません。経験(無)が100%あり続けるという無(実在ではない)を積み重ねた世界です。経験をどんなに積み重ねてもそれは時間が実在しているという証拠にはなりません。

マリオも時間も空間も経験からの逆算でしかない

この世界があくまでゲーム(虚)である証拠は、、経験以外が何もないということです。経験があるから時間があるはずだ、マリオが居るはずだ、空間があるはずだ、クッパもいるはずだ、、、という推論の余地をでません。つまりあるがまま(スーパーマリオ本体)以外何もないのです。私は100パーセント居るぞ、、とマリオが叫んでも、、、、いや経験しかしてませんよね????で終わりです。

思考して行動しているぞ

確かに経験しかしていないかもしれない、でも思考し実践しているこの私が、、、と思うかもしれません。それも違うんです、私が思考し、実践しているように感じているだけです、、そう経験しているだけです。100%自由意志があって自由行動があるという証拠がないのです。この辺りから我々はこれがゲーム(幻想)でしかないことを、そして私も居ないことを認めるしかなくなってくるのです。

これを今私以外の何かが気づく

この気づきは実はマリオ(私)に起きているのではありません。マリオ(私)以外の何かが気づくのです。そしてマリオ(私)はスーパーマリオ(あるがまま)に再吸収されていきます。本当にそうだ、これはゲームで経験しかしていなかった、、時間もあるように感じていただけだった、、空間もあるように感じているだけだった、、そりゃそうだ、、ゲームだから。。。覚者が昔からいっているように、、、この世界は無で、何もない、、は本当だ。私も居ないしあなたも本当は居ない、、私たちは最初から救われている、全部愛(あるがまま)なんだ、、となります。

いまここという言葉の難しさ

いまここを感じているのは誰だ?

いまここしかない、、悟り系スピーカーがよく話すワードですね、いまここしかないじゃないか、だから時間なんて存在しないんだ、空間もここしかないのだ、、、ですが結局それを感じているのが「私」ならば本質を理解できていない、、なぜならば「私」は時間と空間の中でしか生きれないのだから。だから常に時間を使って生きるし空間の中で行きますよね。本質は「私」という存在が不在の時に現れるのですからこの言葉を誰に向かって語っているかは重要になります。

今日は良い話を聞けた???

悟り系のスピーカーの講演会に行って本質の話を聞いて帰れば、、今日はなんて面白い話をきけたんだろう、、となります。大変貴重でためになったと、、、ですが恐らく次の日も何か知識を求めるでしょう、なぜならばその話を聞いたのは「私」だからです。そしてその私は次の日に起きればまたより進化した私を目指すはず。ですがどれほど私が進化したつもりになってもゲーム、幻想の中を彷徨っているのに変わりはなく苦しみからは解放されないのです。

「私」からの解放

講演会を聞いているのは「私」ではない、「私」の奥に居るあるがままなのだ、、そしてそのあるがままが「私」を再吸収した時に至福が訪れる、、このメッセージに気づきが起き始めた時に解放は近いかもしれません。「私」は悟ろう、「私」が目覚めよう、、、という主体客体、二元の感覚が抜けないうちは夢の中、ゲームの中にいる可能性が高いのです。

真実と概念は違う

私たちが信じているのは概念

ノンデュアリティ、悟り、非二元のメッセンジャーが伝えるのは真実です、真実は概念ではありません、、、言葉という制限されたツールで真実を伝えていくわけです。多くの人が信じているのは概念です、概念は真実ではありませんからこの概念の中に生きていることで苦しみから解放されないのです。もし今自分が苦しいならば概念の世界に居る、ただそれだけです。

真実と観念は違う

真実と観念が異なります、真実は真実です、、観念とはその人が信じている考え方、概念です。それぞれの人はその人の観念を持ち、その観念に影響された幻想の中に生きているのです。この幻想の世界は苦しいので早くここから出たいと本質レベルでは感じているのです。友人が少ないと寂しく、友人が多いと人間関係が複雑で疲れる、、どこまでいってもこの世界は苦しいのです。

お金を得ても人気を得ても苦しいのは観念の世界に居るから

「自分」がこの世界に生きていると思っている間は常に苦しみに襲われます。「自分」がお金を得て、人気を得ていると思っている間は苦しみに襲われ続けます。なぜならばそこは本当の世界ではないからです、そしてそのことを本質では常に感じています。だから人は救いを神に求めるのです。ですが神とは「自分」とは異なった違う場所にいるのではなく今ここ、「この私」すらも含めて神なのです。今見ている世界そのものが神自身のアート、神そのものなのです。

このことをみんなに伝えてあげなくちゃ

真実の少しでも触れた人間は周囲にこれを伝えなくては!!と思うはずです、ですがそれは喜憂、無駄、大きなお世話です。なぜならば「私」も「あの人」も「この人」も全部あるがまま、神のアートですから最初から救われているのです、あるがままのアートが救われないのならばあるがままはあるがままではなくなってしまいます、神のアートが救われないのであれば神は神ではなくなってしまうのです。ですから全員が最初から救われているこれは神の、あるがままのアートなのです。そしてそのことも全員が本質的には分かっています。

至福に至るには「私」だ

この私が至福から追い出されただけ

どうやらこの世界には至福が常にあってそれはいまここにあるらしい、時間もなく空間もなくたったひとつのエネルギー至福がいまここにあるのならばこの「私」が絶対に見つけ出してやる!!!自我はこの作戦で至福に戻るのを妨害します。自分という存在こそが至福から幻想の世界に飛びたした張本人にも関わらずその自分がこの幻想の世界でそれを見つけ出してやると意気込むのです。

私があるがままに再吸収される

この私が消滅された時にあるがままは現れます、いつでも、、私という存在があるがままの世界から幻想の世界に入り込んでいるのです。勿論「私」もあるがままの表現の一つですがその「私」がいる世界は幻想のストーリーの世界(あるがままの表現)ここは苦しいのです。この世界に居る限り至福には至れないのです。「私」が至福を見つける時にはまだ「私」が存在します、、これでは絶対に至福に至れないのです。

私を無くすことなどできるのか????

私を無くすことなどできるのか????先ず大前提でこの世界には自由意志は一切存在していませんから意図を持って無くすということは不可能です。ですがあるがままの表現といて「私」があるがままに再吸収されることはあるでしょう、その時がくればそうなります。もしかしたらそうなるかもしれない、少なくとのこの「私」が自由意志を持って再吸収されよう!はないのです、、見かけ以外には。

時間がないのだから原因と結果はない

因果関係は時間があってこそ

本質の世界、あるがままの世界には時間はありません、そうなると原因と結果の法則はありえないということになります。ですがストーリー、幻想の世界ではあるように見えているだけです。実際には時間は存在しないのですから原因と結果の法則は嘘です。原因と結果の法則があるように見えているだけです、本当はただたった一つのエネルギーが変化しているだけ、この変化を原因と結果の法則に基づいていると自由に解釈しているだけです。

あるがままが起こり、原因と結果の法則が働いているように解釈が起きる

あるがままの世界には一切の時間がありません、たった一つのエネルギーが変化しているだけです。この変化を「私」が観察し原因と結果の法則が働いていると解釈が始まります。「私」はこの移ろう世界に原因と結果の法則があると信じることで生きやすくなりたいわけですが実際にはその法則は成り立ちません、なぜならば時間は実在しないからです。

愛おしいしかない

全生命現象に優劣はない

今目の前に広がる全現象は全てあるがままの現れ、森羅万象の現れです、、、この現れに優劣など一切なくあるのは愛おしいさのみです。もしも現象に優劣がつくのならばそれは個人というフィルターを通しているからです。個人の物差しというものを通して見るから現象に優劣、正悪、長短、愛憎が生まれるのです。そしてこの個人という存在は実は実在しないのでそれは幻想です。幻想の物差しを通じて現象を眺めることで愛憎が生まれるのですからこれは圧倒的に損なのです。

戦争を起こす極悪人も愛おしいのか

戦争という幼稚な行為を起こしてしまうのは幼稚園児のようなものです、幼稚園児を愛おしいと思うことはおかしくないはずです。例えば人を殺めてしまうのもテロリストも幼稚園児のようなものですから愛おしいのです。子供が悪口を言い合って争っている姿は愛おしいですよね、大人が幼稚園児のような精神状態で争っているのが戦争です。戦争を肯定しているのではなく起こす動機が幼いということです。

子供の時は嫌な奴だと思っていたが

子供同士の時はおもちゃの取り合いで争い本当に憎たらしいと思っていた友人も大人からみたら愛おしい存在です。これは大人も同じ、戦争を起こす当事者同士にとって悪魔なような存在に見えても一歩上から眺めれば愛おしい存在でしかないのです。逆に言えば愛おしいと思えない存在は個人という幻想のフィルターを通じて見られてしまっています。

猫同士が真剣に争っている

猫が真剣に縄張り争いをしている時、致命傷を与えるような傷を与えることをあるでしょう。ですがこれを人間が眺めば愛おしい争いです、それぞれが真剣に生き抜くために争っているのですから。何がいいたいかと言えば全てが愛おしく見えるということは決して嘘ではなく本当なのです。あるがままの視点で全現象を眺めるそのような気づきが起きます。

みんなを助けなければ

助けるべきみんなは存在しない

正義感が強い人は、周囲の困った人々を放置できません。私がなんとかしなければ、、、となります。ですが実際には困ったその人々は存在しません、、、困っていないのです、、困ったように見えているだけです。その証拠の困った人々の困ったを代わりに感じることはできませんね、これが証拠です。だとしたら医者も看護師も弁護士も誰のために活動しているのですか????誰のためにも活動していないのです、そしてその医者も実在しないのです。

全自動システムの中でただ遊ぶ

例えば覚者として有名人になりサットサンには数百名の迷える人々が訪れてきたとしましょう、、、ですがそれは迷っているように見えるだけ、、その証拠にその悩みを誰も代わりに感じることはできないのです。だから遊びです、迷っているように見える人々にメッセージを伝えるという遊びが始まるのです。では何の意味もないのでは?意味は全くないのです、最初から完璧なのですから。

こんなに困っているのに見捨てるのか???

周囲がこれほど困っているのにお前は見捨てるのか????と言われてしまうかもしれませんが、、困っているという証拠はないのです、、何度も言いますが、、代わりにその感情を感じることができない以上、証拠がないのです。そしてこの世界は100パーセント幻想です。ということでどれほど罵倒されてしまっても放置で構わないのです。

自由意志がないという完璧さ

迷える人も完璧

この世界に自由意思、個人の自由意志がないということはこの世界は完璧な表現であること言えます。悩みに悩んでいる個人も完璧なあるがままの表現です。個人が居て自由意志があるのならばミスも起きるのでしょうがミスが起きようがないのです。全自動ですから。つまり完璧なのです。ノイローゼになりようなほどに悩んでいる人がいるとしても完璧??そうです、、それが今あなたの目の前に起きているならば完璧だということです。

悩んでいる人が目の前にいるのに

では放置していいと、どんなに苦しんでいるように見えても放置でいいのか????そうです、、完璧なあるがままの表現としてそう見えているだけで本当にその人が悩んでいるという事実はありません、その悩みをあなたが代わりに体験しない限り、、本当とは言えないのです。そして見えている世界は幻想ですから実在ではないのです。

辛そうに見える、痛そうに見える、苦しそうに見える

私の周囲にはたくさんの困った人たちがいて、いてもたってもいられない。。。そうかもしれません、ですがそれは困っているように見えているだけなのです。とてつもなく冷酷な表現に聞こえるかもしれませんが実際に困っているという証拠がないのです、代わりにその感情を味わっていないのですから。何度も伝えますが見える世界は幻想です、幻想ですから実在ではないのです。全てはあるがままの表現、アートであり完璧なのです。