未来

偽りの自分は将来に夢を描く

本来は存在しないからこそイメージに固執する

将来はこんな風になって活躍した、将来はこんな家庭を作って幸せになりたい、、、偽りの自己は本当は存在しないからこそイメージに固執するのです、もしくは過去という中で偽りの自己は実在していたことを強く主張します。過去に未来にイメージを強化することで自己存続にかけるのです。全ての行動原理は自身が偽りゆえの延命行動なのです。

本当は過去にも未来にも存在できない

セルフイメージが今に存在できるわけがなくゆえに未来にセルフイメージを作ることで意識をそこに向かわせます。もしくは過去にセルフイメージを作り自身の存在を保持しようとします。ですが「この体この思考は自分」というのはイメージですから、、、どこに意識を向けようと存在はしていないのです。

意識が将来に向いている間

本当の自分とは今この瞬間そのもの、今この瞬間を作り出す全てです。今この瞬間において「この体この思考が自分」という思考は真実ではなくフェイクですから、、今ここに意識を向けることを嫌うのです。偽りの自分を肥大化するためにはここに意識を向け続ける必要がありゆえに未来にそのイメージを意織し過去にそのイメージを意織することでこれを保持しようとします。今この瞬間に意識を向ける(大いなる存在)ことと偽りの自分を保持することは相容れないということです。

スポーツしたあと気分が良い理由

体は今(至福)にしか存在できない

スポーツ選手って爽やかなイメージがありますよね?????なぜでしょうか???簡単です、体を動かすって今(至福)でしかできないんです、思考は昨日に戻ったり、一年後のことを考えたりと、、時間という概念の中で行ったり来たりするんですが体は今(至福)ここしか居られないんです。だからそれだけで大満足なんです。だから思考で捏ねくり回して、、、こうなったら将来幸せみたいな技を使わなくていいんです。

思考は未来に向かってこうなったら(条件)幸せになれる気がする、、を使う

思考は、、こういう条件の人と結婚したら、、こういう家に住めたら、、こういう旦那さんだったら、、、って未来に未来に幸福を目標設定しそのために何をしなきゃ、こうしなきゃって宿題を出してくるんです。幸福というのを将来に設定するんですね!!!ところがそれは思考が考え出したイメージですから、、そこにたどり着いてもイメージしかないんです。イメージがその人を幸せにしてくれるってないんです。

スポーツは今しかできない

体を動かすって今しかできません、、、物理学上、、ここでしか体って持ち運べないのです。そうすると今(至福)に感覚を作ることになります、今という場所にチューニングをします。その時に雑念って邪魔なんで思考が湧かないようになります。意識が過去や未来ではなく今に集中するんです。すると今は至福なんで、、至福に触れるのです。体を動かす時に、、思考を使って先ずは左、次は右ってやらないんです、、、全部自動反応ですよね!!!

毎日運動して今にチューニングする癖を作る

運動をルーティン化しますと、、、今にチューニングする習慣ができます。今(至福)に触れる癖がつくんです。本当の自分は「この体、この思考」ではないんですが、、、その思考が抜け落ちるんです。そして至福に浸れます。毎日毎日至福に浸る癖が付きますと、、、、思考でこねくり回すて幸福になるという作戦が起きにくいんです。だって今ここで至福に浸れるんですから。

夢(思考)からの脱出

夢は思考が作るのだから

この世界はたった一つのエネルギーでありあるがままです、そこは至福、平和、歓喜の場所です。そこに思考が立ち現れることでその思考があるがままに読み込まれ、、イメージが湧き出てきます、思考通りのイメージです。そのイメージの連続こそが夢です、この夢の中では時間(思考)があり空間(思考)がありと続くのです。この世界(夢)に居るのは苦しく居心地が悪いのです。その中で常に今ここ(あるがまま)に住まう方法があります、それはしっかりとこの体と繋がることです、この体は思考ではないのでいまここにしか存在できないのです。つまりドラマ、ファンタジーに住うことができません。この体は常にあるがままに席を置くのです。

この体を感じる

エックハルトはこれをインナーボディーと呼びました。常に体を感じる感覚を得ることです、体を通じて今にある感覚を構築するのです。そうすると思考に支配されずに夢に引きずられないということです。思考は夢に意識を導き夢を維持しようとしますが体がそれを阻止します。今という場所の至福を忘れないでいられるのです。今は至福しかありません、思考の世界(過去未来)は分離の世界、ネガティブな感情の世界です。

虚(空想)の世界は空気が薄い

居の世界ドラマの世界夢の世界は、、たった一つのエネルギー(至福)が作り出した世界ではありますがここはネガティブ(分離)の世界ですから苦しいのです、、ここに居住し続けると苦しくなります。ですからいまここに居たい、、、そのためには今ここに絶対に存在するこの体に意識を向けるのです、この体を感じるのです。この体を感じているのは誰でしょうか???本当の私、あるがまま、真我です。思考ではなく体に気づくことでいまここに住うことができます。ここは至福、平和、歓喜の場所です。

毎晩見る夢は誰が見ている????

自分ですか???

毎晩夢って見ますよね!!!あの夢っていった誰が見ているんでしょうか?????自分ですか???もしも自分ならば、、夢の展開って決めれるはずですよね????全くもって決めれないんです、夢の内容って。そうなると、、、これは自分ではないんです。すると誰だ?????あえて言葉にすれば全体、神、真我ということになります。では全体、神、真我には自由意志はあるのか???ということになりますが、、そんなものはありません。神が全人類80億人の見る夢を一人一人創作している????いやいやしんどいでしょ。

自分って思考なんです。

自分って何ですか????っていったら思考なんです、、これはペンです、これはりんごです、これは私です、、、、という言葉です。。。この言葉が、、、、何かを決めるって不可能なんです。りんごという言葉が、、、りんごを動かすってどう考えても不可能なんです。自分っていう言葉がこの体を動かすって不可能なんです。この体の中には自分が居るよね!!!この予想がこの体を動かすって不可能なんです。

夢の中には一つも絶対の存在って存在しないんです

夢って実在しないから夢なんです、、、昨夜見た夢に出てきた、、あのイケメンは今何をしているだろうか?????居ないんです、、、それを夢っていうんです。するとこの現実って呼ばれる夢の中の登場人物の全ては実在しないんです。つまりこの私、自分も実在しないんです。居るって信じることはできます。居るって思考することはできます。しかもその思考は今しかできないんです、未来永劫それを維持するのも無理なんです。

この話って嫌われるんです

テロリストがなぜ嫌われるのか????それは世界を混乱させるからです。それはこの悟り系の話も同じなんです、混乱させるんです、、、だから徹底的に嫌われます。だからこんな話は積極的にしない方が良い。こうやってブログに書いたり、YOUTUBEで見たり、こっそりやればいいんです。でも本当は全員が心の奥深くでは分かっているんです。

これが夢だと分かった後に未来に興味が持てるか

未来とはこれを現実だと信じる人々の遊び

これは夢です、完全に夢です。これが夢だと分かった後に、、未来に興味は湧くのだろうか???という話です。昨日見た夢の先を今日興味がありますか????昨日の夢の続きがみたいなーなんて考えないんです。なぜか????それは夢だからです、しかもその内容は自分が決めていることを知っているからです。つまりそんなものの先なんて興味ないよ!です。それよりもこの現実をなんとかしなきゃ、です!

夢は自分でどうにかしてる半分遊びだけど

夢っていうのはさ架空のものだしファンタジーだし、結局自分が作り出した遊びじゃないですか?????そんなものよりもこの現実、このどうにもならないこの現実の方が断然重要なんです、大変なんです。だから夢よりも現実でしょ!!となります。だから昨日見た夢なんてとっとと忘れて現実、現実、、です。でもちょっと待ってください、、この現実が夢だったらどうですか????そして実際にこれは夢なんです、、本質が見る夢です。この私ではないですよ、この夢ではこの私はあくまで登場人物です。

夢の中では登場人物はコロコロ変わるし全然辻褄が合わないこともあるし、、、

もしもあなたが一度も夢から覚めたことがなかったら、、、毎晩見る夢を夢と判断することはできませんよね。この現実に比べると、、毎晩見る夢は整合性が取れていないと分かったのは夢から覚めたからですよね。そうなんです、この現実から覚めた人しか気づかないんです、コレが夢って。そしてこれは100%夢なんです。そのことを本質は分かっています、なぜか??本質は今まさにこの夢を見ているからです。だからなんとなくそれが分かっているんです。

未来とはその時の関心が広がるだけ

毎晩見る夢を思い出してみてください、、借金が怖ければお金にまつわる夢を見て、、人間関係のトラブルが怖ければ、、それにまつわる夢を見ます、、だいたいは一番関心が高いことが起こるのです。それをこの現実で考えてみます、、、、結局全く同じじゃないですか????戦争を恐れている人には戦争が起こり、会社勤めを恐れている人には会社内のトラブルが、、恋愛恐怖症の人は異性トラブルが、、、と思いませんか????そうですそのままなんです。だから未来がどうなるかなんて考えても無駄なんです、、その時の関心、観念が大きく夢を現象化させるだけです。

事件が起きた時に

なぜ???

自転車が取られてしまった!!!なぜ???なぜ私の自転車が、、、目立っていたのか???高級そうに見えたのか????昔から目を付けられていたのか???盗まれたとして個人情報はどうなるのか???どこかに売られてしまうのだろうか????事件が起きるとその原因究明、そしてその後の被害拡大、、とエンドレスに「思考」が湧き出してくるでしょう。その思考とは今ここで起きていない、、真実と結びついた空想の話です。空想って言っても盗まれたのは事実だからそれまでのプロセスを「考える」って重要ですねよ!?そして今後起こりえる「可能性」を考えるって必要ですよね???残念!!!!必要ないんです。

本当は時間がない

過去があってそこに要因があり、今その要因によって事件が起き、将来その事件によって次の何かが起きる、、、これが人間が考える普通の発想です。ですがこれって時間ないと成り立ちませんよね????時間ありきの発想ですよね???ですが時間はないんです、過去現在未来という流れがないんです、実は。そうなると過去も将来も因果がないということになります。勿論自転車が盗まれた背景を探れば、、誰がなぜどういう理由で盗んだのか???は分かるかもしれません、ですがそれはたった一つのエネルギー(いまここ)がその映像を今こしらえたのです。残念ながら過去にそのようなことがあってという真実ではありません。今事件のストーリーが湧き出たのです。そして将来どうなるか???は今こことは全く関係なくどうにでも起きえるのです。

たった一つのエネルギーが変化するのみ

変化といのも時間ありきなので表現がズレますが、、、いまここ、あるがまま、はただ移り変わるだけです、、無限が移り変わるのですから変化も無限なのです。それを今繋ぎ止めると時間(思考)が今誕生します。それだけ。自転車がどうやって盗まれたのか???は今そのストーリーが生まれたのです。ある人がこうやって盗んでという事実は全く起きていません!!!なぜか????その人が盗んだという事実は「あなた」がいる世界では起きていないからです。ストーリーとしてそれが今立ち上がったのです。

そこを詮索する無駄

起きていないのですからそこを詮索するのは全くの無駄なのです、、どういうストーリーが浮かび上がるか、、それを楽しむのは良いでしょう。ですが真剣に真剣になぜ盗まれたのか???を考えるのは真実とは異なっています。真実では盗まれた背景は存在しないのです。真実では自転車が消えた、、これだけであり、、その背景は存在しないのです。

幻想のこの世界にコントロールできる誰かはいない

コントロールしようにも幻想ですから

この現象界には幻想しか存在しません、、、すると思考をコントロールできる実在というのは存在しえないことがわかります。思考、行動をコントロールできる虚像はありえない、、そうです、、この虚の世界は完全自動反応システムです、、その中で私がコントロールしているぞという思考がただ起こるのです、、、これも幻想の現れの一つです。そしてその思考すらも絶対という存在があるがゆえに気づかれていきます。

絶対が気づくのではない

絶対が気づくのではありません、、絶対が成長することはないのです。成長してしまったら絶対は絶対ではなくなってしまいます。そうです、、絶対があるがゆえに気づくという現象、幻想が起きるのです、色の変化に応じて。絶対は既に絶対ですから絶対が新しく気づいていくのではありません。絶対には影がありその影が変幻自在に動くことでそこに気づくが自動的に起きているのです。その気づくを個人が所有するというさらなる幻想が現れることで個人ストーリーが現象として今現れています。

絶対の影が現象

絶対、空の影、、これが現象、色、幻想です、、我々はこの影の移ろいを感じています、、しかもエンドレスに、、なぜならばこの影は絶対、無限の影だからです、、、この移ろいを感じることを個人という影が所有するという動きがやはり現象として起こり個人ストーリーが今まさに展開しているのです。この個人ストーリーは絶対には何も影響を与えず、、ただ起こるのです。

影の中に影をコントロールできる影は存在しない

今外に出て自身の影を見てください、、この影は完全受け身であり、、、個人の動きによって変幻自在に移ろうのみです、、、この影の中の影の一部において、、影の動きをコントロールできる一部は存在しえないのです。人間とは絶対の影であるにも関わらず自身の動きをコントーロールできると信じる痛い存在なのです。影の動きは絶対に依存しており、、コントロールできるようになることは未来永劫ないわけです。これがサレンダー、悟りです。

自我の延命活動で消耗する

唯一残された聖域の確保

自我とはこの世界の中で唯一自由になる聖域です、、、これをそう捉えると、、この自我を絶対に絶やしてはいけないという自我延命活動が起こります、、、これが非常に疲れる、、、これがエネルギーを完全に消耗する、、、となります。なぜかと言えば本来は実在しないのですから、、これをあるという架空の物語を続けるのは非常に疲れるのです。実際にないものをあるとして物語を継続させるというのは骨の折れることです。

無いと分かれば、、、

自我は実在しない、、、この完全な理解が起きますと、、、もう必死になってセルフイメージを良くしよう、なんとしてもこの体を保持しなくては、、という強迫観念から逸脱できます、、、この体が朽ち果てても、、、何も失うものがないとはっきり分かるのです。。私は輪廻転生という概念を知った時にやはりかなり楽になったのですが、、、意識そのものであるという気づきを得ることで、、さらに楽になりました。

輪廻転生で今世を諦め、自我の解放で過去と未来から自由になる

輪廻転生という概念は今世への執着を緩めます、、、たった一回の人生、、、絶対に失敗だけはしたくない、、、この恐怖心が完璧になくなります、、、ですがそれでも残る生への執着、、、、これが自我の解放でなくなるのです、、、この体どころか全生命活動を行っている本質そのものだったという気づき、、これが起きます。

自分が今に居れない理由

自分は記憶が作り出した思考だから

記憶が作り出した思考が「私」。なんともこの「私」は手間がかかった存在です、、なかなかに面倒な作業をしてこの私は今に存在しています、、、というよりも存在できないのでは???今には。なぜならば手間がかかり過ぎている、、、時間が必要ですよね、、記憶が立ち上がり、記憶から私が立ち上がる、、非常に面倒な作業が起こっている、、、どっちにしても思考ですね、、、ですからどちらにしても「私」という実在が、、、この現象界に降り立ったことはないのです、、、空想、妄想、アイデアとしての「私」が浮かび上がっただけです。

私を確認するには、、、

私を確認するには記憶を、、、探るしか方法がない、、、あの時私はこれをした、、、という思考を起こすしかない、、今。これ以外に私を発見できる方法はないのです。私とは本当は一瞬たりとも、、この現実に降り立ったことがない、、ゆえに過去を振り返って私は実在していたという夢を見ているのです。つまり時間がなければ私は実在しないことと同じです、、、だからこそ過去はないんですよ!と伝えると混乱します。「私」は過去にしか居たことがないからです、夢の中で。

自分が居なくなれば、、、

自分という存在は消え失せれば、、、過去も同時に消え失せます、、、過去が必要なくなるからです。。。過去とはこの自分を証明するものだったのです、、、過去を振り返ってみて「私がこの思考を起こした」と信じているのです。事実はただ思考が起こり、行動が起こっただけ、、、この体を通じて。過去は幻想なんです!!なんて言わなくたって、、自分が居なくなれば、、過去は勝手に消えます。すると未来も勝手に消えます。すると将来不安も勝手に消え、過去の悔やみを勝手に消えます。

個人が消え失せ、、

個人が消え失せますと、、相手も消え失せ、、自我の全てあが消え失せ、、生命のみが残ります、、、この生命に気づきているのは誰だ???が起こり、、、、それは生命を起こす存在なのでは???が起きます。。突然、、たった一つ、、空、絶対の存在に気づきます。空があって色があって、、、空と色は一つだ!!が起きます。

今夢を見ているという実感はあるか

多くの人はない

多くの人はこれが夢だという実感が全くないでしょう、、それは当然そのようなことを言う人は全く居ませんから、、、そして悟りの覚者が言う「これは夢だ」というメッセージに出会っても、、、色々な修行を重ねるとそれが分かるようになるんですね!とその言葉を深読みし、、悟りを遠い未来の場所に設定します、、、ですがその思惑、戦略こそが悟りを遠ざけるための覚醒を遠ざけるための思考なのです。

これを夢だと思って生活してみる

これを夢だと思って生活してみてください、、すると直ぐに大きな気づきが生まれます、、誰がこの夢を見ているんだ????見ているとしたら一人しか居ない、、、それはこの自分だ、、、、でもこの自分が夢を見ているとしたら、、この体の中の自分は一体誰だ???この体の中で自分をやりながら夢を自分で見ているのか???確かに夜みる夢でも同じことをしてる、、、すると、、、この体の中の自分が本物ではなく、、、夢を見ている自分こそが本物だという気づきが起きます。

夢を見ている自分がただこの体の中に居るという勘違いをしていた

要はこういうことです、、、これは夢で、、私がこの夢を見ている、、そしてこの夢にはこの体が主人公として登場し、夢を見ている自分がこの登場人物であるこの体に成り済ましていただけだったんだ、、ということです。この夢の展開は、、夢を見ている自分には全くコントーロが起こらず展開し、、この体も例外ではない、、あらゆる思考が湧き、あらゆる行動が湧くが、、これはただ起こっているだけで実は誰もコントロールしていない、、ただし「自分がやっている」という思考も湧き上がるので、、そう信じる、、が起こっている、、この夢の中で。。