無我夢中

無我夢中の時に消える自分は実在しない

この体は常にあるが

この体は常にありますが、、、何かに無我夢中になる時、、自分の存在を忘れている時ってあります。あれ完全に無我夢中になっていた、、、自分ってそんな簡単に消せるんですか????という話です。もしも消せるならば、、自我は実在しないことになります。では自我はいったい何なのか????それは思考です。時に現れ時に無くなるのであれば思考でしかない。つまり自分なんていうものはやはり実在しないのです。

全思考はノーコントロール

そうだ!りんごを食べようと、、思考する時に、、、、その思考を自分が作り出したという自負はあるでしょうか????恐らく全くないはずです、、、なぜならばりんご食べよう!!!は勝手に湧いてきたに決まっているからです。例えば今日1日おいて思考する内容を最初に決めよう!はできないはず。今日は映画のことだけを考えよう!そう決めたとして、、数十秒後には、、お昼ごはんのことを考えるかもしれない、仕事のことを考えるかもしれない、、、つまり全くのノーコントロールなのです。

自分も思考でしかなく、、思考の内容はノーコントロール

これが真実です、、自分も思考、そして思考の内容は完全にノーコントロール、、、そして友人の中の自我も思考、そして友人の思考も勿論ノーコントロール、、、ノーコントロールな思考だけが行動だけが飛び交うのが人間社会です。そしてそれに気づきが起き続ける、、、それらの思考、行動に気づき続ける存在、、それを真我、気づきの意識と読んだりします。

思考分析を続けると、、、在るのは、、真我、気づきの意織

思考分析を継続していきますと、、、確実に存在するのは、、真我、気づきの意織だけです。ノーコントロールな思考、行動、あらゆる現象に気づき続ける存在、、この体の中に自我が実在しないとなると、、、それは真我、気づきの意識であると逆算されていきます。そうです私たち(思考)は真我、気づきの意識のことを「私」と呼んできたのでした。

「私は在る」の中にもう一つの私ができた

私の二重構造

何かに夢中になっている瞬間、、、、これを無我夢中と言ったりしますが、、、それでも意識は明晰にあります、、、あの明晰な意識そのものの状態、、、意識としての私、、、という絶対的な感覚、、この意識そのものが本当の私です、、、、、「私が在る」という感覚が先ずあり、、、何かに夢中になっていて我を忘れている時、、、「私は在る」だけがあります。。。我を忘れているにも関わらず「在る」という感覚、、それが真我です。真我とは「真の我」、、、、「我が落ちた時に現れる存在、、それが真の我」です。

真の我の中に「自らの我」が現れた

人間活動とは、、真の我の中で、、、、自らは我が突然脳から現れ、、、真の我から現れた、、、たった一つの現象を、、脳が作り出した観念によって完全に分離して見える世界を生きることです、、、時間、空間という言葉で作った概念で、、、これをストーリー化したものが、、私物語です。これらは全部脳が作り出した言葉を通じてイメージ化したもの、、現象にイメージを当て込み、、、実は我々はそのイメージを重ね合わせて見ています。つまりそれぞれのイメージによってたった一つのエネルギーが今も分離しているように見えています。

脳が自我を忘れていても

脳が作業に没頭し自我の存在を忘れていても、、、、真我ははっきりとそこにあります、、真我が忘れ去られることはない、、、自我はいつでも忘れ去られますが、、真我は忘れ去られない、、、真我を忘れることができる存在がいない、、、誰からも忘れられることができない存在、、それが真我です、、在るという感覚です。脳が作りだした「私」は、、、どこまでいってもその瞬間に脳が作り出すしかできませんから神出鬼没、、ところが見える世界が完全分離しているように見えますから、、、周囲を見ればこの私は「体の中」に居るという錯覚が生まれるのです。本当は真我の中で、、自我も、、周囲の分離も、、分離に見える現象も、、何もかもが起こっています。

悟りをコンフォートゾーンに

気づきの意識の状態に慣れる

瞑想とは気づきの意識そのものの状態に慣れることです、、、無我夢中になって何かに集中するのも同じことです、、自我のない状態に率先して慣れていきます、、、するとそこに至福、静寂、平和があることにはっきりと気づきます、気づきの意識が、、、これが悟りです。自分など全くの不在の場所にこそ、、、平和があることに気づくのです。自分が美味しい物、刺激物を得なくても、、、その場で安堵、平和、至福に至れることに気づきます、気づきの意識が。。。これが悟りです。

悟りを理屈として理解し実践して慣れる

悟りについての正しい理解は大切です、、これをしないと自我は全てを所有し、、コンフォートゾーンをズラすことができません。自分がはっきりと居るという認識の中で無我に入ろうと、瞑想をしようと、、、その獲得を全て自我が所有するという場所に戻るでしょう。理屈として悟りを理解し、、その上で瞑想、無我になって集中することで、、自己の不在が安定します。

機能としての自分に戻る

自己の不在が安定してもこの幻想の世界、夢の中の世界、イリュージョンの世界が続く限り、、機能としての自分は存続していきます、、、機能としてこの世界での役に立っていかなければ食べていくことができません。機能としての自己を維持していくことになるのです、、、、ですがこの時にはマインドはこの状態を維持しようとしますから、、、機能向上にただ努めるでしょう、、、機能としての自分磨きに入るはずです。。。

なぜ自分を忘れることが出来る???

物事に集中する時、、自分を忘れる???

無我夢中になって仕事に取り組む、、、無我夢中になって時間を忘れて友達とお喋りを、、、、自分を忘れている時間って意外にあります、、、自分を忘れる????そんなことがなぜできるのでしょうか???車に乗っている際に、、、車を忘れて、、、右に曲がる、、、車を忘れて左に曲がり・、、車を忘れて自分だけブレーキを、、、できません、、、、車が存在するから車を忘れた行動などできない、、、、自分を忘れてお喋り、仕事ができるのは、、、自分が居ないからです。

私は〇〇です。

私は国会議員です、、私は東大卒です、、、私は父親です、、、私は会社員です。。。。全部肩書きです、、、それは名詞です、、、、自分を直接的に証明するものでは全くありません。。。自分とは実態がないものなのです、実態があるならば、、、データで出せるはずです。。。ない、、、そうです。。。自分とはどこまでいっても架空の存在なのです。

さあ、、、本当の自分を思い出す

自分が居ないならば、、、、この間違いなくある、、、在るという感覚は何だ??間違いなく存在する、、、この感覚は何だ????そうです、、、、存在そのものが在るのです、、、間違いなく、、、間違いないからこそ、、、この体に上手に取り込まれました、、、この体の中に存在が居るという錯覚が起きたのです、存在から。自分は居ないが、、、確実に在るという存在が在る、です。そしてこの存在の中で全てはただ起きています。在るという中で。

無我を取り込む自我に無我が気づく

何かに集中して結果を出した

何かに集中し結果が出た時に、、これを上手くつかってやろうとする自我がむくっと起き出し、、この功績をフル活用しようとします。。。無我夢中になって何かしらの結果を出した時に、、、せっかく結果が出たのだから、、これで誰かにアピールしてやろうとする自我がシャシャリでてきます。この自我の動きに我々は意識的になれません、、、ですが今回これを意識することでこのカラクリを見抜くが起きます。

無我夢中になってサッカーボールを蹴っていたら、、、

無我夢中になってサッカーボールを蹴っていたら、、クラスの人気者になった、、、すると自我がムクっと起き出し、、これを自分功績にします、、、そしてこのクラスの人気者立ち位置を維持しよう、、人気があるのだからもっとこれをしてやろう、、、人気を利用して何かしてやろうと、、、自我は損得感情、算盤を弾くのです。ですがこれにって獲れる損得があっても至福感は全く無い、、なぜならばそこには無我が居ないからです。ですがこの事実をさらに観察する存在(無我)に気づきますと、、、無意識の自我活動は消え去ります、、、

自我の積極的活動は観察する無我の存在があると両立しない

自我の暴利、自我の無意識化の行動、、、これらは無我による観察を嫌います。無我が自我を観察すれば自我の活動は急速に衰えていきます、、、無我による自我の観察に意識が向けられることで、、強烈に自我を意識した行動が起きないのです。自我への無意識の集中から解放され、、自我を観察する無我に意識が向けられます。無我に意識を向けるということはそのままで至福ということです。自我に完全集中するとただ苦しいが湧いてきます。自我そのものではなく自我を観察する者(無我)になるのです。

至福(事実)から逃げることができる自我はいない

自我の苦しみ劇場はどこかで必ず終わる

自我の苦しみ劇場はどこかで終わります、、なぜならばこの劇場は至福(全体)の中で起きているからです。至福というスクリーンの中でこの劇場が起きているだけですから劇の最中もちょいちょいこの至福(事実)が顔をだすわけです、、何しろこの自分をこの自分ストーリーに埋没させ続けるのも至難の技だからです。不意に自分を忘れたら最後、至福に飲み込まれてしまうのです。

地獄に落ちることはできない、至福に落ちる

我々の劇場中に足を滑らせて舞台から転げ落ちる、、、至福がそれを救う、、、舞台から偶然落ちてしまったら、、至福がこれを救う、、、、火事になってしまった、、、、無我夢中で火事場を駆け抜けている時、、、何??この至福感は????母親が急病で入院、、、無我夢中になって実家に戻っている、、、あれ??なんか至福に包まれている、、、、そうです、、、大ピンチは大無我、大至福なのです。。。

常に至福に落ちる旅を歩んでいる

安全だと思っていたこの旅よりも旅から転げ落ちた先が至福だった、、、これが分かってきますともうそれほど怖さがなくなってきます、、、一生懸命旅を失敗しないように努めていたのに、、、失敗した時の方がしふくじゃねえか、、、安全第一の歩みの方がはるかに苦しい、、、、そうです、、、「自分」が安全を確保しながら慎重に歩んでいる時が一番苦しいのです、、、自分がでしゃばっています。苦しみと至福の逆転現象、、これを肌感覚で分かると楽になります。

日本は合わない、、海外へ

どこも全部全体の現れ

日本よりも海外が合う、、これが起こることは当然あります、、ですがこの日本も紛れもなく生命の現れそのものです、、そこに気づきが起こらず、、、ただこの苦しい国日本を逃げても、、、海外も苦しい、、、可能性があります。。。。日本は神の国、、違います、、全部が神の国です、、、日本には天照大神が居て、、、違います、、、、全部の国は神の表現です、、、

ただそれが起こる、、、

海外に住みたい、、、この衝動も神から起こっています、、、何の問題もありません、、、そして海外にいざ出陣、、、これが神から起きました、、、そこに介在する個人は居ません、、、個人が居るという神の勘違い以外は、、海外旅行ばかり行っていたが最近それほど楽しくない、、、最初は無我夢中になれて至福に包まれますが、、、それが当たり前になると無我夢中になれない、、つまり無我じゃない、、至福じゃない、、です。

無我は今ここでなれる

無我とは今ここで入れます、、今何かに集中しきると、、、無我に入ります、、、今ここで、この感覚を掴むと海外に行かなくてはという焦燥感が抜けていきます。常に至福に包まれてきます、、、全てを全体からの起こり、言動も神の起こり、周囲も神からの起こり、神そのもの、、これに気づくと、、ただそこに居るだけで、、至福に包まれます。自分も周囲も神の表現、、全部を神が回収している、、、そして全てに気づく自分は実は神だった、、、神以外だった時は無かった、、という気づき、、海外も日本も神そのもの

全体として存在しなぜ人の言葉で傷つくことができるのか???

無我夢中の状態で

何かに没頭して無我夢中に、、、この時至福に居ます、全体に居ます、神に居ます、、この状態で誰かから悪口を言われた、、、、気にならない、、、なぜならば既に至福だからです。至福に居るとは現実離れではない、、、いや現実という現象の中で、、、現象そのものになっている状態です。その悪口すらも現象の現れ、、、気にならない、、、悪口そのもの、、、です。

批判を気にするスターは、、、

批判を気にするスターは、、、全体になりきれていない、、、、成し遂げた功績をこの個人が所有している、、だから苦しい、、、この時に批判を受けると、、、テンパってしまう、、苦しさが重なる、、、功績よりも無我に入るそのことこそに至福を覚えるならば、、、周囲に対する関心が薄くなる、、結果批判も気にしない、、、

自我全開プログラムを脱す

悟りとは自我全開プログラムが落ちることです、、このプログラムは非常に強固で簡単にはアンインストールされません。ですからゆっくりゆっくりこの自分はプログラムであり、、このプログラムを紐解く必要があるのです。音楽とは音の組み合わせであり、、、これに実態はありません、あの曲が好き、、という時、、それは異なった音の組み合わせのことです。。。。この自分というプログラムも、、、言語の組み合わせで形成されており、、実態がないのです。音の組み合わせです。。。

だからこそこう生きよう、ああ生きようとは真逆

もっと自然体で生きようよ、、、、、アベシ、、、、こんなメッセージが一切意味をなさないのは、、、生きるのが個人だからです。。。そうではなくこの個人をいかに解体させるかです。。。今を生きよう、、、、、ヒデブ、、、、今を生きるのが個人ならば、、、何を今やっても苦しい、、、個人に向けたあらゆるメッセージはその瞬間の幸福を得れても、、しれは全て一時的なまやかしです。

至福しかない世界でどうやって苦しむことができるか

この世界は至福で構成されている

信じられないかもしれませんがこの世界の構成材料は至福です。至福が原料でこの世界は構成されています。ですから我々はいつでもこの至福に戻れるのです、原料が至福ですから。だったら早く至福に戻してくれ、、、大丈夫焦らなくても、自分という感覚すら至福を原料に構成されていますから自分という感覚が消えれば即至福に戻ります。じゃあ早く自分を消してくれ!!自分という感覚を湧かし続けるのも至福です、苦しいの原料も至福です。自分という感覚が起こらなくなれば即至福になります。その時を待つしかありません。

1日の中で自分が居ない状態を作ってしまう

目を閉じれば自分が居なくなります、何を言っているのか??違います、本当に目を閉じると自分が居なくなるのです。目を閉じればこの体が消えてなくなります、あとは自分という感覚だけになります。人は視覚に頼る動物ですから目を開けば強烈に自分を感じます。そうなってしまっているのです。ですから意図的に目を閉じて体を消してしまうのです。この世界は五感が感じることができないものは存在できません、これは答えです。といことは目を閉じるだけでこの世界は半分消えたようなもの、この体も確実に消えます。その時に強烈に自分という感覚を維持することが逆に難しくなります。

積極的に自分という感覚を消していくトレーニングを

何十万回という究極のスパルタトレーニングで「自分」という感覚を作り上げたのですから「自分」を消すにも徹底的なスパルタトレーニングは有効です。その一つが目を閉じてこの体を消してしまうというトレーニング、つまり瞑想です。あとは何かに夢中になる時間を多く作ること、その時自分が居なくなるはずです。私はこのブログ制作を徹底的に夢中に行います、無我夢中でこれを行います。これは実は瞑想なのです。目を閉じて自分を無くすか、無我夢中になって自分を無くす、、目的は同じです。自我の終焉です。

イチロー選手すら負の感情観察が苦手だった

インタビュー取材時の不機嫌

イチロー選手の取材嫌いは有名です。彼は取材時には意図的に不機嫌さを隠さないようにし記者からの無駄な質問を受けないようにしていました。彼は練習中常にそこに在り、無我夢中、集中のゾーンに入りこみ無我の境地に達していました。自分という存在との付き合い方においては完璧にいつでも無我に入る感覚を習得していたと感います。ですが対記者相手となるとそうはいきません、相手をコントロールするのは不可能だからです。ということでイチロー選手は取材時に湧き上がる負の感情の処理に困り果て意図的にピリピリさせるという方法をとったのです。

負の感情観察の絶好の機会

本当のことを言えば取材時の失礼な質問を受けた際の自身から湧いてくる負の感情、これを観察する絶好の機会だったのです。負の感情が湧いてきたならばそれを面白がって観察するのです、ムカつく、イラつく、誰もわかってくれない、、失礼な奴だ、、、これらの感情が湧いてきたらそれを楽しんでしまいます。こんな感情が自分から湧いてきたぞ、ここまで感情が湧くのか、、凄い感情だ、、、こう観察を続けることでそこに集中します。負の感情観察の驚くべきことはそれを集中して観察し始めると次第に感情が湧いてこなくなるということです。思考とは自我であり思考が湧いてこなければ自我が弱っていくのです。この自我こそが負の感情を湧かす張本人です。

負の感情は他人事のように楽しむ

人がイライラする姿を見てもそれほど深刻にならないのは他人だからです。なぜあんなにイライラしているのか?冷静にその人を観察できます。ですがなぜか自分ごとになると途端にそうならなくなります。イチロー選手のように自分に正直に向き合う人ほど自分から湧いてくるこの負の感情を無視できません、むしろしっかりとそれについて真剣に考えてきたはずです、ところが真剣に考えれば考えるほどに自我が強化されてさらに負の感情が湧き出すという恐ろしいメカニズムに飲まれてしまうのです。イチロー選手ほどの選手でも負の感情観察はできなかった証拠です。

相手の失礼な質問から湧いてくる負の感情を笑って観察する

すべらない話という人気番組がありますが、、あそこで繰り広げられていることこそ負の感情を笑って観察する行為の集大成です。自分から湧いてきた苛つき、むかつき、怒りを笑いに変えています。「お店で大変失礼な目に合い、、怒りで狂いそうになりました、、、」これを笑いながら解説しています。なぜ笑って話せるのか?負の感情を観察していたら面白くなってきた証拠です。そうです、これは誰でもできるのです。負の感情と真摯に向き合わなければならない、、、この強迫観念がそこからの思考フルスロットルに繋がっているのです。