至福(事実)から逃げることができる自我はいない

自我の苦しみ劇場はどこかで必ず終わる

自我の苦しみ劇場はどこかで終わります、、なぜならばこの劇場は至福(全体)の中で起きているからです。至福というスクリーンの中でこの劇場が起きているだけですから劇の最中もちょいちょいこの至福(事実)が顔をだすわけです、、何しろこの自分をこの自分ストーリーに埋没させ続けるのも至難の技だからです。不意に自分を忘れたら最後、至福に飲み込まれてしまうのです。

地獄に落ちることはできない、至福に落ちる

我々の劇場中に足を滑らせて舞台から転げ落ちる、、、至福がそれを救う、、、舞台から偶然落ちてしまったら、、至福がこれを救う、、、、火事になってしまった、、、、無我夢中で火事場を駆け抜けている時、、、何??この至福感は????母親が急病で入院、、、無我夢中になって実家に戻っている、、、あれ??なんか至福に包まれている、、、、そうです、、、大ピンチは大無我、大至福なのです。。。

常に至福に落ちる旅を歩んでいる

安全だと思っていたこの旅よりも旅から転げ落ちた先が至福だった、、、これが分かってきますともうそれほど怖さがなくなってきます、、、一生懸命旅を失敗しないように努めていたのに、、、失敗した時の方がしふくじゃねえか、、、安全第一の歩みの方がはるかに苦しい、、、、そうです、、、「自分」が安全を確保しながら慎重に歩んでいる時が一番苦しいのです、、、自分がでしゃばっています。苦しみと至福の逆転現象、、これを肌感覚で分かると楽になります。

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