自分劇場

この人間ドラマを終わらせたくなったら、、

自殺とはこの人間ドラマの強制終了

このブログでも再三お伝えしている通りこの人間ドラマには永遠の至福は存在しません。永遠の幸福、永遠の平和、永遠の安堵はあり得ないのです、システム上。だからこそそこを真剣に求める人間は時に絶望しこの人生を終わらせようと考えることもあります。特に芸能人や事業家、スポーツ選手、ビジネスエリートなど極度の努力を自身に強いることができる人ほど絶望し生きる希望を失う可能性を秘めています。ですがそういう人ほど早くこの人生が実は夢、ドラマ、ゲームであることを悟るべきです。自分など実は最初から存在せず神が遊びのために作った虚像であることに気づいたら、、、究極のズッコケと共に肩の荷が一気に軽くなります。

人間とは不幸体験をするための道具

流行りの芸能人も、株で成功したトレーダーも、カリスマ美容師も、パリコレモデルもハリウッドスターも全部、神が不幸を体験するために作った道具です。自身の人生を否定する方はこれらの成功者と比べて自分なんか、、と落胆しますが、、実はこの上記のスーパーリア充者も全員が不幸体験マシーンです。この事実を先ずは受け入れることが重要です。なぜ自分には才能がないのか?なぜ自分には理解者がいないのか?なぜ自分には学がないのか?そう考え比較し多くの方は絶望しますが、、、、それを全部手に入れた人も不幸体験マシーンです。なぜ人はリア充ぶるのか?なぜ人は幸福ぶるのか?なぜ人は忙しぶるのか?それはその方がその人にとって得がありからでしょう。ですが実際は全員が不幸体験マシーンであることを理解する必要があります。

頑張り屋ほど幸福になれると信じている

この人間劇場では頑張り屋ほど幸福、至福になれと信じる傾向があります。ですがこの二元の世界、自分がいて自分以外がいる世界では全部がプラマイゼロですから努力や苦労はこの前では木っ端微塵に打ち砕かれるのです。もしも重要な努力があるとすればこのドラマ、自分劇場、人間ゲームのカラクリを解明する、、、こんな努力が良いでしょう。人間は神が作った不幸体験マシーンであることを先ずは理解することで違った意味での絶望感は湧いてきますが少なくとも報われる努力がないことを悟れます。

記憶こそ大いなる勘違いの集積

自分と記憶はセット

人間の記憶とはなんでしょうか?人間の記憶とはこの体が経験したこれまでの集積ということになります。この体が経験した集積とは自分ストーリーそのものです。人間は歳を重ねるに従い自分という思考が強固になっていくのはこの記憶をベースにしているからです。あらゆる経験を重ねていけばいくほどに自分は何層にも重ねられていき大きくなっていくのです。またこの自分という存在に絶対的確信を持つようになります。それは記憶された経験があるからです。

自我形成に伴って分離感が増していく

自我形成、自分形成はこの脳の記憶がベースになっているのですが、それ自体には何の問題もありません、もしも問題があるとするならばそれに伴い分離した独立した自我、自分感が同時に増していくことです。分離感が強まれば強まるほどに自分を守らなくてはという思考、感情が湧き出しそれはこの人間の体を守るために大変有効です。ですがこれは同時に分離感、孤独感、不足感を湧き出させる原因にもなるのです。人間がどれほどの独立性を維持しようとも全部は神のエネルギーで形成されていますから神でなくなることは不可能です。ということは全体、神が、、、独立性だけが大きなった存在になってしまったということになります、全体の中で。最大の矛盾、パラドックスが生まれるのです。

人間とは「苦」である

こういうメカニズムから独立した、確固とした大人ほど苦しみが多いという悲惨な事実が生まれます。大人、自分として成熟すればするほどに分離感、孤独感、不足感が湧き上がっていくのです。このメカニズムを生み出したのは神、全体であり全ては神の遊びです。ですからこの事実は決して想定外ではありません、むしろこれを経験するために人間を生み出したのです。ですがこの事実を理解できる段階に至った人はもうこの苦しみから解放されてもいいかもしれません。人間ゲームを心底遊び倒し、辛酸を舐め尽くし、七転八倒し尽くしたならば次の段階にシフトする時期かもしれません。

時に敵を作って自分を維持する

この体の中に自分が居るというリアリティーを出すには敵の存在が一番

誰もこの体に話しかけてくれなければこの体の中に自分が居るという錯覚を維持しにくくなります。そのためこの体はあえて環境に敵を作ってその敵にこの体を攻撃させることで体の中に自分が居るという錯覚を強化させます。敵を使って悪口をこの体に言わせます、敵を使ってこの体に残業をさせます、敵を使ってこの体にパワハラをさせます、敵を使ってこの体にセクハラをさせます、、、そうすると被害者になれるので、、、私はなんて不運なんだ、私はなんて残酷な状況に居るんだ、、私だけがなぜこんな酷い目に、、、、と体の中の自分劇場に入り込めるのです。ですが本当はただ体がそのような経験をしただけでそれを経験しているのは気づきの意識です。

時に恋愛をしてこの体の中に自分が居ると信じ込む

恋愛はこの体の中に自分が居るという錯覚を起こすのに最適です。私のことを彼が好きでいてくれる、私のことを彼が一生の伴侶と認めてくれた、私のことを彼が誰よりも大切に思ってくれた、、、、これでこの体の中に自分が居るという錯覚を強化できます。ですが実際は彼がこの体に向けたメッセージ、態度です、そしてそれを気づきの意識が経験します。

時に映画にハマってこの体の中に自分が居ると信じ込む

映画の登場人物はほぼ全員、この体の中に自分が居ると信じ込む仲間です。ですからこの私、この体の中の私は映画を観るとホッとします。私と同じようにみんな悩み苦しみ生きている、この体の中にしっかりと居続けることは大変なんだと錯覚を起こせるからです。TV番組を観てもほぼ全員のキャストが体の中に自分が居るという大前提でトーク番組が展開されていきます。もしもこの体の中には自分が居ませんよと話すタレントが現れたならば翌週からそのタレントを見ることはないでしょう。

ただ音だけがある

マリオのBGMはマリオが聞いていない

スーパーマリオではBGMが鳴ります、このBGMマリオには五感がある場合マリオは聞くことはできます、ですがマリオが聞かなくてもプレイヤーが聴いています。この自分劇場も同じです、我々には聴覚がありますからお店に入ればBGMが聞こえます、ですが同時にこれをプレイヤー、気づきの意識が聴いています。人間の聴覚としても聞けます、ですが気づきの意識としても聞けます。マリオがキノコを取った時に効果音がなります、この効果音をマリオの耳でも聞けます、ですがプレイヤーとしても聞けます。雨を降ると人間としても私の耳が聞けます、ですが気づきの意識としても聴いています。我々は音楽をきくと体の中の自分が聴いていると認識します、これをただ音楽が流れていると気づきの意識として捉えていきます。この体の中に自分が居るという認識をこうして外していきます。

いつでも「この体の中の自分が経験している」に戻すことはできる、、

スーパーマリオに集中してる時は、クリボーからのダメージも、倒した時の効果音も、スターを手に入れたときの無敵状態も、、、マリオが経験しているかのうように錯覚することができます。ですがこれは全て錯覚です。この人間ゲームも集中している時は全部を人間(自分)が経験しているように認識できます、ですがこれが錯覚です。本当は音楽を全体として聴き、この体が味わうコーヒーも全体が経験しています、食事をすれば人間が美味しいと感じていると錯覚していますが、全体が経験しています。友人と喋ればこの体が楽しんでいるように感じますが全体が感じています。マリオが経験していると認識するのも自由、人間が経験していると認識するのも自由ですがそれは錯覚です。

コンサートに行く

コンサートに行きます、あまりに煩いので耳栓をしました、、、人間として聞こえる音量は下がりました、、ですが同時に気づきの意識が認識する音量も下がります。やっぱりしっかり聴きたいと耳栓を外します、すると人間の耳として聞こえる(錯覚)音量は上がります、ですが気づきの意識が認識する音量も上がります。不味い料理を食べる時鼻をつまむと味覚が半減したようになり食べれます、鼻をつまむと人間として味覚が減る感覚を得ます、ですが同時に気づきの意識として味覚の半減を感じます。全部が全部、人間としてこれを経験するか気づきの意識としてこれを経験するかです。悟りを開くとは「自分が居なくなること」という認識が世間であるかないかは分かりませんが実はこんな簡単なことです。

愛そのものが本質だから自分は愛されたいと願う

本質は愛

我々の本質は愛です。この愛は対象を必要としない愛です。ですから人間社会で使われている愛とは意味が違います。とはいえ人間、自分は愛されることを強く願います。本当に自分は愛されているのか?という思いを強く持ちます。これこそが我々の本質が愛そのものであった証拠です。自分という全体から分離した存在は愛から分離した存在でもあります。ですからこの分離意識を持った瞬間から愛を追い求めるのです、故郷(愛)を追い求める旅に出るのです。その最もシンプルな形が愛されたいという欲求です。

この二元世界での愛は条件付き

本質は愛そのものであるから自分は愛に飢えます、愛を渇望します。ですがこの二元世界での愛は対象に向ける愛であってこれは本当の愛ではありません。あなたが愛してくれるならば私も愛します、愛しているならば証拠を見せて欲しい、、愛というものが交換条件に使われてしまうのです。本当の愛とは取引を必要としない愛のことです。取引を必要とする愛は偽りの愛です。この自分劇場の世界においては本当の愛は存在しません。

母親が自分を忘れて子育てに没頭する時、愛だけがある

母親が自分を忘れて子育てに没頭する、子供の食事、着替え、眠り、、、この時母親は人間ではなく愛そのものになっています。自分という存在が消え去り愛がそこにあります。見返りを必要としない愛そのものに触れた子供は自身の本質をそこから思い出すのです。

私たちは体ではない、、では何か?

答えはいつもシンプル

この自分劇場、この体の中に自分が居る、、、この大前提は非常に強固で革新に満ち素晴らしいアイデアです。体が動けば五感もあるし思考も感情も湧いてくる、、、だからこの体の中に自分が居るのは当たり前。ただもしもこの体の中に自分が居ないとしたら、、どこに居るのか???ということです。自分、自我それについてもしっかりとした打開策、代替案を持っています。そうです、自分は体の周りを囲っているという理論です。オーラという表現をする人もいます。ですがもしもそれも違う、、、となったならば自分はどこに居るのでしょうか?全部ということになります、視界入る全部が真の存在ということになります。

体の中に自分が居ないなら全部

自分が居るという感覚に絶対的に自信があるから、もしも体の中に居ないならば外にいる、、、この理論が生まれます。そして死んだならばこの自分はどこに行くのか?という理論に発展するのも当然なんです。スピリチュアルにハマったきっかけも江原さんが死後の霊とダイレクトに会話をしているのを見たからであり、そこに何の疑いを持ちませんでした。ですが今は分かります、自分が居るというこの感覚は絶妙な条件が合わさっての錯覚であるということが。五感、思考、感情、、これらが湧いてくるからこそこの絶対的な感覚に自信を持てるのです。マリオに五感が発達し、さらに思考、感情、この体の中に自分が居るという思考が湧き続けたら、、、マリオに自我が芽生えます。覚者が人間に対し「安心して苦しめ」と言うのはこのような理由からです。

マリオに五感と思考、感情を与えてみる

マリオがクッパと戦う時に痛み、苦しさ、戦略を考える思考、そしてその感覚を自分のものだという思考を与えたらどうなるか、、、間違いなく自分が居るという感覚を持てるはずです。マリオ自身が痛みを感じそれを自分のモノとする思考があれば間違いなく自分がクッパと戦っていると思えるはずです。この自分がマリオという感覚はゲームケイレイターの望みです。本当は自分はマリオであるという認識はゲームクリエイターが認識しているのですが、、、要はゲームクリエイターがマリオになり切るという遊びをしているのです。それが我々人間です。

自我が芽生えたマリオはそう簡単には死ななくなる

もしもマリオに自我が芽生えた自分がこのゲームをやっていると勘違いしたらどうなるか?そう簡単には死ななくなります、死なないために恐ろしく慎重になるでしょう。一個の壁越えジャンプでも何度もシュミレーションしてから行うはずです。クッパと戦う時などはデータを集めて対クッパ、シュミレーションを完璧にするどころか寝首を斯くという奇策に走るかもしれません。もしくは賄賂を渡して穏便に済ませるという方法も取るかもです。こんなことは当たり前にやります。これって人間の行動のことです。人間がマリオですらも簡単に騙せるのですから全体、神が人間を騙すのなど屁の河童なのです。

自分が居なければ全体はこのドラマを創造できない

悟りの世界では自分、自我が悪の根源かのように扱われるケースは多々あります。自分さえ無ければ自我さえなければこの世の苦しみはない、、、その通りです。ですがそれを作り出したのは全体、神であり、全体、神が無駄なことをするわけがないのですから自我、自分には大きな役割があります。それがこの自分劇場、自我ストーリーの創造です。変幻自在のこの自分劇場があるからこそ喜怒哀楽、全体への憧れ、神への羨望、全感情を味わい尽くすことができるのです。全感情を味わい尽くすためにこの自分劇場は創造されました。全体は全体のままでは絶対にできないことです。

最初から自分劇場だと分かっていたら、、、

この自分劇場が最初から作り物、ノンリアリティーであることがバレていたら全く面白くもなんともない、、、子供の頃から学校でこのことを習っていて腹落ちでもしてしまったら受験も、就職も、結婚、出産というリスクあることを人はしなくなるかもしれません。要はマジになれない、、、ということでこの自分劇場は全知全能の全体が完璧に入れこむように完璧なのです。全く思い通りにならない、、、それが全体の狙いです。自分を創造している全体こそが自分がこのドラマで至福しかない生活を送ることを何よりも嫌います。それならばこの自分劇場はいらないと。

自ら進んで辛酸を舐める

外に出るとコスパが悪いから何もしないで一日中家にいよう、、、、このように自分が発案しこれでもしも自分が満足してしまったらこの自分劇場はしょうもないものになってしまいます。そのため全体はそうならないように自分に不足感を湧き出すように設定しました。家にいると退屈、喪失、孤独であるように不足感が湧き出るようになっているのです。結果コスパが悪かろうと自分は家を出てこの退屈、孤独、喪失をなんとか埋めようとドラマに参加していくのです。このメカニズムが分かってくると、、積極的に体験を積む方がこのドラマ劇場は上手くいくのが分かります。どうせこの不足感はどこに居ても襲ってくるのだから最初からコスパ無視して体験をしにいく、、ということです。

もしも記憶がなければ私の人生はない

もしもあなたに記憶がなかったら

人間は実は大きな勘違いをしています、もしもあなたに記憶する力が無かったら自分の人生というのは存在しません。昨日の自分も、一昨日の自分も、自身の親も、自身の友人も存在しません。なぜならばこれらの存在は全部記憶が作り出しているからです。記憶があるからそれを友人、自分、親と認識するのであって全部記憶に頼っています。ということは記憶力がない動物、昆虫には自分の人生がありません。???つまり自分の人生というものを歩んでいるのは人間だけということになります。世界中の全ての生命体の中で自分の人生を生きているのは人間だけです。自分のことを蔑ろししやがって、自分のことを軽く扱いやがって、、自分の人生には希望がない、、、このように悩んでいるのは人間だけです。

記憶力が人間に発達してから人生が生まれた

元々人間は自分人生を生きていたのではありません、記憶力というのが身についてから自分人生が始まりました。混乱してきますね。人生があるのが当たり前だと全人類が考えていると思いますがそれが事実ではありません。人生とは記憶力がある生命の遊びなのです。自分というこの分離した感覚を所有し続けるには記憶力が必要になりますし、、それを維持し続けることで映画のフィルムのように人生劇場を記憶し続け人生が成り立つのです。

人生が苦しいから人生は無しにしよう、、ではない

この人生が作りモノならば明日から人生を歩むのをやめよう、、、そう思ってもまた明日からも人生は続きます。なぜならば昨日の自分の記憶がガッツリあるからです。そうではなくこの自分人生、自分劇場がどう形成されているかを理解することです。そうすると重さが少し抜けます、こうしなくては、、、ああしなくては、、という重さが半減していきます。人生という確固たる事実はなく、、人生とは人間の記憶力が作り出していると腹落ちすると深刻さが減ります。人間を深刻にしている原因とは、、、この人生が本当に存在しているという錯覚です。

自分を無視する生活を続けると自分が消えてなくなる

何かに没頭している時自分はいない

この世の苦しみは自分が作り出しています、自分という存在、この体の中に自分が居るというアイデア認識こそがこの自分人生、自分劇場のデフォルトです。この自分劇場の苦しみは自分というアイデアが引き起こしていますからいかに毎日自分がいない状態でいるかが鍵になります。自分という存在を満足させようと何かアクションを起こしてもこの自分の空腹が癒えることは絶対にありません。自分を置き去りにする、自分を忘れる状態を作り出すということが自分劇場から抜け出す唯一の方法です。

毎日何かに没頭する、毎日体に意識を向ける

何かに没頭している時、頭が没している状態を作り出しますと、、自分が消えてなくなります。歓喜、平和、安堵の波に襲われます。激しいトレーニングなどをして体に意識を完全に向けますと思考が剥がされ自分が居なくなります。この習慣を意図的に行なっていきます。このブログを書いている自分は基本、全てをルーティンで作り上げていくことで思考の介在を許さないようにします。このブログを書いている時も思考の介入を許しません。なぜそのようなことができるか?最初から思考を使わなけえばならないことをしないと決めているからです。もしもこのブログを書く際に思考を使わなくてはならないレベルに居るならば最初から書きません。書けるまで読書をして待ちます。

大きなことを成し遂げたいと思ったら

大きなことを成し遂げたいと思ったら思考を介在しないでいいルーティンで突き進めていきます。例えばエベレストを登ることになったら、、、毎日50メートル登れば160日間で登頂できる計算になりますから逆にそこからは戦略を練りません。戦略を練っていかに効率よく登るかを考えれば思考がシャシャリでてきます。これによって登山自体が非常に苦しい旅になります。もしも毎日50メートル登れているならばもう他のことは何も考えない、ただ没頭することでそのまま歓喜、平和、安堵が襲ってきます。エベレストに登る価値よりも歓喜、平和、安堵に至る方が遥かに価値があります。

自分の強制解体作業

運動は思考の発生を抑え自分を緩める

体を激しく使うながら思考を使うことは難しいことです。激しいスポーツをしながら明日の予定について考えることは至難の技です。体を使うと思考が収まり、思考を使うと体が収まります。両方を同時に使うことは難しいものです。結論から言えば自分体験をする全体は常に一つの経験しかできません。お酒を味わいながら食事も味わい、さらに最良の音楽も同時に堪能し、さらに友人との会話に集中することは不可能です。つまり経験は常に一つなのです。これが自分劇場のルールです。ということは自分を緩めるのは簡単、体の感覚に意識を集中してしまえばいいのです。激しい運動をすれば意識が運動に集中し自分を形成する思考は無くなります。

激しい運動をした後なぜか安堵感の残滓がある

激しい運動をしますと強制的に思考の感覚が薄れていきます。本来激しく動くことはストレスフルなことでもありますがなぜか運動後安堵感に襲われます。運動をしている間、自分を作り出す思考が抜け落ちるからです。自分が居ない時に何があるか?全体だけがそこにあります、つまり安堵、歓喜、平和がそこにあるのです。頭脳を酷使する労働者が休日に山に登りたくなりのはこのためです。あえて山という厳しい環境で歩くことで思考が湧くのを落としその瞬間全体に戻っているのです。

全体に戻る方法を積極的に活用する

「この体の中に自分が居る」というのは思考です。この思考が随時湧いてくることで全体から分離した自分を存続し続けるのが自分劇場です。激しい運動をしますとこのシステムを壊すことができ自分が崩壊します、自分が崩壊しますと歓喜、平和、安堵が襲ってきます。なんという皮肉、ブラックジョークです。この事実を理解したならば積極的にこの自分の解体作業を行います、ルーティンで激しい運動を取り入れることで全体に積極的に戻るのです。すると思考を記憶する脳の疲労が取れ思考の活用が上手くなっていくのです。