池に写った姿を自分と思うか?

鏡すらない時代に

鏡すらない時代に、、、池に写った姿、、これを自分自身と思うのかどうか????思わないはずです。確かに池には何か動くものが映るでしょう、、ですが同時に違う景色も映るはずです。つまり池を見て動く何かを見たところでそれが自分という発想は湧かないのです。私たちは鏡に映る何かを「これがあなたよ!」と何度も繰り返し言われることで、、そう学習したのです。そこからこの体が自分という概念のみが生まれたのです。これは私というのは概念です。

だから私はしょっちゅう居なくなる

我々は一日の中で何回自分というものを認識するでしょうか???会話中、挨拶をされた時、、何かきっかけがないと自分を意織しないはずです、、なぜか???それは自分とは概念だからです。他人から挨拶されて始めて、、、挨拶されたのはこの自分だよな!という思考が湧き上がり、、自分が居るを思考します。つまり他人から全く相手にされなければ自分が居るという思考は湧かないはずです。

この体に自分が居るという思考

もしも人間が無人島で生まれたった一人で育ったならば、、寂しいという感情は生まれないでしょう。寂しいとは、、自分が居るという思考とセットで湧く感情だからです。見える世界の中のごく一部であるこの体の中に自分が居るという思考が寂しいを生み出すのです。この体の中に自分が居るという思考は思考概念であって真実では全くないのです。

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