神が見る夢

神と神のキャッチボール

いつでもどこでも

我々の日常会話は実は神と神のキャッチボールです。神が神に向かってボールを投げそれを神が受けて投げ返すのです。これを実はやっています、というよりもこれしか起き得ないのです、この世界では。ですが人間はそのように「解釈」していません、人間は人間と人間が会話をしていると「解釈」しています。その解釈がこの世界に緊張と分離を生み出しこのキャッチボールをつまらないものにしているのです。

人間がボールを投げる時

人間がボールを投げる時、「私はあなたにボールを投げる」という解釈が生まれます、、これによって初めてこの世界に人間が誕生します、そして私とあなたが誕生します。それを受け取る相手も「私があなたからボールを受け取った」という解釈が生まれるのです。これによって至福しかない世界に緊張と分離のストーリーが生まれ「苦しみ」が生まれます。至福の中での遊びが、、緊張の中でのやりとりに変わるのです。

ボールが外れた

ボールを投げた時に、、相手に届かない時ってありますよね????これが人間と人間の中で生じますと争いが生まれるのです。神と神のキャッチボールではこれは笑いになります、ですがこれが人間同士ですと争いになるのです。その違いは何か????それは勘違いによる緊張感です。人間はこの世界にたった一つの存在「私」を思考の中で誕生させ孤独と緊張の中を生きています。この緊張がキャッチボールをつまらないものに変えるのです。

早く試合がしたい

神と神は楽しくキャッチボールを毎日行えるのですが、、人間はさっさと試合をしましょう!!となります。キャッチボールなんて五分もやれば十分でしょ!!です。そして試合に臨み、、刺激を楽しむのです。なぜ刺激が必要なのか????それはキャッチボールが楽しくないからです、緊張と孤独で。だから試合という刺激を求め緊張と孤独を忘れようとしているわけです。ですが試合が始まれば益々ミスは連発し争いが絶えなくなるのです。

理解するのは誰だ???

思考はこれを理解できない

ノンデュアリティのメッセージだけでなく全ての知識は個人が理解していません、個人とは現れては消えていく存在でありそのような幻想は知識、メッセージを理解するというのは不可能です。雲が雲を理解することはできません、幻が幻を理解することはできません、それらは全部理解される側です。思考という理解される側が、、メッセージを理解するってありえないんです、全客体は、、神にとって気づきの意識によってのみ気づかれるのです。

本は読んだけど、、、

悟り本を理解できているんですが悟りが開かないんです、、、全く迷う必要がありません、悩む必要がないんです。なぜならばそれを理解したのは気づきの意織、大いなる存在、神です、、、にも関わらず悟りが起きないのならば、、それは「あなた」の責任ではないのです。「あなた」とは現れては消える存在ですから「あなた」は常にこれらの存在に認識される側です。

染み込む染み込む

本当にノンデュアリティへの理解が起きますと、、今までの私ストーリーを歩むことは不可能です。「私」が全責任でこの人生を歩むという体験はもう起きなくなります、、本当にそれでいいのか????この私ストーリーにまだ執着があれば悟り、ノンデュアリティ は起きないでしょう。それが起こるかどうかにおいて個人は全くの無関与です。

神の迫真の演技

演者は神

目の前でどんなに苦しんでいる人が居ようとそれは神が演じる役に過ぎません。苦しんでいるように人の経験者は神です、、見える画像の中に人格が居てその人格がこれを経験しているというのが我々の推測ですがそれは推測です。本当は神がそのような現象をただ目の前で起こしています。それを経験している人格が居るというのは推測でありその推測を人をするから「苦しみ」の中に入るのです。

貰っちゃう

精神科医、カウンセラー、、相手の気持ちになって寄り添う職業の方々は自身が心身症になってしまうってあります。相手がまさにどのような気持ちでどんな体験をしているかを追体験して、、相手に寄り添うのですが、、、そのイメージ、ドラマ作りこそが、、苦しみを生み出すのです。こんな風な苦労をこんな気持ちでしたに違いない、、です。相手から何かネガティブなエネルギーを貰ったのではなく、、今自身がドラマを作り出し追体験をして同じ感情を味わったのです。

そのようにはなっていない

真実は一つです。今この世界で起き上がっていることが全てです。悲しそうに見える人が居ればそれだけが真実です、孤独そうに見える人が居ればそれだけが真実です、、それ以上の何かはないのです。今ここで神がそのような風景だけを作ったのです。そして今「私は何何しなきゃ」という思考が湧いた瞬間に神はそれをイメージ化し、、さもそれが現実であるかのような絵を作ります、、その結果一緒に感情が起こるのです。もしも私が彼らのために何かをしなきゃ!が湧いてこなければ、、感情も湧きません。

釈迦

悟った後に釈迦はその気づきを悩める人々に伝えた、、、これが歴史上の多くの人々の認識ですが、、これは間違いです。悟りが起こった後に、、救わなきゃ!!は絶対に起きないんです、、救う必要がある人など居なかった、、、これが真の気づきです。悩んでいるように見える人物の中に人格が無かった、、という気づきが真の気づきです。ではそれが分かって救わなきゃ!!は起きるのでしょうか????

全ては独断と偏見

真実以外は、、、

真実以外は全部独断と偏見です、、、これが正しいこれが間違っている、、これは全て独断と偏見です。この世界にこれは正しいなどは全くなく、、この世界とは無限の無限による無限体験でしかありません。これは間違っているという現象があるのならば、、最初からそれは起こさなければいいわけでそれが起こるということは全て正しいのです。つまりこの世界で起こる全ては正しいのです。

真実は起こること全て

この世界で真実は何か???と言えば起こること全てです。全体験、全現象が正しいのです。にも関わらず人間はこれが正しい、これが間違っているという概念を所有することで苦しいを生み出しているのです。正しい間違っているを定めた瞬間に人間の起こす半分は称賛になり半分は否定になります。ですがその枠を作っておきながら自らは正しい間違いを半々で起こすのですから苦しいのです。

人間を分かっていない

我々人間は実は人間のことを分かっていないのです。正しい間違いを決めておきながら自身の行動を実はコントロールできないという恐ろしい生物です。まるでコントロールができる前提で正否を決めておきながら実はコントロールできないという恐ろしいギャンブルをしているのです。実は誰一人自身の行動をコントロールできない、、この真実に立ち返ったときに独断と偏見が壊れていきます。独断と偏見が崩れ去った時に真実が残るのです。

どうでもいい

背景の戯言

背景が毎日毎日常にこの体に向かって声かけ運動をしてきます。。背景がこの体の中に人格があるという前提の話し掛けをしてきます。そしてそれに反応してこちらも背景の中の相手の体に向かって会話をします。すると向こうの背景が勘違いを起こしまたこちらの体(画像)に話しかけるという大錯覚ゲームが始まるのです。これに我々は何千年もの間騙されてきました。本当は体という画像ではなく背景が会話を起こしているのです。

受け流す

人類の全会話は、、勘違いを維持するための会話です。この体(画像)に向かって相手の体(画像)から会話が起こるわけですが全てはその体ではなく背景から起こっています。背景が話しかけているにも関わらず体前提で話しかけてくることから、、全員が騙されることになるのです。これがどうしても騙されます、無理です、不可能です。

本当の人生のスタート

人は何十年間もこのトリックに騙され続けます。多くの人は死ぬまでこのトリックに騙され続け生涯を終えます。ほんの一部の人だけが孤独に真実に迫りこの謎を解き明かすのです。本当は我々はこの体ではなく背景そのものであり、、実は背景しか存在しません。背景の中にこの体こそが私だという思考感覚が湧き起こりそれを維持するための連鎖思考が起こるのです。

画像のカラクリに気づく

喋りかけてくる画像

背景の中から一部の画像が喋りかけてきます、本当は背景そのものが喋りかけてきますが我々には人物にハッキリと見えます。その会話からしてどう考えてもこの体が個であるという設定の内容であることからこちらの背景がこの体を個と意識する動きが生じます。本当は同じ背景の中でこれは行われています。背景が背景に話しかけています、、その中で勘違いが起きているだけです。

真の安らぎ同士の会話

本当は常に真の安らぎ同士で会話が行われています、ただその会話の内容が個が存在しているという前提の会話だというだけです。その結果それを認識する背景に孤独感分離感が発生するという現象が起きています。背景が今背景に話しかけているという真実に戻れば孤独感は全く生まれません。会話の内容が真実は異なるだけです、その内容をそのまま信じるから孤独感、分離感が生じるのです。どこまでいってもこの会話は真実とは異なるのです。

気づいちゃえば

真実に気づいてしまうと、、会話に取り込まれることがなくなります。会話は常に個が存在するという前提で進みますがこれがトリック、錯覚、イリュージョンを作り出すのです。まさか全人類がこのトリックに引っかかっているとは思えないことから背景はこのマジックに全く気づかずに障害を終えるのです。ですがこのトリックに引っかかったままでは苦しみのカルマからは抜け出せないので、、どこかで、見破る必要がでてきます。

画面からの誘惑

喋りかけられる度に

我々は画面上の人物(幻)から喋りかけられる度にこの「私」が起動し「私のストーリー」が立ち上がります。この仕組みを見抜けない間は一生物語の中に閉じ込められるわけです。こんな辛い出来事があって、、、と相談する度に、、「私」の物語の中に閉じ込められているのです。画面上の誰かは、、実はあなた(真の)を画面上のキャラに閉じ込めるための仕組みです。

寂しい

これは実験すれば直ぐに分かります、多くの人と会話をすればするほどに寂しいは増していきます。会話をすればするほどに寂しいが増すっておかしくないですか????おかしいんです。つまり我々は個を意識させられることで孤独を増していくのです。つまり人間関係とはそのまま孤独を作り出すツールなのです。そして人は孤独を癒すためにさらに人を求めるという負のループに入るのです。

違う違うそうじゃない

人と会うことで孤独感を増し、それを解消するためにさらに人に会うというパターンを人は作ります。周囲の画像(人物)こそが実は個を作り上げるメカニズムです。話しかけられることで背景は個を意識し、意識することで孤独感を作り出し、、それを解消するために人に会います。この自作自演ゲームこそが自我ストーリーのカラクリなのです。

真実は絶対に消えない唯一のもの

消えたら大変

真実とは絶対に消えない唯一のものです。真実とはたった一つのエネルギーであり、、そのエネルギーが今消えてしまたら、、、じゃあ今ここにあるのは何だ???となります。つまり我々は真実を出たことが絶対にないのです、、どこに行っても真実の中です。史上最悪、最低の状況が、、実は完全な真実(真の安らぎ、歓喜、愛)の中で起こっています。人生最悪な状況が真実の中で起こっているって意味わかりませんけど!!!!!です。

全員から裏切られたその状況は真実が作り出しています

全社員、全家族、全友人がみんなまとめて居なくなりました。これって本当に真実の中で起こっているんですか????100%真実の中で起こっています。真の平和安らぎの中でそれが起きました、、そしてその事件も真の安らぎが作り出しました、そして地獄という感情も真の安らぎが作ったのです、そして地獄を味わっている「私」も真の安らぎが作ったのです。

真の安らぎは勘違いしか壊せない

真の安らぎというリングの上で地獄を味わうにはどうしたらいいか????それは勘違いです、、勘違いしかこれを感じる方法はないのです。この勘違いが終わってしまったら我々は一瞬で真の安らぎに戻ってしまいます。なぜならば原材料は全て真の安らぎだからです。真の安らぎという原材料で、、この私が居るという思考(真の安らぎが原材料)を作り出し、、それを信じる(真の安らぎが原材料)が起こり、、苦しいが起こり、、地獄(真の安らぎが原材料)が起こるのです。人が苦しむためにはとんでもない仕掛け(真の安らぎが原材料)が必要なのです。

裏切り

自我の延命措置

裏切りとは自我の延命措置です、、例えば、、仕事がバリバリできる社長は、、全くもって人を必要としません。たった一人で稼げるわけだから、、誰に依存しなくてもいいのです。これは一種の悟り状態です。人に対する執着がゼロです、、、このままいくと悟りが開かれるでしょう。そこで自我は頼ってきた人々を助けるという行動を取らせます、助けることで「自分」の存在を確かにするのです。俺が助けている、、これだけ助けたのだからこれぐらいは感謝されないと、、です。「俺」がいなければこいつらは路頭に迷ってしまうぞ!!!です。

そこで事件が生まれる

助けるべき人々が居るというのはそのまま夢化しますから「私」の前には助けるべき人が出現するでしょう。それによって自我はホッとしているのです。これで「私」はしばらく生存できるぞ、、と。そしてそこからの裏切りです。相手の自我(あるとすれば)はこちらが与えれば与えるほどに返さなくては、、、が起きます。損得勘定でしか考えられない自我は、、、与えられることを実は恐れます。借りができたような気持ちが悪い感覚になるからです。何かあったら今度はこっちが与えなくてはいけなくなる汗です。

自我の動きを見抜く

自分が居るという感覚の中に居る人々は(見かけ上)浮遊霊のようなもの、、常に居心地が悪く、、常に怖い、、全部が恐怖ですから、、、多くのものを与えてもらったという事実すらも、、不快なのです。つまり強烈に自我を感じてしまうわけですね、、ですから最終的には、、逃げ出すわけです。これが世間で言う裏切りです。ですが本当はこの動きは勝手に起こっているだけです、、自我ありき(見かけ上)の人物像において勝手に起こった化学反応だということです。ここで怒ってしまうと、、、失礼を受けた「私」失礼をぶっこいた「相手」という幻想を強く強く信じる結果になります。

怒り→諦め→達観

全てはこの流れに

期待を裏切られた時、、人は激しく激昂します、怒ります。私がこれだけ愛情を注いだわけだからこれぐらい返してくれるはずだ。。。。です。これだけの愛を注いだのだから、、このぐらいは返ってくるだろう、、、です。ところがそうはいきません、、、なぜか?????愛情を注いだその相手には人格が存在しないからです、化学反応しか起きません。行動をコントロールできる自己、人格が存在しないのです。だからその化学反応に対して最初は怒り狂うのです。

ところが、、、、

相手には相手の事情が、、、相手には本当の本音が実はあって、、、実はそんな余裕がなかったんだ、、、と相手に寄り添える余裕が生まれてきます。裏事情を知らなかった「私」と裏事情を持った「相手」という関係です。人には人の事情があるという考え方(想念、概念)です。これによって実は真実に少し近づきます。私には分からない事情(本当は化学反応のみ)があるという大人の発想です。ですがここではまだ私にも相手にも人格があるという大前提です。

最終的に

人格がなかったという達観に辿り着きます。そこにはコントロールできる人格は存在せずただ化学反応しか起きえないという真実です。とんでもない裏切り、ありえない裏切り、悍しいほどの裏切り、、、その全てが化学反応であるという真実です。化学反応に対して人は感情を持つことができませんね、、つまりこれが達観です。人に何かを期待するのはその人の行動はその人が管理できるという大前提があります。ですが出来ないのです、誰もそんなことはしていないのです。