神の迫真の演技

演者は神

目の前でどんなに苦しんでいる人が居ようとそれは神が演じる役に過ぎません。苦しんでいるように人の経験者は神です、、見える画像の中に人格が居てその人格がこれを経験しているというのが我々の推測ですがそれは推測です。本当は神がそのような現象をただ目の前で起こしています。それを経験している人格が居るというのは推測でありその推測を人をするから「苦しみ」の中に入るのです。

貰っちゃう

精神科医、カウンセラー、、相手の気持ちになって寄り添う職業の方々は自身が心身症になってしまうってあります。相手がまさにどのような気持ちでどんな体験をしているかを追体験して、、相手に寄り添うのですが、、、そのイメージ、ドラマ作りこそが、、苦しみを生み出すのです。こんな風な苦労をこんな気持ちでしたに違いない、、です。相手から何かネガティブなエネルギーを貰ったのではなく、、今自身がドラマを作り出し追体験をして同じ感情を味わったのです。

そのようにはなっていない

真実は一つです。今この世界で起き上がっていることが全てです。悲しそうに見える人が居ればそれだけが真実です、孤独そうに見える人が居ればそれだけが真実です、、それ以上の何かはないのです。今ここで神がそのような風景だけを作ったのです。そして今「私は何何しなきゃ」という思考が湧いた瞬間に神はそれをイメージ化し、、さもそれが現実であるかのような絵を作ります、、その結果一緒に感情が起こるのです。もしも私が彼らのために何かをしなきゃ!が湧いてこなければ、、感情も湧きません。

釈迦

悟った後に釈迦はその気づきを悩める人々に伝えた、、、これが歴史上の多くの人々の認識ですが、、これは間違いです。悟りが起こった後に、、救わなきゃ!!は絶対に起きないんです、、救う必要がある人など居なかった、、、これが真の気づきです。悩んでいるように見える人物の中に人格が無かった、、という気づきが真の気づきです。ではそれが分かって救わなきゃ!!は起きるのでしょうか????

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