執着

モーリーニョが三年で解任される理由

三年間でチームが崩壊する

モーリーニョはこの二十年間で最も優秀なサッカー監督の一人です。実績も凄まじく、、優勝回数など群を抜いています。ですが同時にこの監督は三年周期でチームを首になるのです、最も優秀な監督がだいたい三年間でチーから解任される????なぜでしょうか?????不思議な現象です。答えは三年目にチームが崩壊するから、彼は戦術戦略のプロでありますからチームの強みを引き出すのが上手、、どんどん強いチームに作り替えていきます。同時に彼は問題点を見つけるのが上手いですからそれを改善するのもできる。ところが解決不可能な問題が出現し始めますと、、そこにも関心が強いので、、、そこが拡大する、そこに支配されていく。そして三年間で終わるのです。

モーリーニョは夢の構造を理解していない

コレは夢です、完全に夢です。夢では関心が事象として現象として拡大するのです。関心を寄せた分野がどんどん大きくなっていきます。。もしも解決法可能な問題に関心が行けば、、その問題が急拡大します。関心を寄せなければいい、もしくは解決不可能な問題が起きてしまったら、、その場を離れるのも重要でしょう、被害が拡大しますから、夢の中で。なんとかしてなんとかして、、、という執念が逆に問題を急拡大させる可能性があるのです。

そして夢と分かれば、、、

解決不可能な問題になぜ執着するのか????それはこれが夢だと気づいていないからです。これを現実だと思っているから執着するのです。夢の事象に夢と分かって執着するって逆に難しいんです!ですからカリスマはそのような流れから覚醒、悟りに向かいます。。。なぜ私の人生からトラブルが消えないのか???です。それは自身が解決不可能な問題に執着しそれを拡大発展させているからです、夢の中で。

本当は好きじゃないけど。。

これは夢です

コレは夢なんです、、この夢の中で本当は好きじゃないんだけど、、しょうがないから表面上付き合おう!という人が現れたとしましょう、、、ですがこれは夢です、、、関心は膨らむようにできています、、、この本当は好きじゃない人の嫌いな箇所が拡大します、、夢の中で。つまりどんどんしんどくなっていく、その好きじゃない人のウェイトが増えていくんです。

増やしているのは自分自身

夜見る夢の中で蛇を恐れていると、、必ず蛇がでてきますよね、、、これが夢です。これはこの現実も全く同じ夢なんで関心が膨らむんです、関心事が影響力を高めてくるんです。だから嫌なこと、気になることは、、排除です。勇気を持って関わらないと決めるのです。これしかありません。

関心が膨らんでいく

この夢の特徴、、それは関心が夢の中で膨らんでいくということ、、地震を恐れに恐れていれば地震が起きやすくなります。洪水を恐れていれば洪水が起きます、、、そんなこと夢の中で何度も経験してますよね!!!そうです、この現実は夢ですから、、、恐れていること、大好きなこと、、全部広がっていきます、人生を支配します。そして重要なこと、結局夢なんだから恐れる必要はないということ、執着する必要もないということ、ここがポイントなんです。

働かないと死んじゃうよ

これって完全に観念なんです、これを信じればそうなるだけ、、、夢の中では何でもありです。とにかくとにかく夢って分かればもう安心、、だけど夢って分かっちゃうともう頑張れないんです、、真剣になれないんです、深刻になれないんです、、ということ。夢って分かることが素晴らしい、、ではないんです、、この夢は完全完璧完成(空)の表現、アートですから何が悪いってないんです。自我も結構、恐れも結構、楽しいも結構、悟りも結構、、です。

悟る!悟る!悟る!

眠る!眠る!眠る!

寝るためにベッドに入ることは重要なことです、ですが入ってから集中して集中していざ眠ろう!は逆に眠れない。それでは無理です。悟りも全く同じ、そこに意識を向けることは大切、ですがそれが執着になると逆に難しい。そのバランスは重要です。

真実を理解していくことは

真実を理解していくことは寝具を整えていくのと同じです。寝具が整っていきますと当然眠りに落ち易いわです。ベッドを掃除し枕を綺麗にし加湿器をつけて暖房を入れる、、、こうしていくと瞬時に眠りに落ちることができます。悟りもこれと同じ、真実の仕組みを理解していきますと悟りに落ち易いということです。

再吸収、再吸収、再吸収

眠りに落ちる時、主語は自分じゃないんです。自分が眠りに落ちるってちょっと違和感があります。眠りに落ちる時って自分が無くなる感じですよね。悟りも全く同じ、自分が無くなるのですから主語は自分じゃないんです、、では誰が主語なのか????自分を眠りに落とす主語って誰ですか???居ませんよね、それをあえてあるがまま、全体、ワンネスと表現すんですがこれは非常にやっかいでどの言葉を用いても違うんです。言葉を当てはめれる存在ではないんです、眠りに落ちる時、どこかに吸い込まれうような感覚があります、、そのどこかです。でも間違いなく我々は眠りに落ちれう時にそこにアクセスしてます、そこに波長を合わせてる。悟りとはまさにそのどこかに波長を合わせ再吸収してもらう感覚です。

眠る時にあそこに行こうとは思っていない

眠るに落ちる時に、、さああそこに行こうとは思って寝ないですよね、、、あそこではないんです、、今ここに間違いなくある、今確実にあるこの場所です。悟りとはどこか遠くに行くことではなく元々ここにある場所に帰る感覚です。本当はずっとここにあるのに見えなくなってしまった場所、そこに再吸収されるように準備を重ねていきます。

現実に住まない

同じ場所

同じ場所に居てもこの場所を幻想と見抜かず居る場合と、、完全に幻想であると見抜いてここに居るのでは、、、全く意味が変わってきます、、、ここを本当の実在の場所だと思えば、、この体も実在し、、ゆえにこの体には私という存在は実在し、、、と実在の連鎖が起こる、、、これは勘違いの連鎖と言ってもいいでしょう、、この勘違いの連鎖は輪廻転生、、、時間を超えて起き続けるという無限ループに入ります。本当はこれは幻想であり、、ゆえに目の前にはただ幻想が起こり、、、我々はただ経験だけをしている、、、そこには何の意味もなく、、ただ経験だけが積み重なっていく、、、、この体も幻想ですから私など居るはずもなく、、居るという思考だけがある、、、、

随分違う

要は同じ場所(幻想)に居ながら、、まるで違う展開が起こっていくのです、、、、真実に住めば(住む自分は居ない)静寂、平和が漂い、、、この自分に執着すれば苦しいが続く、、、これだけです、、、これを幻想と見破ると、、、鳥の声さえ神々しく聞こえ、、、太陽の光も神々しい、、、なんという幻想、、、何という緻密で正確な幻想、、、、なんという感覚、、、、と感動が嵐のように巻き起こります。。

感動の嵐

これが幻想だと思えば、、、、見かけ上の私が行く場所、行く場所にとんでもない、、、展開が広がり、、、、世界はエンドレスに湧き上がっていきます、、、、、品川駅に着いたら、、、何も無かった、、、が起きえない、、、、毎秒毎秒現象が起き上がり、、、、去っていく、、、、これが寂しいとか、切ないとかではない、、、、壮大な神のアートです。。。。

自我の延命活動で消耗する

唯一残された聖域の確保

自我とはこの世界の中で唯一自由になる聖域です、、、これをそう捉えると、、この自我を絶対に絶やしてはいけないという自我延命活動が起こります、、、これが非常に疲れる、、、これがエネルギーを完全に消耗する、、、となります。なぜかと言えば本来は実在しないのですから、、これをあるという架空の物語を続けるのは非常に疲れるのです。実際にないものをあるとして物語を継続させるというのは骨の折れることです。

無いと分かれば、、、

自我は実在しない、、、この完全な理解が起きますと、、、もう必死になってセルフイメージを良くしよう、なんとしてもこの体を保持しなくては、、という強迫観念から逸脱できます、、、この体が朽ち果てても、、、何も失うものがないとはっきり分かるのです。。私は輪廻転生という概念を知った時にやはりかなり楽になったのですが、、、意識そのものであるという気づきを得ることで、、さらに楽になりました。

輪廻転生で今世を諦め、自我の解放で過去と未来から自由になる

輪廻転生という概念は今世への執着を緩めます、、、たった一回の人生、、、絶対に失敗だけはしたくない、、、この恐怖心が完璧になくなります、、、ですがそれでも残る生への執着、、、、これが自我の解放でなくなるのです、、、この体どころか全生命活動を行っている本質そのものだったという気づき、、これが起きます。

簡単に見抜けるわけがない

既に悟ってる???冗談じゃない

つまりはこういうことです、、、我々の全行動は自我記憶システムが反応しているだけですから、、、自我なんていないんですよ、というメッセージが届いても、、それが自我記憶システムの反射が起きます、、この自分は反応しかできない存在なので、、、、思慮深く考えているつもりでも、、その行為が自我記憶システムの反射になっているのです。ですからいつまで経ってもこの時間空間、夢の中でそのプロセスが反射しているだけなのです。。この個人はいつでもメッセージに反応しかできないのです、、、そんな個人が悟りを開くというのは、、完全なギャグなのです。

個人ができることは

個人ができることは、、、個人が実は居ないという気づきが「どこか」で起きるのを待つ以外にないのです、、いつかその時が来る、、、それを信じて結果を手放すのです、、、悟りに対するその執着が抜けた時に、、起きる可能性がでてくる、、、、個人はどこまでいっても自我記憶システムの反応しか起きない存在、、、主体的に悟など不可能なのです、、、ですがその理解が進むということは自我記憶システムに緩みが生じている証拠です。

自我記憶システム

記憶によって自我は形成され(妄想)その自我が体験した全てが全部記憶されていく、、この記憶がさらに自我の存在を明らかにする、、、そして見える世界はその記憶が織りなす観念がベースになっており、、、見える世界は自我を証明する現実が起きている、、これで簡単に見抜けるわけがないのです。しかも自我はこの体を守るために形成されていますから絶対必要な存在なのです、体にとって。この完璧な枠組みの中から自我の正体を暴くのは至難の技です。

結果など、、、

個人は結果にこだわるが

個人は結果にこだわります、、、ですが結果は個人を幸福にできません、、個人を幸福にできるアイテムはこの世界には一切ないのです、、、、一切です、、なぜならばアイテムは全てイメージで在り、、この個人もイメージです、、実在しないのです、、、、だからこそ個人が幸福になるという嘘にいつ気づくかが重要になります。

個人とはイメージ以上でもなく以下でもない

個人とは体験を積むために起き上がったアイデアです、、、このアイデアに執着し始めると苦しみが湧きます、、それは嘘だからです。真実じゃないからです。。真実の中で真実ではないことを真剣に信じると、、真実とのギャップが生まれこれが苦しみになるのです。

自我とはイメージ以上でもなく以下でもない

自我を完全になくすのは不可能です、、、社会で生きていく際に便利なアイデア、イメージだからです、、、ですがこのイメージが、、思考し、感情を湧き出し、行動を決めている、、、、という思い込みは事実、真実ではないので、、、真実から離れ苦しみが湧き出します。自我が何かをやっていると信じると、、、全くこの信念とは異なる結果になるので、、、苦しのです、、、、全くもって無駄です。

自由意志があるという勘違いが「私」への強烈な執着になる

もしも自由意志がないとなると、、

この世の住人で、、自由意志があることを信じる人はほとんどでしょう、、なぜか???この私、イメージの私、概念の私、、、を強化するためにこの自由意思という概念は非常に強力な武器になるからです。。。この自由意志を起こしているのは誰だ???私だ!!!です。ゆえに自由意志の否定は自己意識があるという設定の夢物語から強烈な拒絶反応が起きます。。。

ただ起こっている

思考も感情も、行動も、私が居るという概念もただ起こっている、全体から、、、このような認識で過ごしてみてください、、本当にそれで成り立ってしまいます、、、私というのは概念で概念が自由意志を駆使するっておかしいよね、、だとするとこの思考、感情、行動はただ全体から起こっているとしてもおかしくはない、、、今は信じられないかもしれませんが本当にこれで生活が成り立ってしまいます。

「私」がこの体を守っているという概念

皆なぜ「私」に固執するかと言えば、、この「私」がこの体を守っていると本気で信じているからです。。この私が居なくなってしまったら誰がこの体を守るのか???という話です、、、ですが本当は大丈夫なのです、、自我を俯瞰する超意識を持つことができれば、、思考を要所要所で使うことができますから、、、自我はもう必要なくなります。今までは自我意識でこの体を守ってきました、夢を現実と信じて。。ですがこれからは自我もこの世界も夢であることを俯瞰し、、夢を利用して生きていきます、、

名前を呼び合う

子供の中で喧嘩が始まる

最初はただ、、名前を呼び合っていただけの子供達が、、、徐々に個人としての記憶が多くなっていくことで個人としての意識が強化されてきて、、、子供達がおもちゃの取り合いをしたり、ある子供をいじめたり、、頭を叩いて威圧してみたりするようになっていきます。。。個人であるという感覚は不快ですから、、この不快感は毎日のように大きくなっていくわけです。この意味不明な不快感を解消しようと、、子供達は喧嘩や争いを始めるのです。

校則やルールが生まれる

日に日に増えていく不快感からくる衝動をコントロールするために校則が生まれ、ルールが厳密になっていきます、、ですが個人としての記憶が増大するに従い、、、不快感は日増しに増えていきますからもうこれは大変なことになっていくのです。ただ生きているだけ、ただ個人として生きているだけで経験が増えそれらが記憶されていきます、、個人としての積極的活動が多ければ多いほどに、、その個人の記憶が増えますから、、個人が強固になっていき苦しいとなります。

就職する頃には、、

就職する頃には、、個人は完全に強化され、、毎日がしんどいが当たり前の状態に、、日々こんなもんだよなと諦めて生きていくようになるのです、、、ですがそれでも個人の経験は増え続けていきますから、、その記憶が自我を盤石に支え続けるのです。。。そして徐々に生への執着自体が減ってくる、、人生なんて、、つまらないのが当たり前、、、いつ死んでもそれほど後悔はない、、ぐらいのノリです。

死ぬ覚悟があるならば

死ぬ覚悟があるならば、、生への執着がないのならば、、、だったら悟りを開いちゃえばいい、、、これが夢だと気づいちゃえばいい、、、この自己を精神的な意味で解消しちゃえばいい、紛糾しちゃえばいい、撃破しちゃえばいいのです。この自己は作り物、便宜上作品ですから、、、本当は存在しないのです、、ですからそれを見抜いてしまう、、、ただそれだけです。

五感で感じていたのは、、この私ではなく、本当の私だった

「今日は良い日だな」は誰が感じてる?

今日はいい日だなー、、、この感情を感じてるのは誰でしょうか???この体の中に居る自分ですよ、、確実に今感じましたから、、、、違います、、、本当の自分が今感じたんです、、本当の自分ではなく、、間違いなく私が感じましたけど、、、違います、、その私が本当の自分なんです。????そうです、、あなたこそが本当の自分、この夢の創始者、この夢の観察者です。いや、、私はこの体の中の住人に過ぎない、、その証拠にこの体の中の感覚しか持っていない、、あの人の感覚も、、あそこの人の感覚も持ち合わせない、、

この夢は、、この体が主人公の夢

そうです、、、この夢はこの体が主人公になっている夢なのです、、ですからこの体が感じることだけを感じる、、この体が向かう場所だけが出現される、、この体が味わう物だけを味わえる、、そしてその全てを回収し、起こす存在がこの私です、、、私が経験していない経験はない、、、ですからこの体が感じる全てはこの夢の観察者である私が感じているのです、、体の中に居ると思っていた「私」は実はこの夢の創造主、観察者です。

その証拠に

その証拠にこの体の中を何十兆円とお金をかけて調査しても、、この私は出てこないですよ、、居ないんですから、、、じゃあどこにいるのか???夢全体こそが私です、、、鳥の声が起これば、、夢全体としてそれに気づき、、友人が現れれば、、夢全体としてその存在に気づきます、、、この体の中から思考が湧けば当然気づく、、、友人に会えて最高、、、に気づく、、今日は会いたくなかったなー、、、に気づく、、ということです。

それが分かって何か意味があるのか???

その質問が出ている時点で分かっていません、、、これまで現実だと思っていたのが夢で、、しかもこの体の中には居ると思っていた自分が、、夢を見ている当事者だった、、、この気づきは驚くほどの感情を変えます、思考を変えます、、行動を変えます、、、なぜならばもうこの体に執着ができない、、この体に執着できなければ、、もうこれは遊びになってしまう、、今まで真剣に深刻に生きてきたのが、、、お気楽な遊びになってしまう、、、ということです。