自由意思

悲惨なニュース

それもこれ

悲惨なニュースってあります、、災害、大飢饉、大寒波、台風、ハリケーン、戦争、、、、あげればキリがないですよね。その全てはこれが作り出しています、非二元が二元として作り出します、、、その操作に個人は全くもって非関与です、個人はこの全現象に影響を与えることはできないのです。ピカソが描く台風、暴雨、飢饉、これらは感動的に美しいはずです。ではこの悲惨とされる現象は本当は美しいはずなのです。ところがそうでないのは「個人が居る」という雑念がそう見せているだけです。

全部が全部美しい

本当は全部が全部美しいのです、雷雨も完璧に美しいのです、、、にも関わらずそう見えないのならば、、、それは雑念がそうさせているのです。ですから重要なことは、、、この雑念を消し去ることで、、、全現象が、目の前の全現象が美しくみえないのは雑念のせいです。激しい雨も、激しい雪も、激しい風も、、、全部が全部本当は光り輝いています。

雑念を落とす

雑念がなぜ「起こる」かと言えば、、真実とは違う勘違いが起こっているからです。この私が居てこの人生を切り開くという勘違い、、、自由意思があって完全なコントロールで環境を支配できるという勘違い、、、これらが雑念の嵐を巻き起こすのです。この嵐こそが目の前の現象を曇って見せる原因です。

雑念の強制終了

真理を知れば雑念を落とすキッカケにはなります。ですがそれだけでは難しいでしょう。それはなぜか????我々の本質である「意識」は「思考」とベッタリくっついて、、、硬直状態になっているからです。これではエンドレスに雑念が湧くわけです、、、これを打破するには、、、思考に向いた意識を思考以外に向かせる必要があります。そこで重要になるのが呼吸法です、、呼吸に意識を意識させることで、、、思考にへばりついた意識を剥がせるのです。雑念が湧いてこない状況になるますと全現象が美しく見えます。

湧いてくる思考を「自由意思」と呼んだ

今日靴を買おう

朝起きて突然閃きます「そういえば靴買おうかな」休みの日ってだいたいこんな感じですよね????そういえば「食料買いこんでおこう」みたいな、、、、急に閃きますよね?????「あの友達最近何やってんだろう???」です。この閃き、思いつき、、これを人は自由意志と呼んでいます。そして周囲からオシャレな靴持ってるね!!!と言われれば昨日靴買いに行ってさ!となるんです。ですが真実は閃きに沿ってその行動が起きたのです。

閃きを「自分」が所有する

全部が全部閃きに沿って行動し、閃きを口にしているだけなのに、、、そこには「自分」という存在が居てその自分がその思考、行動、発言を決めているという誤認識が生まれているのです。だからなぜ私はそんなことを言ってしまったんだ???なぜ私はあんなことやっちゃったんだ????なぜ????なぜ????となるんです。これが人生の苦しみを作るのです。真実は「ただそれが閃き、ただそれが起きた、ただそれが口から発せられた」です。

雑念を払う呼吸法

思考に意識が意識している時、、、雑念が止まりません。この状態が苦しくてしんどいからパチンコ、麻雀、競馬各種ギャンブルがあるんです。この状態がしんどいかから飲酒、タバコ、美味しい料理、嗜好品の数々があるのです。この状態が苦しいからスポーツがあるのです。全部が全部雑念を払ってくれるツールです。このメカニズムを理解できますと何かに頼ることなく意図してこれを「払うこと」ができるようになります、それが呼吸法です。意識を思考ではなく呼吸に意識します。意識を呼吸を通じて体全体を意識させます。思考にへばり付いた意識を剥がし体全体に意識を意識させるのです。体は実は既に悟っています、その悟っている体に意識を意識させるのです。

失敗できないという重責

これを現実とすれば

これは現実で、この体には「私」が居て、、私には自由意思がありこの世界をこの私が自由意志を駆使してサバイブするんだ、、、という概念に染まりますと、、、、頭が良い人ほど、、、あらゆるリスクを考慮し、重くなります。リスクが見えれば見えるほどにそれに対応を迫られますからこれはきつい。あらゆる保険に入りまくってその保険料で首が何重にも巻かれた状態になります。

頭が良いからこそ

頭が良い人にとってこの人間の初期設定『この体、この思考は私』という概念は恐ろしく重い重い設定なのです。だからエックハルトトールは恐ろしいほどの重圧の中で悟りを開きました。あれは頭が良過ぎる故の重責ではないでしょうか。逆に言えば、、、これが夢かも!!!という気づきに頭が良い人が至ったら、、その理解はとんでもなく早い、、なぜならば夢という想定では何一つ矛盾がないのです。これは現実、、、こちらは矛盾だらけで正解がない、、これは夢、、、は正解しかない、、、となります。

どこでリミットオーバーになるか

「この現実の世界をこの私がサバイブする」この発想はどこかでリミットオーバーになります。なぜならば初期設定のこの現実は、、現実ではないからです。初期設定が間違っているのですから全く正解のない世界を私がサバイブしていかなくてはならずクリアは不可能なのです。勘違いをベースにした人生戦略は歩めば歩むほど矛盾をダイレクトに受けるので辛くなるのです。

夢だと分かって夢を生きる

これが夢だと見抜く最大の障壁はなんでしょうか???それは周囲に合わせて生きていく、、、というこの作戦と、、、コレが夢だと気づくという事実があまりにもかけ離れていることです。この夢の多くの方は周囲に合わせて安心する、、という作戦を信じ切っていますから、、、どれほど苦しくてもその作戦を変更できないわけです。そうなると限界リミットオーバーしかこのパラダイムシフトを起こせない、、となります。あくまで夢の中のストーリー上ですが。

言われてみれば

悩み始めた時期

面白い話ですが、、、幼稚園時代って悩んだ記憶がないんですが、、、自由意志を使い始めていると感じ始めた小学生ぐらいから悩みって増えてきた感覚があります。さらに中学生ぐらいになるともっと増え、高校、大学と選択肢が増えていると感じるに従って悩みも増えます。さらに就職となると、、より選択肢が増えるので、、、本当にこの道でいいのか?????という疑問が常に常にありました。

選択肢が増え選ぶ自分が居るという錯覚

本当は違う道があるんでは???この選択は本当に正しいのか????一番後悔しない道を選んでいるのか????人間は常に失敗を恐れ適正解を選んでいるかを気にしながらいつもいつも生きています。ですが本当は自由意思自由行動は一切ないのでその悩みの全てが無駄なのです。そして自由意思自由行動がないのならば自分という存在は居ないも同然です。

ノンデュアリティは分かった

ノンデュアリティ ってそういくことなんですね!!!じゃあこれからどうしようか?????じゃないんです。ノンデュアリティが分かったということは悩むことが出来なくなっちゃうことなんです。自分の行動を気にすることができなくなっちゃうことなんです。映画を見に行って、、なんであそこであんな行動しちゃったんだ????って悩むことができませんよね!!!それです。

100トン級の重り

つまり、、、、100トン級の重りが突然外れたみたいなものです。重力が急に無くなったみたいなものです。重くなれないんです、期待もないし、未練もないから。。自分を憂うこともできなければ何も期待もできない、、、未練なし、希望なし、、、のスーパーお気楽人生です。例えホームレスになってのたれ死んでも、、、全くもって未練が残らない、、なぜならば、、、自由意志も自由行動もないのですから。そしてこの軽さが実は生命力そのものであり逞しいのです。

もう「何か」にならなくていい

自由意志の弊害

私たちは自由意思というものを持っていると錯覚しているので「何者か」になれるかなれないかは「自分」に全て責任があると本気で考えています。ですが「自由意思」は本当はないのでそれを「行使」する「自分」も本当は居ません。そうなると「何もか」になれる「自分」が居ないのでしすから「何者か」には絶対になれないことが分かります。「自由意思」というのは実は大変な弊害があるのです、この概念によって人は後悔し希望を持ちをエンドレスに繰り返すのです。

なぜ出来ない????

なんであんなこと言っちゃたんだろう????なんで????なんであの時あれを出来なかったんだろう?????人間はこうやって苦しんでいます。結局今日もあれができなかった、、、残念!!!!全部は自動運転、ノーコントロールです。その後悔の発想が間違っています。妄想です、幻想です、自由意志と自由行動があると思っているのは。

究極の絶望

自由意志も自由行動も自分も居ないなんて滅茶苦茶つまらない、、生きる意味なんて全く感じないですよ!!!そうですよね!!自我全開、自由意思全開だと思っている人からするとそう感じるでしょう。ですけどもともと自由意志、自由行動がなかったんです、それでこれまで生きてきたんです。これからそういう生き方に変えましょうということではないんです。自由意思、自由行動、自我があると信じて今まで生きていただけで一度も存在しなかったという話です。

あれ????

つまりこの体が「自分」じゃないということは、、所有する何かが存在しないということだけど、、、逆に言えば、、、全部が全部自分ってこと?????そうです。全部が全部自分です、見える全て、感じる全て、聞こえる全てが自分です。つまり自分の中にこの体もあって体が自分の中を動いているのです。この体の中に「自分」が居るんじゃなくて自分の中にこの体もあるのです。魂の中にこの体があるんじゃなくて見える全てが魂なんです。

尊敬も軽蔑もない

自動運転に評価をするって??

この体、この思考、この感情は完全に自動運転、自動操作で動いています。つまり全自動洗濯機のようにノーコントロールっです。その状態で街を歩けばあらゆる行動を人は取っているのです。全自動洗濯機のように人は動いていますから、、、そこに評価とか完全に無意味です。あの人は尊敬できる、この人は尊敬できないって「自由意思」があるという前提の話ですよね???????残念!!!!ないんです、そんなものは。

自由意志があると信じれる自由がある

この世界がとんでもないのは「自由意思」があると信じる自由があるのです、そして多くの人はそれを信じています。その結果あらゆる観念、価値観が構築され、、そのフィルター越しに世界を見るという多様性の構築に成功したのです。つまり「自由意思」がるという観念によってこの世界はとんでもなく多様化したわけです。とはいえ真実は「自由意思はない」のです。ですから尊敬できる誰かも尊敬できない誰かも存在しないのです。

それって楽しいの????

そうだとして、、、それって楽しいのでしょうか?????完全な風任せ人生を認めて退屈じゃないですか?????試しにやってみてください、、、めちゃくちゃ気楽、お気楽、安堵、平和です。忌嫌うべき人が全くいない、幼稚園時代の人間関係です、、、あいつは責任感が足りない!!!という評価なんてしなくていいんです。だって自動運転ですから。こんな気楽で楽しい人生ありますか????

空の揺らぎ

色とは影

色とは空の影揺らぎです、、我々は全体で空の影、揺らぎをやっています。空から影が現れるその根源が大いなる存在、存在、我あり、気づきの意織などと呼ばれます。そこでは常に意識が起こります。そしてその意識は我々の根源に常にあり、、その感覚は我々が起きている間存在している「在る」という感覚です。そして我々は影でありますからそこには自由意志はないし(ある感覚はある)、自己という分離独立した(あるという感覚はある)存在もいません。だから時間はないし空間もないのです。

分離と緊張

我々はこの体の中に自己が存在するという錯覚を持った瞬間に(分離と緊張)を生み出します。この分離と緊張が苦しいので、、我々は、、この感覚を振り払うためにあらゆる活動をするわけです。ですがその活動の全ては自己が行うことであり、、根本の分離感緊張感が抜けることは絶対にありません。ですから途中疲れ果てその活動に疑いを持つことから悟りに関心を寄せるのです。

影に自由意志があったら

我々は空の影です、、空の影ですから本来はたった一つのエネルギーです。たった一つのエネルギーの影の一部に自由意志があるとしたら、、それは分離であり、、そうなるとたった一つのエネルギーはたった一つではなくなってしまいます。あくまでこの影の中で起こるのは分離ではなく分離感です、自由意思感です。分離という錯覚、自由意志という錯覚です。自由意思感という錯覚を所有する自分という錯覚が歩むドラマがマイライフでという錯覚です。

ある時この錯覚に気づく

ある時この私、この自由意志が錯覚だという気づきが起きます、そしてこれは空の影、反映であることにも気づきます。この気づきはこの私ではなく気づきの意織、大いなる存在、我ありから起こるのです。その時同時にもう何も抗わなくていい、影の動きに身を委ねよう、どうせこの身が滅びても影に吸収されるだけだという気づきが起きます。影はどこまでいっても影でありこれが空に影響を与えることはないのですからこれほど気楽な活動はありません。「私」の活動は最初から最後まで遊びです。

自由意志の否定は輪廻転生を崩壊させる

そもそも

輪廻転生とは、、人間が行った誤った行為を来世で解消するために何度も生まれ変わり霊的成長をしていくことが前提で起こった考え方です。ところが人間には自由意志がなく、、全ての行動言動は自動反応であるというのが真実です。つまり人間の全行動はワンネスから起こる現象に過ぎないことからそこに間違いなどあろうはずがないのです。自由意志を行使した結果時に過ちを犯し、それを改善するために生まれ変わるという概念は完全に勘違いであることが分かります。

解脱とは勘違いからの目覚め

つまり解脱とはそれらの勘違いからの目覚めであるということです、人間には自由意志もないし自我も存在しないという気づきが起こりまでこの自我ストーリーが続いていたというだけの話です。今世で犯した罪は来世で償います、、という考え方は、、真実ではなく大誤解です。輪廻転生とは大誤解をベースにした概念に過ぎないということです。そういった大誤解から目覚めて真実に目覚める時、、そこにはワンネスしかなく、、最初から悟っていたという気づきが起こります。

自我を前提にしたストーリーの消滅

解放、目覚め、解脱とは、、、自我を基本にしたストーリーの消滅です。本当は自我は現象幻でしかなくつまり現れて消える概念です。この概念が分離と緊張という「苦しみ」を起こし、それをこのストーリー上で解消しようとする動きが人生であり輪廻転生なのです。そもそも自我は幻であり実在はしていなかったという気づきは自我をベースにしたストーリー全てを崩壊しその後に残るのは自我が存在しない現象のみです。そこには分離と緊張は存在せず真の安らぎが残ります。

「異次元の何か」から自由自在に起こる

それを切り取ってストーリーにする

この世界の絶対のルール、、それは全現象は、「異次元の何か」「空、絶対」から勝手に湧き上がるということ、、ここにはルールが全くないということです。ここのルールがあるとしたら、、「異次元の何か」はルールに縛られていることになり無限の存在ではなくなってしまうということです。ですから今ここで起こる現象が、、いかに因果関係があるように見えてもそれはそう見えるだけということです。

私は一生懸命勉強したから試験に受かりました

このストーリーは誰もが信じやすい因果関係です、、、勉強を一秒もしなかったからテストが0点、いっぱいしたからテストが100点、、、、、ですがこの勉強をどのぐらいするか、、ここが自動現象なのです、、その結果としてテストの点数がされるのは事実です。次の日は全く勉強をしたくないが起きるかもしれない、、だから多くの人が思っているこのストーリーの因果とは違うということです。自由意思が全くない状態で因果という言葉は意味が変わりますよね。

無限が作り出した有限風ストーリー

無限MAKE有限風ストーリー

この世界って本当に凄いと思います、さすが無限が作り出した有限のエンターテインメント、無限は無限ゆえに有限を知らない、、これは無限の影で、、、影の中で有限の体験が無限に起きるシステム。有限とはこの自己意識、、自己意識が有限という錯覚であるもの。有限であるという錯覚を持った自己意識が、、、さらに有限に見えるこの物理空間でドラマを無限に繰り広げていきます。この自己意識にはやはり有限に感じれる寿命がありと、、、まさに無限による有限の有限体験(寿命まで)です。寿命があるという意味では有限ですが、、この先どうなるかについては無限の可能性を秘めています。なぜならば自由意思(有限)があるようでいて実はまったくないからです。

無限は有限を作り出せるわけがない

主語は無限ですから、、残念ならが、、有限を作ることは絶対に絶対にできないのです。そうなると出来ることは有限と感じることだけです、、これならできます、、無限に。つまりこの世界で起きることの全てはどこまでいっても有限に感じることができる世界ということです。私が居るように感じる、猫が居るように感じる、、コーヒーを飲んだように感じる、、です。「私が〇〇○吉です」は嘘なんです、、、言い切ると嘘になっちゃいます。すると本当は誰?????が必ず起こるんです。だって「私が〇〇○吉です」を読み込んだのは無限ですから、、、、無限から「本当の私は誰????」が湧いちゃうんです、、絶対に。だからこの無限作有限風ストーリーは、、、、エンドレスに疑問が起き続けるのです。終わらないんです。

働いていたら急に思考が全く湧かなくなりまして、、、、

あんまり聞いたことないですよね?????こんなストーリー、、、なぜ?????なぜならば「私」という主語を使っているだけで「本当は誰????」が起きているんです。憤りが起きているんです。だって読み取っているのは全て無限ですから。「私」っていうイメージが浮かんだ瞬間に、、、??????が起こるんです。私は仕事で社長賞を取りました!と発言した瞬間から、、??????が起こっているんです。無限から。。。