もう「何か」にならなくていい

自由意志の弊害

私たちは自由意思というものを持っていると錯覚しているので「何者か」になれるかなれないかは「自分」に全て責任があると本気で考えています。ですが「自由意思」は本当はないのでそれを「行使」する「自分」も本当は居ません。そうなると「何もか」になれる「自分」が居ないのでしすから「何者か」には絶対になれないことが分かります。「自由意思」というのは実は大変な弊害があるのです、この概念によって人は後悔し希望を持ちをエンドレスに繰り返すのです。

なぜ出来ない????

なんであんなこと言っちゃたんだろう????なんで????なんであの時あれを出来なかったんだろう?????人間はこうやって苦しんでいます。結局今日もあれができなかった、、、残念!!!!全部は自動運転、ノーコントロールです。その後悔の発想が間違っています。妄想です、幻想です、自由意志と自由行動があると思っているのは。

究極の絶望

自由意志も自由行動も自分も居ないなんて滅茶苦茶つまらない、、生きる意味なんて全く感じないですよ!!!そうですよね!!自我全開、自由意思全開だと思っている人からするとそう感じるでしょう。ですけどもともと自由意志、自由行動がなかったんです、それでこれまで生きてきたんです。これからそういう生き方に変えましょうということではないんです。自由意思、自由行動、自我があると信じて今まで生きていただけで一度も存在しなかったという話です。

あれ????

つまりこの体が「自分」じゃないということは、、所有する何かが存在しないということだけど、、、逆に言えば、、、全部が全部自分ってこと?????そうです。全部が全部自分です、見える全て、感じる全て、聞こえる全てが自分です。つまり自分の中にこの体もあって体が自分の中を動いているのです。この体の中に「自分」が居るんじゃなくて自分の中にこの体もあるのです。魂の中にこの体があるんじゃなくて見える全てが魂なんです。

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