スクリーン

スクリーンが何かを成し遂げたいなど思うはずがない

全体、スペース、スクリーンはそのままで完全

我々の本質はこの現象を映し出すスクリーン、スペースです。この全体であるスクリーン、スペースが何かを成し遂げなきゃ、、、などと思うはずがなく、、、それらの感情、思考は「私が居る」という洗脳が生み出したものです。つまり完全なる現象です、その思い自体が。スクリーン、スペースは我々の本質、本性なのですが、、もしも脱洗脳、アンインストールが成功し「私が居る」がないのならば、、何かを成し遂げたいという思考は湧いてこないでしょう。何かを成し遂げたいという思考の現象は「私が居る」という洗脳とセットです。

在る、在る、在る、、、、からこの私が在るへ

在るという感覚、、これは幼児ですら持っています、、、在るは動物も持っているはずです。在るという感覚、、、これだけは失うことのない感覚なのです。在る=仏性、キリスト意織、神意識です。この在るという感覚と、、、この体が在る、、、という気づきが起き、、、次のこの体として在る、、、、この私(体)として在る、、、と洗脳が進んでいきます。最後は私は〇〇という名前で在るになります。気づきの全てを、、この私が気づいた、、になっていくのです。すると同時に不足感、違和感、分離感が湧き起こり、、それを埋めるために解消するために、、、何かを成し遂げなきゃ、、、が生まれます。

スクリーンに何かが上映された瞬間、気づく、在るが生まれる

スクリーンに何かが上映される、スペースに何かが現象化する、、、その瞬間、、、それに「気づく」が生じます、、「在る」が生じます。そして上映、現象化は随時行われますから、、気づく、在るが永遠に続くのです。これが我々の本質そのものです。その中でこの体は常に現象化、上映されますので、、この体が「気づく」「在る」全ての現象、上映を。。。。。という真実ではない思考が湧き上がり、、、それが定石になっていきます。この体が現象に気づき続けるので(誤解)、、、、この体の中には全てに気づく『人格、アイデンティティ』が存在するはずだ、、という思考も起こるのです。

そしてそれをお互いに共有する

人間、人類はこの思考を代々受け継いできました。この体が現象に気づき、この体の中には人格が存在すると。だから生まれた子供にこれを伝承していくのです、当たり前のように。私の体がこの現象を観察し思考し自由意思を行使しながら生きていく、、、という人生ドラマが始まるのです。私があらゆる経験をしその経験を重ねていくことで私の価値観、観念が形成されていきそれがこの夢にさらに投影されていきます。そして私の観念が投影された現象(夢)をみて「やっぱり!!!」が起きるのです。

現象の動き(色)に気づくには、、動かない存在(空)が必要

動き続ける現象界を感じる

鏡を見てください、、、もしも鏡の中の映像が動けば気づきますよね、、それは鏡を見つめる動かない存在がいるからです。これと同じでこの現象界の移り変わりに気づくには、、移り変わらない存在が必要になるのです。そうです、、そして我々は日々この移り変わる現象に気づき続けています、、そうです、、、色を生み出す空なのです。

スクリーンは真っ白だから映像に気づく

スクリーンは真っ白だからこそ、、、スクリーン上の映像に気づくことができます、、、空とはスクリーンのこと、そしてそこに映る映像こそが色、現象界です。この現象界を「私」が見ているというのは完全な錯覚、、そうではなく空としてこの色の動きを感じているのです。朝起きて何が起きるのか、、空即是色がスタートします、、、この体も現象、この体が何かを見ているというのも現象です、、全てを包み込む空があります。

マインドはただ否定する

マインドはこれを否定します、、、マインドはこの体を所有する「私」がこの現象の世界を五感を使って生きていると真剣に信じています、、、ですがそれはないのです、、そう思い込む思考がただ全体、空から現象として(色)起きるのです。そうです、このマインド主体のドラマも色としてしっかりと起きているのです、空から。これが良いとか悪いとかは一切なく、、ただその現象が起きていま。

至福(事実)から逃げることができる自我はいない

自我の苦しみ劇場はどこかで必ず終わる

自我の苦しみ劇場はどこかで終わります、、なぜならばこの劇場は至福(全体)の中で起きているからです。至福というスクリーンの中でこの劇場が起きているだけですから劇の最中もちょいちょいこの至福(事実)が顔をだすわけです、、何しろこの自分をこの自分ストーリーに埋没させ続けるのも至難の技だからです。不意に自分を忘れたら最後、至福に飲み込まれてしまうのです。

地獄に落ちることはできない、至福に落ちる

我々の劇場中に足を滑らせて舞台から転げ落ちる、、、至福がそれを救う、、、舞台から偶然落ちてしまったら、、至福がこれを救う、、、、火事になってしまった、、、、無我夢中で火事場を駆け抜けている時、、、何??この至福感は????母親が急病で入院、、、無我夢中になって実家に戻っている、、、あれ??なんか至福に包まれている、、、、そうです、、、大ピンチは大無我、大至福なのです。。。

常に至福に落ちる旅を歩んでいる

安全だと思っていたこの旅よりも旅から転げ落ちた先が至福だった、、、これが分かってきますともうそれほど怖さがなくなってきます、、、一生懸命旅を失敗しないように努めていたのに、、、失敗した時の方がしふくじゃねえか、、、安全第一の歩みの方がはるかに苦しい、、、、そうです、、、「自分」が安全を確保しながら慎重に歩んでいる時が一番苦しいのです、、、自分がでしゃばっています。苦しみと至福の逆転現象、、これを肌感覚で分かると楽になります。

ただ全てが起こっているという視点

目の前の現象をスクーリーから眺める

自身をこの視界のスクリーンという視点になって見ます。何が起きてもどんな感情が湧いても、どんな思考が湧こうとどのように話しかけれられても、どのようにこの体がリアクションを取っても全部この視界のスクリーンという立場、視点で観察します。本当はこの視界のスクリーンだったのだという感覚を持ってそれを行います。我々はこの視界の中の人間、そしてその中に自分が居るという感覚でこの視界の中を生きています。朝起きて目の前に視界が広がった瞬間からその視点で生きています。ですがそうではなくこの広がて居る視界のスクリーンなのだという感覚を持ちます。

起きたこと、目に入ったことに思考を使わない

我々の人間活動は目に入ったモノ、聞こえる音、口に入る食材の感覚に、、思考が働きそこに解釈が入り、比較検討が始まり、、それを「自分のモノ」にしていきます。完全にこのスクリーンの中に主人公という立場を取り続けるために目の前で起きたことを完全に自身の思考が解釈を与え自分のモノにしています。この行為こそが自分が居るを、、永続させるメカにジズむなのです。この行為を行わないと、、、実は自分が居なくなります。あり得ない話ですがこの観察からの解釈、比較、検討こそが自分を永続させていくプログラムだったのです。だからこれを普通に行わない、、全部スクリーン上でただ起きたのだというスクリーンの視点を完全に保ちます。

スクリーン上で起きることを自分ごとにしてきただけ

実は我々はこの視界、それを支えるスクリーンの中で起きたことをただ自分ごとにしてきただけです。例えば部屋でTVを観ているときサッカーが流れていると、、、ここで行われるプレイに対し私だったらここでこうするのに、自分だったらあそこはパスしたのに、自分だったらあそこで選手を替えないはず、、と観ているだけで「自分だったら」が湧いてきます。目の前で起きているプレイを自分ごとに取り入れていくのです。これが人間が一日中やっていることなのです。当たり前だろう、、なぜそれがいけないのか?例えな天気予報を見れば明日の自分のスケジュールを考える、コロナ情報が入手できればじゃあこう対策しようと考える、、、この何がいけないのか???違うのです、、いけないということではなく、、、このようにして起きることに対し思考がフル回転して自我が肥大化しそれが苦しみを湧かせているという事実をお伝えしているだけです。

起きる出来事に思考を介在させると、、、

我々は一日中起きる出来事に思考を働かせるということを無意識にやっています。何か情報が入った、、、そこで思考スイッチオンです。友人から誘われた、そこで思考スイッチオンです。これを朝から晩まで行っているのです。というよりも思考を使う中毒になっているのです。思考中毒です。思考をフル回転させることに対し全く抵抗がないのです。何か問題をこしらえてその問題解決のために一日中思考をフル回転させる、、、これが日常の日課なのです。この日課、悪循環、中毒を壊す行為がスクリーンの視点に立つです。