空即是色

雲(私)の終焉

詐欺師

私とは、、この五感を使って環境に気づき、自由意志を行使してこの体を守っていく存在でした。ところがこの気づきは私のものではなく、、気づきが最初からあったことが証明されました。さらに自由意志とは名ばかりで実は勝手に湧いてきた思考でした。。。この証明から「私」は詐欺師の烙印を押されてしまったのです。そうなるともう私に関心が集まることはありません、芸能界から関心が消えた「ショーン○」さんのように誰も見向きもしなくなるのです「私」に。すると私(雲)は空に自然と再吸収されます。

私(雲)が空に再吸収されると

私が空に再吸収されますと、、、もう私がこの空には漂わなくなります。すると私の人生(雲)も消えていきます。そこからはこの体がただ経験をしていく、、という状態になります。そのまま「私」が抜け落ちるのです。勿論便宜上は私は現れますがそれは全現象に気づく「私」ではなく、、、、名前だけ、、、幼少期の軽い軽い日々が始まるのです。

将来を不安に思うことができない

いまここに全部があって、、私がそれを支える空であることが分かって、、、将来不安とか逆に難しいのです。現象の全存在である私が、、、、老い先が心配で、、、、、とはなりにくい、、、はっきりとこの現象の背景、スクリーン、空であるという自覚が芽生えることで、、、現象(雲)を捕まえようというモチベーションが湧かないのです。そしてこの私が何者かになるという思惑は完全に消えます。期待もなく不安もない、、真の安らぎ(空)が現れるのです。

気づき(雲)の中で現象(雲)は起こる

私(雲)は何にも気づいていませんよ

空がありその中で雲(現象)が生まれた瞬間から気づき(雲)が生まれました。雲(現象)とは実は空の投影であり、、その瞬間気づく(雲)が生まれたのです。この気づきは「我あり、存在、意織」などと呼ばれます。この時点ではまだ偽りの私(雲)は発生していません。この中にこの体(雲)が発生し、、この体の中には自分が居るという思考感覚(雲)が生まれたのです。そしてこの雲が現れることで様々な感情(雲)思考(雲)が発生していくことになります。この一連の流れを人生と呼びます。

私(雲)とは

私とは、、空と雲の発生による気づき(雲)を自分が気づいているという錯覚(雲)を所有する存在(雲)です。私とは壮大な大勘違いをする存在なのです、、、壮大な大勘違いですから、、このストーリーはなかなか辛いのです。気づき(雲)の中で私(雲)が生まれたにも関わらず私(雲)が気づき(雲)を所有するという大錯覚(雲)が生まれてしまったのです。ただし空にとってはどうでもいいこと、、空にとっては全雲(現象)は完璧なのです。

私(雲)がある限り

この空に私(雲)が発生しますと、、同時に苦しみ、痛み(雲)が発生します。そして私のストーリーとは苦しみ(雲)発生システムなのです。このシステムに良否はなくただそのようになっているだけです。ですがこのシステムを俯瞰できるようになりますとこのシステムを続けたいとは思えなくなります。そこでこのシステムの解体が始まるのです。このシステムが起動するにはこのシステムが無意識の中で行われる必要があります。なぜならば「この私が居る」という観念に支えられてこのストーリーは成り立っているからです。主人公不在のストーリーは成立しないのです。

主人公の嘘がバレると

この私が実は嘘だった、、ということが分かりますと、、このドラマは崩壊し始めます。主人公がボヤけたドラマは保持されにくいのです。あなたは主人公がはっきりしない映画を二時間観ることができますか???無理ゲーです。ですからここからこの私ドラマは崩壊していくのです、私ドラマへの執着関心が薄れていくのです。かといってこの体(雲)を雑に扱うということも起きません、ただ偽りの自分(雲)に関心が無くなるだけです。

空(本当の自分)はなぜ雲(偽りの自分)を消さないのか???

雲(偽りの自分)でいるのが辛いなら

雲(偽りの自分)が存在し続けるのが苦しみならば、、なぜ空(本当の自分)はこの雲(偽りの自分)を消し去らないのでしょうか????雲は全部消える運命にありますよね?????残念ながら、、上空に浮かぶ雲に良い雲悪い雲などないのです、、どれほどの苦しみ(雲)が大発生しようと、、、それも完璧な雲なのです。この世界の雲(出来事)に優劣を付けるのは雲(偽りの自分)です。つまり空(本当の自分)にとっては全て完璧な雲なのです。

完璧を消し去る必要がない

本当のことを言えば空には雲を消し去る力はないのです、、この雲は放置しこの雲は消去、、、そのような取捨選択はあるはずがないのです。空はただそこにあり、、そこから浮かぶ雲に気づくという現象(雲)が起こるだけです。もっと、もっと言えば空には動きは全くないのです、、もしも空に動きがあったら、、時間が発生し空間が発生しと空は時間空間の産物になってしまいます。空は完全無欠、動きはなしです。

この世界は全感情、全思考が漂う(雲)場所

苦しい(雲)は発生できない、辛い(雲)は発生できない、、、だとすればこの空は無限を提供する場所では無くなってしまします。この空(本当の自分)は無限の現れ、無限の現れを提供する場です。ですから苦しい、悲しい、辛い、楽しい、嬉しい、、、全感情(雲)全思考が漂うのです。これが完全な自由です。そしてそれを生み出すきっかけになる偽りの自分(雲)を消し去ることもないのです。

分離感覚を楽しみ統合感覚も楽しむ

この空(本当の自分)ではどこまでも分離感覚(雲)を味わうこともでき一方統合感覚(雲)も味わうことができます。しかしながら偽りの自己(雲)が経験する全ては快楽と苦しみの両極でしかなく、、ここには真の安らぎ(空)は存在しません。そしてそのことは空(本当の自分)から気づきが起きます。偽りの自分(雲)が織りなす快不快の両極では一生真の安らぎ(空)には至れないことを悟り、、そこから空への帰還を求めるようになるのです。そしてこれも雲(現象)として起こるのです。

空(本当の自分)として雲(現象)を楽しむ

この世界の全て

この世界の全て見える全ては雲(現象)です。現れては必ず消えていきます。どのような悲惨な事件(雲)もどれほど盛り上がったイベント(雲)も次々に現れ消えていくのです。この偽りの私(雲)にもあらゆる出来事(雲)が起こり続けますがそれもどれも現れては消えていきます。偽りの私(雲)はこの世界であらゆる経験を積みその経験を自分のものとして捉え価値観(雲)を築いていくのです。この価値観(雲)は空を覆い、、この世界をその価値観(雲)を通じて見るようになるのです。そこには空はなく薄い雲(価値観)の層越しの世界が広がります。

あまりに価値観(雲)が分厚くなると

この価値観があまりに分厚くなっていきますと空は完全に隠れ重い重い暗い世界になります。この時偽りの私(雲)はまさか自身の価値観(雲)が影響を与えているなど全く気づきません。小さな子供時代よりもやけに空が暗いなーぐらいは気づきますがそれが自身の価値観(雲)が影響するなど全く気づけないのです。ですが人生を歩むに従ってこの暗さがましていくことから、、徐々に生き方に自信がなくなっていくのです。

あれ????自分で暗くしていないか????

ある時ふと海外のドキュメンタリー映画などを見ると、、、全く文化的ではない暮らしをしている人々が、、晴れやかな顔で呑気に暮らしています。。その時、、何か違和感を感じるのです。。。あれ???自分が信じる価値観(雲)って本当に自分を幸福にしているのだろうか???です。自分の価値観(雲)を俯瞰する瞬間です、本当の自分(空)から雲を眺める瞬間に戻るのです、ふいに。

自分(雲)を客観的に眺めたのは誰だ????

なんだか自分(雲)の価値観(雲)で自分を不幸にしていないか?????この気づきは偽りの自分(雲)にはできない芸当です。この気づきを可能にするのは空(本当の自分)だけです。この気づきは大きなパラダイムシフトを起こします。自身の価値観(雲)を疑うようになり、、価値観を作り出した自分(雲)をも疑うようになるのです。そうなるともうこの流れを止めることはできません、、徐々に徐々に雲(偽りの自分)ではなく空(本当の自分)として現象(雲)を眺める方向に進みます。

雲即是空、空即是雲

雲は色であり色は雲である

太古の昔、釈迦が悟った内容は「色即是空、空即是色」と伝えられました。般若心経というお経にこれが納められています。ですがこの内容はシンプル過ぎるがゆえに大誤訳が連続して原型がないような状態にまでなっているのが現代です。特に色という表現はあらゆる誤訳を生み出したのです。色とは何か????現象の全てなのです、、その中には、、この思考、感情の全てが含まれるのです。私はその現象を色ではなく雲と称し、、雲と空で説明をしています。

雲が空に気づくことはない

雲は現象の全てです、現れては消えていく現象、幻、蜃気楼です。この幻が、、、空の存在に気づき、、私は空だ!!!!はないんです!!!!幻ですから。。幻とは常に誤解を与える側であり誤解するのは常にそれに気づく側です。全現象は幻ですから、、幻がある日突然、、目覚める!!!はないんです。蜃気楼が隣の蜃気楼に気づいて、、、お前蜃気楼だろう????はないんです。蜃気楼が蜃気楼だったことに気づくのは、、本当の私なんです。

空の中に雲が現れ、、、

空の中にはあらゆる雲が漂います、、その中にこの体という雲が漂うことになります。そして「この体中には自分が居る」という思考(雲)が突如現れました。すると「本当かい????」という思考雲が現れます。いつもいつも??????という雲が現れるのです。。。この状態が苦しい(雲)ということで。。。。試行錯誤(雲の動き)が始まるのです。その全動きは空に気づかれます。その全動き(雲)の中で、、俺って雲じゃなくね????という思考(雲)が現れ、、、雲を冷静に観察する動き(雲)が起こるのです。そして最後は観察する動き(雲)も消え去ります。そこには空だけが漂います。

何もないところから生まれたこの現象が「実物」であるはずがない

空即是色

この世界は何もないところから生み出された世界です、、空、絶対、THE ONEなど言葉はあらゆる表現をしますが言葉では表現できない「何か」からこの現象界(色の世界)は生み出されています。何でもない世界から生み出されたこの見える世界(色)に現れるあらゆる物が実在であるはずがなく、、よってこの世界は「何か」の幻想、アート、投影です。

観察してください

雲を観察してみてください、、上空にあったはずの雲が10分もすれば無くなっていたりしますよね、、あの雲はどこから現れどこに消えたんでしょうか、、、この世界は常にどこかから何かが現れそして消えていきます。全く何もなかったところから何かが現れそして何かに吸い込まれるように消えていくのです。この体の「影」と同じで最初からそれはありますが、、常に変化し留まることを知りません。時に影は消え去ったと思ったら次の瞬間には現れます。

「儚い」ではない

この事実を自我目線では儚いと感じます、ですが逆に言えば、、この現象の全ては「分離」など出来るわけがないので(影を分離できない)現象全部、影全部は私なのです。私の影に間違いないのです。この現象の全て、影の全てを見て、、、ああ、、、私の本質は「空、絶対、THE ONE」なんだなーという気づきが起きます。その時真の平安、静寂、癒しが起きるのです。(色即是空)

「全部が自分」説

自分という概念は嘘

「全部が自分」説、、この言葉には矛盾が含まれています。それは自分という言葉自体が、、、この世界からの分離を表しているからです。自らを分ける=自分です。ですから自分という言葉は適切ではありません、ですが他に表現しようがないので「全部が自分」と表現します。そして見かけ上の覚者は「全部が自分」とは言わないはずです、、どちらかと言えば、、何もなかったが近いように感じます。この世界から自分が抜け落ちる、、という感覚でしょう。

経験しかないぞ

この世界には実は経験しかないんです、、何かが見えるという経験、何かに触れるという経験、、何かを香るという経験、何かが聞こえるという経験、何かを味わうという経験、そして思考を感じる経験、感情を感じる経験です。この何かや思考、感情というのは何かしらに付けた名前でしかないので、、、本当は経験しかありません。では経験とは何か????これを言葉で説明するのは難しいのです。この言葉にできない「経験」、、そして「経験」という言葉も何かにつけた言葉ですから経験という言葉が指し示す「なにか」しかないということです。

「なにか」は確実に在る

言葉にもならない、経験という言葉が指し示す「何か」は絶対にあります。ラーメンを食べれば経験という言葉が指し示す「何か」が確実に起こります。この何かをかき集めたのが「全体」という言葉が指し示す何かです。「経験」「全体」という言葉が指し示す「何か」が我々の本質です。

「経験」「全体」という言葉が指し示す「何か」から現象が生まれまた経験が起こり続ける

ここには「経験」という言葉が指し示す「何か」しかありませんから我々の本質はこの「何か」をかき集めたものです。この「何か」をかき集めたものから常にまたあらゆる現象が目の前で起き続け、、また「経験」という言葉が指し示す「何か」が起こり続けるのです。これが色即是空、空即是色です。これがただひたすらに起こり続けています。

物質も精神も幻想

物質も精神も同じ

物質は常に移ろい変化していきます、精神もこれと同じ常に揺れ動き変化していきます。この二つは全く異なるようでいて移ろうという意味では全く同じなのです。そしてこの移ろうものは固定化されて確かなものではないのですから完全に幻想です。そしてこの物質、精神という幻想に気づくことができるのは幻想ではありえないわけですから我々の本質は自我という幻想ではなく、、絶対、根源であることが見えてきます。つまり移り変わらない完全な存在なのです。

移り変わるようでは絶対ではない

絶対には変化がありません、絶対はそのままで絶対であり、、そのままで無限でありそこには変化は起きようがない。なぜならば絶対に変化が起きてしまったら、、この幻想界、現象界の出来事に気づくことができないからです。つまり先ずは絶対的な存在があり、、その鏡の中に映る絶対の現れ、無限の顕現化があり、、それにただ気づくが起きているわけです。この気づくも絶対の中では起きておらず、、気づくは絶対の外で起きます。この気づく存在を神、真我、気づきの意識と呼びます。

色と空は最初から一つ

空があって色は次に現れたのではありません、、、最初からこの二つは同時に現れました、、空には時間など存在しませんから、、色即是空、空即是色がある。、、これで終わりです。そして空が延々であり、色が永遠であり、、気づくが延々に起き続けるのです。空の中には変化は一切起きず、、色は無限の現れとして変化が起き続ける、、そこに気づくという現象が起き続けるのです。空の中に最初から色があったのです。

鏡に入り込んだ神

これは神が見る鏡の姿

この世界は現象界、この現象界は幻影、反映、実態のない世界です、、ですがこの中での経験は確実に在る、感じる、、この感覚は間違いのない実在。この世界は鏡の世界にも関わらずなぜ、、経験という実感が確実にあるのか、、、気づきという間違いのない感覚が起きるのか???反映でしかないのに。それこそが神と、神の鏡が一体である証拠です。。。ただの鏡であるならば、、、経験は存在しない、、気づきもない、感覚もない、、全てないということになります。ですがその鏡の反映と神が一体で在るからこそそこに気づきが生まれます、経験が生まれます。色即是空、空即是色だからこそ、、気づきが湧くのです。

色の中で気づきが起きる、、そうかこれは空が作り出した世界だ

色は色だけでは気づきは起きません、現象は現象のみでは気づきはおきません、、そのままだからです。ですがなぜその中で気づきが起きるのか???それは空がそこに在るからです、、、空、神、絶対がそこにあるからこそ気づきという感覚が生まれます、、、この気づきの中で、、、この体が触れる全てに感覚が生じるからこそ、、空の存在が再確認されるのです。空(神)があるからこそ色(現象)に気づく、、色の世界で気づきが起きた時に、、なぜこの気づきが起きたのかという思考が湧く、、、そこでそうか空が在るあるからだという気づきが起きます。

色だけでは気づきは起きず、空だけでは気づきが起きない

色と空が完全一致しているからこそ、、気づきが起き続けています。。。気づきは先ずは起きました、、、この色の中での動きは完全に空が在るからこその気づきが起き続けます。。。その気づきの中で、、、この体が起こり、、この体の全五感が気づかれます、、気づきの意識の、、、これによってこの私の中に私が居るという思考が起き、、この思考に気づきの意識が気づきました。。。そして時間という思考が起こり、、私がこの時間、空間を歩むというストーリーが起こったのです、、それに気づきの意識が気づきます。

たった一つのエネルギー

今現象界は空の反映、空の鏡です、、、、空の目の前に現象界という鏡が突如登場し、、気づきが起きました、、これが気づきの意識です、、、、我々は綺麗な花に出会った時にそれに気づきますが、、、気づきとはこのことです。現象界に気づくとはそういうことなのです。空が反映されたこの現象界とは「気づき」が同時に起きる世界です。空、色、そして気づきです。現象界に気づく、、つまり空という存在にも気づくが起きます。

我々の日常生活

我々の日常生活はまさにこの連続です、、、「私」が居て「対象物」があって「見る」が起きます。「空」があって「色」があって「気づき」が起きます。。。気づきが起きることで「色」と「空」の存在に気づきます。空即是色、色即是空を毎日やっているのです、実は、、、、空と色は一つです、、、空という存在と色という空の鏡、、そして鏡に何かが映ることで、、、空の存在が確かめられている、、、「私」が居て「鏡に映る対象物」があって、、、体験が起こるから、、、体験をした「私」という存在を確認しています。

対象物がなければ

対象物がなければ、経験が積めず、経験をつめなければ「私」は存在できません。。。逆に言えばこのサイクルで「私」を作り続けているのが今です。体験を積むというのは、、「私」を作り出す作業のことです。我々はなぜ毎日せっせと動き続けて頑張って生きているかといえば、、、体験を積むことで「自分」を確認しているのです。ですが本当は空が在って、、その鏡としての現象が起こり、、そこに気づくことで、、、空という存在を認識している、、、そのサイクルの中にこの「私」が現れただけです。

このことが分かると

全てに気づいてください、、それはこの私ではなく、、、ただ気づくのです、、鳥の声、鳥という名前など本当はなかったことを思い出して、、、風の感覚、、風という名前などまるでなかった時を思い出して、、、ただ気づく、、、気づく、、、気づく、、、空が在り、、、色が現象として鏡として現れ、、それに気づく、、本当にたた気づく時、、、、空があってその鏡が在るというこのメカニズムが腹落ちします。