悟り(非二元)

思い通りにならない

この世の苦しみ

この世の苦しみを一言で説明すればこれになります、思い通りにならない、、です。思い通りにならない、とは個人が考えるような理想に全く近づかないということになります。ですが実際にはそうではなく理想通りにいけば次は物足りないが生まれるのです。楽勝なゲームを想像してみてください、簡単に辞めてしまうでしょう。つまり思い通りに進めば退屈で、思い通りにいかないと苦しむ、、、これが人生なのです。そしてそのような人生をまさに神は望んだのです。全知全能の神にとって無知無能の人間活動は自身(神)は全知全能であることに気づかせてくれるのです。

これが分かってしまえば

これが分かるということは自身が神であるということに気づいたということです、このような人間活動を作り出した大元こそが自分であり、、これまでの体に宿った自分は幻想に過ぎないということです。すると自然にこの体の中の自分の衝動、欲望、感情に振り回されなくなっていきます。なぜならば本質の自分はそこには居ないからです。本質の自分とはこのゲームを成り立たせるシステムそのもの、、システムですから時間も空間も実は存在しません。幻想として時間、空間は存在します。

個人の思い通りになどなるわけがない

簡単に言ってしまえば個人など存在しません、幻想として存在します。その幻想はどこまでいっても幻想ですから何かを動かすパワーなど存在しないのです、、結果個人という幻想は日々周囲に振り回されることになります。そして個人という幻想を信じ続ける限り苦しみが終わることはありません。

安心して苦しむ

宇宙に無駄はない

現象の世界に個人として生きることは苦しみの人生です、、どんな煌びやかな生活を送っているように見える人も確実に苦しんでいます、、なぜならば個人という存在こそが不足を生み出す根源だからです。周囲が羨むような容姿の女性も、、常に不満を抱えていますし、、周囲が羨むようなお金を持っているような男性も常に不満を抱えています。苦しみとは不満足が生み出しますがこの不満足を作り出すツールが個人です。

その個人も

その個人も、、周囲からの声かけによって勝手に作り上げられるものであり、、全くもってその個人には責任がありません。個人は周囲からの声かけによって徐々に徐々に作り上げられていくのです。ですから気づいた時には自我が形成されこの自我を守るために、自我を満足させるために人生は構築されていきます。

苦しのがデフォルト

なぜ私の人生は苦しみがあるのか????それについて考えるのが無駄です。人生とは=苦しいだからです。これに例外はありません、、、苦しみとは不足感であり、、不足感は個人という存在そのものだからです。今苦しいのならばそれは当たり前なのです、、、いや私の人生は苦しくない、、、そんなことを表面上使う人もいるでしょう、、ですがそれは不可能、無理ゲーです。

どうしたら、、

ではどうしたら個人の存在という嘘、虚像を虚像と見破れるのでしょうか???それは簡単です。この現象界において実在する存在など存在しえないからです。そして全ての現象が虚像、幻想としてその幻想の動きに気づくことができるのはたった一つ、実在です。すると今起こる全てに気づいているのは自分という幻想ではなく絶対の実在であることが分かります。これが我々の本質です。

無知無能

無限の体験

全知全能の神がそのまま人間をやればこれは全知全能ですからなんの体験も生み出しません。人間は全知全能ではなく無知無能、、だからこの人間主体の体験は新しいのです、無限の体験を生み出してくれます。ですがこの無知無能の体験は常に苦しみを生み出しますから出来る限りここから去りたい、ここを抜け出したいという衝動が起き続けるのです。この衝動こそが人間体験を神体験まで昇らせることになります。

1億円プレゼントされて断る人間はまずいない

宝くじで1億円当たったけれど取りにいくのが面倒だから行かない、、そのような人間は稀です。それはなぜか???人間は今苦しいからです、苦しいから1億円でもしかしたら楽になるのでは???と期待します。ですが実際には1億円で苦しさが消えることはなく、、、ゆえに人間はお金に絶望したら名声、評価、生きがいと次々に次の獲物、目標に走るわけです。ですが自分自身を小さな小さな個人であると勘違いしている期間は満足が起きるわけがなくこの戦いはエンドレスに続きます。

全部を手に入れて

全部を手に入れることには意味があります、、、腹の底から「手に入れるでは、、満足はない」を実感できるからです。この時に次の目標に向かって頑張る、、は起きない、、、その時には、、、この自分というカラクリが嘘であることを実感したい、悟りを実感したい、全体であることを思い出したい、、、に目標がシフトします。この目標は最後の目標であり、、個人の達成の終焉です。

必要性を持って悟りが閉じた

最初から悟りが開いていたら

最初から悟りが開いていたらこの世界で不自由、不幸、孤独、というあらゆる不快感は皆無です。絶対の影であるこの世界は無限の体験を積む場所ですからその中では当然不幸、孤独、辛酸も味わうことになります、、これらの感情を味わえないとしたらこの場所は無限体験の場所では無くなってしまいます。ということでこの世界はしっかりと悟りを閉じてこれらの感情を味わい尽くす場所でもあるのです、、ですから悟り本を読んで一気に覚醒とはならないわけです。

とはいえ、、、

物質的満足、精神的満足を達成してしまったらもうさらに何かをという衝動は起き得ないでしょう、、そんな時には必然的に悟りに興味が行くはずです。自己実現を達成しやりがいのある仕事に就き収入も良い、、周囲かも評価を受ける、、、すると、、、悟りに興味が行くはずです。そこしかもう目指す山がないのですから。個人の限界を限界まで感じるわけです。

幻想のこの世界にコントロールできる誰かはいない

コントロールしようにも幻想ですから

この現象界には幻想しか存在しません、、、すると思考をコントロールできる実在というのは存在しえないことがわかります。思考、行動をコントロールできる虚像はありえない、、そうです、、この虚の世界は完全自動反応システムです、、その中で私がコントロールしているぞという思考がただ起こるのです、、、これも幻想の現れの一つです。そしてその思考すらも絶対という存在があるがゆえに気づかれていきます。

絶対が気づくのではない

絶対が気づくのではありません、、絶対が成長することはないのです。成長してしまったら絶対は絶対ではなくなってしまいます。そうです、、絶対があるがゆえに気づくという現象、幻想が起きるのです、色の変化に応じて。絶対は既に絶対ですから絶対が新しく気づいていくのではありません。絶対には影がありその影が変幻自在に動くことでそこに気づくが自動的に起きているのです。その気づくを個人が所有するというさらなる幻想が現れることで個人ストーリーが現象として今現れています。

絶対の影が現象

絶対、空の影、、これが現象、色、幻想です、、我々はこの影の移ろいを感じています、、しかもエンドレスに、、なぜならばこの影は絶対、無限の影だからです、、、この移ろいを感じることを個人という影が所有するという動きがやはり現象として起こり個人ストーリーが今まさに展開しているのです。この個人ストーリーは絶対には何も影響を与えず、、ただ起こるのです。

影の中に影をコントロールできる影は存在しない

今外に出て自身の影を見てください、、この影は完全受け身であり、、、個人の動きによって変幻自在に移ろうのみです、、、この影の中の影の一部において、、影の動きをコントロールできる一部は存在しえないのです。人間とは絶対の影であるにも関わらず自身の動きをコントーロールできると信じる痛い存在なのです。影の動きは絶対に依存しており、、コントロールできるようになることは未来永劫ないわけです。これがサレンダー、悟りです。

物質も精神も幻想

物質も精神も同じ

物質は常に移ろい変化していきます、精神もこれと同じ常に揺れ動き変化していきます。この二つは全く異なるようでいて移ろうという意味では全く同じなのです。そしてこの移ろうものは固定化されて確かなものではないのですから完全に幻想です。そしてこの物質、精神という幻想に気づくことができるのは幻想ではありえないわけですから我々の本質は自我という幻想ではなく、、絶対、根源であることが見えてきます。つまり移り変わらない完全な存在なのです。

移り変わるようでは絶対ではない

絶対には変化がありません、絶対はそのままで絶対であり、、そのままで無限でありそこには変化は起きようがない。なぜならば絶対に変化が起きてしまったら、、この幻想界、現象界の出来事に気づくことができないからです。つまり先ずは絶対的な存在があり、、その鏡の中に映る絶対の現れ、無限の顕現化があり、、それにただ気づくが起きているわけです。この気づくも絶対の中では起きておらず、、気づくは絶対の外で起きます。この気づく存在を神、真我、気づきの意識と呼びます。

色と空は最初から一つ

空があって色は次に現れたのではありません、、、最初からこの二つは同時に現れました、、空には時間など存在しませんから、、色即是空、空即是色がある。、、これで終わりです。そして空が延々であり、色が永遠であり、、気づくが延々に起き続けるのです。空の中には変化は一切起きず、、色は無限の現れとして変化が起き続ける、、そこに気づくという現象が起き続けるのです。空の中に最初から色があったのです。

この世界は無限を体験する場所

宇宙は無限

この世界とは無限を体験する場所です、宇宙空間に人類は飛び出すことに成功しましたが、、この宇宙空間に飛び出て気づくことは、、宇宙は無限で在るということです。こう宇宙には境というものが存在しません、、ここが宇宙の縁だったという発見は今後絶対に起き得ないでしょう。この宇宙は無限なのです。無限っていったいなんなのでしょうか???無限の中に我々人類は住んでいる?何か不思議な感じもします、、ですがこれが事実です。この世界は無限の存在の鏡の世界です、、無限の生き写しですから、、当然この世界は無限になります。

無限の宇宙で

無限空間の宇宙で、、なぜ我々人類は慌ただしく切羽詰まりながら生きているのでしょうか?無限のこの世界でなぜ毎日せわしなく生きる必要があるのでしょうか。個人とはこの宇宙が広大無辺で果てしない世界で在るということを体感する道具なのです。無限が無限を体感する場所がこの世界です。個人は小さく小さく生まれることでこの世界の大きさに驚愕します。

経験も無限

我々は年齢を重ねますとあらゆる経験を積んできたと感じるかもしれませんが、、、ですがこの地球上で行ったことがある場所など僅かです。ほとんどの場所には行ったことがないはずです、、それはこの世界が無限の場所だからです。この世界は無限だよね、ということを感じるためにあるのですからそうなるのです。個人はこの世界の無限性に驚き、、最終的には私の本性は無限そのものであったという気づきを得ます。無限が個人を吸収します。

神は実在するのか?

我々が考えるような形ではない

私たちは物理空間に住んでいます、物質として形がある世界に住んでいます。ですが同時にネット空間もこの世界には存在します、ネット空間とは物質空間とは異なります。この物質空間と、ネットなどの情報空間を合わせてこの世界は成立します。では神とはどの世界に存在するのでしょうか、、、神とはこの物質空間、情報空間の大元です。この物質空間、情報空間を生み出す存在です。この物理空間、情報空間は神の影、反映、生写しのようなものなのです。

神の影ならば

もしもこの世界が神の影ならば、、なぜこの影同士は争ったり競ったりするのでしょうか???それはこの神の影の世界での経験を個々が所有するという大勘違い起きているからです。経験を所有する自我というのが実在すると信じる動きが起こり、、これによって各個人が全く分離した存在であるという大勘違いが生じます、これによって各個人が物を取り合うという現象が生まれるのです。ですがこの現象すらも神の影であり、、な何も問題は起きていないのです。

勘違いする個人の影響

個人という概念が誕生することで、、、神という概念が生まれました。個人という概念が生まれなくては神という概念も当然生まれません。つまり個人が神を生み出したのです。個人が生じる前に神という概念は存在しえないのです。そういう意味では個人こそが神という概念の生みの親です。個人とは神が神を再発見するツールなのです。

悟りに興味が湧くという奇跡

この世界で、、

この世界で、この幻想の世界で悟りに興味を持つ個人はどれほど稀な存在なのか????目の前に居る百人に聞けば2、3人でしょう興味があるのは。多くの方はこの幻想の世界で目の前の階段を登るのがやっとで悟りという階段外の概念に興味が湧かないのです。悟りに興味が湧くためには、、物理的満足、精神的満足を満たす必要がありその満足の結果それでも足りない何かに気づく必要があるのです。

個人は完全な幸福には至れないのでは?

つまりはこういうことです、個人は物理的満足、精神的満足を得るために一生懸命努力をするわけですがいつまでたっても本当の満足には出会えないわけです、、、すると悟以外には解決はないのでは???という発想が湧くのです。これは個人史上最大のチャンスなわけです、、悟りを開きたいという衝動が湧き上がるのは素晴らしいこと、奇跡的なこと、、、どんな偉業を成し遂げることよりも素晴らしいことです。

本当は、、

本当のところは、、見かけ上の個人に起きる全ての経験は、、、悟り、目覚めへの完璧な出来事であり、、そういう意味ではこの現象界は完璧なのです。見かけ上の個人は完璧な環境に常にいるわけです、目覚めにとって。ですいから今恐ろしいほどの苦難にあっていても、八方塞がりであろうと、、個人の目覚めにとっては完璧完全な状況であるということです、常に。

主人公の大転換

幻想に気づくのは自分ではない

幻想に気づくことができるのは幻想ではない存在、非幻想です。この世界には幻想しか存在していませんからこの世界で幻想のカップに気付ける存在はいないのです。つまり自分という幻想はカップには気づけないということになります。では幻想であるカップに気づくのは誰でしょうか??真我です、絶対です、この幻想を作り出す根源です。究極をいえば真我、絶対、根源の中に投影、反映である幻想が生まれそこに気づくが生まれます。間違ってもこの幻想である体の中の自分ではないのです。

では今までの人生で起きた経験は誰のものか?

だとしたらこれまでの人生、我が人生で起こった経験の全ては誰のものなのでしょうか????ここでも答えは同じ、幻想が経験を所有するのは不可能です。つまりこの体、自分が経験を所有はできないのです。すると経験は誰のものなのか???真我、絶対、根源のものです。無限の存在である根源が無限の経験をしただけです。しかも個人が経験をしたという勘違いの経験を所有したのです。

その勘違いはなんのため?

無限の反映、無限の表現がこの現象界ですから、、、無限の経験がここでは起きます。個人という存在が経験を積むというこのストーリーもその無限の現れです。ですが実際にはそれは起きておらず、、個人を含む全現象はただ起こり、ただ消えます。個人という存在なくしては根源、絶対、空という存在に気づくことは不可能であり個人はそういう意味では重要な意味を持っているのです。これも無限の存在である根源の表現の一つです。