悟り(非二元)解説

彷徨う心

安心できる何か

心は安心できる何かを探しています。何かを得たら安心できるはず、、、ということは、、、、どこかで、、、大安心という状態を知っているのです。知っていなかったら、、大安心を探し求めるということ自体ができないのです。物心付く前から安心を探し求めるのは、、大安心という状態をどこかでは知っているのです。それを心が探し求める旅をしているのが人生です。

心はその大安心を現象という幻をどうにかして得ようと頑張っているのですが、、、そのやり方では不可能です。なぜか????幻とは儚い幻想であり、、滅びることが最初から宿命づけられているからです。そのような滅びゆく存在をがむしゃらに追い求めても無駄です。そうではなく真の大安心をゲットしなくてはならない、、、、ではその真の大安心はどこにあるのか???

土台

真の大安心はどこ?????この幻を支える土台が、、、、大安心です。え???????つまり、、、幻のこの現象を生み出し続ける土台こそが大安心なのです。つまりこの幻現象を知覚し続ける土台こそが大安心なのです。探している張本人こそが大安心です。大安心によって生み出された幻想の中に大安心を探し出すというギャグをやっていたのです。生み出された幻想は幻想ゆえに消えゆくためこれは大安心にはなり得ないのです。

宇宙の失敗??

ない

宇宙には失敗があるのか???宇宙の活動において失敗は存在するのか???ないのです。全くありません。宇宙の活動に一切の失敗がないのは、、あるがままだからです、森羅万象の動きだからです。この動きの中に個別の活動は存在し得ないわけです。外部環境とは独立した動きは存在し得ないのです。だから失敗というのは不可能です。何を持って失敗とするか??それは個人という視点から見た現象に過ぎません。

だから

何が起こっても大安心の視点で眺めてください。何一つ分離独立した存在など存在しません。そしてそれを支える土台こそが「あなた」です。あなたの中で森羅万象の動きが自然と起こります。この現象はゆえに幻です。実在とは永遠のことであり見える何かに永遠は存在しません。永遠こそが現象の発見者です。だから見える何かは永遠では絶対にあり得ないのです。永遠こそが非永遠の何かを眺めます。我々が発見できる何かは常に非永遠、一時の儚い何かです。だから安心してそれらが滅びゆくのを眺めるのです。何が滅びてもそれは我々の本質ではありません。我々の本質は絶対に滅びることができない永遠です。

これで私は大丈夫になる

この条件が揃えば

中学校受験さえ終わってくれれば、、、私は大丈夫になる。就活さえ終われば私は大丈夫になる。婚活さえ終われば私は大丈夫になる、、、、はて、、、一体いつからこの思考で生きてきたのか????この絶対に終わらない無限ループの中にいつから入っているのでしょうか???エゴはいつもいつもこの発想で生きます。〇〇さえ終わってしまえば大丈夫、、、、イヤイヤ、、、ならないことは人生が証明していますよね???

では、、、

どうすれば大丈夫になるんですか????教えましょう。この大丈夫に先送り、これを辞めることです。大丈夫の入り口は「今」しかないのです。大丈夫の玄関は将来ではなく「今」しか存在しません。今にしか大丈夫の入り口は存在しない、この事実に気づく以外にありません。ではその入り口はどこ????それは、、、このあらゆる現象の土台、、それが「大丈夫」です。大丈夫という土台の中にあらゆる現象が現れそして消えるのです。つまり我々は最初から大丈夫という舞台を降りたことがなかったのです。

大丈夫

この夢、現象を支える土台が「大丈夫」です。つまり平和、愛です。その土台の中に時空間が創造され、、今こうして目の前に現れいでるのです。その事実に目覚めた時、、、もう大丈夫を目指す旅は終わります。最初から大丈夫の中で活動が起こっていたに過ぎないと気づきます。つまり起こる出来事は大丈夫を彩る幻でしかないのです。だから何が起こったってこの大丈夫の土台が木っ端微塵になることはなかったのです。ここで史上最大のハリケーンが来たって大丈夫の土台は何も変わりはしないのです。そしてあなたはその大丈夫の土台です。あなたこそが大丈夫の正体です。あなたが大丈夫の土台になってこの幻現象に気づいていただけです。

真の受容

あるがまま

真の受容とは何か????何があっても構わないという覚悟です。何があってもそこには何の自由意志もなくただ起こるのだという覚悟です。ですがこれは突然犬に噛まれても噛まれっぱなしにしておけ、、ということではありません。しっかりと引っ叩きながらも受け入れるのです。犬に噛まれたという事実をあるがままとして受容していくのです。エゴはこう考えます、なぜ???なぜ私だけが????です。何をしたというのだ、、、です。違います、全てはただあるがままに起こるのです。

新しい次元

全てをあるがままに受け入れたとき、、、、意識の次元が花開きます。意識の次元から光が差し込み、、この幻想の世界に軽さ、穏やかさ、呑気さが起こるのです。これは、、、感情ではありません。思考が生み出す感情ではなく意識の次元から光が差し込むのです。現象を真の意味で理解し現象に気づき続ける意識になった時、、そこから光が放射され現象が変容します。これがニューアースです。エゴイスティックな世界から意識の世界へとシフトです。

意識を意識する

普段

普段我々は意識を意識しないで生きています。意識の存在に無自覚なまま生きています。そして意識以外の存在、時間、空間、物事を唯一のリアルと考えるのです。ですがそうではありません、意識が最初にあって、、その上でこれらの時空間が現れ消えるのです。意識という絶対的存在の中で現象が現れ消えていくのです。現象の輪廻転生が意識の上で繰り広げられます。その現象の中の一つがエゴ、自我と呼ばれるものです。私は意識という大海原の中に現れては消える現象です。

それが分かって??

なるほど、、ではそれが分かって一体何になるのか????それが分かった時、、意識という現象を超えた存在が新しい次元として開き、、、そこからこの現象の世界に光が差し込んできます。意識が意識されることで意識という次元が開き、、そこから意識の光が差し込むのです。これがニューアースです。我々は新しい地を手に入れます、エックハルトトールが提唱するニューアース、イエスキリストが説いた「新しい天と新しい地」です。ライオンと羊が共に歩む場所です。

深刻さ

深刻さとはなぜ生まれるか???それはこの完全なる幻の存在を唯一無二の実在と勘違いすることで生じます。砂漠を歩く彷徨い人が、、遠くに見える蜃気楼をリアルな泉と勘違いすることで、、、まだ辿り着かないと、、深刻に受け止めるのです。ですが意識が意識された時、、、それ以外は全て幻であることが自覚されます。その段階において深刻さは皆無です。この深刻さが一切ない状態、、これが悟りです。意識と幻の完全分離です。意識が幻を完全に食べてしまった瞬間です。

真の私は私とは言わない

現れる私

この意識があります。今ここにこの意識があります。そしてこの意識から私がちょいちょい現れます。あれ今日私って用事あったっけ???あれ今日俺調子良くね????の私です。この私が現れては消えます。この私はこの意識によって現れでる波です。波としてこの意識という海から現れます。この波はいかに激しかろうともこの海この意識には一切影響を与えることができません。どんな激しく私が思考しようとも、、、何も変わらずにただ「シーン」としてこの意識はここに「在り」ます。

そして

散歩をすればあらゆる景色が移り変わります。ですがどんなに激しく景色が写り変わろうとも、、、何一つこの意識には影響を与えることができません。何一つこの意識を変える力がありません。だからこの景色は何度も何度も現れます。もしも景色によってこの意識が変えられてしまったらこの景色を生み出すことができなくなります。今次々に新しい景色が誕生しているのはこの意識が完全無傷だからです。だからこの景色は24時間変わり続けることが可能なのです。

この意識

ではこの意識、この意識は誰によって気づかれているのか????現れでる私はこの意識には気づけません。この意識から現れは起こるのですから。では誰がこの意識に気づいている???誰だ????それが真我、気づきです。気づきがこの意識に気づくのです。気づきこそがこの意識に気づくのです。その気づきは右胸のところで存在するように感じます。実際には体の中には存在するはずもなく、、ただその現れが起こるのです。この気づきからこの意識が現れこの意識からあらゆる現象が起こるのです。それを実感します。それが真実です。

現象ー意識ー超意識

順番

コップを上下してみてください。しっかりと上下運動をしてください。この上下運動によってあなたの意識は左右しますか????意識の有無に変化はありますか???ありませんね。絶対に絶対にないんです。コップを上下するという運動によって意識は全くといっていいほど左右されません。つまり、、つまり現象は、、、意識の中に存在するのであって意識の外に現象は存在しないのです。あなたという意識は確実に現象の外に存在します。あなたという意識は体という現象の中ではなく外に確実に存在するのです。

意識

では、、、、では、、、、この意識、あなたという意識は、、、なぜ存在すると言い切れるのですか???なぜ意識という存在に気づいているのですか????意識が存在すると100%言い切れるのでしょうか???なぜならば確実に意識が存在すると知っているからです。誰が意識の存在に気づいているのでしょうか????「わたし」です。私が確実に「意識」の存在を知っているのです。ならば「わたし」は意識の中ではなく100%外に存在します。だって意識の外に私が存在しなかったら誰が意識の存在に気づくのでしょうか???

気づき

つまり私とは誰か???と問われれば、、、意識の外で意識に気づく存在です。意識あんじゃんって気づく存在です。だから一日中その意識に気づく存在として存在できればあなたは真のあなたです。真のあなたではなかった時など存在しないのですが、、、、それそのものです。だからあなたは最初から自由です。自由そのものです。意識は現象の動きによって全く左右されず、、意識によって真の私は全く左右されません。意識の有無は私の存在を一切影響させません。だから大手を振ってこれからも意識に気づき続けてください。

そうなると

超「意識」である私、、この意識に気づく私とは何でしょうか???私はどうやって存在するのですか????何に寄りかかって私は生きればいいんですか????何にも寄りかからず生きるのです。最初からそうやって生きていたんですから。何にも寄りかからず、、、、私の中に意識を生み出し、、意識の中にこの宇宙を生み出しきたんです。

存在

存在とは???

全てを超えた存在、、これが存在です。全て、、知覚できる全てを超えた存在が存在です。なぜ????なぜって知覚とは知覚された対象を超えた存在によってしか起こらないからです。つまり、、、、全て超えた一点によって、、、知覚される全ては知覚されるのです。時間を超えた存在にしか時間は知覚できません。空間を超えた存在にしか空間は知覚できません。光を超えた存在にしか光は知覚できません。

何もかも

つまり私は何もかもを超えた存在、一点です。私の体という思考を超えた存在にしかこの思考は知覚できません。私の車という思考を超えた存在にしかこの思考は知覚できません。私は目を覚ました、、という思考を超えた存在にしか、、この思考は知覚できません。何もかもを我々は完全に超えているのです。だから安心してください、私は体でも思考でも何でもないのですから。魂を超えた存在にしか魂は知覚できないのだから魂でもないのです。

さて

時間も空間も体も心も超えた存在が、、この時空間で何を一体するのでしょうか?????何もできないのです。もう私は何もかもを超えてしまった存在になってしまったのだから、、時空間での人間活動を、、、コントロールなどできるはずがないのです。そしてもそれでも起こるこの体のコントロール感すらもコントロール感を超えた存在にしかできないのです。

さあ

あなたは今真の自由を手に入れたのです。これが自由です。真の大安心です。あなたは死ぬことも生きることもできないのです。なぜならば生そのものだからです。この全現象を超えた存在こそが真の私ですから、、、だから、、、もう何も失うことはできません。全ては私から現れ消えていくのです。私はどこへも行けず、、だからどこにも帰ることもできない、、、それが存在です。

マインド

あるのはなぜ???

マインドってありますよね、、、あるんです、、、ですが、、、、なぜマインドがあることをあなたは知っているのですか???なぜマインドという存在に気づいているんですか???なぜそれが可能なのですか????答えを言いましょう。。。マインドに気づく存在が存在するからです。マインドという存在を存在たらしめそしてそれに気づく存在が存在するからあなたはマインドを知っているのです。つまりマインドという存在が存在することこそが、、気づきである真我の存在を圧倒的に証明するのです。

だがしかし

これほどまでに簡単にも関わらずなぜ多くの人はこのことに関心を持たないのか????なぜ?????なぜかって??????なぜならば、、、、答えを聞きたくないからです。答えに触れたくないからです。なぜって???それが自我が死んでしまう内容だからです。そんな事実を知ってしまったら過去の何千万年間の活動が無駄に終わってしまうからです。

正規の大発見

待機中の空気で走れる車を誰かが発見したら、、、間違いなく、、、とんでもない力でその発見は闇に葬られます。なぜ??????なぜってガソリン、電気業界に、、、大打撃を与えてしまう。ガソリンが必要なくなった瞬間、、、、とんでもない大打撃を誰かが受けます。だから、、、闇に葬られる。。。つまり、、つまり、、、死を恐れる人間にとって、、、本当の話は、、、、自身の死を意味するため、、自身によって葬り去られるのです。真実に関心を向けることができないというこの事実こそが、、真実がここにある決定的証拠です。

心が真我に向かう時

世界ではなく

心は基本世界に向かいます。今日は天気が良い、今日は何をしよう、今月の目標は???などなど、、、世界の中での活動に心は向かいます。ですが心が向かう世界は真我の光の反映でしかありません。ですからそこでの活動では幸福(真我)を見つけることができず途方に暮れるのです。真我が太陽とすれば心は太陽の光を反射する月であり、、月の光が世界を作りだすのです。その世界の中に「太陽=幸福=真我」が存在しないのは明白です。

では????

月の光の中に幸福が全く存在しないことに気づいた心は、、、、まさかの内側にベクトルを向けます。内側とは何か????内側とは月の光を生み出す大元、、太陽です。太陽に月の光(心)がベクトルを向けるのです。その時、、、月の光(心)は太陽の半端ない光によって消え去ります。これが真我実現です。勘違いの「思考(心)=月光」が、、太陽の光によって消え去るのです。無知が太陽の光(真我)によって消え去ります。真我実現、解放です。

つまり

太陽(真我)は最初から存在し存在しなくては月光(心)が生まれることはありません。ですが、、、我々は心(月光)が生み出す世界と心しか知らないため、、、全くもって太陽の存在を忘れていたのです。ですが月光によって生み出された世界には全くもって幸福がないことから、、ついに重い腰を上げて、、、月光を真我に向けて光ることを決めたのです。これが真我探究(ヴィチャーラ)です。太陽に向けて月光が輝く時、、、太陽のあまりの大きさに月光は消えてなくなります。無知が消え去っていくのです。そして最後に何が残るのか???太陽のみが残ります。真我のみが残ります。