悟り(非二元)解説

後悔と不安

自動反応

多くの方は後悔と不安の中で自動反応という船に乗って人生が歩んでいきます。後悔と不安という「記憶から形成された思考」を土台に反射反射が起こり続けます。何も決めれはしないが「後悔と不安」という思考も反射として現れその土台に沿った「行動反射」が起こり続けていきます。その期間はひたすらにそれに伴う感情も湧き上がっていきます。俯瞰してみれば全てが自動反射、、、ですが思考の内容は「私が決めている」が自動反射で起こるのです。

人生が中盤になる頃

若者は不安と期待の両方を持ち、、行動思考の自動反射が起こる続けますが、、、人生が中盤になる頃「期待」は減っていき不安と後悔が増えていきます。あの時こうしとけば、、、を所有しながら、、不安を避けようとする動きの中で人生が自動運転で進んでいきます。そして人生が終盤になってくれば後悔の比重が多くなり、、死後の不安を抱えながら自動運転が進んでいきます。

どうせ自動運転、自動反射ならば

気づきがやはり自動運転の中で起これば「これが自動運転である」という気づきの中で自動運転が進んでいきます。その時気分は「自動運転ゆえの不安」はありつつも重い重い重責は消えていき、、軽さの中で「不安」が起こります。過去への後悔という重りが取れた状態で人生は進み、、「軽さ」の中で毎日が繰り広げられていくのです。「自動運転」という気づきは「自我の不在」という気づきに繋がり「他人の不在」が起こり、、「自分と他人の垣根」が消えていきます。次第に「たった一つの」現れであるという気づきが起こり、、、たった一つこそが自分であるという気づき、、たった一つならば自分でもないという気づきが起こります。つまりこれは無の現れに過ぎないという気づきが起こります。

だったら何もしなくていいじゃん

も起こる

全てが自動運転、自動反射だという気づきが起こると、、、、「だったら何もしないでおこう」という発想が起こります、、、、この気づきが次の反射を起こすのです。ですが直ぐに気づきます、でもその後どんな思考が起こるかも自動反射じゃ意味ないか、、、という気づきが起こります。そしてどうせ自動反射で責任を一切取れないなら勝手気ままにいきてやる、、が起こる。。。でも次に、、というか勝手気ままに生きようと決めたとて、、それは自動反射だから俺には何も決めれないんだ、、という気づきが起こります。

ということで

このように思考が現れては、「真実の理解」によるさらなる気づきがエンドレスに続くのです。そして過去を振り返り、、、つまり全部俺がやっているという思い込みも勝手に起こっていて、、開き直るも勝手に起こっていて、、時に自信満々になるのも勝手に起こり、、時に自信喪失になるのも勝手に起こっていたのか!!!!という気づきが起こります。

こんな気分で俺やっていけるのか?????

も勝手に起こり、、とはいえ周囲にはこのことは話してもしょうがない、、が起こり、、、ただ「何も今までとは変わらない態度」が起こり、、とはいえ内心では分かっている、、が起こる。。。。全員が全員全く違うプロセスで気づきの連鎖が起こり続けるのです。そして最後「何も疑問が湧かない」、、、までこの気づきの連鎖が起こるのです。

自動反射の途中で

気づきも自動反射

笑うしかないのですが、、気づきも当然自動反射の中で起こります。意図した私は悟ったのだ!!!!はないのです。全部自動で起こります。悟りも覚醒も解放も解脱も全部自動反射の中で起こります。だから何もかも心配はないのです。死ぬまでに悟るか悟らないかの違いを個人は生み出すことはできません。全部が全部完全自動システムの中であらゆる「気づき」が連発して起こっていき最後は悟りが起こるのです。

期待も不安も勝手に起こる

将来に対する期待も不安も後悔も無念も勝手に勝手に起こり続けます。そこに介在できる自我など存在しません。全員が全員ベルトコンベアーのように流されていきます。不安にさせられ後悔をさせられ地獄を見せられ天国を見せられ悟りを閉ざされ悟りを開かされる、、、これが勝手に起こるのです。

全部が全部自動反射という気づき

この気づきもその流れの中で勝手に起こり、、この流れの中で自動反射を絶望するが起こり、自動反射に安心するが起こり、、このことを誰かに伝えたいが起こり、、このことを誰かに伝えてもしょうがないが起こり、、、とそれも自動反射で起こるんです。つまりコントロールできる自我はいないんだ、という気づきも起こり、、じゃあ自分も他人も居ないんだという気づきが起こり、、、つまりこれってたった一つのエネルギーじゃん、、という気づきが起こる、、、、のです。

意織→セルフイメージ(反射)→反射言動

次々に

目が開く時、先ずは意織が芽生えます、、これは体を持つ存在全員に起こります。次に自動的にセルフイメージが湧き上がります(記憶をベースに)次にそのセルフイメージが反射行動を起こします。意識が芽生え「俺は会社員の鈴木だ」が起こり「仕事に行かなくちゃ」が自動連鎖で起こります。セルフイメージは継続し、このセルフイメージに準じた反射がただ起こるのです。

目が開く時

意識が芽生えます、と同時に寝ていたという気づきが起こります。何かから目覚めたという自覚です。この何かこそが本当の我々(自覚なき我々)です。意識そのものの瞬間があり次に意識の中で「セルフイメージ」が起こるのです。これは全て自動です。反射です。誰にもここに自主性はありません。朝日がセルフイメージの起動になるのか目覚まし時計なのか、そこは全くの反射です。

セルフイメージ

セルフイメージが起こり、、、次に次にと自動反射が起こり続けます。「いや、私は意識的に行動している」そう思っているだけです。その意織的な意織こそが勝手に起こったのです。そうして今このブログを「あなた」は呼んでいます。その自動反射の連続の中にこの「ブログを読む」が含まれていたのです。

呼んだ後

ブログを読んだ後にも次の反射が起こります、、私は何も反射が起こりませんでした、、は絶対にありません。このことで次に何かは起こるのです。昼寝かもすれない、ランチかもしれない、瞑想かもしれない、、、何かが必ず起こります。これが次の日も次の日も次の日も起こるのです、、、死ぬまでこれが続きます。

カワイイ

全てが

例えばミュージシャンの歌を聞けばあらゆる「歌詞」を聞くことができます。今まではこの歌詞好き、この歌詞嫌いと曲ごとに好き嫌いがありました。ですが今は違います、、全部可愛い、、、なぜか?????だって全部勘違いですから。それぞれの信条、心情が乗せられています。全部勘違いです、、聞いてみてくださいほぼ100%勘違いですから。

映画を観れば

笑っちゃいます、本当に思考、思想が強い、、価値観、判断ただこれだけが起こっています。セリフを聞いてられません、恥ずかしくて。。。。。いやー、、そうか、、、本当に俺もこんな感じて生きてたっけ。。。。辛い、、、というか恥ずかしい。。。。くすぐったくて観てらえない。。。。。深刻さは全くないんです、、ただ演技が全部過剰に見えちゃうんです。

飲み屋の会話

バイトの店長がさー、、、彼氏がヤバくて、、、そういえば親あのこと許してくれた??????会話のほぼ全てが判断判断判断です。「ちょっと聞いてよ!!!!!!」です。もう笑うしかない、、、、解っちゃうと、、もう100%会話内容が判断って気づきます。そこまできたら嬉しですよ、そこまできたら笑えます、、そこまでくるともう夢を見ている感じです。

私物語が終わるわけではない

私物語を俯瞰する視点が現れる

日雇いアルバイトに行きます、、一生懸命バイトします、、、バイト終了後。。。。「今日の私へのバイト代をください!!!!」この言葉が出ないようでは危なくて働くこともできません。財布を電車で取られそうになります、私の財布を取らないでください!!!!この言葉が出ないようでは危険です。そうです、、、我々はこの私物語を終わらせることは絶対に絶対にできません。バイト代をしっかりと貰うのは「明日の家賃」を払うためです。

私物語をやりながら

悟りとは自分という存在が消え去ってしまい、、「自分をやれない」なんていう精神異常者になることでは断じてありません。「私物語も私も完全に思考が作り出した概念である」という新しい認識を持って「私物語、私」をやるのです。私が誰かから攻撃されても「概念である私」が攻撃されたという認識が起こります。相手は「概念である私」を攻撃したという新しい認識は余計な感情を生み出さないのです。

まるで映画

これは映画です、、映画であることを自覚して役を勤めるのです。「思考が作り出した映画である」という絶対的な認識の中で経験だけが起こり続けます。この映画がどのように作られているかを完全理解した「状態」の中で映画だけが続きます。後悔が全く湧かない映画、期待が全く湧かない映画、、、、ただ「真の気楽、安堵、平和」な中で映画が進みます。

「自分が苦しみから解放されたい」と思っている

これが苦しみ

本当にギャグのような話なんです。『「今苦しい」という認識が起こりました。』その時「この苦しを感じたのは私だ」という概念が湧き出ます。まさにその思考この思考こそが「苦しみ」を作るんです。『「今楽しい」とおう認識が起こりました』その時「この楽しいを感じたのは私だ」という概念が湧きます、まさにその思考、この思考こそが「苦しみ」を作ります。

喜んでもらえた

「話をしたら喜んでもらえた」という認識が今起こりました、、、、まさにその時「喜んでもらったのは」私だ、、、という概念が起こります、、その思考、この概念こそが「苦しみ」を起こすのです。喜んでもらった、嬉しい、楽しい、、、、、、の次に「苦しい」が起こる、、、、なぜ?????????それを「私」がやった、、、という概念が続けて起こったからです。

自己防衛

この体を守るために「私がやった」という概念が湧いても全く構いません。このプロジェクトで多大な貢献をできた、、、それをやったのは私だ、、、、という概念が抜け落ちては、、労働をお金に返ることができません。だからそれが悪いということではないのです。ただしそれを認識する視点を所有しない限り、、「苦しい」が止まりません。「自我をベースにした思考の起こり」を認識する視座を所有する、、、、これがこれからの新しい時代の「生き方」(本当はない)です。

覚者への憧れ

それも思考

エックハルトトールみたいになりたい、プンジャジに憧れています、ガンガジのような真の心境に、、、多くの方(本当は居ない)は非二元に触れていきますと見かけ上の覚者に憧れます。いつの時代も目標にする人っていますよね?????今回はあの本を書いた有名な覚者です。ですがこれって大きな落とし穴です。今回ばかりはこの作戦失敗しますよ。なぜか?????憧れるその人の中には誰もいないんです。

いやいやしっかり喋ってますよ!!!!

そうです、勿論喋るし「私は、、、、」で始まる話もします。ですがそれは敢えてやっているだけです。意識して「私」をやっているのです。この体の中には私なんて居ないことを自覚(自ら覚る)してやっているのです。だからその演じられた役を憧れるのは本末転倒なんです。見かけ上の覚者を通じて演技が行われているだけです。本質、根源から現れ出るその言葉には「私」があっても、、根源であるという自覚の元にそれが起こっているのです。

根源から根源であるという自覚の元にその体から言葉がでる

言葉はどうしてもこの体を通じてしか発せられることはありません。ですから言葉はその見かけ上の覚者の体を通じて起こります。ですがその体の中に「自分」が居るという概念はもうありません。根源が根源であるという自覚の元に「言葉」だけがその体から発せられるのです。話しかけられれば記憶が「人間の自覚」を起こしますが、、、と同時にそれが「記憶から現れでた存在」であることに気づく、、が起こるのです。

周囲の反応

周囲は「覚者の中に自我がある」という前提の反応を起こしますが「覚者の体」では『「記憶が作り出した自我」に向かって反射が起こっている』という新しい認識が起こっています。周囲の反射と見かけ上の覚者に起こる反射に違いがあるわけです。「記憶から自我が起こることに気づく」認識が起こっているいます。どこからそれが起こっているのか????根源です。

思考を消したい?????

それも思考

思考が消えたら楽になる、思考を消したい、なんとしても消したい。。。それ思考です。だからまさに今苦しんでいます。思考が湧きますね、、、その思考を消したいという思考がさらに湧く、、、、湧き続ける、、、これがさらなる思考です。思考を思考を使って消すのは不可能なんです。思考という雑草を思考という雑草で消すのは無理です。ではどうするか??????簡単です。私が草ではなく土壌であるのを思い出すのです。

土壌

我々の本質は雑草という思考が育つ土壌なんです。土壌です、、そこから自然と草(思考)が湧きます。それに対して本質の土壌(我々)は完全に受け身です。いつ何時、その思考という草が育つかに対して一切のコントロールがないのです。つまり思考が湧くことにノーコントロールです。だから先ほどの思考を消したいという思考もまさに土壌から勝手に湧いたのです。そこに気づきます。そこに本当に気づくのです。すると思考を消したい!!!!、、、が消せるわけがない、、に変わります。すると少なくとも「思考を消したい」は湧かない可能性が高くなります。

土壌という認識、以上

思考のほとんどは「主語が私」です。その私とは体に収まったとされる自我のことでしょう。ですが我々の本質は土壌なのです。さきほどの「体に収まったとされる私」も実は草(思考)です。だからこの思考(自我)も放っておくしかありません。この思考(自我)を出さない!!!!!という思考を起こしたところで、、、何度も説明しますが不可能です。思考(草)の出現に土壌(我々の本質)は一切関与できないのですから。我々(土壌)がもしもえきることがあるとすれば土壌(我々)であることを思い出すこと、これだけです。

私の将来大丈夫か??????

という思い(草)が出現しても、、、それも草に過ぎない、、と気づくのです。私って将来やばくない?????という思考が起こってもそれも草だと気づくのです。土壌ができることは私は草ではなく土壌だから、、何もかもできないと諦めることです。すると私を主語にした思考(草)が出現しなくなっていきます。思考による思考の出現が減るのです。草による草の出現が減るのです。草が草を呼ぶという連鎖が消えます。

マニュアルではない

マニュアルとは

マニュアルとは個人が知識を使って実践するものです。その通りにやれば結果が出る方法です。非二元メッセージに関して、、これはマニュアルではなく「仕組み理解」です。マリオがクッパを倒す方法ではなく、、マリオ、クッパがどのような仕組みで今まで戦うことができたかを裏側から解説することです。これはマリオのためのものではなく勿論クッパのためのものでもない、、、マリオ、クッパの登場仕掛け解説です。

マリオは救われない

非二元メッセージとはマリオ作成マニュアルと呼んでもいいでしょう。マリオのゲーム攻略本ではなくマリオゲーム作成マニュアルです。マリオゲームの製作マニュアルを読んで一体何になるんでしょうか?????簡単です。マリオが抱えてきたとされる(本当は違う)苦悩が消えます。なぜならばマリオ制作秘話は苦悩制作秘話でもあるからです。

マリオが制作物ならば苦悩も制作物

この世界のマリオ(私)はたった一つのエネルギーによって製作された制作物です。マリオが製作されたことで同時に苦悩も製作されてしまったのです。マリオの体のみが現れるだけであれば問題はないのですが(そもそも問題はない)体にマリオの自我とされるものが有るとされたことから(自然現象)同時に苦悩(自然現象)も起こりました。重要なことは自我はないということ、自我があるとされる思考が湧き上がったことで(自然現象)苦悩(自然現象)が起こったのです。