悟り(非二元)解説

完璧の違い

全てはここに尽きる

景気が悪くて、会社の業績が、家族不和で、、これらの状況に対する判断とは「本当はこうだったら、、、、」という大前提が基本にあります。もしくは本当はこうあれるのに、、という自由意志の失敗が基本にあるのです。これを我々は自我が芽生えた頃から死ぬまでやり続けていくのです。ところが事実はそうなってはおらず、、全ては自然現象、、、完全完璧な自然現象です。桜の花がどこで咲きどこで散るかに人間が関与できないように、、、全現象には個人は関与が出来ません。

自由意思こそが諸悪の根源

会社への愚痴は社長には自由意志があってその大前提の上に間違いが起こったと感じているからです。だからやり場のない怒りが起こるのです。ところが真実では誰一人自由意志はなく完全完璧な自然現象としてそれが起こっているのです。この構造的理解、科学的理解こそが苦しみからの解放の一番重要な点なのです。全部が完全完璧だった、、、この気づきです、、この気づきが真の癒しです。

社長の愚行

つまり社長の愚行がエスカレートしても放っておけと????????全く違います。社長の愚行を直すのは社員の仕事です、、徹底的に直せばいいのです。ですが社長の愚行が自然現象に過ぎないことに気づいてそれをやるのか、全く気づかずにやるのかによって意味が違うのです。社長への怒りは起こりません、だって自然現象ですから。下手に伸びた蔓をカットするのに怒りは必要ですか???????全く必要ないのです。

見た目上完璧だから

全部を手にした時

三年間準備して完全完璧なパートナーを手に入れた、完全完璧な職場に入れた、完全完璧な仕事のスタイルを手に入れた、、、その時真の絶望が襲ってきます。全く満たされないという現実が襲ってくるのです。この時、、どうしようもない、、真の八方塞がりです。何も文句をつけようもない、、だがイライラする満たされなくて。。。。。周囲も何も出来ない、、最も満たされるべき人間が満たされていないのです。

すべきことがない

解決すべき課題がないのです。願っていた全てが手に入ってしまったのですから。これ以上何を手に入れればいいのか???????だがこの不足感は間違いなく真実。客観的事実としても主観的事実としても、、満たすべきものがない時、、人は究極の絶望に落ちます。

悟るしかない

どこで気づくかなんです。どこで満たすという活動には終わりがなくむしろ絶望しかないことに気づくかです。その時に実は自由意志がなく自由感情もなく自由行動もない、、ただ完全完璧に自動運転で全てが起こっているだけという事実に戻りますと、、救われます。もう何も満たそうとしなくていいし、満たされないと不満を思わなくていいんです。もっとああすればこうすれば、、の罠を終わりにしていいのです。これが本当の幸福です。

自分に起きていなくても楽しい????

他人事?????

「昨日私にこんなことがあって楽しかったんですよ!!!」「昨日偶然友人と道で会って楽しかったんですよ!!」よくある話ですよね?????ですが事実では、、友人と会った自分は存在しません、100%存在しないんです。にも関わらず楽しかったんです。友人という存在も実は100%存在しません、、ですが楽しかったんです。意味不明ですよね?????実は見かけ上の友人と見かけ上の私が会いただ、、会話が起こったのです。ですが楽しいんです。

自分が居なくなったんではない

非二元のメッセージを学んだから自分が消えたんじゃないんです。そもそもに居なかったことに気づくのです。つまりそもそも誰も居なかったにも関わらず楽しい会話が起こり続けていたんです。そしてこれからも楽しい会話は続きます。いままでもこれからも全く個人は存在しませんが会えば楽しい会話が起こります。つまり楽しいに個人は必要ないのです。今まで居ないにも関わらず楽しい会話が起こっていたのですから当然です。

二元に気づくには非二元が必要

この世界

この世界には私が居てあなたが居る、、、、あなたに気づいているのは「私」である、、、これを二元の世界と言いますがこれが成り立つには、、、非二元の世界が必要になります。二元の世界がそこにあることに気づくにはそうではない世界(非二元)の世界が必要になるのです。これは「青だ」と気づくには非青の世界が必要になります。つまり「この世界は二元の世界です」と認識するには非二元の世界が必要になるのです。

だから一元とは言わない

そうなんです、、この世界は圧倒的に二元の世界と認識できるから、、、本当はその裏には非二元(一元)の世界があるのです。この世界を二元の世界と認識するのはこの二元の世界の住人「私」ではなく非二元の世界です。よって認識者「私」とは非二元なのです。つまり認識者「私」はこの二元の世界には間違っても存在しません。

にも関わらず

我々はこの二元の世界に気づきながらもこの体の中の「私」がそれに気づき生きていると勘違いしています。よって分離感、孤独感、無力感が起こります。これは勘違いです。その勘違いにはこの孤独で分離したこの体が全ても五感を認識し生き抜いているというストーリーを起こすのです。よってそのままにその思考は認識され、、その感情を味わっているのです。これが釈迦が説く「苦」です。

誰が悟るのか??????

存在からただ「私の不在」の気づきが起こる

実は自我とは悟るための必要悪です、、、本当は悪など存在しませんがあえてそう言います。自我=悟りための必要悪です。。。幼稚園児に悟りを伝えても恐らく「実感」としての悟りは起こらないでしょう。なぜならば自我が形成されていないがゆえに「苦しみ」がないからです。よって「苦しみ」という完全完璧な実感からの悟りという実感誘導が難しくなります。

ところが

大人は自我が完全完璧に形成されており、、ゆえに「苦しみ」を実感できます。この苦しみという実感が「悟り」発見のナビゲーターなのです。悟りを追い求める動機とはこの苦しみの解消であり、、この苦しみがなければ、、、悟りへの衝動もない。。。。よって苦しみは悟りへの必要悪なんです。苦しみは悟りへの必要善でもあります。

苦しもを解き明かすと

苦しみを解き明かしますと、、、、そこには自我というメカニズムのプロセスが見えてきます。苦しみという圧倒的実感の影に自我という苦しみ製造機の影が見えるのです。この影を鮮明に見つめていきますと、、、、自我が正体を露わにするのです。動物には苦しみがなく、、、人間にだけ苦しみがあるのは間違いなく、、自我の存在があります。その自我とは何なのか?????に迫るには圧倒的実感としての「苦しみ」が必要なのです。この苦しみがなぜ起こるかを実感として分かる時、、、それはつまり悟りです。

苦しみの解体に自分は必要ない

1+1=2を理解するのに「自分」って全く必要ないんです。苦しみのメカニズムを理解するのに「自分」って全く必要ありません。つまり悟るのに「自分」って要らないのです。苦しみのメカニズムに迫る時、、まさに自分という概念が現れでてきます、、、自分が現れるのではなく自分という概念が現れでます。自分という概念は苦しみ解明には必要ですが、、その発見に「自分」が必要ないのです。もっと言えばその発見のプロセスにおいて自分とは実体ではなく、概念に過ぎなかったという気づきが起こります。これぞ悟りです。

真実を指し示す言葉??????

真実は実感

真実を指し示す言葉とは「騙し絵の老婆を示す言葉」と全く同じです。騙し絵の中には老婆が100%存在しますが、、、、それを言葉で言い表すのがどれほど難しいのか??????ということです。もしも言葉を暗記して、、老婆とは「こうこうこういう人だ」と語っても全くの無駄です。それはイメージであって全く実感ではないのですから。老婆は実感するものであってイメージするものではないのです。

注意点

悟り、ノンデュアリティ、非二元に関する書籍には「老婆の情報」が再三に渡って語られていますから、、、、、そのイメージを強く強く鮮明に描き、、、これぞ老婆だ!!!!!!これぞ悟りだ!!!!!と思い込むことが可能です。「老婆」のイメージ、「悟り」のイメージをまさに徹底的に打ち壊し、、、実感に落としていくのです。

そのために書籍はある

悟りとは圧倒的実感です。イメージではありません。騙し絵には老婆が隠れているらしい、その老婆は目が大きく鼻は切れ長で、口はひん曲がり、、顎はシャープで、、らしいよ、、、、、もっともっと詳細な説明をしてくれているらしい本があるから今度紹介するよ!!!!!!、、、、、これじゃないんです。悟りとはこうでああで、、あんな感じで、、、こうらしいよ、、、この本はそれをかなり詳細に詳細に語っているから今度貸すね!!!!!、、、、、じゃないんです。実感できる老婆を探すんです、、実感できる悟りを探します。

老婆

イメージ???????

これは騙し絵です。。。この中には美女が見えますね、、、そして実は老婆が居ます!!!!!!本当は老婆が隠れています。へー!!!!!!!!!!そうかこの絵の中には実は老婆が居るんだな、、、、多分恐らくこんな老婆だろうなー。。。。。。。。これワンネスをイメージしている人の悟りです。これ無我をイメージする人の悟りです。実感としては見えていないんです、、、だけどイメージは鮮明に鮮明に持っています。

老婆は見える!!!!!!

老婆はイメージではありません、ハッキリと確実に見える人には見えるんです!!!!!!イメージじゃないです、、美女がはっきりと見えるようにその騙し絵には老婆が100%存在しながらも隠れているのです。ワンネス、無我、全体、気づきの意識、空、絶対、、、、これも100%存在しながらも隠れています。全く存在に気づけないにも関わらず存在しています。

どうしたら見える????????

老婆の場合は簡単です、、これが目で、、これが鼻で、、、これが輪郭で、、、、、分かった!!!!!!!突然の分かったが起こります。悟りも全く同じ、、、、100%の実感を繋ぎ合わせた時、、、、、「分かった!!!!!」が起こるのです。100%の実感の繋がりにしかこれは分かりませんから、、、、イメージを繋ぎ合わせても無駄です。

圧倒的実感

ゲシュタルト

ある絵を眺めています、、、しばらくして「あ!!!」これ若い子じゃなくて、、、老婆だ!!!!!騙し絵に気づく瞬間ってあります。それまではその絵の中に老婆は100%存在しなかったのです、、存在しているにも関わらず「実感」として100%存在していなかったのです。ところが、、、、ある瞬間に「見えた!!!!」が起こります。ゲシュタルトと言います、、点と点が繋がった瞬間、、、見えるのです。

サッカー選手

サッカー経験者は、、ゲーム観戦中に「監督の意図」が見えます。今攻撃から守りに移り、、カウンターに切り替えたな。。。。。。。しかし素人は何も分からない。。。。。。つまり同じ画像を見ているにも関わらず全く違うものを見ているのです。悟りとは圧倒的実感で、、「全く違う景色」を見ることです。「分かった!!!!!」は全く違う景色を見ることなんです。

老婆

この絵には老婆が居るんですよ!!!!!!!いやいやそんなこと言われても全く老婆の存在に気づけません!!!!!!「この世界は無なんです」「この世界はたった一つのエネルギーなんです」「この世界は絶対の影なんです」いやいやそんなこと言われても全く全く実感が湧きません。ところが、、、、、突然「見えた!!!」が起こります。突然「分かった!!!!」が起こるのです。最初からそこに間違いなくある老婆が、、、、間違いなくある影が見えるのです。

不都合な真実

真実とは

真実にまつわるメッセージがなぜ世界に広がっていかないかといえばそれは「不都合な真実」だからです。真実とは多くの場合不都合なのです。先ず第一に真実を受け取る自分という存在が存在しないのです。多くの場合「この私」のために全情報はあるのですから、、、それとは全く異なるメッセージは脳がパニックを起こします。今まで全部「自分」のためにと行われてきた行動と「真実」は180度異なるため、、脳がパニックを起こすのです。

引き戻せない

偏差値が高い学校に行けば収入もそれに準じて多くなる、、、こう信じて生きていた人が「フェラーリの所有者のほとんどは中小企業の社長である」という真実を目の前にした時脳がパニックを起こします。中卒、高卒、大卒とは全く関係のない、、、中小企業の社長こそが高額納税者であるという事実は、、脳をパニックに陥らせます。その結果、、、先ずはその情報は横に置いておこう、、となるのです。

実は自分が居ない

自我が形成され、、この自分を守らなくては、、、という言動が起こり、、、そのための行動がエンドレスに起こり続けていた先に「実は自分が居ない」というメッセージはパニックになります。だからこのメッセージは横に置いておこうとなる最強バージョンです。この自我にとって「不都合な真実」に興味が起こるということは大きな意味を持ちます。

ありのままの自分で?????

ありのまま

ありのままの「自分」という存在は存在しません。ですからありのままの「自分」というのは理屈として破綻しています。ただしありのままが「自分」という概念を起こし、、「ありのままの自分」という概念を起こするのはできます。イメージとしてそれが起こるのです。イメージとしての「私」がイメージ上の「ありのままの自分」に近づく努力をするというストーリーが生まれるのです。

ですが

ですが多くの場合そのありのままの自分は周囲とは個別分離した自分でありよってその自分のなれた(イメージ)としてもそこから出てくるのは個別感、分離感という拭い去りたい感覚です。だからどれほど完全完璧なセルフイメージになっても(想像)結局はこの違和感、不快感を拭い去れず絶望します。

絶望

絶望、、、これ以上にこの私物語を終わらせる完全完璧な動機はありません。もうこの私物語の先には先がない。。。これです、、、ここに至ることがいかに重要か、、いかに大切かです。絶望が起こると、、ありのままの自分、完全完璧な自分、、、自己実現を成し遂げた自分に「興味」が湧かなくなります。だって意味がないのですから。。。。。すると素直に、、「悟り」への関心が起こるのです。