気づきの意識

本を読んだだけでは究極の気づきは起きない

悟りの本を一冊読んだら全部分かってしまった、、、はない

本を一冊たまたま読んだぐらいで究極の気づきが起きないのは、、、そんなことが簡単に起きるならばこの人間ゲームを作った意味がないからです。書籍一冊で用が済むならば大自然も、世界中の事件も、世界中の人間も、多種多様な動物も全部必要ない、、、こうなります。なぜ自分を取り巻く環境には多様性があり、夜空が広がり、空には星まで見えるのか?気づきの意識がこの体を使ってあらゆる体験を積み、感情を湧き出し、思考を湧き出し、、独自の気づきを作りたいからです。たった一つの真実がありそれを知れば究極の気づきが起きるならばたった一人それを経験する人間がいれば済みます。なぜこれほどまでに多くの人間が存在するのか?それはそれだけの各種気づきを気づきの意識が求めるからに他なりません。

100人いれば100人のマリオ体験がある

100人がスーパーマリオをプレイしますと100人の全く異なったマリオ体験があります。100人の人間がいれば100人の全く異なった気づき体験があるのです、100種類の歴史、固定観念、気づきがあります。これを気づきの意識は気づきたい。気づきの意識は気づきの意識のままでは何も経験できない。気づきの意識がたった一個の気づき体験を欲するわけがないということです。

上手くいかないを経験しなければ上手くいくを経験できない

上手くいった経験をするためにはその前に上手くいかなかった経験が必要になります。これを生み出すために人間は無知無能で生まれました。全知全能の神、気づきの意識が無知無能の人間(自分)を誕生させることで上手くいかない経験、上手くいく経験を作り出していきます。下手を経験し上手いを経験します。最低を経験し最高を経験します。そしてそこにはあらゆる感情、思考が湧き出しそれを自分のモノにしていきます。自分とは気づきの意識から湧き出る感情、思考を全て自分のモノにしていく自分所有体験です。感情・思考・経験・自分所有体験記ということになります。その体験があまりにもオリジナリティー溢れるからこそそこからの気づきもオリジナルなのです。

相手と喧嘩をする時、、、

喧嘩をしている時はこの体の中に自分が居ると思える

マリオがクッパと戦っている時、マリオの中に自分が居ると最大限に錯覚を起こすことができます。攻撃されれば悔しいという感覚、攻撃が上手く行けば嬉しいという感覚を持てるのはマリオが自分と同一視できているからです。所詮ゲームだからと思いながらあんなに面倒な操作など集中してできるわけがないのです。あそこまでなぜ子供はゲームに集中できるのか?それはゲームの主人公になり切っているからに決まっています。

友人と喧嘩をしているとき

この体が友人と喧嘩をしている時、友人はさもこの体の中に独立した自分が居るかのように人格否定をしてきます。あなたが悪い、、、そのあなたとはこの体の中に居る「自分」のことです。相手が強く、強くこの体に対し人格否定をすればするほどに私はこの体の中に自分が居ると錯覚を強化することができます。絶対に居るだろうこの体の中の私に向かって相手は攻撃の手を緩めません。そして私が相手に何かをいう時も確実に相手の体の中に確固たる「自分」が居ると思って攻撃を加えます。この攻防は体対体ではありません。体の中に居る自分対体の中に居る「相手」です。体の中に自分が居るという感覚を強烈に強化できます。

本当は体に向かってただ攻撃をされただけ

友人との喧嘩は自我、自分を強化します、ですが本当はこの体に向かって相手がただ攻撃してきただけです。その事実とこの体に自分が居るという錯覚は何も関係がありません。つまり何を言われようと、何を攻撃されようと、、ただそれを気づきの意識が認識、経験するだけです。相手がこの体の人格とやらを否定しようとも本当はこの体の中には自分は存在せず、、、ただ内容を聞くだけになります。もしくはとりあえずこの体の中に自分が居るという体で話を聞くことはできます。

時に敵を作って自分を維持する

この体の中に自分が居るというリアリティーを出すには敵の存在が一番

誰もこの体に話しかけてくれなければこの体の中に自分が居るという錯覚を維持しにくくなります。そのためこの体はあえて環境に敵を作ってその敵にこの体を攻撃させることで体の中に自分が居るという錯覚を強化させます。敵を使って悪口をこの体に言わせます、敵を使ってこの体に残業をさせます、敵を使ってこの体にパワハラをさせます、敵を使ってこの体にセクハラをさせます、、、そうすると被害者になれるので、、、私はなんて不運なんだ、私はなんて残酷な状況に居るんだ、、私だけがなぜこんな酷い目に、、、、と体の中の自分劇場に入り込めるのです。ですが本当はただ体がそのような経験をしただけでそれを経験しているのは気づきの意識です。

時に恋愛をしてこの体の中に自分が居ると信じ込む

恋愛はこの体の中に自分が居るという錯覚を起こすのに最適です。私のことを彼が好きでいてくれる、私のことを彼が一生の伴侶と認めてくれた、私のことを彼が誰よりも大切に思ってくれた、、、、これでこの体の中に自分が居るという錯覚を強化できます。ですが実際は彼がこの体に向けたメッセージ、態度です、そしてそれを気づきの意識が経験します。

時に映画にハマってこの体の中に自分が居ると信じ込む

映画の登場人物はほぼ全員、この体の中に自分が居ると信じ込む仲間です。ですからこの私、この体の中の私は映画を観るとホッとします。私と同じようにみんな悩み苦しみ生きている、この体の中にしっかりと居続けることは大変なんだと錯覚を起こせるからです。TV番組を観てもほぼ全員のキャストが体の中に自分が居るという大前提でトーク番組が展開されていきます。もしもこの体の中には自分が居ませんよと話すタレントが現れたならば翌週からそのタレントを見ることはないでしょう。

気づきの意識にとってクッパもマリオも同列

マリオは勿論主人公だが、、、

スーパーマリオをプレイするプレイヤーにとってマリオも、クッパも、ピーチ姫も、クリボウも同列で重要です。マリオだけが重要でクッパは必要ない、クッパは必要だがクリボーはいらない、、、とはなりません。ゲーム上のキャラはどれも重要であり重要でもない、、、少なくとも優劣が存在しません。マリオが大好きだと言っても敵キャラが出現しなければ何も面白くないのでマリオも同時に要らなくなります。スーパーマリオをプレイする人にとって全キャラが大切ということ、それだけ。この人間自分ゲームも全く同じで出てくる登場人物無くしてこのゲームは成り立たないものです、色々な人間との出会いがあるから面白い、、生涯一人しか友人が居なければつまらない、、、この自分とされる人間も大切だが同列で出会う人々も大切です。

何かを経験すれば全部この体の中に居る自分が経験したと取り込む

旅行に行きます、、旅行に行けば全部この体の中に居る自分がそれを経験したと取り込むのがこの体の中に居る自分です。飛行機に乗った、旅先のホテルに泊まった、海にいってビーチを楽しんだ、美味しい料理を食べた、、、全部この体の中に居る自分が経験したと取り込んでいます。本当は全部それを気づきの意識が認識しただけです。全体がそれを経験しました。この体を使って旅行という経験を全体、気づきの意識がしました。全体、気づきの意識にとってはこの体も旅行先のホテルマン、現地人、全員が同列です。同価値です。

ピンチの時こそそれをこの体の中の自分が取り込もうとする

道で赤の他人から暴力を振るわれた、、、、体には傷が付き、服は引き裂かれ、バッグからはお金を取られる、、、こんな時体は自分の中の自分を発動させ、、、なぜ自分がこんな目に遭うのか?なぜこんな悲劇を私が背負ったのか?なぜ自分が狙われたのか???と体の中の自分がこの事件を取り込もうとします。ですが真実を話せば気づきの意識がそれらをただ経験しただけです、この体が傷つけられ、この体が纏う服が引き裂かれ、この体が所有するお金が盗まれた、、、これを気づきの意識が経験した、、、、となります。本当にこの事実を認識すると「なぜ自分ばかりが狙われるのか?なぜこんな不幸な目に?何かわることを普段しているからか?」という思考のループが湧かなくなります。

五感からの自分錯覚を見破る

食事を食べる

牛丼を食べます、視覚に牛丼が見えます、これを体は自分が見ていると錯覚します。ですが気づきの意識が見ています。お箸を手に取ります、お箸の感触を感じます。これを体は自分の体験として捉えます。ですが実際は気づきの意識がこれを経験しています。お箸が牛丼を掴み口に入れます、舌が牛丼に触れます、これを体は自分が感じていると錯覚します、ですがこれは気づきの意識が経験しています。鼻が牛丼の香りをキャッチしました、これも気づきの意識が経験しています。五感は常にこれを感じているのは体の中の自分であると錯覚を起こしたがります。ですが全部気づきの意識が経験しています。

マリオがクッパと戦う

マリオの前にクッパが登場しました、恐怖心が湧いてきます、これをマリオは自分から恐怖心が湧いてきたと錯覚します。実はプレイヤーが恐怖心を感じています。マリオはクッパがジャンプしているのを見ます、マリオは自分がその事実を見ていると感じます、ですがこれはプレーヤーマリオがクッパのジャンプを見ているのを見ています。クッパがマリオに襲いかかってきました、クッパの攻撃をマリオが受けます、、この時マリオは自分が攻撃を受けたと錯覚します、ですが本当はプレイヤーがマリオが攻撃を受けた経験をしています。マリオが経験していることは全部その外に居るプレイヤーが経験しているのであってマリオの中の自分錯覚ではありません。

感じているのを中とするか、外とするか

マリオの中でスーパーマリオを感じているとするのも自由、マリオの外に経験者が居るとするのも自由です。マリオの中に自分が居るとなると深刻さが増し、マリオの外に自分が居るとなると深刻さが薄くなります、というよりも深刻になれない。この人間ゲームも全く同じ、この体の中に自分が居るとするか体とは全く関係ない気づきの意識がただ経験しているかで深刻さが変わってきます。

このブログをカフェで書いてる時

音楽が聞こえる、、、

私は今このブログをカフェで書いています。音楽が聞こえます、この音楽私の耳で聴いているということもできますが気づきの意識が聴いているとも捉えれます。パソコン画面が見えます、これも人間である私が見ていると捉えることもできますが気づきの意識が見ていると捉えることもできます。この体はありますがくPC画面と私の間には体は存在しません、ただ目の前にPC画面だけがあります。気づきの意識がこれを認識します。勿論目をつぶるとPC画面は消えます、真っ暗が見えます。気づきの意識が真っ暗をい認識します。人間としても捉えることはいつでもできますが気づきの意識としても捉えることができます。ブログをタイピングする時にPCに指が触れる感覚を感じます。これを体が感じていると認識することもできますが気づきの意識が感じていると認識することはできます。

マリオを意識しようとしなくてもスーパーマリオはできる

スーパーマリオをプレイする時、全体験をマリオがしていると錯覚してもプレイできますがプレーヤーがやっているという事実でもプレイできます。当たり前の話です。この人間ゲームも同じ、人間のなかに自分が居るという前提でプレイできますが、その前提を壊し全部を気づきの意識が体験していると捉えることができます、本当はこちらです。どこまでも人間の中に自分が居てこの人間をプレイしていると捉えることはできます、ですが全部をこの気づきの意識が経験していると捉えることができます。

マリオがコテンパンにやられて

マリオに五感があるとしましょう、その五感がある状態でクッパにコテンパンにやられた、、、マリオの中に自分がいると錯覚するのは容易にできます。痛いのですから、さらに悔しいという感情が湧いてきたら、、自分の感情と錯覚するマリオを作るのは容易でしょう。ですが本当は全部プレイヤーがやっています。このリアルバージョンが人間ゲームです。人間が感じる痛み、辛さ、苦しさ、悔しさ、、、これを自分の体が体験しているという思想、、、完璧に人間ゲームにどっぷりはまり込み、気づきの意識、プレイヤーは自分がやっていることを忘れます。人間ゲームの凄いところはこの体の中に自分が居ると錯覚を起こしても何一つ矛盾がないことです。

ただ音だけがある

マリオのBGMはマリオが聞いていない

スーパーマリオではBGMが鳴ります、このBGMマリオには五感がある場合マリオは聞くことはできます、ですがマリオが聞かなくてもプレイヤーが聴いています。この自分劇場も同じです、我々には聴覚がありますからお店に入ればBGMが聞こえます、ですが同時にこれをプレイヤー、気づきの意識が聴いています。人間の聴覚としても聞けます、ですが気づきの意識としても聞けます。マリオがキノコを取った時に効果音がなります、この効果音をマリオの耳でも聞けます、ですがプレイヤーとしても聞けます。雨を降ると人間としても私の耳が聞けます、ですが気づきの意識としても聴いています。我々は音楽をきくと体の中の自分が聴いていると認識します、これをただ音楽が流れていると気づきの意識として捉えていきます。この体の中に自分が居るという認識をこうして外していきます。

いつでも「この体の中の自分が経験している」に戻すことはできる、、

スーパーマリオに集中してる時は、クリボーからのダメージも、倒した時の効果音も、スターを手に入れたときの無敵状態も、、、マリオが経験しているかのうように錯覚することができます。ですがこれは全て錯覚です。この人間ゲームも集中している時は全部を人間(自分)が経験しているように認識できます、ですがこれが錯覚です。本当は音楽を全体として聴き、この体が味わうコーヒーも全体が経験しています、食事をすれば人間が美味しいと感じていると錯覚していますが、全体が経験しています。友人と喋ればこの体が楽しんでいるように感じますが全体が感じています。マリオが経験していると認識するのも自由、人間が経験していると認識するのも自由ですがそれは錯覚です。

コンサートに行く

コンサートに行きます、あまりに煩いので耳栓をしました、、、人間として聞こえる音量は下がりました、、ですが同時に気づきの意識が認識する音量も下がります。やっぱりしっかり聴きたいと耳栓を外します、すると人間の耳として聞こえる(錯覚)音量は上がります、ですが気づきの意識が認識する音量も上がります。不味い料理を食べる時鼻をつまむと味覚が半減したようになり食べれます、鼻をつまむと人間として味覚が減る感覚を得ます、ですが同時に気づきの意識として味覚の半減を感じます。全部が全部、人間としてこれを経験するか気づきの意識としてこれを経験するかです。悟りを開くとは「自分が居なくなること」という認識が世間であるかないかは分かりませんが実はこんな簡単なことです。

気づきの意識で観察する

マリオの体感を全て観察していく

スーパーマリオの中でマリオが体感していくことを気づきの意識として体感していきます。マリオがクリボーに出会います。クリポーを発見します、クリボーにぶつかります、痛いという感覚を持ちます、血が出ます、クリボーにジャンプして踏みつけます、足にクリボーの感触があります、クリボーが潰れます、手が痛みます、体温が上昇します、嬉しいという感情が生まれます、よし次に行こうという思考が湧きます、、、気づきの意識として全てを観察する時、マリオという独立した存在は居なくなります。マリオを経験する気づきの意識だけがあります。このように我々の人間活動も同じように気づきの意識として観察していくと体の中の自分が居なくなります。

体の中の自分は経験を自分のものとする思考のこと

気づきの意識で観察するのと一般の人間活動の大きな違いは、、、経験を自分のもの(体)とするかしないか、、、これだけです。実は我々は全経験、全思考、全感情を自分(体)のものとして捉えているだけです、この捉えがなくればマリオを操るプレイヤーに直ぐになれます。主人公が180度変わります。主人公の次元はいつでも変えることができます。

プレイヤー、気づきの意識、全体の視点に戻る

今コーヒーを飲んでいます、コーヒーが口に入ります、苦味を経験します、喉を通ります、冷たさを感じます、安堵感が湧いてきます、、、これを今までは体の中の自分が経験していると認識してきました。これをしません。この経験だけがある、経験を積んでいるのは気づきの意識、ゲームプレイヤーです。またコーヒーを飲みます、コーヒーの香りがします、今度はミルクの味がしました、甘みを感じます、喉を通ります。これを体の中の自分が経験したという認識をしません。ただ経験だけを観察します。主体客体の世界が崩れました、経験だけが湧き続ける世界です。

全存在である認識が感じていない世界はない

今お茶を飲んでいる時に全認識がそれを認識する

あなたがお茶を飲む時にお茶を飲んでいるのは見かけ場人間ですがそれを認識しているのは気づきの意識、全存在、全認識です。お茶が口に入り、喉をつたって食道を通っていく途中までを意識しているのはあなたではなく気づきの存在です。いや違う、全て人間である私が認識しているというならば血液の流れも、胃の動きも、腸の動きを認識していないことは説明がつきません。人間である私を使って全認識が認識する、これがこの全存在ゲームです。

目の前にいる友人の口に入る食べ物の食感は認識できていない

では目の前で食事をしている友人の食感、歯応え、美味しさを認識しているのは誰か?それは誰でもないです。その事実はないのです。誰も認識していません。友人は美味しいと曰うかもしれませんがその事実を認識できません。あなたの食感、歯応え、美味しさを認識しているのはこのゲームを創造した全認識ですがその全存在が友人の食感、歯応え、美味しさを認識できていないわけですからその事実はないのです。ゲーム上そう見えているだけです。友人が居るというのは認識していますからその認識は事実です。ですが友人が食事を食べている歯応えは認識できないのでそれはそう見えているだけです。事実ではありません。全認識が認識していないことは存在しないのです。全存在が認識していない事実があるとしたら全存在は全存在ではなくなってしまいます。

あなたが雨を感じ、風を感じ、香りを感じているならばそれだけが事実、それ以外は何も起こっていません

全存在が認識する全てが全てです。あなたが今コーヒーを飲んでいてコーヒーの味を感じているならばその事実だけが世界中で起こっているたった一つのことです。これ以外の事実は世界中で起こっていません。例え起こっていると言ってもそれは情報であり事実ではないのです。あなたの認識は全存在の認識です。それ以外の認識が起きていないならばそれが全てです。世界の裏側で起きた事件の被害者に対し同情を示すことはできますがあなたの目の前でその事実を認識できていないならば実はそれは起きていません。あなた(全存在)が認識していないならば起きているはずがないのです。もちろんその現場に飛行機を使ってあなた(全存在)が見にいけばその事実は起きるでしょう。その時はその事実が起こるのです。

熟睡時は意識だけがある、熟睡とは意識だけの状態

熟睡時の記憶がないのは、、

熟睡時は記憶がありません。それはなぜか?脳が完全に休んでいるからです。記憶の機能をストップしています。ですが熟睡から覚めると人は安堵、平和の状態を少し覚えています。その時気づきの意識から夢に戻ったのです。熟睡時は気づきの意識のみ、そして起きると気づきの意識が人間活動を意識し始めます。そして人間自体が湧き上がる感情、思考を自分のものとして勘違いするという状態を気づきの意識が認識します。

気づきの意識は全部を気づいている

気づきの意識は熟睡時は人間活動を停止して気づきの意識そのままの状態になります。この時の記憶がないのは人間の記憶脳が停止しているからです。人間が夢を見ている時、人間の脳の記憶を使って気づきの意識は夢を見ます。この時に夢を見ているのも気づきの意識です。人間の脳をフィルターにして夢を創造しそれを観察します。人間が起きれば今度は人間の五感を使って夢物語を創造しそれも気づきの意識が全て認識します。認識するという言葉が実は的を得ていないのは認識するという主体客体の世界ではなく認識そのものです。ただこれ以上は言葉で説明することができません。認識するという言葉は人間が作った言葉であり人間は主体、客体の世界でしか存在できないのでこの言葉は誤解を生むのです。

空即是色

空即是色は素晴らしい言葉でこれはやはり分かっている人が書いたモノです。空はこれ即ち色である。本当にこれだけなのです。ここに動詞が入るということはありません。なぜならば動くという現象には動くための場所が必要になりこれは二元の世界の話なのです。ということで本当は空即ちこれ色だけです。色とはあらゆる現象でありそこに人間という独立した(勘違い)存在を湧き起こしこの色の世界を完成させました。