洗脳

「この体この思考が自分」という洗脳

幼少期の洗脳

「この体この思考が自分」という思考は真実ではありません、これは思考、概念です。この概念を幼少期に我々は両親から埋め込まれます。なぜ埋め込まれるかといえば「この体この思考」を生き延びさせるためです。確かにこの洗脳によって「この体この思考」は生き延びることができましたが同時に孤独感という感情を発生させることになります。なぜならばその思考は真実とは異なるからです。真実はと言えばこの体、この思考、見える全てを生み出す存在こそが自分です。

便宜上「この体この思考が自分」と学習した、、に切り替える

社会に出れば「この体この思考が自分」という大前提でこの社会が回っていることに気づきます。ゆえにこの概念は完全に定着されます、、、、定着はされるものの、、これは真実ではなく偽りですから、、孤独感が常に湧き上がるということになるのです。結果人はお酒、ギャンブル、暴飲暴食、ゲーム、お喋り、、など何かしらにこの孤独感解消を求めるのです。この大前提のままでは苦しいので、、この事実に早く気づく必要があります。

自分だけ切り替えたって意味ないのでは????

社会の大前提が「この体この思考は自分」で在る以上、、自分だけがこれを切り替えたって意味ないのでは????と思うかもしれませんがこの世界は私の観念が投影した夢ですから、、、切り替えればこの世界が変わるのです。そして便宜上「この体この思考は自分」をやればいいのです。本当は違うのは分かっているけれど、、、建前上これを継続します。本当は地球が太陽の周りを回っているのは分かっているけれど、、天動説に合わせるみたいな感じです。

スクリーンが何かを成し遂げたいなど思うはずがない

全体、スペース、スクリーンはそのままで完全

我々の本質はこの現象を映し出すスクリーン、スペースです。この全体であるスクリーン、スペースが何かを成し遂げなきゃ、、、などと思うはずがなく、、、それらの感情、思考は「私が居る」という洗脳が生み出したものです。つまり完全なる現象です、その思い自体が。スクリーン、スペースは我々の本質、本性なのですが、、もしも脱洗脳、アンインストールが成功し「私が居る」がないのならば、、何かを成し遂げたいという思考は湧いてこないでしょう。何かを成し遂げたいという思考の現象は「私が居る」という洗脳とセットです。

在る、在る、在る、、、、からこの私が在るへ

在るという感覚、、これは幼児ですら持っています、、、在るは動物も持っているはずです。在るという感覚、、、これだけは失うことのない感覚なのです。在る=仏性、キリスト意織、神意識です。この在るという感覚と、、、この体が在る、、、という気づきが起き、、、次のこの体として在る、、、、この私(体)として在る、、、と洗脳が進んでいきます。最後は私は〇〇という名前で在るになります。気づきの全てを、、この私が気づいた、、になっていくのです。すると同時に不足感、違和感、分離感が湧き起こり、、それを埋めるために解消するために、、、何かを成し遂げなきゃ、、、が生まれます。

スクリーンに何かが上映された瞬間、気づく、在るが生まれる

スクリーンに何かが上映される、スペースに何かが現象化する、、、その瞬間、、、それに「気づく」が生じます、、「在る」が生じます。そして上映、現象化は随時行われますから、、気づく、在るが永遠に続くのです。これが我々の本質そのものです。その中でこの体は常に現象化、上映されますので、、この体が「気づく」「在る」全ての現象、上映を。。。。。という真実ではない思考が湧き上がり、、、それが定石になっていきます。この体が現象に気づき続けるので(誤解)、、、、この体の中には全てに気づく『人格、アイデンティティ』が存在するはずだ、、という思考も起こるのです。

そしてそれをお互いに共有する

人間、人類はこの思考を代々受け継いできました。この体が現象に気づき、この体の中には人格が存在すると。だから生まれた子供にこれを伝承していくのです、当たり前のように。私の体がこの現象を観察し思考し自由意思を行使しながら生きていく、、、という人生ドラマが始まるのです。私があらゆる経験をしその経験を重ねていくことで私の価値観、観念が形成されていきそれがこの夢にさらに投影されていきます。そして私の観念が投影された現象(夢)をみて「やっぱり!!!」が起きるのです。

至福が至福になろうとは思はない

既に至福であれば

幸せになりたい、、、これは不可能です、、なぜならば、、なりたいのが自分だからです。幸せは幸せになりたいとは思いません、、平和は平和になろうとは思いません、歓喜は歓喜になろうとは思いません、、静寂は静寂になろうとは思いません、、、つまり、、、自分とは絶対にこれらになれない存在なのです。

そもそも違うから

自分はなぜ幸福に憧れるのでしょうか???幸福になれないことを絶対的に知っているからです。知っているから憧れるのです、、、そもそも幸福であればそこを目指さない、、ではなぜこの自分は幸福ではなくなってしまったのか???もしくは幸福でない時間を過ごすことがあるのか???それは自分という存在こそが幸福から逸脱させたからです。全く存在しない自分という自我を形成し、、自分が全てを決めているという観念を作り出し、、そのストーリーを生きるという物語を想像し続けています。この行為が幸福、至福、平和を遠ざけているのです。

逆に言えば

自分という存在を信じる以外に不幸、孤独、悲しみ、鬱になることができません、、自分を信じることでしかこの感情を味わうことができません、、、不幸、孤独、焦り、憂鬱を味わいたければ、、、自分という存在が居ると信じることです。。悟りとは苦しい感情を味わうための唯一の存在「自分」が実は居ないことに気づくことです。「自分が居る」という洗脳を解き、、この世界から自分を解放することなのです。

大人とはこの夢を現実だと信じる人たち

大人になる

大人というのは、、、この夢を現実だと信じて生きる人たちです、、それだけ、、、子供とはこれは夢だと見抜いている人たちです、、、、子供から大人になるとは、、、夢を現実と勘違いすることです、、、、悟りとは再びこれは夢だったという気づきが起こることです、、、この体は夢の中の登場人物に過ぎない、、、たったこれだけ、、、、神、大いなる一つ、ユニティー、ワンネス、、、、言葉で出てくる偉大らしき存在の数々、、、なんのことはない、、、、、この夢を見ているこの私のこと、、、という大オチ、ギャグ、残念な結末、、、

こんな簡単なトリック

簡単すぎる、、、これが夢だった、、、集団洗脳、、、これは現実ですよ、、、という集団洗脳、、、騙された、、まんまと騙された、、、、、、この目の前の視界以外、、、何も起きていない、、夢だから、、、、さっきまで一緒に遊んでいた友人は、、、家に帰れば存在していなかった、、、騙された、、、こんな簡単なトリックに、、、やられた、、、

夢は完璧

この夢は完璧なのです、、、本当は家に帰ればクラスメイトは存在していないのに、、、次の日に学校で会えば、、、一人一人が家での活動を教えてくれる、、、この夢で、、、、完璧すぎる、、、これでは騙される、、、試しにこっそり一人の友人の家に押し掛ければ、、、ちゃんとそこに居る、、。騙される、、、この夢は完璧過ぎて騙されます、、、、集団催眠に全員でかかっている、、、

悟りとは完全な諦め

サレンダーの本当の意味

サレンダー、諦め、、、悟りを学べばこれらの言葉は直ぐに登場してきますが、、、なかなかこれらの言葉の意味が分からない、、、それもそのはず、、、自我はこれらの理解を大変嫌がります。なぜならばこの諦めとは自我が完全に無意味であることの理解だからです。川の流れのように我々の行動は自分では全く決めることができないこと、、自分という存在が何かしらの経験を積んでいるというのが真っ赤な嘘であるということ、幻想であるということ、、、これを腹落ちさせることは、、自我にとっては諦めです。

そんなことはない、、、の猛反撃

普通に生きていたらこれはもう分かるわけがない、、、、この体の中に自分が居て自由意志でこの人生を切り開く、、、これはもう完璧な洗脳なのですが、、、これを見抜くのは容易なことではないのです。なぜならばあまりにもリアリティがあるから、、、あまりに実感があるからです。。ですが覚者の気づきをしっかりと学んでいきますと、、確かにこれは、、、錯覚であることが腹落ちしていきます。

1万回聞いても理解が起きない

内容はとんでもなくシンプルなのです、、ですが理解が起きないのです、、、理解が起きないから、、直ぐに日常に取り込まれてしまう、、自由意志をフル発揮しようが湧いてきてしまう、、、この繰り返しです、、、今経験しかない、、、この体が在るは錯覚、、、だから今しかない、、、、時間はない、、、これも直ぐに日常に取り込まれ時間を気にする毎日、、、、この繰り返しです。。

ある時ふと、、、腹落ちが起きる

ある時にふと腹落ちが起きます、、、あれ、、なんか分かった、、、本当に自由意志ってないよね、、、本当に経験しかないよね、、、本当にこの体の中に自分が居るって錯覚だよね、、本当に気づきだけがいつもあるしいままでも在ったよね、、、突然の腹落ちが起き始めます、、

自分のコンフォートゾーンを全体にシフトする

コンフォートゾーンを自分から全体にシフトする

自分が神であった、、この気づきは自分というコンフォートゾーンが神にシフトした瞬間です。我こそは自分であるというコンフォートゾーンが、、我こそは神であるにシフトすればそれは悟りです。覚醒体験ではなく悟りです。この体、思考、感情を自分としてきたコンフォートゾーンを神=自分にシフトさせます。自分自身が実は神であるという事実を常に自身に突きつけていくことでコンフォートゾーンがシフトする可能性があります。

あなたとはこの体、思考、感情であるという洗脳を受けた幼少期

一万回の呼びかけであなたはこの体、思考、感情であるという概念が受け付けられました。これが幼少期の洗脳です。コンフォートゾーンがこの体、思考、感情になったのです、それまではコンフォートゾーンは全体でした。そして我々の多くはこの体、思考を自分であるというコンフォートゾーンを一生変えずに生き続けるのがほとんどです。ですがそのコンフォートゾーンはエキサイティングですが苦しいものです。

自身は神であることを思い出すまで情報を浴びてみる

結局のところ自分は神であることを思い出すまで思い出すような情報に触れる以外にコンフォートゾーンをシフトする方法はありません。いかに浄化してもいかに行をしてもこの個人に絶対的なコンフォートゾーンが敷かれていればシフトはしません。自身が神であることを思い出した人の書籍やブログなどを読むことでその感覚にリアリティーを作り出しコンフォートゾーンをずらしていきます。このブログもその一つです。

なぜ我々はこの「体、思考、感情」のみを自分として生きていかなくてはいけないのか?

人間の相互洗脳

人間は長い歴史の中でこの体、思考、感情を「自分」と決めて生きてきました。生まれてきた子供にこれを教え伝え当たり前のこととしてこれを伝承してきました。ですがこの取り決めを継承し続ける限り人間の苦しみを解消することはできません。人間はどこまで行っても苦しみ、孤独、退屈、不足感を携えて生きていくことになります。この体、思考、感情を自分とする決め事を解放してしまうことを悟りと称しますがこれも一種のひっかけ問題で悟りというとんでもない難しいこと、チャレンジとすることでこれを不可能にする自我の策略が垣間見えます。

これは全く難しいことではない、、

この体、思考、感情を「自分」としそれ以外を「自分以外」とする人間としての共通認識はそれが当たり前過ぎて誰もこれを疑いません。ですがこの共通認識を受け入れている限り、苦しみから解放されることは絶対にありません。それでも人間続けますか?という話です。苦しみから絶対に解放されないことが分かっていて人生を延々と続けていけるとしたら完全なるマゾです。私は絶対に嫌です、そんな分かり切っている人生を歩むのは。この体、思考、感情を「自分」とするのは個人の自由でありそれをしないと決めて生きていってもいいわけです。

誰も至福に至れないこの人間同士の取り決めは辞めていい

この体、思考、感情を「自分」とする取り決めで国家は成立し、法律も成立し、全ては動いていますから突然それは勘違いであるというメッセージが共有されても迷惑千万、意味不明です。ですからこれは個人的にこれを理解すればいいだけの話です。あまりにも当たり前の大前提、この体、思考、感情を「自分」とすることで人間は苦しみから延々と解放されない宿命を抱えています。もしもそこから脱却したいならばこのトリックを見破ることです。

good dreamかbad dream の違い

人間の思考が見せる世界

我々は思考が見せる世界に住んでいます。世界を見渡せば物や人物、風景で溢れていますが全てに名前がつけらえていて実は我々はその名前が付いたものだけを見ています。名前がついていない物はこの世に存在していないと同じ我々はそれを感知できません。これが分離の世界の定石です。この世界の始まりは自我というものが目覚めていき先ずは自身の分離がスタートです、これによってその自分が見る世界が広がりました。だからこそ我々が望む生活とはその世界がグッドなモノ、そして避けたいのはバッドな世界です。ですがそれらは全部分離の世界という枠から逃れられないという特徴があります。

ブッダは言った「この世には苦しかない」

分離方法を変えていけば確かにこの世はグッドな世界になるかもしれません、ですがそれも分離の世界であるということに違いはなく、、結果自身からネガティブな感情が湧き出し続けます。こに分離の世界に住んでいる状態でネガティブな感情が湧かないということは絶対になく常にその処理に追われ続けます。ではこの分離の世界の枠から抜け出すにはどうしたらいいか?先ずは自身の分離の罠から抜けることです、自身が実は思考によって分離した存在であるというこの罠から抜けるのです。思考によって独立した自分が居るという洗脳にかかっておりこれを見抜くことです。

人間とは考える葦である

誰が言った言葉かはわかりませんがこれが人間の共通認識です。人間、私とは考える葦である。この体の中に考える私が居る。。これで自身の分離はスタートしたのです、ですがこれはアイデア、発想の域を抜けることができません。実際には考えることによってこの私は確実に居ると信じ切っているのです。でも時々この嘘に人間は気付いています、大震災や、大事故、大怪我、大ハプニング、、、自分のことなど完全に忘れ去って事にあたっている時に恐ろしいほどの安堵が襲ってくることを。絶対絶命のピンチになぜか心が穏やかになることを、、、このことを人は実は知っています。これらの経験が積み重なり人はこの大嘘に気づくようになります。

ネガティブな感情が湧いてきたら、、、自分ごとににしないで観察してみる

先ほどのようなハプニングは人生で何度もないために人はすぐに自分というモノに引き戻され普段の生活に戻ります。普段の生活はまたネガティブな感情が湧き続ける生活です。仕事も辛いのが当たり前、家事も辛いのが当たり前、人間付き合いも面倒で当たり前、金銭事情を世知辛くて当たり前、、、これが人間のデフォルトです。ですがこの感情を使って悟りを開く方法があります。このネガティブな感情が湧いてきたらそれを自分ごとにしないでそれを他人事のようにじっと観察します。湧いてきた瞬間からその感情を誰のもにもしないでただ観察するのです。この感情を観察する事に没頭してみてください、、、するとその感情が消えていきます、むしろそれを通じて平和が湧いてきます。意味がわかりません、、、、辛いを観察していたらそのまま平和に切り替わる???意味不明、、、これが人間を騙し続ける自我のカラクリです。

自我は全感情を自分ごとにして自我を存続させているだけ

自我の策略を解説します。自我は湧いてくる感情を全部自分ごとにします、そして多くのそれらのネガティブな感情を思考を使って解決します。この人間としての当たり前の行動、これが自我の策略です。当たり前に湧いてくるネガティブな感情、これをまず自分ごとにしなくてはこの自我システムは維持できません、そのため湧いてきた感情を全て解消します、、そしてしれを思考(自我)が解決するのです。思考とは自我のことです、自我を作っている大親分が思考です。思考がネガティブな感情処理に活躍すればするほどに自我は大きく肥え太っていきます、結果ネガティブな感情もより肥大化していくという流れです。ネガティブな感情が発生するには仕掛けが必要でありそこには大きく自我が関わります、というよりも自我というシステムこそがこの感情発生装置なのです。このメカニズムを打ち砕く一番効果的な方法、それは湧いてくる感情に反応しないということです、、、信じられないかもしれませんがこの感情に思考でもって解決を図ると自我が肥大化するというとんでもないカラクリが働くのです。これで人間は自我システムから逃れられなくなります。悟りを開くなど夢のまた夢、、となるわけです。でも実はこんな簡単なカラクリを見破るだけで自我システムは発動しなくなるのです。この自我が解体した状態、思考がただの思考に戻った状態こそを悟りと呼びます。

人生の勘違い

テクノロジー進化の秘密

人間というのは面白いものでこの体の中に自分が居るというこの感覚に絶対的な自信を持っています。なぜかと言えば、、、友人も親も、会社の同僚も、TVに映るタレントも、町内会のおじさんも、、みんなそう信じているからです。大統領も、ノーベル賞受賞者も、日本国宝者も、マザーテレサもです。みんなが全員そう信じて疑わないのだからそれが真実である、、、これが人間という動物の中の一種だけが頑なに信じることです。この体の中に自分が居る、、、一方他の動物はどうでしょう?鶏も猫も、ライオンも、魚も、虫も、、、どの種もこの体の中に自分が居るとは信じていません。断言できます。なぜかと言えば信じるには言葉が必要だからです。言語を持たない(発達していない)種に何かを信じるという芸当はできないのです。ということで地球の頂点に君臨する人間様だけがこの体の中に自分が居ると信じている、ということになります。一方、体の中に自分が居るというアイデアはこの人間という種の発展に貢献しました、他の種では絶対的にできないような繁栄を極めました。テクノロージーを発展させ地球に人間の住めない場所はない、、というところまで居住空間を広めていったのです。

その一方で人間のストレスは何も解消されていない

この体の中に自分が居るというアイデアは、人間に脅威の発展をもたらしました。ですがその一方で人間は果たして幸福になったのか?ということです。人間は確かに年々文明が進化し産業革命、IT革命と便利を極めています。ですが幸福度という点に関しては実はあまり変わっていない、、、ここを追求する科学者は中々いません。国家をあげて国民の幸福度調査に乗り出すということも今後ないでしょう。なぜか?調査をすれば壊滅的なデータがでてしまうからです。結論から言えば「人間が発展できたのは人間が不足感製造機だから」ということになります。人間とは不足感、孤独感、分離感製造機なのです。この体に自分が居るという誤認識は常に居心地の悪さを生み出します。それを解消すべくあらゆるテクノロジーが発展しました。

最大のタブー「この体の中に自分がいない」

人間は脳が発達して言語を操るようになりました、その結果この体の中に自分が居るという認識をでの人間全体で保有するようになりました。これは言語がなくてはできません。その証拠に生まれてきた赤ちゃんはその後何年にも渡って「太郎くん」と呼ばれ続けます、これはこの体の中に太郎という全体から分離した存在が居るという洗脳です。そこには勿論悪意はありません、言語を使いこなすことで人間という種はそこまで進化してしまったのです。つまり自分という存在をこの体の中に作り出すほどに進化したということです。湧いてくる思考も感情も、、この体の中で起こっているという認識を作り出したのです。スーパーマリオというゲームの中でクッパが進化を独自繰り返し、、突然意識を持ったようなものです。そしてクッパはまさかのマリオの邪魔をしなくなるという結末、マリオと一緒にピーチ姫を救うと言い出す始末。

実際には分離できていないからこそ全体に戻りたい

自分とはどこまで行っても錯覚

自分というのは実際には存在しません。自分というのは全体から分離した独立した存在だと多くの方は思っていますが、もしも本当に独立したならば自分の欲には制限があるはずです。そして苦しみは存在しないはずです。なぜ完璧に独立した存在に悩みがあるのでしょうか?もしも個人が完璧に独立しているならば欲に制限がないこの人間という存在は何なんでしょうか?不完全過ぎます。自分とはどこまで行っても全体から分離していると思い込んでいる存在でしかなくだからこそいついも居心地が悪いわけです。

ライオンが自分は弱いと思い込めば苦しい

ライオンは百獣の王です。もっとも強い動物とされています。このライオンが洗脳されてもしも自身が非常に弱いと錯覚をしたらどうなるか?毎日草を食べ、シマウマに怯え、穴蔵に籠って生活する。雨の日は他の動物がいないからという理由で川に水を飲みに行く。こんなライオンは居心地が恐ろしく悪いはずです。本当は強いにも関わらず弱いと錯覚してしまっているライオンはどんに草を貪っても何かしっくりこないはず。もう分かりましたね。これが自分です、これが全体から分離していると錯覚している自分です。全体がこの体の中に閉じ込められた状態、この体の中に自分(全体)が居ると錯覚した状態、、、これこそが自分(人間)でありだからこそ居心地の悪さが消えないのです。

ライオンが自分の強さに気づくには?

自分のことを弱いと洗脳され錯覚を起こしたライオンはどうしたら本来の強さを取り戻すことができるのか?それは弱いということが錯覚であることに気づくしかありません。どのようにその錯覚が起こったのか?そこを理解する他ありません。自分もこれと同じ、自分がいかに全体から(自ら分かれた)存在になったのかを知ることです。この自分の人生の苦しさのカラクリを理解することです。それでもこの人間社会に馴染んでいると周囲は自分にあらゆる声掛けをすることで自分の存在を強化してきます。人間という周囲の存在こそが自分の存在を強化します、錯覚が溶けるのを妨害します。映画マトリックス同様に周囲の人間全員がエージェント・スミスになります。