色即是空、空即是色

自我はあってもなくても

所詮は言葉

自我とは言葉です、、言葉とは指し示す記号です、、、自我が何か????明確な基準などありません。つまり今私が私を感じているならばそれが「自我」です。千差万別、、それぞれの自我がいるはずです。だから自我は完全個別です。そしてこの「私」という認識これはいったい誰が起こしているのでしょうか?????「私」ですよね??????それだけはないんです「私」は「私」だけは認識できないんです。青は青を認識できません、赤は赤を認識できません、光は光を認識できません、音は音を認識できません、「私」は「私」を認識できないんです。

じゃあ「意識」では???

意識を認識しているのは誰でしょうか????意識を認識できるのは「意識」ではありませんよね。意識は意識だけは認識できないんです。つまり非意識だけが意識を認識できるのです。つまり我々の本質は、、思考でもなく感情でもなく概念でもなく体でもなく色でもなく光でもなく意識でもない存在「それ」だけです。自我の認識を起こしているのもその「それ」です。

それを「空」「絶対」「不変の自己」と呼ぶ

今現象界で認識できるのもに嘘はありません、、認識が起こったのですから、、、幽霊だろうと、宇宙人だろうと、半魚人だろうと、、、、認識は全て認識です。。。ですがなぜその認識が起こったかといえば、、、非幽霊、非宇宙人、非半魚人、、、である「それ」の存在があるからです。それとは「空、絶対、不変の自己」と呼ばれます。色即是空、空即是色です。

青いサングラス

もしも

もしも我々が青いサングラスをつけて生まれてきたならば、、「青い」という色を発見することは不可能です。青いサングラス越しに青のグラスを観て見てください。黒く写ります。つまり青は青だけを認識できないのです。周囲はあなたに青いサングラスを付けているのだから、、青をちゃんといつも観ているよ、、と言うでしょう。ですが、、それが青だ!!!!という認識は起きようがないのです。これがこの現象界の絶対的ルールです。

この世界の全現象は非全現象しか認識できない

つまりこの世界で起こる色、香、温度、風、思考、感情、、概念全ては、、そうでない存在でしか認識できないのです。今ここでその認識を起こしているのは非全現象です。青でもなく赤でもなく、色でもなく、光でもなく、熱でもなく、時間でもなく、空間でもなく、意識でもない、、「それ」が認識を起こしています。そして我々の本質は間違いなく「それ」です。

この自分

この自分、体の中にいる自分、自我、私を認識しているのは「自分」「自我」「私」ではないもの「それ」です。ですからこの世界に誕生した「私」は偽物です。。認識できるということは「非私」が「私」を認識しているのです。その非私とは、、色でもなく、思考でもなく、感覚でもない、、「それ」です。認識がこの現象界で起こるということは我々の本質は「非認識」でもあります。空が「不変の自己」と呼ばれるのはそういう意味です。

空を感じる

徐々の徐々に空に迫ってきました。自我だと思っていたのが「意識、大我、真我」に変わり「意識、大我、真我」だと思っていた存在が実は空、不変の自己であったという認識に変わっていきます。空を感じれるようになります、、常に現象を通じて、意識を通じて、、空を感じるのです。空感体験、、からの空体験です。

青い光は青い光を認識できない

青いサングラス

青いサングラスをかけて全く同じ色のグラスを手に取ってみてください。青いグラスが黒に見えますよね。。。つまり青い光は、、、青を認識できないのです。アーという音を爆音でスピーカーから流し、、全く同じアーを小さく横の部屋で流してみてください、、、隣の部屋のアーという音は聞こえませんね。何がいいたいか、、、青は青を認識できず、、アーはアーを認識できないのです。

我々の本質

この現象界に起こる全色、、これを認識できるのは全色ではないものです。この現象界に現れる全音、、これを認識できるのは全音ではないものです、、、この現象界に起こる全思考、、この全思考を認識できるのは全思考ではないものです、この現象界に起こる全感情、これを認識できるのは全感情ではないものです、、この現象界に起こり続ける「意識」これを認識できるのは「意識」ではないものです。

空とは何か?????それは非光であり非色であり非熱であり非現象であり非思考であり非感情であり非意識なのです。これがあるからこの現象界はこれほどまでに鮮やかで熱を帯びそしてそれを意識するが起こるわけです。だから空は絶対に存在します。これがなければこの世界から色が消え、音が消え、熱が消え、全部が消えるのです。

「在る」を実感できるのは「非在る」だけ

唯一の実在「在る」

意識って常にありますよね、、意識がないって不可能です。。。。。TVを観ていても、映画を観ていても、食事中も、、何をしていても「意識」だけは存在します。意識だけはあり続けます、、、この現象界はだから唯一の実在意識で構成されています。。。。。この意識、、、、いったい誰がこの意識に気づいているのでしょうか?????意識が在ると気づいている存在は誰でしょうか??????簡単です、、、非意識です。意識が同じ意識に気づくのは不可能なのです。「在る」が「在る」に気づくのは不可能です。つまり「非意識」、「非在る」だけが、、、、気づくのです。これを空、不変の自己です。

空とは

空とはつまり意識であらず、、在るでもない、、存在です。意識でないのだから、、、そこには100%意識はないのです。我々の正体は非意識です。そして非現象です。非意識であり非現象が、、、、我々の正体なのです。これを空と呼びます。我々は紛れもなく今空としてここに居ます。非意識、非現象、非時間、非空間として紛れもなくここに居るのです。

空体験

空を体験することを悟りと呼びます。もしも我々が空でないとしたら、、「在る」というこの揺るぎのない意識に気づくが起きないのです。気づいているのは空ではありません。ですが空なくして、、、意識は起きえないのです。なぜならば意識は意識を認識できないからです。つまり意識でない存在だけが、、意識を作り出せるわけです。

色と空は一つ

いまここ

色とは現象のことです、、この見える現象です、、、、この見える現象は幻想です、、現れては消えていくのですから、、、消えるということは、、実在ではありません。この体も何かに夢中になっている時、、消えますから、、これも現象、幻想です。思考は頻繁に消えますから、、これも現象、幻想です。この世界に消えて無くなるもので実在はありません。唯一実在するのが「在る」という感覚、意識です。これだけが全くもって消えてなくならない実在です。唯一の実在は意識です。

意識を生み出す存在

意識が絶対的に実在するならば、、、意識を作り出す存在も100%実在します。つまり「空、不変の自己、絶対」は絶対に存在します。意識という100パーセントの実在を作り出す存在は100%存在するのです。そして意識には大きさがありませんから意識は空をも飲み込みます。ですが同時に意識は空が生み出すのですのですから空よりも大きいということもありません。この二つの実在は一つなんです。

意識と空は一つ

意識が及ばない場所

意識には大きさがありません、確実に「在る」にも関わらず大きさがないんです。多くの方はこの意識は体の中にスッポリと収まっていると思っていますが、、、この体の中に入るコンパクトサイズならば、、、意識には大きさが在るということになってしまいます。ですがこの世界は本当は分離などしていないので、、、この体に収まってしまうならば意識も幻想ということになります。ところがこの意識は生まれて死ぬまで、、熟睡時以外、、必ず存在するのですからこれは実在です。となると実在する意識はこの体には収まっていないことになり、、意識の中でこの現象が起きているという結論に至るのです。

部屋を見る

部屋を見てください、、あなたの視界の中の現象は意識の中から今現れたのです。外を見てください、、その瞬間に意識の中に現象が現れました。そして意識の中に現れた「人」が声をかけてくることで、、しかもこの現れている体に声をかけてくることで、、、意識はこの体の中に「在る」という勘違いが始まったのです。本当は意識の中で現れた現象が、、やはり意識の中で現れたこの体に声をかけるというやはり現象が起きたのです。

どこまでいっても

どこまでいっても意識の中で全現象が起こっています。どこまでもどこまでも全現象が意識の中に起こります。そして意識はこの意識を生み出す「空」という存在、、、「不変の自己」すらも含んでいます。なぜならば空には意識がないならば意識には大きさが生じてしまうからです。つまり空も意識なのです。不変の自己すらも意識の中にあるのです。ですが同時に意識は空から生じていますから意識も空の中にあります。つまり空と意識は一つなんです。つまり空と現象は一つであり、、、つまり空と色は一つです。

全てのラベルを剥がす

今ここで

いまここで全てのラベルを剥がします、目の前のPC、この名前を剥がします。目の前のテーブル、これをラベルを剥がします。目の前の椅子、目の前の机、目の前の携帯電話、目の前の、、、、、そしてこの部屋、、そしてこの私、、、全部を剥がしてみます。。。するといったい何が残るでしょうか????動きのある動きのない何かでしょう、、それが残ります。これが本当の私です。

では

動きのある動きのない何か、、これが本当の私として、、、それに気づいている存在は誰でしょう???動きのある動きのない本当の私の存在に気づいてうるのは誰でしょうか????「動きのある動きのない何か」ではない者です。動きのある動きのない何かを現象と表現するならば現象ではないもの、、「非現象」これが現象に気づきます。

色と空は一つ

現象を色、非現象を空と仏教では言います。色に気づく空となりますが、、実際には空には気づくという動きは起こりません。空があるから色に気づくが色の中で起こるのです。非現象があるから「現象に気づく」が現象の中で起こるのです。

存在する唯一のもの

真実とは絶対に消えないもの

思考は現れては消えます、感情の現れては消えます、、そのようなものは真実ではありません。景色は現れては消えます、太陽も現れては消えます、、そのようなものは真実ではありません。花の香りも現れては消えます、そのようなものは真実ではありません。家族も目の前から現れては消えます、そのようなものは真実ではありません。この体も何かに集中している時現れては消えます、ですからこれも真実ではありません。唯一常にあるものそれは「意識」です。これだけは常にあります、あり続けます、、これだけが真実です。

意識の中に現れては消える現象(幻)が起こる

意識(真実)の中に現象(幻)が現れては消え続けます。これだけは真実です。私も現れては消える存在です、我を忘れて何かに夢中になる時、、居ないですよ!!つまり私も現象です、幻です。美味しい料理を食べる時、、人格などなくなります。つまり人格は幻想でしかありません。真実とは「意識」のみであり、、現象は現れては消える幻です。

ただし

ただしこの幻は生命、たった一つのエネルギーが作り出す幻ですから、、、、ダイナミックでパワフルな幻です。虚しいとか儚いとかじゃないんです。「意識」の中でこのダイナミックな生命の起こりが現れては消えているのです。自身が「意識」だという気づきが起こった時に、、「思考」が収まり、、、ただこのダイナミックな幻、生命の幻に溶けていきます。生命の揺らぎをそのまま感じるようになります。

これは空(絶対)の影だがただの影ではない

影には生命力はないが、、、

私の体の影、、、影には何のパワーもありません。影が何かに影響することは全くありません。あえて言えば影を見て私がそれに気づくだけでしょう。そしてこの世界は空の影です。それ以上でもそれ以下でもありません。今私の目の前に広がる世界は空の影です。ですから当然この影が空に影響を与えることもないのです。ただしこの影があることで影に気付くという動きはあります。

この影は空(絶対)の中にある

人間の影とこの世界である空(絶対)の影の違いは、、この影は空の中にあるということです。空の外には何も存在しえないのでこの影は空の中に突如としてできたものです。ですからこの空の影はただの影ではなく、空というたった一つのエネルギーの変容です。つまりたった一つのエネルギーです。影には生命力があるのです。だからこそ我々はこの世界に生命力を感じることができるのです。

私という感覚

この私とは錯覚であり感覚であり、、幻ですが、、、、そこには生命力があるのです。だからこそこに幻影には力がありゆえにリアリティがあるのです。だから突然この私など本当は存在しないんですよ、、と言われても全く理解ができないのです。私という感覚(生命力)を今感じているからです、誰かが。とはいえこの生命力に裏打ちされた影、現象はそれでも空(絶対)の幻影でありそれゆえこれは現れては消えていきます。私という感覚も現れては消えていきます。

空の揺らぎ

色とは影

色とは空の影揺らぎです、、我々は全体で空の影、揺らぎをやっています。空から影が現れるその根源が大いなる存在、存在、我あり、気づきの意織などと呼ばれます。そこでは常に意識が起こります。そしてその意識は我々の根源に常にあり、、その感覚は我々が起きている間存在している「在る」という感覚です。そして我々は影でありますからそこには自由意志はないし(ある感覚はある)、自己という分離独立した(あるという感覚はある)存在もいません。だから時間はないし空間もないのです。

分離と緊張

我々はこの体の中に自己が存在するという錯覚を持った瞬間に(分離と緊張)を生み出します。この分離と緊張が苦しいので、、我々は、、この感覚を振り払うためにあらゆる活動をするわけです。ですがその活動の全ては自己が行うことであり、、根本の分離感緊張感が抜けることは絶対にありません。ですから途中疲れ果てその活動に疑いを持つことから悟りに関心を寄せるのです。

影に自由意志があったら

我々は空の影です、、空の影ですから本来はたった一つのエネルギーです。たった一つのエネルギーの影の一部に自由意志があるとしたら、、それは分離であり、、そうなるとたった一つのエネルギーはたった一つではなくなってしまいます。あくまでこの影の中で起こるのは分離ではなく分離感です、自由意思感です。分離という錯覚、自由意志という錯覚です。自由意思感という錯覚を所有する自分という錯覚が歩むドラマがマイライフでという錯覚です。

ある時この錯覚に気づく

ある時この私、この自由意志が錯覚だという気づきが起きます、そしてこれは空の影、反映であることにも気づきます。この気づきはこの私ではなく気づきの意織、大いなる存在、我ありから起こるのです。その時同時にもう何も抗わなくていい、影の動きに身を委ねよう、どうせこの身が滅びても影に吸収されるだけだという気づきが起きます。影はどこまでいっても影でありこれが空に影響を与えることはないのですからこれほど気楽な活動はありません。「私」の活動は最初から最後まで遊びです。