無常

無常を認識できるのは誰だ???

無常には無常は認識できない

今目の前に居る猫は100%幻想です、、あるように見えているだけです、、、つまり蜃気楼です、、、蜃気楼が、、、、何かを見ることは出来るでしょうか????できませんね。そうです「目の前の猫は、、コップを認識できないんです」「目の前の猫はコップを認識しているように見えているのです」幻想が幻想を認識するってありえないんです。釈迦は悟りこの世界は無常と表現しました。無常とは常に移り変わるという意味ですね。ではこの無常を認識しているのは誰か???それは無常ではなく常です。常とは全く変わらない何かです。

全く変わらない「何か」「常」が無常を認識している

この世界が100%幻想、幻影ならば、、この幻想を認識できるのは非幻想です。非幻想とは、、幻、思いではない存在です。それが100パーセント在るんです、、、在るです。「在る」「非幻想」が幻想を唯一認識できるのです。私の本質はですからこの「在る」「常」です。これは100%です。ですから私は一度も何かを失ったこともなければ奪われたこともないのです。

失ったり、奪われることができるのは幻想の「私」

一方幻想の私はしょっちゅう奪われますし、失います、、、見かけ上。だから私は年柄年中悲しくなり、鬱々し、ショックを受けています。ですが私の本質はと言いますと「非無常」「非幻想」「非現象」「常」「在る」「空」ですから、、、、一度も奪われもしないし、失いもしないのです。本質の私とは、、失ったという勘違いの経験、奪われたという勘違いの経験を作り出す源です。

不条理は変わらない

「自分」の思い通りにはいかない

この体に居る「自分」、、、この自分の思い通りには全く行きません、、、、全現象は完全オートマチック、非コントロール化に動き続けますから、、、、この「自分」はそこに関して非関与です、、、そういう意味では不条理です、残酷です、、、これをお釈迦様は人生は苦であると説きました、、、、、、、ですがこれは決して暗いことではなく、、、、究極の諦めへの理解です。

そっちに行くと、、、、

自分の思い通り=幸福、、、、この流れに行くと、、、人生は究極的に苦しくなります、、、、諸行無常、森羅万象、、、全動きは、、、、「私」とは全く関係なく動くので、、、、その動きは「私」の思い通りには全て行きません、、、、、ではこの諸行無常の中で「私」はどうしたら幸福になれるのか?????簡単です、、、「私」と関係なく幸福になるのです、、、、、そもそも「私」など存在しませんから、、、、「私」を無視して幸福になればいいのです。

体験だけがある

「私」という存在とは何も関係なく、、、、体験があり続けます、、、五感による感覚があり続けます、、、これが事実です、、、、、この五感が閉じれば、、、退屈になる、、、、、五感が開けば、、、、感動がある、、、、ですから「私」を無視して、、、、、五感を開く、体を開く、を続けていけば、、、、自然と幸福になっていきます。

勘違い、、、、

「私」が幸福にならなければならない、、、、これが多くの方の大勘違いです、、、、、ですが実際には「私」は存在せず、、、、今不幸だと感じているのは、、、、五感が鈍っているからです、、、、感じる力が鈍り、、、、ありのままの現象に感動できなくなっているのです。本来の姿を忘れ去り、、この「私」を姿と勘違いが起きることで、、、、感動から遠ざかっているのです。

悟りを今日から感じる

悟りとは感じるもの

悟りとは頭での理解ではありません、、、思考で理解して、、、それで終わるものではない、、、徹底的な体感です、、、体感ですから五感で感じるもの、、、、今日この瞬間に悟りを少しでも感じたら、、、、次に進める、、、ではどうやって悟りを感じるか????簡単です、、、今この瞬間の満足度が、、悟りの満足度です、、、今、、、こうして部屋を見渡す時の満足度が、、悟りの感度になります。感じるをコントロールすることはできません、、、これが真実です。

寝不足で、、

寝不足が続いている状態で、、、、散歩をする、、、、全く楽しくない、、、なぜならば、、、五感が開いていないから、、、、散歩が気持ちが良い時、、、、五感が間違いなく開いている、、、、ここに注目します、、、散歩が楽しい、、、この状態に体を導きます、、、、散歩だけでも大満足、、、、五感は開き切っています、、、そこまで五感が開いた時に、、真実を受け入れる土台ができます。

全ては全自動で起こる

このメッセージは日常が大変過ぎる人には恐らく届かない、、、、メッセージを飲み込む、、余裕がない、、だから意味がない、、、、体を解して解して緊張を取り除き、、、、幸福度が完全に上がったっ時に、、、、このメッセージが届く、、、、その時、、、、全てが理解できる、、、、自動反応、諸行無常、森羅万象の動きが分かる、、、本当にその通りだ!!!と、、、、それがさらなる五感解放に繋がります。つまり究極の悟りです。

感覚という魔法

この世界は感覚でできている

健康に気を使う方は気づいていますが、、、この世界は自身の健康、不健康によって大きく見え方が変わります、、こっちの体調で感じ方が180度変わってしまいます。それほどまでに、、、この世界はこちらの感覚が作用します。健康に気を使う方ですらも全く気づいていない事実があります。それはこの世界はこちらの感覚だけで成立しています。決まった世界が先ず存在するのではなく、、こちらの感覚の中でしか存在したことがないのです。

つまり「感覚=世界」

世界が先にあって、、、その上でそれを人間がどう感じるか、、、ではなく、、、、、感じる=世界です。。。ですから、、、どう感じるかが、、、そのまま世界そのものであり、、、、こちらの感覚が全てを牛耳っているのです。。。。そしてもしこの世界が地獄だと今感じているのならば、、、感覚が地獄レベルに落ちている、、だけなのです。。。逆にこの世界が天国に感じているならば、、、感覚が天国レベルに高まっているということです。

感覚が高まる????

五感を高めていきますと、、、そのまま世界は高い世界に移り変わります、、、、五感とは体ですから、、、体の感覚を開いていきます、、、、すると、、、この世界はそのままに素晴らしくなっていきます、、五感で感じるのが世界ではなく、、、世界がこの五感で成り立っているからです、、、、体の緊張を取り除くことで、、、世界の緊張が緩むのです。体が緩み切った幼稚園児は、、「箸が転がるだけで楽しい」が起きます。

真実を知る

この世に蔓延している嘘を見破ります、、、我々人間はこの世に蔓延した嘘によって、、、緊張を強いられる毎日を過ごしています、、、、その嘘とは、、、、自由意志がある、、そしてそれをコントロールする自分が居るという嘘です、、、、これは嘘です、、、、ですがこれを「はいそうですか!」となる人は居ません、、、ですがこれは完全な嘘なので、、、その真実がいつか絶対に分かる日が来る、、、と信じて生きてください、、、「地球はそれでも回っている」、、、、この真実に向かって、、、生きるのです。

五感を取り戻し真実を知ると

五感を取り戻し、、、真実に向かって生きていきますと、、、真実が顔を出してきます、、、真実に気づくことが多くなります、、、、、なぜならば真実は一つであり、、そこが変わることはないからです、、、我々の五感が真実を捉えるその時に向かって、、、五感を開き切っていきます、、、思考は真実ではありませんから、、、あらゆる観念を持ち込みます、、あれはこういう意味では???これはこういうことでは????ですが真実はたった一つ、、、全てが全自動、全反射、ノーコントロール、諸行無常に、、移り変わるのみ、、、これを我々の体は最初から気づいていて、、、ただそれを忘れているだけです。

サナギの脱皮

幼虫から蝶へ

悟りは幼虫から蝶への変身に例えられますが、、まさにその通り、、これは原型が全く変わってしまう、、今まではこの体の中に自分が居ると思っていた、、、それがこの全部が自分だった、、この体も自分で、、この体の中に自分が居るという思考も自分、、、全部が全部自分、、、という自分のパラダイムシフトです。

ただその自分は全くの不自由意志

ですがその自分とは全くの不自由意志、ノーコントロール、、、自由意志など全く存在しない存在、、ただの化学反応、、この体も思考も、感情も、行動も完全にノーコントロールというとんでもない事実、、、これだけが真実、、変化、易、諸行無常、、ノーコントロール、、、

自分が居ないを分かった自分

自分が居ないことが分かったもう一つの自分を作り出せば、、、その自分が教祖になって、、、宗教を作ります、、ですがその自分とは全くのノーコントロール、大自然でしかないことが分かると、、、救うべき人、救わなくてはならない人も誰も居ないという気づきが起きます、、、これは自我の拡大ではなく、、自我の消滅なのです。

この体の中の自分は諸行無常と関係がない???

大いにある

もしもこの体の中に自分という実在が居て、、この自分に自由意志があるとすれば、、、、毎日同じ思考をする、、ということが出来る人間が現れてもおかしくありません。ですがそのようなことが起きたら、、、諸行無常が、、、この私には当てはまらないということになります。。世界は諸行無常、、変わらない物はない、、、変わらない現象はない、、これがこの宇宙のルールです、、、、自由意志はこの絶対的ルールと完全に矛盾するのです。

自由意志と諸行無常は完全にぶつかる

自由意志とは思考、行動をコントロールすること、、、、これと諸行無常は理屈が合いません、、ではどちらが本当のルールなのか????諸行無常です、、、全現象は常に動き続けています、、、原子レベルでは確実に全部動いています、、、この事実と自由意志は真っ向からぶつかります。

全思考、全感情、全行動が諸行無常

真実はこれです、、全思考、全感情、全行動が諸行無常です、、、誰一人、、、これをコントロールしている個人は存在しません、、、コントロールしているという勘違いは起きます、、ですが、、、実在しないのです、、、自由意志も私も、、、これはイメージ、概念です。

元「私」、現神

私を卒業します

元モーニング娘。元SMAP、、元乃木坂46、、、芸能人の多くはグループを脱退した後に、、そのような名称になります、、、元私、元自分、元我、、、、私は、、、私を辞めると元私としての活動になります、、、元私とは誰なのか、、、神です、、、、私とは、、神の動きの一部である人間という現象に、、、付けた名称、、概念、アイデアです、、、本当は神、森羅万象、諸行無常、真我の動きしかこの世には存在しません、、、

徹底的に「私」を外して生きてみる

徹底的に「私」を外して生きてみてください、、、、何にも問題なく過ごせます、、、バーに行っても、、、この私が存在しないかのように振る舞ってみてください、、、、誰からも声をかけられなくても気にしない、、、「私」はアイデアでしかないのですから、、全く問題がありません、、、、

私が馬鹿にされた、私が軽く扱われた

アイデアでしかない「私」が馬鹿にされると人は怒ります、、、ですが私はアイデアであって本当は実在しない、、、脳は「私」が馬鹿にされると、、、この体にとってマイナスと捉え、、、怒るという感情を生み出します、、、もっと大切に扱われるべきだと、、、ですが体にとって不利益がなければ本当はどうでもいいことです。

脳が作り出したトリック

最初に実在なし

なぜ人類はこんな簡単に脳に騙されてしまっているのか???最初に「私」という実在があって、、そこに「私」「我」「俺」「I」「自分」という名称を付けたのではない、、、、最初は何もなかった、、、そこに言葉を覚え、、、そういうイメージが存在するかのように、、、動いていただけ、、つまり元々は、、無かった、、、その動きに対し、、、「私」「我」「俺」「自分」を当て込んだ、、、、いつの間にか、、「私」「我」「俺」「自分」が存在しているという前提の行動が生まれ始めた、、、

「私」が実在している前提の思考、感情が生まれた

いつの間にか、、「私」「我」「自分」が実在している前提の思考、感情、行動が生まれ始めました、、この「私」が有利になるような思考、感情、行動が生まれる、、、、脳はこの体を安全に維持運行するために、、私を発明し、、、この体の責任者に仕立て上げたのです、、、、脳は「私」という概念を生み出し、、、この「私」がさも居るようにしむけ、、、この体、私の二つを維持するように仕向けたのです、、進化のプロセスでただそれが起きました。。。

食べれるならば、、「私」は要らない

体を維持管理するために発明された「私」という概念、アイデア、思考は、、、食べていけるならば、、もう必要がない、、、むしろ、、、この「私」ありきの思考、感情、行動は、、、うざい、、、不必要、、、となります。。。実際に、、食べていけているにも関わらず。。。「私」がもっと評価を受けるために、、高級車を求め、高級マンションを求め、高級時計を求め、高級異性を求める、、、、そのためにあらゆる犠牲を払ってでも。。。。時間の無駄、、、、

「私」を卒業し、、、神として生きる

私とはこの体を安全に維持運営するための机上のシステム、アイデア、概念ですから、、もしもそれが達成し、、さらに俯瞰できるならば、、、もう必要がなくなります、、、そして脳はそれを受け入れます、、なぜならば脳はこの体を維持運行できればそれでいい、、、もっと安全な方法があるならばそれを受け入れます。「私」の卒業です、、、万物は全てたった一つのエネルギーの移り変わり、諸行無常、森羅万象であり、、その中の活動の一部に「私」というラベルを貼りました、、、その「私」というラベルは森羅万象の動きに合わせて動くので、、、今度は[「私」が居るという思考]が起き、、、その前提の思考、感情、行動が起きるようになったのです、、「私」というラベルを剥がしてしまっても森羅万象は動き続けますから、、、元「私」は動き続けます、、、ただし「私」ありきの思考、感情、行動は徐々に減っていきます、、、

魂もイメージ

「た・ま・し・い」

魂もイメージです、、言葉で作られた全てはイメージ化され、、、この本質の世界にイメージが誕生します、、個人の体には魂が存在し、、個人も、魂も言葉ですからイメージです、、この本質の世界から飛び出した、、イメージ。ストーリーの世界の産物です。この世界には本質しかなく、、これは言葉では表現できないものです、、釈迦はこの世界を色と表現し、、、ただ諸行無常、、移り変わる何かと表現しました、、この世界には本来「コレ」と呼ばれる決まったものはないのです。

何もない

覚者はいうこの世界には何もなかった、、、そうです、、これが「これ」という決まったものは全くないのです、、もしもできるとしたら現象の一部をくり抜いて「〇〇」と名前を付けることだけ、、これによって「○○」というイメージがこの本質の世界から作られます、、人間は「○○」というイメージを大量に作り上げ、、このイメージを実在するものであるという共通認識にして生きています。勿論この「わ・た・し」もイメージです。

現象にイメージを当てはめる

原始人は道に携帯電話があっても気づきません、、それは彼らには「け・い・た・い・で・わ」というイメージが存在しないからです。。。現象の中からこれを切り抜けないのです。スニーカーマニアはJORDAN1を知ってます、、そのイメージを持っています、、ですから街を歩けば即座にJORDAN1を探し当てます。それを知らないければ、、街を歩いてもそれを探し当てることは絶対にありません。この世界は言葉でできたイメージの世界なのです。これがこの世界が夢と言われる所以です。

お水

このお水はなぜお水の状態を維持できるのか???

目の前にグラスがありその中にお水が入っています、、、このお水はなぜ、、この状態を維持できているのでしょうか??化学記号でいえばH2O、、、この化学記号の原子がなぜ収束した状態を維持できるのか???この力こそが真我の力です、、物質をその状態に維持する力こそが真我なのです、、、、とはいえこのお水もいずれは蒸発して気体になります、、この変化を引き起こす力が真我です。

気体が液体に、液体が個体に、、

気体、液体、個体、、、万物は常に変化を繰り返していきます、、、この動きを起こす力が真我です、、森羅万象、諸行無常、、、常に変化が起こるのですが、、この変化を起こす力こそが真我、大我、本当の自分です、、、つまり今この瞬間も我々は本当の自分の変化の中に居ます、、、そこから逃れられない、、本当の自分から一歩も逃げることができない。。。

諸行無常

諸行無常は分かった、、、では誰がこの諸行無常を起こしているのか???本当の自分です、、この体の中に居ると思っていた小さな自分がこの変化を作り出していたのです、、、大きな自分だったのです、小さな自分は。この大転換、シフトチェンジこそが悟りと呼ばれるものです、、パラダイムシフトです。