大いなる一つ

現象から大いなる一つを発見する

色即是空

「この体、この思考が自分」この大誤解を抱えながら生きてきたのがこの人生ストーリーです。ですがこの大誤解ストーリーは正直しんどいんです、正直いつまで経っても不安が消えない、孤独が消えないんです。だからもう辞めたいんです。ではこの体、この思考が自分ではないことを現象から説明しましょう。今目の前に観賞植物があります。この観葉植物が自分か自分じゃないか????の説明の前に、、この観葉植物という姿を私が見ているという思考を完全に外して冷静に観察します、、、画像だけがあります、、、よく見てください、、あるのは画像だけです。

私が観葉植物を見ている、、は思考

観葉植物をしっかり見てください、、、「私が観葉植物を見ている」なんて事実は一切わからないんです。だって画像しかないから、、観葉植物の。そこに私なんて居ないんです。次にこの観葉植物に触ってみてください。葉っぱの感覚だけがあります。もっと言えば感覚しかありません。私が観葉植物を触っているなんていう事実は一切ないです。感覚しかないです。私なんて存在しません。次にこの観葉植物の香りを嗅いでみてください。香りのみあります。次に葉っぱを千切って口に入れます、、葉の味がします。それだけ。

何が言いたいか?????

今の一連の動作において、、私が〇〇した、、、、という事実は全くもって証明できないんです。見えた、味がした、香った、触れた、、、という経験しかないんです、、感覚しかないんです、、、そこに「私は、、、、」なんて事実は何もないんです。つまりここには経験しか、感覚しかないんです。感覚だけが存在します。。。感覚だけが真実です。そこには「この体、この思考は自分だ」なんて事実は全くないわけです。どうですか???どこを探しても自分なんてものは登場しないんです。

感覚だけがある

我々の本質は、、この感覚だけです、、感覚だけ寄せ集めて寄せ集めて、、、それが全部です。私とか、自分とか、我々とか、コップとか、観葉植物とか、、誰かが誰かと見るとか、、、そんなの起こっていないんです。それは全部思考です。本当は感覚しか起きていないんです、この世界って。つまり感覚を寄せ集めて、、はい終わりです。寄せ集めて寄せ集めて、、、、何になりますか?????????無です。大いなる一つとは無なんです。そしてあえてあえていうならば「自分とは無」となります。

マリオの外に至福(ゲーム本体)を求めればそれは全体ではありえない

全体とはマリオも含めてのこと

至福とは全体のことです、至福とは大いなる一つ、至福とはゲーム本体です、、我々マリオはこの現象世界の中で名誉が、所得が、愛すべき人が、愛すべき仲間が、、、マリオを幸福に至らせてくれるのでは??と考えますが、、至福は全体のことですから、、マリオ以外に至福があったとしたらそれは全体では無くなってしまいます。つまりマリオが外に至福を求めた時点で至福は絶対に絶対に見つからないのです。

ゲーム内には至福はない

この現象世界は分離の世界ですから分離している「私」が至福に至るのは不可能です。私という存在自体が分離(不幸)だからです。つまりマリオとしてして至福には至れないことを悟り、マリオがゲーム本体(スーパーマリオ)に再吸収されるほか全体(至福)になる方法はないということになります。マリオ(分離)である限り、分離はひたすら続くわけでこの状態こそが苦しいのですからマリオは至福に至ることは絶対に絶対にないということです。

自分が熟睡する

熟睡時に自分(マリオ)を意識している人は居ません、、自分(マリオ)が抜け落ちた時に熟睡(至福)が訪れます。昨晩私は熟睡を味わい尽くした、、、、これは嘘です、、熟睡時には意識がないはずです。至福とはまさにこれで自分が抜け落ちた時に訪れるのです、、じゃあ我々は一生至福には至れないではないか????その通りです、「私」は絶対に至福に至れないのです。

思考は直ぐにストーリーに持ち込む

全ての現象を

思考は何でもストーリーに持ち込みます、、、例えば雨が降る、、、という情報が起きたときに、、、では明日は傘を持って行こうか、、辞めとこうか、、そういえば明日は残業が、、、などなど、、、全部の現象の私のストーリーに持ち込み、、善悪、良否、損得の判断でもってこれを迎えます。本人はそのことで本人の得るメリットが向上すると思っているのですが、、そのストーリーの中こそが苦しいのです。重要なことはこの場所はストーリーの場ではないという気づきです、、、その時その時何が起きるか全く分からない超現実、、それが真実です、、、超現実に住むと、、そこは静寂、平和が漂います。

現実という幻想に住まない

多くの方が思っている現実は幻想です、、この幻想の中に、、私というやはり幻想を作り出し、、、私(幻想)が存在する場所(幻想)を作り上げました、、、その中でなんとかこの私は安全に楽しくそれなりに生きていこうと、、頑張っています、、、、だから全ての現象は私ごとに捉えられ、、、進んでいきます。。。これが苦しみの歩みになります。本当はこれを幻想と完全に見抜き、ゆえにこの体も幻想であり、、ゆえに私と呼ばれるこの存在も完全な幻想であることを見抜きます。この幻想の世界に、経験と呼ばれる感覚だけが真実としてあり、、、その経験がただ毎瞬毎瞬起こっている、、、この経験を全部集めた存在は真実、神、大いなる一つと呼ばれます。

大いなる一つという幻想

ワンネスという幻想

神、アートマン、仏陀、なんでもいいのですが、、、、これらは言葉にしてしまった瞬間、、、脳内でイメージ化され、、、そのイメージを追いかけるという夢を作ります。。。この夢の世界で、、新しい夢を追うという夢になるのです。壮大な夢、、、それが大いなる一つ、ワンネス、、、、です。

言葉では表せない世界

神とは、、実在しない無限の存在です、、、これをどうやって表現すればいいのでしょうか????不可能、、言葉では到底表せない世界を、、、、この言葉で表現することで自我OSは、、、はい!了解、、、とイメージを作り上げ、、、自我にこの夢を追わせるのです、、、、絶対に夢の中では探し得ない存在を完全に探すのです。

居ませんけど、、、

何十年間探求したって、、、言葉のイメージを追い求めていても難しい、、、言葉では絶対に現せない存在、、不在を見抜く、、、ということでそれをこの完璧に感じる経験の中で探します、、、完璧な体験、疑いようのない感覚の中からそこを気づきます、、、

お喋りが止まらない

感情の解放

人前に立つと緊張する、、これは実は体の中に溜まった負の感情が、、、湧き出し、、その感情に対し対応できない状態です、、、緊張とは、、、ただこの体の中の負の感情が引き起こします、、そして緊張すると思考がフル回転するのはなぜか????その感情を感じたくないがために、、、、思考を沸かすのです、、、それによって感情を感じなくて済むのを知っているからです、、、これが自動で起きます、、完全なる自動起動です。

最初から抜いてしまう

体に溜まった負の感情を最初から抜いてしまいます。体をマッサージして、、体のエネルギーを感じ、、その場でこのエネルギーを解放します。全身の滞りを完全解放し、、、収縮したエネルギー、自我のエネルギーを直接解放してしまいます。体が緩むと全く負の感情が湧いてこない、、、自然無為の状態、、、思考の大暴れがなくなり、、大いなる一つになっていきます。

言葉で真実を現すという矛盾

我々は今言葉が作り出した幻想に居る

我々は今現在言葉が作り出した幻想、イメージの中に居ます、、、閉じ込められています、、この幻想の世界の中に居て、、、言葉で悟りを理解しようとしますと、、、新しい幻想を生み出すことになります。言葉とは幻想を生み出す道具です、、、「世界にはワンネスがあって、、」脳はすかさずにワンネスを想像します、、、はいこれでお腹いっぱい、、、「大いなる一つがあるんです、、、」大いなる一つを想像します、、、お腹いっぱい、、、違うんです、、新しい概念を覚えるのではなく、、、この世界が言葉で出来た幻想であることを体感した瞬間に、、ワンネスが現れるのです、体感として。

言葉の威力を知る

言葉とは魔力です、創造神です、、言葉をあまりにも多くの方は勘違いしています、、、引き寄せの法則????いやいや、、、今既に我々は観念の世界にどっぷり浸かっています、、、私が存在し、時間があって、空間があって、、、、、全部観念、幻想、イメージ、夢です、、、そんなことはない、、完璧に感覚があるではないか????夢の世界での感覚がこの夢を完璧に現実的に見せるのです。

やばい!!!TVを見過ぎた、、、

これが我々の悟りです、、、我々の悟りとはTVに夢中になって、、、いつの間にか時間が経ち、、、それに気づいたその瞬間、、これが小さな悟りです。。。意識がTV画面にがっつりフォーカスしました、、、、そしてそうだ 、、、、、私はこの体だった、、、、違うんです、、、この体でもない、、、この体にフォーカスが集まっているだけです、、、、そうだ、、、私はこの体ではなくて、、、、意識そのものじゃないか!!!!これが悟りです、、本当の悟りです。。。。TV画面に集中し、そこから悟り、、、この体に集中し、、そこから悟る、、、、何かに集中する意識こそが我々の本質です。

攻めの急所

自我の消滅

ワンネス、大いなる一つ、ブラフマン、アートマン、真我、神、、、なんでもいいのですが、、これらの言葉についてどれほど詳しくなろうと、、どれほど理論的に理解しようと、、、悟りに至らないのは、、、個人が居るというこの感覚をどうしても手放せないからです。。。。理屈としては分かるんです、、、ですが、、ハッキリとこの個人という意識を所有している、、、、、そこを抜け出せない

それは無理だろ

この体というのはあまりにも巧妙にできていて、、、この体の中に「自分が居る」と思い込めてしまう仕掛けが盛り沢山、、これが盛り沢山すぎて全人類が騙されるのです、、、、経験を積めばあらゆる思考、感想が勝手に湧いてきます、、、この店は嫌な店だな、、店長は愛想が悪いな、上司は今日は機嫌が良いな、、、、とこの間違いのない思考が、、、、この「私」を絶対的なものにしていきます。思考が湧くのは疑いようもない、、だからこの「私」も疑いようがないのです。

勝手に湧く

ということで悟りの攻めの急所、、、、「思考は勝手に湧く」ここです、、、これだけです、、、ここが腹落ちするとドミノが倒れ始めます。。。思考が勝手に自動的に湧いていることを認める、気づくと、、、もう自分が信用できなくなります、、、おい、何もしていないぞ!!!です、、自分とは何もしていない、、、既得権益、、、何もしていないのにお金を全部持っていく既得権益、、それはこの自分、自我、私の正体です。

既得権益を滅ぼす

実は何もしていない、、この私が、、、最高権力者にのさばっているのがこの自分という存在、、こんな存在を許容して、、幸福になるわけがない、、、ありえない、、、全く存在していない存在を勝手に作り上げ、、これありきの思考がガンガン湧き、それに右往左往する生活、、、ありえない、、、冗談じゃない。。。ということで、、、ここが悟りを開くための絶対的急所です。

大いなる一つの思考と個人の思考

考えてみれば明らか

この私の思考というのが本当に私の思考ならば、、大いなる一つとは全く関係ないメカニズムを個人が作ってしまったことになります、、、すると大いなる一つは大いなる一つではなくなってしまいます、、、個人の思考は同時に大いなる一つの思考であることは間違いありません。すると面白いことに気づきます、、大いなる一つと自我という二つの存在が同時に思考を所有することになる???大いなる一つの中に自我というもう一つの存在がいて、、二つの存在が思考を生み出したことになります。大いなる一つは全部だから大いなる一つなのです、、つまり自我とは実在せず、、自我という思考だけが存在することが証明されます。

大いなる一つと「私が在る」という思考

大いなる一つの中で完全独立した「自我ー思考」プログラムがあるのならば、、大いなる一つは大いなるひとつではなくなってしまう、、、すると思考とは大いなる一つから湧き出し、、さらに自我も「私は居る」という思考に過ぎないことが明白になります。この世界は完全なる大いなる一つの現象しかなく、、個人は完全に思考の産物です。そして気づきが起こり続けるのは、、、空の反映が大いなる一つであり、、、空は絶対ゆえに、、大いなる一つの動きに対し、、気づきが起きるのです。

個人の活動を幻想と見抜く

個人の活動が確実に幻想で在ることを見抜きますと、、個人に対する関心が薄れてきます、、、個人というのはアイデアに過ぎず、、これを存在するという信念、価値観のみが存在します。この価値観が強ければ強いほどに、、個人あっての個人物語が強化され、、これは苦しみを生み出すのです。なぜならば真実とは全く異なることを大前提にした旅だからです。

この旅には終わりはない

個人は絶対に完全なる幸福になれません、、個人とは存在せずイメージです、、、この個人をどうやったら幸福にすることができるのか????実在するならば攻略法はあります、、ですが居ないのです。。。にも関わらずこの自我を絶対視しこの自我を満足させようとする動きは苦しみの道になるのです。

マリオは絶対に幸福になれない

マリオはイメージ

マリオは喜怒哀楽を感じることはできません、、なぜならばイメージだからです、、、、「私」も完璧にイメージです、、、、、最初に私という「何かしらの実在」があって、、、その実在に「私」という言葉をつけたのならば、、、私は実在します。「私=何かしらの実在」です。ところが、、、実在しないのです。。。なぜ実在しえないか????それはこの体の中の全言動、全思考を、、、司る実在が居るのではないか??という「推測」をベースに「私」は生まれたからです。

原始人はマリオが実在するのでは???と思考する

もしも原始人が現世にタイムスリップしてきたら、、TV画面のマリオは実在するのでは??と「思考」するはずです、、、、勘違い、、、これが「私」の正体です。。。。誰が勘違いしているのか????私は実在しませんから勘違いはできない、、、一体誰が勘違いをしているのか????神です、真我です、大いなる一つです。

勘違いは起きただけ

神は勘違いをした、、ではなく神から勘違いが起きた、、化学反応として、、、この体の中に「私」がいるという思考が起きたのです、、、神から、、、そしてこの思考を神が感じているのです、、、神からこしらわれ、神がこれを感じる、、、ただそれだけ、、、、そこには被害者は存在せず、、、そういった現象が起きたのです、、、事実は実は何も起きていないのです、、実在レベルでは、、、イメージではそのようなイメージが起きたのです。。。

ミッキーマウスは絶対に幸福になれない

ミッキーマウスは実在しないから

ミッキーマウスは幸福になれません、、なぜならば実在しないからです、、、、ミッキーマウスはイメージです、、、、そして「私」もまたイメージです、、、、実在しません、、、もしも「私」が実在するならば証明してください、、実在を出してください、、、どんな手を使っても実在を証明してみてください、、、絶対に不可能ですから。。。それが事実です。実在しないものは絶対に幸福になれません、不幸にもなれません。不可能です。

なぜ人は幸福になれるという勘違いをするのか????

美味しい料理を食べて幸福を感じる、、、、私が実在していないのならば、、誰が幸福感を感じているのか????簡単です、真我、神、大いなる一つです、、、実在しない「私」は絶対に幸福にはなれないのですから感情を感じているのは神です、、、???????じゃあ私は私ではなくて神なのか???当たり前です、、イメージが感情を感じることができないのならば、、神です、、、神以外ありえない。

痛みを感じているのも

実在していない「私」は絶対に何かを感じることはできません、、つまり、、、、全部が全部神が感じています、、、、。、完璧に、、、、神以外に感じることができる存在が居るのならばそれは実在です、、、この世界はたった一つのエネルギーでできていますから、、、神以外の実在は実在しえないのです、、、神の個別化????イメージとしてはなんでも可能です、、ですがイメージ以外はありえない、、、ということで私は完璧に神です。