熟睡

深い眠りから目覚めた時は体の疲労回復以外の何かが起こっていることを知っている

深い眠りとは人間から神に戻っている

深い眠りを侮ってはいけません。深い眠りとは人間に扮している神が神に戻っている時なのです。だからこそ熟睡時から目覚めた時はとんでもない充実感、安堵を感じるはずです。あの安堵感をお金で払って手に入れることはできません。人間としての活動であの境地の安堵を経験できないのです。あの安堵は人間を同一視する状態から外れた神の状態です。熟睡の安堵とは神そのものの安堵です。

人間は毎日神を思い出している

人間の熟睡とは神への帰還です。人間扮する神が神に帰還している状態、それが熟睡です。主体客体の世界、人間が何かを得たり、達成したり、日々のストレス解消では絶対に得ることができない境地です。それが熟睡、神、ワンネスです。そしてその神が朝目覚めて起床すると人間に戻ります、人間の記憶装置が稼働して我は人間あり、我は〇〇何べいである、、我は会社員である、我は長男である、、、と記憶が蘇り自分劇場がまたスタートするのです。そして神は今日も人間に成り切って生活をスタートします。マリオをスタートする人間と全く同じメカニズムです。

熟睡とは記憶装置をオフにすること

熟睡時の特徴とは記憶にないことです。何時間熟睡したという感覚は寝起きにないはずです。つまり記憶が働いていないのです。人間は記憶がなければ自身の存在を維持できないもの、その記憶をオフにすることで神に戻ります。人間は起きている間でもこの状態に近づくことができます。何かに没頭する時に実は記憶機能がオフになっています。自分の存在を忘れます、無我、無心の状態とは記憶がオフになっている状態でもあります。この時人は神に戻ります、自分の存在を忘れています。人間扮する神が扮していない状態です。

地動説以来の大発明「自分が錯覚」

自分が錯覚であることに気づいたら二度と戻らない。。。

自分が錯覚である、この感覚の気づきは、、天動説が地動説に切り替わった時の人類の驚きと同じです。そもそも地球は平坦で、その周りを宇宙が回っていると真剣に信じ込んできました、研究者が実は地球こそが太陽の周りを回っていると唱えても変人扱い、病気扱いをされたモノです。今回の提案、実は自分とは錯覚であるというアイデアはその当時と全く同じ扱いを受けます。この体の中に自分が居るというのは思考のアイデアです。思考と記憶が作り出した画期的なアイデアです。

人間同士は自分の存在を共有し続ける

天動説が人間にとって当たり前の定説だった時、それに異を唱える動物は皆無でした。人間だけが人間同士で勝手にそう思いこんでいただけです。人間全員がそう信じればそれに異を唱えるのは誰もいないのです。今回の自分錯覚説も全く同じです、人口の99。999パーセントがそう信じていれば先ずこの理論が覆されることはないでしょう。もしも自分錯覚説に気づいた者が現実的に目の前に現れても病人か変人に扱われて終わりです。

自分というのはアイデア

人間がどれほどのテクノロジーの進化を遂げても体に中に「自分」を発見できることはできません。断言できます。なぜならば自分とは思考と記憶が作り上げたアイデアだからです。この体の中に思考も湧いてくるし、感情も湧いている、そして五感もガッツリ感じている、、、だからこの体の中に自分が居るというアイデア、理論です。この体無しに思考も感情も湧かないではないか!その証拠に熟睡中は何も湧いていない!ということです。ですが実際は思考、感情が湧いた時にこの体の中に湧いたのだと信じ込んでいるだけです。マリオがゲームの中で味わう辛酸はマリオのものだと言い張るのと同じです。スーパーマリオの中で辛酸を味わっているのはマリオではなくプレイヤーです。

相対から絶対へ

分離しているように見える夢

分離しているように見える夢が今目の前にあります。風が吹き、花が咲き、鳥が鳴き、と分離したモノが動いているように見える世界があります。ですがこれらを経験する自分が居るように思えるだけで実際は経験しかありません。風が吹いていると感じる経験、花が咲いていることを見る経験、鳥の声を聞くという経験だけがあります。それ以外はありません。相対の世界はどこまで行っても経験以外の事実はなく経験(絶対)の現れです。絶対の違った形です。

寝ている時は絶対

熟睡している時は絶対だけがあります。何もありません、熟睡しているという事実以外は。起きている時はあらゆる物が視界に入り、聞こえ、匂い、触れますが経験だけを観察すれば、一つの経験だけが連続してあります。食事を食べ、お風呂に入り、会話をして、音楽を聞き、その経験の認識が連なっていくだけです。これ以外の事実は何もありません。絶対が形を変えているだけです。

経験をどんなに重ねても永遠にはならない

分離の世界でいかに経験を重ねても不足感がなくならないのはどの経験も一瞬でありそれが永遠になることはありません。一瞬の経験が連続していくだけです、それが永遠に至ることはありません。その状態が苦しくて苦しくて人は苦しみを忘れさせてくれる何かを求めていきます。経験を連続させているだけでは永遠(至福)には至れません。経験から無我に入る、経験から無心に入る、経験から無思考に入ることで夢から出れます。絶対に入れます。経験は絶対への入り口です。全ての経験を無我への入り口に使っていきます。書道家は書から無我に入ります、剣道術師は剣術から無我に入ります。花道家は花から無心に入ります。経験から無我(絶対)に入っていきます。

起きている間、変化だけがあるそれだけ

熟睡している時は何も起きていない

朝起きて寝るまで変化が起き続けてきます。太陽の位置、風の強さ、天候、気温、、、、あなたが認識した瞬間その事実だけがあります。寒いな、暑いな、風が強いな、、これだけが事実です。それ以外は何も起こっていません。今日は台風ですという天気予報があって実際に台風が来ていたとしてもあなたが部屋にいて全く台風に気づかなかったら台風は起きていません。実際に起きていないのです。天気予報を聞いたという事実を除いては。

カフェで音楽を聴いている瞬間そこに音楽がある

カフェでおしゃべりに集中していて音楽が全く聞こえていなかった時、音楽は起きていません。話疲れてその瞬間に音楽が耳に入ったその瞬間に音楽が現れます。それだけです。あなたが認識していない音楽はこの世には存在していないのです。急に聞き覚えのある音楽に気づいたらその瞬間音楽がそこに出現するのです。それだけです。

部屋の中のキャンドルがふと目に入る

部屋の中のキャンドルが目に入るその瞬間にキャンドルが現れます。それまでキャンドルはこの世には存在していません。部屋の観葉植物が目に入る、その瞬間に観葉植物が現れます。それまでは存在していません。人間とは認識できていない人のこと、景気経済、世界情勢、環境問題、温暖化現象、、、あらゆることを危惧し不安になり悩みますが認識できていないことは起きていません。空想に浸っているだけ時間の無駄です。もちろん空想に浸るもあなたの意思に関わらず湧いていたならそれはそれです。悩み、苦しみもあなたの意思に関係なく湧いてきてそれをただ認識する、それだけが事実です。

熟睡時は意識だけがある、熟睡とは意識だけの状態

熟睡時の記憶がないのは、、

熟睡時は記憶がありません。それはなぜか?脳が完全に休んでいるからです。記憶の機能をストップしています。ですが熟睡から覚めると人は安堵、平和の状態を少し覚えています。その時気づきの意識から夢に戻ったのです。熟睡時は気づきの意識のみ、そして起きると気づきの意識が人間活動を意識し始めます。そして人間自体が湧き上がる感情、思考を自分のものとして勘違いするという状態を気づきの意識が認識します。

気づきの意識は全部を気づいている

気づきの意識は熟睡時は人間活動を停止して気づきの意識そのままの状態になります。この時の記憶がないのは人間の記憶脳が停止しているからです。人間が夢を見ている時、人間の脳の記憶を使って気づきの意識は夢を見ます。この時に夢を見ているのも気づきの意識です。人間の脳をフィルターにして夢を創造しそれを観察します。人間が起きれば今度は人間の五感を使って夢物語を創造しそれも気づきの意識が全て認識します。認識するという言葉が実は的を得ていないのは認識するという主体客体の世界ではなく認識そのものです。ただこれ以上は言葉で説明することができません。認識するという言葉は人間が作った言葉であり人間は主体、客体の世界でしか存在できないのでこの言葉は誤解を生むのです。

空即是色

空即是色は素晴らしい言葉でこれはやはり分かっている人が書いたモノです。空はこれ即ち色である。本当にこれだけなのです。ここに動詞が入るということはありません。なぜならば動くという現象には動くための場所が必要になりこれは二元の世界の話なのです。ということで本当は空即ちこれ色だけです。色とはあらゆる現象でありそこに人間という独立した(勘違い)存在を湧き起こしこの色の世界を完成させました。