ノンデュアリティ

ノンデュアリティ とはPCのこと

二元とはPC内のイメージのこと

悟りとか覚醒、解放のことをノンデュアリティといつしか呼ばれるようになりました。ノンデュアリティ とは非二元、、なぜこのような分かりにくい表現を使うのか????非二元だったら一元でいいではないか???という話です。ですがこの非二元という表現は的を得ていて、、、このドラマが二元の世界、主語述語の世界ですから、、そうではない、、という意味なのです。二元に見えているけど本当はそうじゃないですよ!!です。

この二元の世界は、、、

この二元の世界とはPC内の画像なのです、、PCというたった一つのマシーン機械の中に二元に見える世界を作り出したのです。プログラム言語と呼ばれる、、我々の思考言語でもって、、このPC(全体)に二元に見える世界を作り出すことに成功したのです。マリオがいてクッパがいる、山があり川がある、、私がいてあなたがいる、、私がコーヒを飲む、、、

このイメージの世界での覚者

二元の世界では様々なことが起きていますが視点を変えてPCを外から見ると何も起きていなんです。PCの形状は一ミリも変わらないんです、、、、PCからしたら時間も空間もないんです。時間も空間もPC内でそれがあるように感じることができるだけです。PCには何も起きていないのです。イメージの世界の覚者はこう言います「何も起きていないんです」「これしかないんです」「私が居てというのは錯覚ですよ」「時間も空間もないんです」これをイメージの世界の中でイメージとして言われちゃうから困っちゃうんです。

真実と概念は違う

私たちが信じているのは概念

ノンデュアリティ、悟り、非二元のメッセンジャーが伝えるのは真実です、真実は概念ではありません、、、言葉という制限されたツールで真実を伝えていくわけです。多くの人が信じているのは概念です、概念は真実ではありませんからこの概念の中に生きていることで苦しみから解放されないのです。もし今自分が苦しいならば概念の世界に居る、ただそれだけです。

真実と観念は違う

真実と観念が異なります、真実は真実です、、観念とはその人が信じている考え方、概念です。それぞれの人はその人の観念を持ち、その観念に影響された幻想の中に生きているのです。この幻想の世界は苦しいので早くここから出たいと本質レベルでは感じているのです。友人が少ないと寂しく、友人が多いと人間関係が複雑で疲れる、、どこまでいってもこの世界は苦しいのです。

お金を得ても人気を得ても苦しいのは観念の世界に居るから

「自分」がこの世界に生きていると思っている間は常に苦しみに襲われます。「自分」がお金を得て、人気を得ていると思っている間は苦しみに襲われ続けます。なぜならばそこは本当の世界ではないからです、そしてそのことを本質では常に感じています。だから人は救いを神に求めるのです。ですが神とは「自分」とは異なった違う場所にいるのではなく今ここ、「この私」すらも含めて神なのです。今見ている世界そのものが神自身のアート、神そのものなのです。

このことをみんなに伝えてあげなくちゃ

真実の少しでも触れた人間は周囲にこれを伝えなくては!!と思うはずです、ですがそれは喜憂、無駄、大きなお世話です。なぜならば「私」も「あの人」も「この人」も全部あるがまま、神のアートですから最初から救われているのです、あるがままのアートが救われないのならばあるがままはあるがままではなくなってしまいます、神のアートが救われないのであれば神は神ではなくなってしまうのです。ですから全員が最初から救われているこれは神の、あるがままのアートなのです。そしてそのことも全員が本質的には分かっています。

目覚める誰かもいない

目覚めも誰かも幻想

目覚めるためには目覚めるための誰かが必要になるのですがこの誰かは真実の中では存在しません。真実の中では誰も何も存在しえないのです。そして我々は真実そのものですから真実の中では誰かは存在できないのです。よって誰かが目覚めるというのは幻想、ストーリーであって真実ではありません。目覚める誰も存在していなかったという気づきだけが起きるのです。目覚めた後には何も残らないのです。騙し絵で老女だと思っていたら若い女性だったという気づきが起きた時には老女は消えています。真実に気づく個人は存在しえないわけです。

本質とは目覚める誰かが消えた時

本質、真実に気づく個人は存在しえないのです。その個人が存在していなかったという気づきが起きた時に本質があります。その気づきは個人の中で起きえることはなく個人というのが幻想であったという気づきです。個人が目覚めるのではなく本質の中には個人は居なかったという気づきです。これが悟り、覚醒、ノンデュアリティです。

非二元とは

悟りという言葉がこの世から消えていきノンデュアリティ、非二元と呼ばれるようになったのは、、、悟りという言葉には個人が悟るという意味が強く現れてしまうからです。実際には個人が幻想であったというのが悟りですから悟りの主語は個人、自分、自我ではないのです。ノンデュアリティ、非二元とは、、主体客体の世界の終焉のことであり、、この世は私が居て、見える世界があるという二元ではないよという意味です。ですから個人が悟るという二元の表現はそもそも間違っているのです。騙し絵の中の老女が若い女性を見つけるのではありません、老女の存在は消えた時に若い女性が現れるのです。老女が悟って若い女性に気づくのではないのです。個人が悟るのではなく、、個人の存在が幻想であったという気づきが悟りです。気づくのは誰か??誰でもなく気づきがただ起きるのです。

体は全部知っている

もしも体が全部知っているならば

「体は全部分かっているんです」そんなメッセージはスピ、ノンデュアリティ業界では多く聞かれる話です、、だとしたらなぜ今充実感が薄いのか???なぜ毎日が退屈なのか?????簡単です、、今の体、今の体のコンディション、、、、にとってベストな行動が取れているだけです、、、、?????え???今退屈だとしても完璧な体の行動が起こっているんですか?????その通りです、、、、今の体に寸分違わず完全な思考、行動が起きているのです。

行動を変えたければ体を変えればいい

簡単な話我々は完全に体に支配されているのですから、、、体が変われば全行動、全行動が変わるという当たり前の事実を受け入れればいいのです、、、、そしてこの体は完全に悟りの現れなのです、、悟りの現れの、、、行動、思考、、、ですから、、、体は全部分かっています、、、、この体の状態を物理的に改善していく、、体をリラックスさせていく、、、体を浄化させていく、、、、するとその体に見合った行動思考が湧いてくるわけです。

思うように行動できない、、、

今の体のレベルにおいて完璧な行動が起きています、、、恐怖のエネルギーが溜まっていれば、、、恐怖を感じないように小説や、映画、などのエンタメを楽しむようになっている。体が浄化されていれば、、、五感を使った現実内での楽しみを選ぶ、、、と、、、、全部が全部体のベスト行動が起きるのです、、、そして今その行動に満足を感じていないのならば、、、、体を浄化すればいい、、、それだけです、、、、

体が健康ならば、、、

体が健康ならば、、、体はTVゲームを選ばず、、、、体はこの現実世界で遊びを探します、、、、体は全部知っていますから、、、その体のレベルに見合った行動を選ぶのです、、、、行動を変えようとしても全くの無駄、、、体を変えてしまうのです、、、次の行動に見合った体を最初に手に入れてしまいます、、、、勿論その行動が起きるか起きないかは、、「自分」は関与できません。

どうでもいい、、ではない

全ては同価値

悟り、ノンデュアリティのメッセージは、、、ある種世捨て人的な概念、イメージを植え付けます、、、ですがこれは全くの誤解です、、、、全てが同価値になるのです、、、、母親も、近所のおばさんも、その猫も、、、全部が全部同価値の世界、、、全くの虚無主義です、悲観主義とは真逆です。なぜそうなるのか???それは真実の現れに優劣が全くないからです。。真実はたった一つ、、目の前の経験であり、、、それ以外もそれ以内もないのです、、、ただこれだけ、、、、

全人類が生徒

全人類が学校の生徒、、、、先生は生徒の価値に優劣をつけません、、なぜならば成績の優劣は、、生徒の価値の優劣とは全く異なるからです。。。これが悟りです、、、、全生命現象に優劣がなく、、、全人類の思考に優劣もあるわけがなく、、、全人類の行動にも優劣がないことが完全にわかっった時に、、、この感覚が芽生えていきます。

あるがまま

本当のあるがまま

本当のあるがままとは、、、この個人としての私、イメージとしての私、、が私らしくあることではありません、、イメージの私らしいって意味不明です。。イメージの私は変幻自在にイメージを変えているだけです。。本当のあるがままとは真我の生命現象の全て、森羅万象の動きの全てを許容するということです、、そこにはこの思考、この感情、この行動も勿論含みます。

起こる現象を判断しない

起こる現象の全ては森羅万象の動きのみです、、、どんなに性格が悪い友人の嫌味も、、森羅万象の動きでしかなく、、そこに関与できるような森羅万象の動きを変えれる存在は居ません。「私は私の意思で嫌味を言ってやった」と宣っても、、その宣言こそが森羅万象の動きです、、、その性格が悪い友人の姿形は、、実は見かけ上の私の観念が作り上げています、、、人間という言葉を学び、男という言葉を学び、友人という言葉を学ばなければ、そして嫌味という言葉を学ばなければ、、その存在の言動を理解できないのです、、、つまりそのなのストーリーを作り上げたのはこの私の観念です。だからこそそこの判断を下せば、、そのストーリーをただ延長させることになるのです。

ただ起きた

嫌味を言う友人も、批判をしてくる友人も、妬んでくる友人もただただ森羅万象の動きとして起きました、、この圧倒的理解、絶対的理解をした上で、、その現象をただ見つめます、、、するとほとんどの場合は反応をしなくていいはずです、、、言い返す必要がないケースがほとんどです。。。嫌味を超えて暴力を振るってきたら扉を閉めてしまうか、警察に連絡するだけです、、、これを癖付しますと驚くほどに平和な毎日がやってきます。本当のあるがままとはこの見かけ上の私、イメージの私のことではなく、、全部が森羅万象の動きであることを悟りただその動きと共にあることです、そしてそこから現象そのものであるという気づきが起きます。最後はその気づきも起きない、、現象そのもの、、、そして現象そのものを支える空の存在に気づき、、最後はこの気づきもなくなる、、空と色は一つ、ノンデュアリティ。

土砂降りの雨

ツイてない私

外は土砂降りの雨、、、ツイてない私、、、、もうこれはストーリーです、、、私も雨も、、、、人間が作り出した言葉、、これはイメージです、、このイメージの世界に直ぐに入り込もうとする動きが慣性の法則で働きます、、、この慣性の働きを止めなくてはならない、、、本当はただ起こっただけ、、何かが、、、そこに「私」という巻き込まれた存在は居ない、、それはイメージです、、

ツイテル私

パチンコで5万円稼いだ、、、ツイテル私、、、、もうストーリーです、、、パチンコも、五万円も、私も言葉が作り出したイメージです、、、このイメージ、ストーリーを経験することで、、「嬉しい」が湧く、、、ストーリーの中で、、、、ですが嬉しいは一瞬現れ、、、直ぐに消える、、、この世界、このストーリーの世界の最も怖いところ、、、嬉しいは直ぐに消えるのです、、、だから焦る、、、もっと嬉しいを欲しい。。。ストーリーではこんなことが起きます。

「私」に興味がなくなる

ツイテいようと、ツイテいまいと、、、結局意味が無いのならば、、じゃあ明日から何をすればいいのか???この私は、、、、先ずはこの私はイメージ故に本当の幸福を継続することができないことを理解します、、一瞬の幸福、一瞬の歓喜、一瞬の安堵、一瞬の快楽、、、しか経験できない存在(イメージ)だと理解します、、あぜならばこの「私」はイメージ故に、、、ストーリー上の出来事に対し何も得ることができないのです、、、そこを理解するとイメージとしての「私」に興味がなくなります、、、そこを満たしても意味がない、、、コスパが悪い、、、

私への興味が減り、、真実をすることしか興味がなくなる

このイメージとしての「私」は継続した幸福を獲得できないのならば、、、もうこのイメージとしての「私」に関わる必要がない、、、関心を捨てていいのです、、関心を向けるべきは、、本当の幸福、持続可能な幸福です、、、、ここに関心の全てを向けます、、、、それが悟り、ノンデュアリティ、覚醒です。本当はこの現象の全てを引き起こす真我こそが自分です、、この夢を作り出し、私物語を作り出した張本人が自分です。

自我の根っこをぶった切る

勘違いの大元

自我の活動、反応は、、勘違いという大きな土台の上で起こる化学反応です、、化学反応ですから、、これを静止できる個人、自分は存在しません、、、化学反応を止める唯一の方法は、、この勘違いという土台に完璧に気づく以外に道はないのです。。。その大きな勘違いとは、、、この自分が自由意志で物事を決めているという勘違いです。これが嘘だった、勘違いだった、、、という大どんでん返し、天動説が地動説に切り替わるようなパラダイムシフトを超こします、、すると自由意志がある個人を前提にした、、思考、行動が湧いてこない、、もしくは途中で気づくようになります。

地動説を信じ切った後に。。。

地動説を信じ切った後に、、今日の太陽は早く動くなーとは思いませんね、、全く同じメカニズムです、、、全ての言動は真我から勝手に起こっている、、、これを腹の底から信じた時に、、感情、思考、行動が変わってしまうのです、、、勝手に。蜃気楼を見て早くあそこに行きたい、、とは思いません、蜃気楼という気づきが起きたあとに、、その衝動がもう起きないのです。

これは人類の新しいパラダイムシフト

個人の思考、行動、感情が、、、全部真我からただ起こっていただけだった、、、この気づきは、、、人類のパラダイムシフトです、、この気づきは地動説後の人類の発展と同じです、、、それぐらいに大きな気づきです。この気づきが今人類に起きそうになっています。情報革命が進み、、悟り、ノンデュアリティのメッセージが徐々に世間に浸透し始めています、、これは奇跡です。

敵も味方も、、

この夢の中では、、、

この夢の中では敵も味方も登場します、、、周囲全員が敵になることもあれば、、周囲全体が見方になることも、、、夢の展開は全く予想が立たず、、、、だからこそ今味方に囲まれていても先が見えず苦しい、、今敵に囲まれていてもいつかは変わる、、このように生きています、、、いつになったら本当の安心が来るのか????来ません。。そして来ないことを分かっている、、どこかで。どんなに味方に囲まれても、、その状況も飽きる、、が湧いてきたりする、、もう手に負えない、、、正解がない、、、

夢だと気づく。。

なぜこの現実の世界では本当の幸福は手に入らないのか???疑問、、、何かがおかしい、、、ほどほどの幸福でいい、、そう考えても、、そのほどほどの幸福が一番難しい、、、生きるとはこんなもんだよ、、、で満足出来る人はそれでいいのです、、ですがそれができない人もいる、、、、そのような人に悟り、ノンデュアリティのメッセージは刺さります、、これは実は夢、、、夢を見ている自分がこの体の中に居るという誤解がこの苦しみを作っている。

それならば全部腑に落ちる

なぜ2歳、3歳、4歳ぐらいまでは全く不安なく、、楽しく生きていたのに、、、なぜ小学校に進むころから、、苦しみが湧き始めるのか???やっと納得できる答えが手に入ります、、、何も成し遂げていなかった幼少期が一番幸福だった、、、だか今何かを成し遂げようという試みは無駄に終わる気がする、、その通りです。この夢を現実だと思い込むようになってから苦しみが湧き始めたのです、、この体の中に自分が居て現実社会を生きていると固く信じるようになって苦しくなったのです。本当はこれは夢でこの私は夢を見ている存在、、この体の中に居るのではなく、、、この体を使った夢を見ているだけ。。

夢の中でこの体を体験してるだけ

幼少期はこの体の中に自分が居るとは思っていなかったのです、、全部が自分、、物も植物も、何もかもが、、要は悟った状態です、、、ところが、、、この体には名前が付けられ、、あなたは〇〇だと学習させられ、、この夢を〇〇として生きていくように指導され、、いつ間にか、、これは現実で、、〇〇を生かすためには勉強をしなくてはならないとなり、、徐々に苦しくなったのです。本当の自分とは今夢を見ている存在です。この体の中には居ません。

幻想だから落ち込める

究極の現実は平和

なぜ落ち込めるのか?それは幻想の世界に居るからです、、幻想の世界に入り込んで居るときだけ落ち込むことができます、、、この幻想では地獄も天国も状態としてあるからです、八方塞がりも状態としては確実にあります、、この自分が居るという大前提でしか周囲を塞がれるという感覚を持つことはできません。実際には周囲を塞がれる個人が居ませんから八方を塞がれても落ち込むことはできません。

究極の現実は生命そのもの

究極の現実は、、我々は生命そのものです、、生命そのものですからこの体、このコップ、この光、この雲、、全部を動かす生命そのものです、、、その中に思考が生まれ、感情が生まれ、この体の中に自分が居るという感覚が生命として起きているだけです。ですから我々は全生命そのものなのです。この体を動かす生命と、このコップを動かす生命が別々だという事実はありません。

幻想に入り込むという生命の動き

幻想に入り込むのも生命の動きです、、幻想の中に入り、自分が居て、相手が居てという現象が起こるのも生命の動きです、、そして我々はこの幻想を作り出す全生命です、、その実感が無いだけ、、、ですが実感が無いのも生命の動きです、、そこに突然全体だという気づきが起きます、生命の動きとして。。これが悟りです、ノンデュアリティです、、ユニティーです、、、。