浮遊霊も魂も雲

スピリチュアルは全部雲

これはいいとか悪とかではなく、、、霊魂、浮遊霊、前世、来世、ソウルメイト、パワースポット、、全部が全部雲です。空に浮かび上がる雲です、、現象ですから。実は宇宙人に会ったことがありまして、、その宇宙人は雲です、、、現象ですから。本当の私とは雲ではなく空です。全く次元が違うんです。宇宙人もピラミッドも、アセンデッドマスターも全部が全部空に漂う雲です。

思考も雲

昨日こんな妄想をしちゃって、、その妄想も雲です、、、え?????妄想も雲でここに居る鳥も雲?????同じ次元なんですか????その通り!!!大正解!!!!昨日見た夢の中の映像、全部雲です!!!!夜見る夢とこの現実も同じ雲ですか????はい!!!!間違いなく雲です。そしてあなたは、、雲ではなく空です。全部が全部空の中で起きているドラマです。

雲の正体は?????

空が本当の私だとしたら、、雲は誰ですか??????雲は誰のことですか????雲は全部ひっくるめて私です。空も私全雲をかき集めて私、、、空と雲セットで私です。ただし雲は全くない時がありますが空が無くなることはありません。雲としての私は消えてなくなる時がありますが空は常に常に存在します。雲は空から生じますが雲が空を生じることはありません。そういう意味では雲は空の一部です。雲としての私は空としての私の一部です。じゃあ空が消えたらどうなるんですか???空は消えません、空は唯一無二、絶対です。

魂もイメージ

「た・ま・し・い」

魂もイメージです、、言葉で作られた全てはイメージ化され、、、この本質の世界にイメージが誕生します、、個人の体には魂が存在し、、個人も、魂も言葉ですからイメージです、、この本質の世界から飛び出した、、イメージ。ストーリーの世界の産物です。この世界には本質しかなく、、これは言葉では表現できないものです、、釈迦はこの世界を色と表現し、、、ただ諸行無常、、移り変わる何かと表現しました、、この世界には本来「コレ」と呼ばれる決まったものはないのです。

何もない

覚者はいうこの世界には何もなかった、、、そうです、、これが「これ」という決まったものは全くないのです、、もしもできるとしたら現象の一部をくり抜いて「〇〇」と名前を付けることだけ、、これによって「○○」というイメージがこの本質の世界から作られます、、人間は「○○」というイメージを大量に作り上げ、、このイメージを実在するものであるという共通認識にして生きています。勿論この「わ・た・し」もイメージです。

現象にイメージを当てはめる

原始人は道に携帯電話があっても気づきません、、それは彼らには「け・い・た・い・で・わ」というイメージが存在しないからです。。。現象の中からこれを切り抜けないのです。スニーカーマニアはJORDAN1を知ってます、、そのイメージを持っています、、ですから街を歩けば即座にJORDAN1を探し当てます。それを知らないければ、、街を歩いてもそれを探し当てることは絶対にありません。この世界は言葉でできたイメージの世界なのです。これがこの世界が夢と言われる所以です。

大脳で便利になり大脳から脱却して至福に至る

大脳とは生活を便利にする道具

大脳はこの体を保持するために発達しました、、、あらゆる物に名前を付けて、、、生活を便利に便利にしたのです。そしてこの体にも名前をつけることでこの体の生存確率を確実に上げたのです、、、人類80億人には名前が付けられていますがこれはこの生物の生存確率を上げるために他なりません。

だが同時に苦しくなった

この体に名前を付けることによってこの体の生存確率は確実に上がったわけではありますが、、、なぜか苦しいも同時に湧き上がるようになってしまいました、、、便宜上付けたこの名前によってこの名前にはあたかも確固とした自我が生存するような勘違いも横行し、、、途端に苦しさが湧くようになったのです。。。便宜上のこの名前に確固とした人格、魂が宿っているというところまで発展してしまったのです、思考上。

本当は居るわけがない

名前さえ付けなければ、、、、そこに個別分離した存在などあるわけがなく、、、、名前をつけることで、、、言葉を覚えることで、、、この分別した存在が居るという想像行為がスタートしたのです。だから苦しい、、本当は居ないのですから、、、、じゃあこの苦しみを終わらせるにはどうすればいい????このメカニズムに気づくしかありません、、、、便宜上名前を付けただけという本質に戻らなくてはならない、、、

名前に使われる人生の終了

便利にするために名前を付けてきたにも関わらず、、、その名前が実在するかのようになるまで信じ込み人は不幸になりました、、、、ただしこの世界で生きていくには名前を捨てるわけにはいきませんから、、名前が便宜上であることを再び認識し直すほかありません。本当は名前が付いた個別分離した存在などないことを悟るほかありません。

悟りにハマる人は幼少期の至福感を覚えている

私は悟りに魅了されたのか???

私がなぜ悟りに魅了されたかと言えば、、、幼少期の万能感、至福感をはっきりと覚えていたということがあります。何も条件なくただ幸福だったと言う時間を克明に覚えています。だから一般的幸福に興味が持てない、、車、家、立場、家族、地位、名誉、、、では絶対にここに辿り着けない、、、それは最初から分かっている、、、ただそれがどこにあるのかが分からない、、、

ブッダの言葉が刺さる

この世は無常、、、解脱だけが至福に至る道である、、、、いや絶対そうだよね、、、!!!この言葉を待っていた、、、釈迦最高、仏陀最高、、です。自分の中で何かが発火したのが分かりました。この発火は今まで味わったことがない発火、、だがこの個人という感覚が無くなるとは到底思えない、、、だからそこからはスピにハマり個人としての霊的向上にガッツリはまったのです。

霊的向上に努めるが、、、

霊的向上に努めるが、、、どこか焦燥感が抜けません、、、向上した霊魂が取るべき行動は何か???と今度はそこに縛られてしまうのです。解脱はいつか訪れるもの、、解脱に対する関心も落ちていきました、、、ですがノンデュアリティメッセージの五年前ぐらいから触れることで解脱が決して遠い未来に話ではないことが分かります。釈迦、ブッダの言葉が身近な存在から届けられるようになったのです。

空(0)から色(数字)が現れた

空とは0(零)

この現象界は数字で現せる世界です。りんごが1個、2個、、、人間が1人、2人、、となります、、、そしてこの現象界を起こしている全体(空)はカラという漢字からも分かりますが、、ゼロです、0です。そうですこの世界は零から現れているのです。本当はゼロ、0ですから1、2、3、4は幻想、蜃気楼、空想なのです。その証拠に空をこの現象界で現すとどうなるか、、、1(現象)✖️0(空)=0(空)です。2個(りんご)✖️0(空)=0(空)です。この現象界に空を巻き込めば、、、空になります。空と色は相入れない関係なのです。もしくは1(現象・色)✖️0=0(空)ですから色と空は一つということでもあるでしょう。

本当は0だから、、、

10000円(現象)✖️0(空)=0(空)ということは、、、この現象界でどれほどお金を得ても本当はゼロですよ、、とも取れます、、、本当はゼロだったということを知ることが悟りです。この現象の世界は物に溢れ、数字に溢れ、物質があるように見えてしまいますいからどうしてもこの物質に囚われてしまうのです。私は一時霊的真理探究の旅に出ましたがそれだけでも本当に気持ちが軽くなったのを覚えています。物質しかない、、この認識は完全な誤解であり苦しみを生み出すのです。

魂という概念でどれだけ救われたか

私は魂という概念によって本当に救われました、、、今世(概念)に全く縛られなくなったのです、、それまでどれほどこの今世というものに縛られていたのか、、、です。そして今は前世、今世、来世すら概念に過ぎないことを知っています。概念ですからそれは思考です、幻想です、空想です。事実ではありません。事実は今この場所に全部がある、、今この場所に空(ゼロ)があり色(現象)が全部あります。そこには自分という個別独立した存在は現象以外では居ません。この個人を認識する意識(全体)がただ在るだけです。

分別ある大人とは地獄の状態

分別

分別ある大人になりなさい、あの人は分別ある人だ、、、、分別とは大人としての判断能力があることを意味し、立派な大人、自立した大人、道理をわきまえた大人であることを意味します。ですが真実を伝える立場から言ってしまえばこの状態こそが地獄の状態、苦しみの状態、悟りが完全に閉じた状態です。なぜか???判断こそがこの現象界をファンタジー化し生き辛くするからです。あの人は分別がある、あの人は良識がない、あの人は節度がない、あの人は狂っている、、、こうなります。これは真実からすると全くの見当違いなのです、

その人をその人たらしめているのは、、、

その人の中に何か人格というものがあってその人格がその人を動かしている、、こレが多くの人が認識している人間の姿でしょう、もしくは魂が宿りその魂いがその体を突き動かしていると、、、ですがこれこそが思考。空想、妄想なのです。事実はただ全体からの起こりがあるだけです、現象があるだけです。磨いて磨いて磨きあげる人格、魂は存在しません。これこそが想像、思考です。

そんなことはない江原さんはしっかりと認識している

違います、江原さんという現象が起き、魂が見えるという発言が現象化しているのです。三輪さんという現象が起き魂が存在しいているわよという発言が現象化しているのです。それすらも全体の表現、アート、現象です。何度も伝えますが現象とはかたち(象)が現れると書きます、、現れているのです。そして現れるという漢字を見てください、、見えると書いてあります。。つまり形が見えているのです。蜃気楼です。

霊的進化の罠

魂という存在は便利

魂とは思考です、アイデアです、実在はしません、ですがこのアイデアは大変便利で応用が利きます。霊的進化のために霊的成熟のためにとあらゆるセラピー、メソッドが溢れかえっていますがこれは我々が一般社会でやってきた活動と何も変わりません。より高い偏差値の学校へ、より就職人気会社へ、より高いリッチな家を、、より高く高くというこの活動は魂に受け継がれここでも同じことをするのです。

より高く、より優れた、より強く、、、の輪から抜ける

我々が現実と呼ばれた社会でやってきた進化に疲弊し、スピリチュアルという世界に逃げても待っているのはこの魂の進化ゲームです。魂が進化するのは大変魅力的で神聖な香りがします。ですが散々このパターンで人生が疲れてきてまた同じような進化ゲームに参加するのはもう嫌だ、そう考えてもおかしくはありません。そうです、もう十分、進化発展ゲームは終わりにしたい、、その時に腹落ちするのが悟りです。悟る自分は居ないし悟る魂もない、、という進化ゲーム究極の終焉です。

悟り人すらも人生の最終ゴールにしてしまう

イエスキリスト、釈迦、空海、、、悟ったと言われている人は人生のゴールにされてしまいますがこれは全くの誤解、、、彼らは彼らを形成してきた「自分」「自我」が抜け落ちた体です。つまり人体の中に形成されているだろうとされてきた自分という存在が形成されなくなった体、、、自分という感覚が抜け落ち全体がその体の口を通じてメッセージが湧き上がったという事実があるのみです。多くの方がイメージする悟り人と悟りは全く異なります。

「自由意志がない」は最大のタブー

このメッセージは嫌われる

自由意志はない、このメッセージが広がらない理由はこのメッセージが人類最大のタブーだからです。魂、輪廻転生、前世、来世、ツインソウル、この辺りは信じる人は多くても「自由意志はない」は一気に人気がなくなるポイントになります。私自身このメッセージだけは受け入れるには時間がかかりました。それはありえないだろう、、そう当初は思いました、、ですが覚者と言われる人々のメッセージを噛み砕いてうちに自由意志があると断言する方が逆に不可能であることが腹落ちしたのです。

人間だけが自由意志があると考える方がおかしい

神羅万象、自然界において自由意志がある生物は皆無でありなぜ人間だけが自由意志があると言えるのでしょうか、宇宙の原理はシンプルで特例というのがありません。1+1=2でありこれがあてはまらない分野はない、、、これと一緒で宇宙の原理には特例がなくもしも人間に自由意志があるならば万物すべてに自由意志がないとおかしいことになります。そうなると人間だけが自由意志があると考える方が非常に難しくなるのです。

「自由意志がある」と勘違いすることができる

自由意志があると勘違いすることができる=人間です。明日渋谷に行こう、そして行った、、、これで自由意志があると99.99パーセントの人は勘違いします。事実は「明日渋谷に行こう」が根源から湧き、そして渋谷に行くが湧いた、、です。思考と行動を「自分」が作り出した、、とほとんどの人は思っていますが実はそれが根源から湧いただけなのです。全ては川を流れる葉っぱのように決まって動きが決められていきます。この事実に触れた時に心底安堵が湧いてきます。

人に関心が高いのは悟りが閉じている証拠

人に関心を持つのが難しくなる

あなたの目の前に映る人々は全自動で動いています。根源からの動きがそのままあなたの前で行われているだけです。その体の中に確実に居るであろう魂のような存在は目に見えないのですから絶対に居ないのです。もしもあなたが認識できない世界があるのならば目の前のそれは完璧では無くなってしまいます。ということで自分が認識できないことを色々想像するのは辞めましょう、やってもいいのですが全く意味がありません。なぜならば事実としては存在しないに決まっているからです。

この人は家ではこんな感じであんな感じで

TVで犯罪者が警官に連れられて車に行くのを見たことがある人は多いでしょう。多くの人はその光景を見てこの人はなぜやってしまったのか?どんな家庭環境で悲惨な目にあっていたのか、、、と推測したりします。ですが事実をお伝えするとそんなものはありません、あなたが見ている世界以外に世界は存在しえないからです。ですからその犯罪者の幼少期は絶対に存在しないのです、悲惨な家庭環境も皆無です。ですがもしもあなたが彼につて調べればあらゆる情報が手に入るでしょう、そうしたらその情報だけが浮かび上がったというだけです。それ以上も以下もありません。

今目の前で起きている事実以外に関心を持たない

今目の前に起きている事象だけが全てであってそれ以外は絶対にない、、、この事実を先ずは理解しましょう。病弱な両親も、子供も、今目の前に居ないのならばこの世には存在しないのです、もしもあなたの目の前以外に存在するならばこの根源は完璧ではなくなってしまいます。ということであなたの世界で心配しなくてはいけない人は居ません、もしも目の前で苦しいでいるように見えるならば救ってあげればいいのです。

地球の裏側の戦争難民は

地球の裏側では戦争難民が溢れ、、、という情報を見てこれは大変だ、、、寄付をしなくては、、、と心配する人が居ます。ですがもしもあなたの目の前にその難民が居ないのならば事実としてはこの世には居ません。もしも居るならば目の前の現実(完璧)は完璧ではなくってしまいます。目の前に全部あるから覚者は悟り全体に気づくのです。全体は目の前で全体だからこそ全体なのです。地球の裏側が存在するならば目の前の全体が全体では無くなってしまいます。

幸福になる方法を完璧に勘違いしそのまま死ぬ

操縦席には誰も居ない

友人と話をしている際に友人の体が視界に入るわけですがその体の中には確実に誰かがいてその誰かがその友人を操っていると信じています。それは魂であったり、ソウルであったり、インナーチャイルドであったり色々な言われ方をしていますが、、ですがこの誰かは実は居ません、そんあはずはない、、しっかと思考する自分がいるはずだ、、、違います。自分が居るはずだという思考が湧いているだけです、自分が居るに決まっているという思考が一日中湧いているのです。

じゃあこの人生は一体誰のものなのか???

じゃあこの何十年間の私の人生は一体誰のものなのか???答えは誰のものでもない、、ただこの体が五感を感じまくってきただけです、この五感に思考がへばり付いて私ストーリーを想像してきただけです。起きることは最初から決まっていてそこに思考が付着していただけです。逆に言えば思考がなければこの私ストーリーは存在できるはずがないのです。ありとあらゆる思考がこの五感と結びつきストーリを想像していただけなのです。思考様様なのです。

私ストーリーでは幸福になれない

絶対幸福とは現象そのものです、現象そのものイコール絶対幸福です。ここのストーリーを奏でれば現象そのものではなく現象上の思考世界になります。この思考世界が苦しみを生み出します、完璧に。苦しいという完璧な思考が湧き出てきます。苦しいが不完全なのではありません、苦しいという完璧な思考が湧いてくるのです、この完璧な現象に。水に顔を埋めれば苦しいという完璧な思考が湧いてきます、この完璧な現象の中で自分が居るという思考を湧かすと苦しいという完璧な思考が湧くのです。