エックハルトトール

エゴ(自我)の研究とは???

これはウイルス対策

ウイルス対策ソフトは、、ウイルスのプリグラムパターンを予測し、、それに反応するようになっています。予めウイルスのパターンをPCにインストールしておいてそのパターンが起動した時その時点でそれに反応します。PCがウイルスに対し自動反応を起こさないように予め予測したソフトこそがウイルス対策ソフトなのです。悟りとはエゴのパターン、自我のパターンを予め学びこれを自動増殖させないためのことです。

エックハルトトールは自我(ウイルス)の動きを見破った

エックハルトトールは書籍の中で再三に渡ってエゴの動きを解説します、、、なぜか????PC(全体)にエゴの動きを学習させエゴの自動増殖を防ぐことを覚えさせているのです。ウイルス(エゴ)は動きを予測されてしまうと自動活動がやりにくわけです。水面下(無意識)に動きを強化し気づいたら染まっていたという状態が安定状態です。一方エックハルトトールはその動きを再三に渡って詳しく説明し要所要所でPC(全体)にこれを気づかせる仕組みを作ったのです。

全てが繋がる

悟りとは覚醒とは解放とは、、この仕組みを完全に理解してしまうことです。プログラム(思考)の異常増殖阻止、PCと言語の関係、ウイルス対策とは????完全に完全にこの仕組みを理解できますと、、、勝手に思考(プログラム)が立ち上がり、、イメージの世界から出れない、、、なんてことはないですよね????とはいえこれを理解してしまったら、、もう思考の世界、偽りの自我(洗脳プログラム)が幅を利かせることができなくなりますから、、そう簡単ではないのです。

エックハルトトールに起こったこと

「この体こそ思考こそが自分」という概念が崩れ落ちた

エックハルトトール、トップオブマスターと呼ばれ、、多くの方の悟りに世界で一番影響を与えたと呼ばれる方です。この方のエピソードは非常に面白く私は何十回と読み返しました。彼は苦悩した日々で「この私と付き合っていくのはもう十分だ」という思考が起こります、誰かがもうこんな自分は結構だと!!!その時に思いました。誰がこの自分は十分だと言っているのか????その瞬間に自分と思っていた思考が崩れ落ちました。次のダイアモンドのような光で目を覚まし悟りに至ったのです。

概念が崩れ落ちることはたまにある

田舎ってみんな温かくて優しいよね!!!東京から引っ越した当初はそのように感じる人は多いはず。ところが3ヶ月もしないうちに実は閉鎖的で仲間になかな入れてもらえないという現実に向き合うようになる、、そして半年後には「田舎ってべつに温かくて優しいわけじゃない」といままでの概念が崩れ落ちるのです。過度なストレスで思い込みが外れたのです。エックハルトはまさにそれが起きたのです、過度なストレスで「この体、この思考こそが自分」という概念が落ちたのです。

落ちるということは真実じゃない

つまりこういうことです、思い込みは過度なストレスで落ちるんです。エックハルトに起こったこと「この体この思考が自分」という思い込みが過度なストレスで落ちた、です。つまり「この体この思考は自分」というのは真実ではなく思い込み、観念です。つまりこの体この思考は自分じゃないのです。じゃあ誰だ????この在るという感覚、経験を所有しているのは誰なんだ?????

この体この思考は自分じゃない?????

いやでも一体全体、、、自分って何なんだ????という話です。では答えを言いましょう、、それはこの体、この思考、見える全てです。そして見える全てに気づく存在です。空即是色って聞いたことありますよね????空から色が現象化し色は空でもある、、、です。これが自分です。。。これ全部で自分です。ある時、、、この体この思考が自分だ!!!!という強固な思考が起こり、、その思考を土台にさらなる土台が起こり続けるという現象が起きたのです。ただそれだけ。

そしてある時ストレスが過度に起こり、、その思い込みという現象が落ちた

TVゲームをやっている時に、、、記憶データがパンパンになり途中でゲームが落ちるってあるんです。そして改めてゲームをリスタートしようとすると、、、記憶が飛び初期設定に!!!!!アベシ、ヒデブ、、、、です。エックハルトに起こったことは「この体、この思考は自分」という観念、思い込み、概念だけが落ちた、、、そして他の記憶はそのまま。。。。です。

今までの自分が居なくなると、、、

とにかく楽、なんだか楽、、軽い、、、主人公だと思っていたこの私がこの体、この思考じゃ無かった、、、でも普通に生活は送れる。。。。。そして孤独感、分離感、虚無感が全く湧いてこない、、、だから何かを手に入れなきゃ、、評価されなきゃ、、まともに思われないと、、、が出てこない。子どもの時の感覚、、背負っていると思っていたものが完全に抜け落ちた、、、です。

エックハルトトールの功績

スピの部分を一切排した

エックハルトトールは悟りブーム、非二元のブームの火付け役です。彼は専門用語を一切排してエゴの特徴だけを説明していきます。自我、エゴの特性を説いていくだけでなぜ人は悟りに至るのか???それは我々がいかにエゴ、自我の動きに無頓着で無警戒で無意織かということです。つまりその存在を認識さえしていないぐらいに当たり前になってしまっているのです。

そうか、エゴってあるよね???

人間の苦しみは間違いなくこのエゴが大きく大きく関わっています。例えば恥をかいてしまい死にたくなるぐらいに悩む、、、としましょう。。。恥をかく、プライドを傷つけられた、、当たり前ぐらいの感情ですが、、ここに大きくエゴが関わっているのです。もしもエゴが肥え太っていないならば、、死にたくなるようなことにはならないでしょう。つまりエゴの大きさによって全く気にならない、と死にたくなる、、ぐらいの差がでるのです。 

人生の苦しみって結局エゴ次第

これだけ文明が進化したにも関わらず人類はストレスを手放すことができたのでしょうか???答えはNOです。ストレスは増大傾向にあるのです。つまり物質的豊かさは人類を救ってはいないのです。では精神的豊かさは今後人類をストレスから解放するのか???しません。YOUTUBEが発達し今子供は朝から晩までYOUTUBEを観て過ごすことができます、ストレスないですよね????そうじゃないんです、飽きるんです、YOUTUBEによってエゴが刺激されて新しい衝動が起きます。

豊かさを追いかける足算ではなく本質を理解する時代へ

物質的豊かさを追いかける時代が終わり精神的豊かさを追いかける時代に、、それでも幸福にはなれない人類は次に構造を理解する時代に入ります。構造とは実は自分など存在せず、自由意志など存在せず、見えるこの世界ただ一つしかないことを知る時代です。真実に近づく時代に入ったのです。

エックハルトトールに人が癒される

文章全体が気づきの意識から湧いてくる

悟り系の書籍で世界で最も売れた本はエックハルトトールの書籍でしょう。彼の本は気づきの意識そのものが彼を通じて描かれています。思考の仕組み、エゴの仕組みをエンドレスに描き続けています、、一度表現した文章が何度も手を品を変え描かれ続けています、、、これは気づきの意識そのものに帰るトレーニングのようです。彼は一貫して思考を観察せよといいますが、、一貫して気づきの意識の立場になれば直ぐに分かるということを示唆します。

文章を読んでいるとなぜか癒されている自分に

文章を読んでいますとなぜか癒されている自分に気づきます、、気づきの意識が織りなす様々な文章に触れ続けることで自身が気づきの意識であったことに気づくのです。気づきの意識の視点からの様々な人間活動が説明されているのです。揺るぎない気づきの意識からのメッセージが続きます。ピカソの絵が気づきの意識からエンドテスに描き続けられてきたようにエックハルトは気づきの意識の視点での描写が続くのです。

彼は言葉と言葉の間に空白を入れる

実際の彼の講演では、、言葉と言葉の間に無言が作られます、、、意識的な空白の時間が作られます、、これぞ気づきの意識そのものの時間、、本当の我々はこの空白の時間、気づきの意識であるという示唆です。自我は彼の言動にイライラします。自我のメカニズムが終始バラされてしまっているからです。この本に対し興味深く読める方は、、もう自我の終焉プロセスに入っているかもしれません。自我がこの本を拒絶する場合はもう少しこの夢を見ていたのかもしれません。それも良しです。

1日に何度静寂に触れるか

目を閉じると全ての音は静寂から湧いているのが実感として分かる

事実としてはこの世界は静寂から湧いています、目を閉じて音だけを注意深く聞いてみてください、、静寂から音が飛び出してくるのが分かります。これは実践しなくては絶対に分かりません、言葉で伝えるのは不可能です。静寂は言葉ではなく静寂であり、、静寂という言葉の中に静寂はないからです。ただ目を閉じる、そして全ての音に注目します、、冷蔵庫の電源の音、ヘリコプターの音、子供の泣き声、大人の笑い声、、、あらゆる音が聞こえてきます、、、事実はただ音だけがこの世界に広がります、、、音を発する何かは存在しません、存在してしまったら目の前の暗闇以外に何かが在ることになってしまいます。それでは目の前は完璧ではなく不完璧になってしまうのです。完璧な真っ暗な中から音が湧き出すことのみにしっかりと集中していくのです。すると全ての音は静寂から湧き出していることに気づきます。

ただ目を閉じるだけなのになぜ静寂が湧いてくるのか

目を開いてただ景色を眺めていても静寂はなかなか湧いてきません、我々は目を開き景色を見たら最後、これはTV、これはPC、これは観葉植物、と名前の世界に入っていってしまいます。そしてそれを見る自分を意識します。自分という感覚が湧き出してきます。視界を眺めながら自分を忘れるのはなかなか難しいのです。ところが目を閉じると名前がある世界が消えます、目の前には暗闇が広がります。その瞬間物が消えてなくなるのです、自分という感覚も消えやすくなります。音だけが静寂から湧き出してきます。静寂に触れれます。毎日静寂に積極的に触れることができます。すると目を開いても全ての物が静寂から湧いているのが体感できます。

その静けさは静寂に触れているから

エックハルトトールの動画を見た人は気付くと思います、彼はなんとも言えない静寂を醸し出しています、あれを誰もがやれると思ったら大間違い、、あれは静寂に触れ続け静寂そのものになってしまったから醸し出されるのです。彼の言葉は確実に静寂から湧き上がっています。静寂に触れ続け静寂そのものなってしまえば喧騒の中に居ても静寂を感じ、豪雨にあっても静寂を感じることができます。なぜならば全ては静寂から湧いてきているからです。

エックハルトトールの偉大さ

人間が書いた本ではない

悟り、ノンデュアリティー、エンライトメントこれらの世界に興味がある人の多くは彼の書籍を読んだことはあるでしょう。彼の本は人間が書いたモノではなく間違いなく無我、無心、真我が自我を介在しないで書いています。彼の本を読んでいると不思議にも思考がクリアー、感情もクリアーになっていきます。クリアーというと何もないという印象を与えるかもしれませんが熟睡した次の日のような感覚を一日中味わえるのです。思考がジャックしていない状態、感情がジャックしていない状態とは熟睡時の感覚であることが肌で感じることができます。

何かをするから楽しいは全部嘘

今日はこんな予定があるから楽しい、昨日はこんな用事があったから楽しかった、、これらは嘘の充実感です。本当の充実感はそのようなモノではなく静かな平和に襲われた感覚です、静かな安堵、静かな愛に襲われた感覚、これが二極、二元、正負を越えた感情による充実感です。何も予定がなくても静かに幸福、、この感覚とは思考、感情にジャックされていない無我、無心、真我の状態です。エックハルトトールはこの状態に意識的に入り書籍を書き上げたことが読んでいて感じます。

彼は思考、感情との同一化からの脱却に終始する

彼の書籍には非二元本特有の非二元ベースの書き方がありません。あくまでも人間という存在をベースに本が書き上げられています。私は当初これではせっかくの内容が最終的に自我に活用されてしまうのでは?と懐疑的に思う部分もありました。ですがこの書籍を何度も反復して読み返していくうちに、、自我のメカニズムを理解するだけで思考、感情のジャックが収まることを体感しました。一番重要なことは自我の乗っ取りから外れた世界の説明ではなくいかに自我がこのメカニズムを維持しているかに精通した方がより確実に無我に入れることだという理解に落ちました。自我は大変巧妙でどのような素晴らしい体験、気づきすらも知らぬ間に自我の手柄にしてしまいます。おかしい、いつの間にか苦しい感情が湧いている、、、このパターンです。エックハルトはこの点どこまでも自我のメカニズム、思考の乗っ取り、感情との同一化とそれだけの説明に終始することで自我のカラクリを壊滅的なまでに見抜いていきます。

負の感情から逃げるという生き方から負の感情を使って悟るという生き方へ

これはポジティブシンキングとは全く違う

私は基本快楽主義です、ですから嫌なことは大嫌い、やりたくないことはしなくていい、我慢など愚の骨頂、常識世間体糞食らえで生きてきました。これをしないために仕事に打ち込んで結果を出すことでこの生き方を継続してきました。仕事技術達成のための負の感情はルーティンという反復作業で無思考に持ち込みむしろ楽しんでこれを達成してきました。だからこそなおのこと「やりたくないことはしない」こう決めて生きてきました、エックハルトが説く感情観察から悟りに入る方法は知ってはいましたが自分には関係ないとタカを括っていました。ですがどうしても気になる、どうしても避けて通れない、、負の感情から逃げるという癖がついた自身のエゴがこれを強烈に避けているところに悟りのヒントがあることは分かっていました。感情観察はポジティブシンキングとは全く違います、ポジティブシンキングとは観念書き換えです、ですがこの観念こそが負の感情を生み出しているというのが悟りです。観念はポジティブだろうとネガティブだろうと負の感情を生み続けます。その観念を支える思考というエネルギーこそが偽りの自分を作り出しているからです。

負の感情は見なくていいと決めていた

私は究極の快楽主義です、ですから負の感情とは見なくていいものと決めていました。とはいえ一日2時間以上のエクササイズを自身に課し、1日2時間以上パソコン作業に向かい、さらに仕事もする、、、ネガティブな感情が湧かないわけがない、、、ところが作業に集中する、無心になる、無我になるという感覚を習得した私にとってこれらはネガティブな感情を沸かす要因にはならなかったのです。もしもあるとするならば対人関係で嫌なことを言われる、軽い態度を取られる、、恩を仇で返される、、、などでした。そしてこれらが起こった際には冷静なNOで対処してきました。ですから負の感情を味わうことがほぼほぼ無かったのです。

これからはしっかりと観察していく

1日のほとんどの時間を無心、無我の状態で過ごすことができる自分にとって嫌な感情と向き合う時間はほぼなくそしてそれを気にもしませんでした。ですがエックハルトトールの思考観察、感情観察を読み返していくうちにこれは今後積極的に自分の人生に取り入れていくことを決めました。自分自身から湧いてくる思考、感情を観察するということは難しいことではありません、なぜならば人とのコミュニケーションではこれを冷静にする自分がいるからです。なぜ自分の思考、感情を観察するのが難しいと感じているのか?これぞ自我の策略、自我の延命措置に間違いないでしょう。

負の感情観察から無我に入る

負の感情観察から無我に入る、、、これは矛盾を抱えた表現にも思えます。負の感情を生み出しているのは紛れもなく自分自身でありそれを観察することで無我に入るとはどういうことでしょうか。負の感情を生み出しているのは自分自身であるのですがそれが偽りの自分自身だということです。偽りの自分が居るからこそ負の感情が湧き起こっているのです、これを真我、無我で観察します。大いなる存在としてこの感情を観察することでそのまま歓喜、安堵、平和になります。負の感情が湧くということは偽りの自分がそこにはあり、だからこそそれを真我で眺めることで偽りの自我が消滅します。負の感情発生とはそこから悟りに入る大チャンスだったのです。

思考と感情の繋がりから悟りに入る

感情から逃げない

パワフルな人は負の感情が湧いた来た時点で思考ではなく行動、アクションを起こしてこの負の感情からの逃避を図ることができます。私などはその一人で負の感情が湧いてきたら筋トレ、仕事、ブログ制作、断捨離、読書と何かに集中してこれを取り除いてきました。この行動は無心、無我、大いなる存在と一つになることを可能にしますから積極的にこれを行ってきました。ですがやはり負の感情から逃げてきたという事実は間違いなくそのため私は悟りというモノに対する関心興味が尽きることはなかったのです。覚者、悟り人はどうも自分とは違う、この確信だけが私をそこに貼り付けにしたわけです。エックハルトトールの書籍を読むと何かに集中すること、そして思考、感情を観察すること、この二つを大いなる一つになるやり方と提案しています。

感情が湧いたらそれをただ観る

パワフルであればあるほどに負の感情が湧いたその瞬間に何かしらのアクションを起こしそれを回避できます。ですがそのやり方だけでは負の感情の根源を見つけることはできません。特に集団で一緒に居る時など何かしらのアクションを起こせないですから非常に苦しい時間になってしまうのです。その点思考、感情を大いなる一つになって観察するというのは素晴らしいアイデアです。思考、感情と一緒になってしまうのではなく思考、感情を観察する気づきの意識、大いなる一つにその場でなる。これが私にとっても新しい大きなチャレンジになりました。

感情が湧いたらそれを消し去るのではない

感情が湧いた時にそこから逃げる、この時逃げる自分という存在は継続されます。負の感情が湧いた瞬間にその場から立ち去れば確かに負の感情を味わうことを避けることができますが逃げる自分の存在は付いて廻ります。そうではなくその感情をしっかりと観察する、その思考をしっかりと観察する、、、その観察する存在とはまさに大いなる存在、気づきの意識です。今自身から負の感情が湧いてきている、その感情を徹底的に観察してやろう、、、この新しいメカニズムが自身から自我を抜け落としその場で大なる一つになれます。このメカニズムが新しい自分、大いなる一つを出現させます。その場で歓喜、平和、安堵が訪れます。

夢の中に出てくるアジャシャンティーやエックハルトトールをどのように扱えばいいのか

なぜ夢の中にこれらの覚者と呼ばれるような存在が出てくるのか

アジャシャンティー、エックハルトトール、トニーパーソンズ、ラマナマハルシ、これらの覚者と呼ばれるような存在がもしもあなたの夢に出現したとしてそれをどう受け止めれば良いのでしょうか。夢の中に夢のカラクリを解説する登場人物が出現した、そう取るだけです。ですから彼らは登場人物であって人間ではありません。人間風覚者とでも呼べばいいのか、とにかく夢の中に出てきたキャラということになります。そして彼らを変に尊敬し、依存し、囲い込むというのもまた間違っています。尊敬しようと依存しようとそれは夢の中の登場人物でしかありませんし、彼らが話す内容も全て夢の創造主から湧いてくるだけです。ですからそれは時に真実を照らしているようにも見えれば見えない時もあるただそれだけです。

夢の登場人物の言葉を鵜呑みにしてもしょうがない

言葉とはこの夢物語の中でただ湧いてくるモノですからそれがラマナマハルシの言葉だろうが、エックハルトトールの言葉だろうが、トニーパーソンズの言葉だろうがそこに真実があるという保証は一切ありません。そもそも真実を正確に言い当てる言葉など証明のしようがないのです。ですからこの夢物語の中に真実らしきことを言っている登場人物がいる程度の認識でいいかもしれません。誰が何を叫んでいても説いていてもそれを認識している、意識してるのは全存在(真実)です。登場人物の全てが全存在の分離に見える現象、現象の全ては全存在が変容した表現です。

誰が本当のことを言っているのか

このは夢物語ですから誰が本当のことを言っているのかは永久にわかりませんし、分かるのは夢から覚めた時です。夢である以上その中の登場人物は変幻自在に変化する可能性すらあります。言葉ではこれが夢物語だと表現してもでは覚めた状態はこうだといい言える言葉はありません。言葉の限界はこの夢物語の中での表現を超えることができないことです。言葉とはこの夢物語の中でしか沸き起こらないモノです。言葉も勿論真実(真我)から湧いて出てきますが言葉が真実を証明することはできません。色即是色、空即是色、、、現象界は即ち全存在であり、全存在は即ち現象界です。

海であることを忘れた波は今日は明日のためにある

思考は今にはない、思考は常に過去、未来を俳諧している

海であることを忘れた波は、思考を駆使して生き延びていきます。そのため思考を手放すことを極度に恐れます。心身こそはこの私であるという思考も思考です、そのため思考を駆使して生きていれば苦しい日々が続きます。この心身こそ自分であるという思考は分離意識を常に強めていきますからこの分離意識を弱めたければ思考を手放す以外ありません。ですが現場が苦しければ苦しいほどに自我は思考を使って生き延びようとするのです。明日のために思考を駆使します、来年のために思考を駆使します。そして駆使すればするほどに分離意識が強まりますからより苦しくなるのです。

思考こそが海から分離した波をさらに分離に追い込む張本人

思考があるからこそ自身は波であると思い込むことができています。思考がなければ自身が波だという思い込みはできません。思考が海を波に分離し波物語というストーリーに誘っています。にも関わらずこの思考を使って生きようとすれば波は永久に波物語から解放されることはないのです。思考とは波を波の次元、時間空間次元にい続けさせるための張本人です。もしも波が海に戻るならばこの思考を落とし欠落させ、無心、無我に入り込むしかないのです。

将来のために今に入る、体に入る、所作に入る、思考を観察する

とはいえこの体を持ち、生き抜いて行かないのは事実ですから将来に対しヤケクソになるのは得策ではありません。自暴自棄になってもしょうがありません。そうではなく将来のための準備、明日の準備に入り込む、所作に入り込む、仕事に入り込むことでそのまま無心になります、無我になります。波は将来のために海になるのです。もしくは思考がグルグルするならばその思考を観察するという所作に入り込みます。思考を観察することに無心になって臨むのです。エックハルトトールは思考を観察することから大いなる一つになることを推奨しますが観察することに無心になる、観察道に入ればいいのです。思考を観察することに体を使うのです。体は常に今にあります。