真実

意識をどこに向けるか

人間は見えない世界について一日中考える

あの時友人にあんなこと言っちゃたなー友人はそのこと気にしているかー。そういえばあの友人に最近連絡してないけど起こっているかなー、そういえば旦那に今日必要ないこと言っちゃったっけ、会社で機嫌悪いのかなーです。人間は今目の前の現象ではなく見えない世界のことばかりをやたらと考えて思い悩み1日を終えるのです。ですが本当は見えない世界では何も起きていない、無です。

重要なことは今目の前に起きること

今目の前で起きることは確実に起きています、幻想として、現象として。そしてその現象によって体験が積み重なっていくのです。本当は体験しか起きていないの現象自体は幻想です、ですが体験(見える、聞こえる、感じる、香る、触れる)は真実です。体験という物質ではない真実だけが積み重なっているのです。これだけが事実です。世界はあるがままの表現でありそのあるがままの表現の中で経験だけが起き続けているのです。それ以外は全て幻想です。ですが少なくとも今目の前に起きる幻想は事実ですからそことしっかりと付き合っていくのです。

その現象が現れた時に楽に付き合えれば良い

重要なこと、それは今目の前に居ない相手が現象化して現れたと時に楽しく付き合えること。そのためにこの真実を理解することです。今起こっているかな、今機嫌が悪いかな、今恨んでいるかな、、と悩むよりも真実を理解して軽く軽くなっていくのです。するとその相手が現れた時に気軽にフランクに付き合えるのです。とはいえこの体には自由意志も自分も存在しないのでそういう流れになるかは神のみぞ知るです。

孤独感は思考が作り出した産物

本質は孤独ではない

一人では何もできない、いつも友達と一緒に居たい、、、なぜならば孤独だから。これは思考が作り出した孤独感です。本質はこれ全部です、いつもこれ全部、、全部が全部、、これが本質です。この中に自分という存在が居るという感覚が生まれ(現象化)ることで分離感が生まれ(現象化)し孤独感が生まれ(現象化)したのです。本当はコレしかないのでそこに孤独などないのです。これは全部です。

なぜ鳥は孤独ではないのか?

一匹の鷹が北海道の大草原の上を飛びます、、人間であれば孤独を感じることもあるでしょう、、その鷹から孤独を感じませんね。鷹には自我がありませんから鷹にとって自分とは見える景色全てです、この全てに気づくしか起きていないのです。鷹のボディを自分という概念がないということは見える世界全てが自分です(自分という概念はないが)朝目覚めて寝るまでに気づかれる現象の全てが自分です(自分という概念はないが)

悟りとは

悟りとは自他が無くなることです、見える世界、聞こえる世界、全てがここにある、以上です。それを見る私も存在せず、それを聞く私も存在しません。ただ現象が起き気づかれる。この感覚が分かってきますと孤独感が湧いてこなくなります、誰も私に注意を向けてくれない、誰も私に構ってくれない、、という思考が湧かないのです。それは真実ではないからです。真実は孤独を払拭します。

多くの方が求める幸福は経験でしかない

成し遂げた瞬間(経験)を求めて

多くの方が求める幸福とは何かを成し遂げた瞬間(経験)のことです、結果その次の瞬間にはまた新しい成し遂げるべき何かに向かって走らなくてはなりません。これは本当の幸福ではありません。なぜならば一瞬の幸福だからです。本当の幸福とは瞬間(経験)のことではなく永遠のことです。つまり個人が成し遂げる何かではなく個人から脱却することこそが至福への道なのです。

個人は瞬間でしか幸福になれない

私が幸福になる、、、これを多くの方は求めるのですが、、、個人というのは実在しないので幸福になれません。実在しない存在を幸福に導くのは不可能なのです。だから私は幸福には絶対に絶対になれないのです。そうではなく私、自分が抜け落ちおた時、本当の至福が訪れます。私を主語にしている間は幸福になれないのです。

朝起きれば私をやるしかないですよね?

そんなこと言っても朝起きれば私をやるしかなくないですか????違います、私は実在しないのですから本当はやっていないのです、、、居ないにも関わらず居るという思い込みをしてやっているのです。とはいえ社会で活動する際には名前で呼ばれ名前での付き合いがありますから表面上はそれをやらなくてはなりません。ですがそれを真実であると思えば苦しみに襲われます。

経験の材料は何だ???

経験しかないにも関わらず

この世界には実は経験しかありません。聞くという経験、香るという経験、触れるという経験、見えるという経験、味わうという経験、、、経験だけです。それ以外に何かあるでしょうか???何もないはずです。私たちは生まれてこの方経験しかしていないのです。経験以外の何かを得たことがない。。。経験だけを毎日毎日毎分毎分毎秒毎秒積み重ねただけです。本当は時間なんてないんですよ、本当は空間すらもないのですよ!というのは真実です、なぜならば我々は経験しか知らないからです。

経験の材料って何???

ではこの経験の材料とは何でしょうか????分かりません、、、例えばケーキを食べたという経験の材料は何か???ケーキですがな、、、違います、、味がした、、、という事実以外は、、事実ではないのです、、、ケーキを見る、、、という経験はありますが、、それはケーキが実在している証拠にならない。経験というのはどんなにかき集めても物質にならないのです。つまり我々は物質でないものをかき集めていつだけです、、だから無なんです。

この世界が幻想である決定的証拠

我々はこの世界に降り立って経験しか積んだことがありません。花を見るという経験は花の実在の証拠になりません、コーヒーを飲むという経験はコーヒーの絶対的実在にはなりません、音楽を聞くは、、音の実在の決定台にはならないのです。どこまでいっても経験しかないのです。これが完全3D映像だったとしても誰も否定できないのです。そして本当にこれは幻想なのです、だから経験しかしたことがないのです。

この体の中の自分

自分がこのような経験をした、自分が花の香りを嗅いだ、自分がコーヒーを飲んだ、、これは嘘です、想像です、本当は経験しかありません、、そこに自分は全く登場していないはずです。旅行に行ったならば、、飛行機に乗る、外の景色が目に入る、上空から下界が見える、、、どこにも自分は登場しないんです。自分が経験を積んでいるというのは思考です。本当はどこまでいっても経験しかないのです。

私が居てあなたが居る、この大前提は苦しみの始まり

全ては一つの生命現象

私というものを強く強く意識しますと、相手のことも当然意識します。私を尊重し相手も尊重する、、尊い行為のようでいて実は苦しいのです。実は全く一つのエネルギーがただ動き表現されているだけ、私とあなたを遮るものは実は全くないのです。にも関わらずあると思う思考が起き上がっているのです、そしてそれを気づきの意識が気づきます。

あの人はこうだ、あの人はこうに違いない

周囲の人を批判の対象にするのはその人の中にその人を統率する自我が存在していると信じているからです。だからこのような行動、仕草、言動をするからにはこんな性格の自我が存在しているはずだ、、という思考が湧き上がっているのです。そしてその大前提にはこの体の中に強烈な自我が居ると信じる思考があります。これは強烈な分離意識ですからその時点で苦しいのです、たった一つのエネルギーが分離していると信じることで緊張が生まれます。

真実に戻る

本当はたった一つのエネルギーがただ揺れ動いているだけです、その動きの一つが今いる相手から言葉として現れます、そして次の瞬間にまた他の人間から言葉として現れます。ただそれだけです、そしてこの私の体からも言葉が現れます、、ただこれが起きるだけです。もしかしたら嫌味な言葉が相手から起きるかもしれませんがただ起きただけ、そこから推測をしなくていい。もしかして推測が起きればただ苦しくなります、なぜならばそれは分離意識を強化するから。真実はたった一つのエネルギーが揺れ動いているだけです。

気づく

スーパーに行けば

スーパーに行けば、、陳列が並び、音楽が鳴り、店員さんが動き、他の客が歩く、、、全てに気づく、、気づきの意識が、、その気づいた内容を私が認知した、、、という思考が湧く、、それに気づきの意識が気づく。。お買い得商品に気づき、、商品を購入する、、私はラッキー、、、そういう思考が湧く、、それに気づきの意識が気づく。実はこの全ての行動に「私」は関与していない、、全部気づきの意識が気づいただけだから。

人間は可愛い

人間は可愛い動物です、気づきの意識が気づいたことを「私」が気づいたと全て転換する動物、、、そしてその大前提で思考が湧き続け、、それに気づき続ける、、、本当は気づきの意識が全て気づいているのに。人間だけが自分が全部やっているという信じている、、、そういう思考が湧きそれに気づきの意識が気づいています。

自我が完成すると、、

自我という収縮したエネルギーが完成しますと、、、もうそれだけで苦しい、、、苦しいから次から次へと何か手に入れるべき次の目標が必要になる、友人と電話しよう、お茶を誘おう、お酒を誘おう、旅行の計画を立てよう、もっと良い職場を探そう、もっと格好良い洋服を買おう、次々に獲物を探していく動きが始まります、、この全てを気づきの意識が気づきます。

自分が居るという感覚は真実とはかけ離れている

自分が居るという感覚は真実ではありません、、真実はたった一つのエネルギーです、、その中に自分という独立したエネルギーが存在できるはずがないのです。だから自分という感覚を維持するのは苦しいのです、疲れるのです、、、無理をしているから。ということで自分というメカニズムを理解します、、そうすると力が抜けてきます、自分っていう存在を頑張って誇示しようとする動きが無くなっていきます。

真実と概念は違う

私たちが信じているのは概念

ノンデュアリティ、悟り、非二元のメッセンジャーが伝えるのは真実です、真実は概念ではありません、、、言葉という制限されたツールで真実を伝えていくわけです。多くの人が信じているのは概念です、概念は真実ではありませんからこの概念の中に生きていることで苦しみから解放されないのです。もし今自分が苦しいならば概念の世界に居る、ただそれだけです。

真実と観念は違う

真実と観念が異なります、真実は真実です、、観念とはその人が信じている考え方、概念です。それぞれの人はその人の観念を持ち、その観念に影響された幻想の中に生きているのです。この幻想の世界は苦しいので早くここから出たいと本質レベルでは感じているのです。友人が少ないと寂しく、友人が多いと人間関係が複雑で疲れる、、どこまでいってもこの世界は苦しいのです。

お金を得ても人気を得ても苦しいのは観念の世界に居るから

「自分」がこの世界に生きていると思っている間は常に苦しみに襲われます。「自分」がお金を得て、人気を得ていると思っている間は苦しみに襲われ続けます。なぜならばそこは本当の世界ではないからです、そしてそのことを本質では常に感じています。だから人は救いを神に求めるのです。ですが神とは「自分」とは異なった違う場所にいるのではなく今ここ、「この私」すらも含めて神なのです。今見ている世界そのものが神自身のアート、神そのものなのです。

このことをみんなに伝えてあげなくちゃ

真実の少しでも触れた人間は周囲にこれを伝えなくては!!と思うはずです、ですがそれは喜憂、無駄、大きなお世話です。なぜならば「私」も「あの人」も「この人」も全部あるがまま、神のアートですから最初から救われているのです、あるがままのアートが救われないのならばあるがままはあるがままではなくなってしまいます、神のアートが救われないのであれば神は神ではなくなってしまうのです。ですから全員が最初から救われているこれは神の、あるがままのアートなのです。そしてそのことも全員が本質的には分かっています。

しばらく会っていないあの人

最近何してるかな?

私の目の前に登場していない人はこの世界には存在していません、同窓会で10年ぶるに会った友人は10年間存在していなかったのです、あるがままの世界に。10年ぶりにエネルギーが変化してこの世界に登場しました。では10年間は何をしていたのか????何もしていない存在しないのですから。あるがままの世界はたったひとつのエネルギーですから今ここに実在しないのであれば存在しようがないのです。

電話はしたけど

電話はしていたしFacebookでは活動を見ていた、、、つまり音、画像としては存在していたのです。体ではなく、、たった一つのエネルギーが音、画像として表現していた、、ただそれだけです。つまり一年間誰とも会わなかったら私以外誰も存在しないということでしょうか??その通りです。この世界はたった一つのエネルギーですからここ以外にエネルギーが存在してしまったらたった一つではなくなってしまうのです。

東京に上京した息子が心配で

大丈夫です、あなたが見ていない瞬間、、、子供は存在していませんこの世に。あなたが電話をしたときにだけ声だけ登場します。今何をしているだろう???大丈夫です、存在していませんから。しっかりと食べているだろうか?????存在していないのですから何かを食べるということは不可能です。では痩せちゃうのではないか???それは分かりません、あるがままがどのような表現をするかです。

見えていない世界に関心を持たなくていい

今目の前に広がる世界だけが全てです、これ以外に世界はないのです。ですから見えていない世界の心配をしても意味がない、地球の裏側では、、、お隣の韓国では、、、全て無駄、、、存在していないのです、いまこの瞬間。息子の将来が心配で心配で、、、時間がないのですから息子の将来などないのです、、ただたった一つのエネルギーが誰の関与も受けずに変化するだけ、、、つまり誰にも何もわからないしコントロールできない、、これが真実です。

でどうしたらいいのか?ではない

真実に触れるとどうしたらいいのか?は出てこない

悟り本を読む、読んで内容は分かった、、自分も居ない、自由意志もない、時間も何もない、、それは分かった、、ではどうしたらいいのか????と多くの方は疑問に思うはずです。残念ながら、、どうしたらいいのか??が湧いているうちは分かっていないのです、気づきが起きていないのです。真実とは究極のリラックスでありリラックスによって全てが変わってしまうのです。その時にではどうしたらいいのか??は出てこないのです。

不安感とはあるがままを信用できていない状態

不安感が消えなくて、不安がいつもでてきてしまう、、、この状態は個人の自由意思に大きなウェイトが置かれているからこそ出てく状態です。自由意志で人生を個人が切り開いているという気持ちになっている時に湧いてくるのです、なぜならば個人も自由意志も全部本当は実在しないことを本質では分かっているからです。真実ではないことを信じているから不安なのです。

成功してもいつも不安な理由

本人は自由意志で的確な判断を重ね成功に至ったと信じている個人も本質レベルでは自由意志も判断も個人もいないことは分かっています。ですから間違った概念の世界に居ることは本質では分かっているのです、だからいつも不安なのです。成功者の自殺などの悲しいニュースが後を絶たないのはそのようなことを示しています。自分自身が次に正しい判断をできるか常に不安なのです、それはそのはず自由意志など最初からないからです。

複雑化する社会の中で

中高生時代に絶望する

子供から大人になっていく過程で人間はどうやって生きていくべきかを思考するようになるのですがTVニュースなどを見る限りどうやら社会は大変複雑になっていると気づき始めます。そして勉強が得意ないわゆる優等生ほどに保守的になっていくことからもどうやら生きていくとは保守的に収まっていくものなのかもと思い始めるのです。自由とはほど遠い、むしろいかに安全に収入を得ていくかを真剣に考えていく人生になっていくのです。

自由とはほど遠い生活

一つ一つの選択が重要になる生き方とは自由とは程遠い生き方です、そうです自我が行使する決断人生は大変重いわけです。本当は自由そのものであるにも関わらず自由とは対局の行き方を選び生きていくのです。世の中で成功者と呼ばれる人々が選択の王であるのならば彼らは自由とは対極にいるわけです。自由とはなにを選んでも良いことであり成功とは選択を誤らなかったことだからです。

成功法則の罠

成功者の成功本を読めばあらゆる選択の重要性が説かれています。成功者はこの時どういう決断をするのか!の羅列です。年収1億円プレイヤーはこういう決断をする!です。ですがこれはより決断を慎重に適格に行えというアンチテーゼでありこれは自由とは真逆の生き方のなのです。彼らは選択を間違えばいつでも非成功者に戻ると宣言しているのですから。我々の本質は自由であり全ての選択肢を楽しむ存在です。成功者になるためには、そして成功者であり続けるためには選択を適正に行い続ける必要があるのですから。これは自由とは真逆のことです。

社会が複雑であろうと

社会が複雑であろうと、、我々はいつでも自由になれます、、それは先ず選択するという行為を自分がやっていないことを早く悟ることです。選択の全ては自動反応で起こっており自分は何も介在していないのです。今現在自分が決断に関与していると思っているのはそう思っていからだけです。だから社会が複雑であろうと単純であろうと決断には全く個人は関与できないのです。つまり流されていくだけです。

流されていくことでどんどん自由になる

何も決断を自分はしていない、この真実に染まっていきますと、、環境がどうであれ悩むということが不可能になります。悩むというのは自分が決断に関与していると信じているから悩むのであって全く関与していないのであれば悩むのは不可能なのです。会社の経営会議に参加すらしていない社員が議決の判断に悩むのは不可能です。少なくとも悩むことに全く意味がないことに気づくだけで世界は軽くなります。