気づきの意識

意識が意識に意識する

意識が思考に意織する

我々の多くは「意識が思考に意織しています」これが一般的な人間の在り方、、意識が「この体この思考この感情こそが自分」という概念を意織しています。その結果その概念がそのままここでイメージ化されイメージの世界に入り込むのです。と同時に分離感、孤独感、不足感という憤りが発生しそれも意織が意織します。結果その憤りを概念としての「私」が解決する動きが起こり、、思考というプログラムが落ちない状態にはいります。これが苦しみのメカニズムです。

一方

一方このメカニズムに気づきが起きた意識は、、思考に立ち上がりに対し、、思考で解消しようとするのではなく、、この思考が落ちるのを待つという解決策を取ることができるようになります。「この体この思考この感情は自分」という思考感覚が起こす不快感を、、意識として観察するという方法です。その結果思考が立ち上がっても不快感が起きない、、という状態になります。意識が思考の立ち上がりと同時に意識に意識が向くからです。意識が意識に意識が向くと、、安堵、平和、喜びの状態になります。これは感情とは全く違い本質そのものです。

苦しい時こそ

苦しいな、、嫌だなー、しんどいなーーーこの時確実に意識が思考に意織しているはずです。やりたくないバイト、相手をしたくない仕事パートナー、、、その時思考がフル回転してこれを解消しようとしますが、、、回転すればするほどにストレスが増すのを感じてください。そうではなく「苦しい、嫌だ、しんどい」が湧くのは対象に意識が意織していて「意織」では無くなっていることに気づきます。すると、、意織としてただ現象に気づくという新しいスタンスが生まれるのです。

子供に嫌なお使いをお願いすると

子供に「卵買ってきて」これをお願いした時に、、「嫌だー、、嫌だー」と本気で泣き出す子供がいます。これ「嫌なお願い」に対して湧いてくる思考を掴み取り、その思考に思考を重ね、湧いてくるさらなる感情を掴み取りさらに思考するという、、思考感情連鎖を野放しにしているのです。これによって意識が意識に意識できない状態、、つまり安堵から程遠い状態に入っているのです。

悟りのイメージ

あの人は悟ってるよね!!!そのような時人はその人に対して「感情がないフラットな状態」を感じているはずです。それは半分正しい解釈です、実際には意識が感情思考に意識せず、意識が意識に意識している状態を保持しているのです。ですから感情ではなく本質を味わっているのです、ただし味わっている「私」は居ませんが。

日本は不景気で多くの人の生活が困窮している?

目の前で起こることのみ

どのような悲惨なニュースがマスコミを騒がしていたとしても、、、目の前の現象だけが全てです、本当に目の前で困っている人が居れば、、それが全てです。私に気づかれていない事件は世界には一切起こっていません。もしもあなたの1日の中で目の前で殺人が起きていないのであれば、、、殺人事件は起きなかったのです、一切。私に気づかれていない現象は何も起きていないのです。もしも私が気づかないところで何かが起きるのだとしたらこの目の前のあるがまま(全部)は全部ではなくなってしまう。

自己中心的?

これは自己中心的とかそういう話ではないんです、本当にこの目の前以外には何も起きていないのです。例えば目の前に卵があるとして、、、本当はこの卵の中では細胞分裂が起きているんですよ!と聞かされたとしても「私」に気づかれていないのならば、、、起きていないのです。起きようがないのです、気づかれない現象は起きないのです。そして本当は気づくのは「私」ではありません、気づきの意識が気づきます。現象が現象に気づくのです。

気づかれない現象はない

マジックってあります、、目で追えない場所で様々な仕掛けがしてあってビックリするような現象が起きる、、、嘘です。本当は仕掛けなど起きていません、気づかれていないのですから。気づかれたことだけが現象として起きるのです。「私」がマジックをやる方であれば、、仕掛けに気付いています、つまり現象として仕掛けはあるのです。

森羅万象と気づきの意識は一つ

この世界の森羅万象

今目の前に広がる世界、森羅万象はそのまま気づきの意識でもあります。現象として起こると同時に気づきが起きる。現象の起こりとその起こりに気づくが同時に起きるのです。森羅万象の他に気づきの意識があるのではない、、二つは一つです。二元でなく非二元です。今目の前に鳥が現れました、、鳥が現れるという現象は気づかれてことです、現れると同時に気づかれているのです。気づいたのは「私」ではありません、気づきの意識が気づくのです。

目の前に子供が

車の運転中目の前に子供が飛び出してきました、この子供に気づくのは気づきの意識です。私ではありません、、子供自体(現象)がそのまま気づきの意識によって気づかれるのです。子供は現れたが気づかれることはない、、そのような現象は起きないのです。すべての現象は現れたら必ず気づかれるのです、私が知らないところで満開の桜が咲いている、、、そのようなことは絶対に絶対に起きないのです。現象とは気づかれることとセットなのです。

今も地球の裏側では、、、

今も地球の裏側では幼い子供たちがお腹を空かして、、苦しんでいる、、、そのようなことは起き得ないのです。目の前の現象として現れた時に同時に気づかれるのです、気づかれたその瞬間に現象は現象になるのです。でもTVではよく映像で流れていますよ、、その映像だけが現象化し気づかれました。気づかれない現象はない、、本当にこの世界はシンプルです。

経験はあっても経験者は居ない

経験者不在の経験のみ

私たちの通念では経験者が先ずそこに居て次に経験がある、、経験者、経験、対象の3セットでこの経験は成立していると考えています。幻想の世界ではその通りです。ですが経験者は幻想、対象も幻想であるとなるとあるのは経験だけです。幻想二つで経験が生み出されています。経験から幻想を引き算すると経験のみです。経験だけが毎秒毎秒重なり合い、、時間があるという思考が湧き上がり、、その思考を気づきの意識が気づきます。その思考を作り出す経験者は居ないしその思考に気づく経験者も居ないのです。

これからも死ぬまで経験者不在で経験だけが積み重なる

この体が誕生してから我々は経験だけを積み重ねてきました、経験者不在で。そしてこれからも経験だけが積み重なっていきます。毎瞬毎瞬、、経験は確実にあるのですが物質ではありませんから無です、、、経験という無を重ねて重ねていくのです。この無の集大成があるがままです、あるがままがたった一つのエネルギーであることはここからも分かります。

それが分かったところで

それが分かったところでこれから我々の人生に何か影響があるのか????我々は実はこの経験を積んでいる経験者を凄く重視するのですが、、、経験者って全く出てこないのです、、経験者って想像の産物でしかありません。経験者という想像の産物に重きを置くから緊張が走るのです、本質ではないからです。想像の世界、ストーリー、ゲームに入り込んでしまいます。本当は経験者(マリオ)は実在しません。それが本当に腹落ちするとこれからの人生(本当はない)は軽くなります。

私が居てあなたが居る、この大前提は苦しみの始まり

全ては一つの生命現象

私というものを強く強く意識しますと、相手のことも当然意識します。私を尊重し相手も尊重する、、尊い行為のようでいて実は苦しいのです。実は全く一つのエネルギーがただ動き表現されているだけ、私とあなたを遮るものは実は全くないのです。にも関わらずあると思う思考が起き上がっているのです、そしてそれを気づきの意識が気づきます。

あの人はこうだ、あの人はこうに違いない

周囲の人を批判の対象にするのはその人の中にその人を統率する自我が存在していると信じているからです。だからこのような行動、仕草、言動をするからにはこんな性格の自我が存在しているはずだ、、という思考が湧き上がっているのです。そしてその大前提にはこの体の中に強烈な自我が居ると信じる思考があります。これは強烈な分離意識ですからその時点で苦しいのです、たった一つのエネルギーが分離していると信じることで緊張が生まれます。

真実に戻る

本当はたった一つのエネルギーがただ揺れ動いているだけです、その動きの一つが今いる相手から言葉として現れます、そして次の瞬間にまた他の人間から言葉として現れます。ただそれだけです、そしてこの私の体からも言葉が現れます、、ただこれが起きるだけです。もしかしたら嫌味な言葉が相手から起きるかもしれませんがただ起きただけ、そこから推測をしなくていい。もしかして推測が起きればただ苦しくなります、なぜならばそれは分離意識を強化するから。真実はたった一つのエネルギーが揺れ動いているだけです。

自我の役割を剥がす

五感からの情報収集

自我の役割の一つ、それが五感から得たあらゆる情報を整理することです、、、例えばテニスプレイヤーであれば相手の顔色、息遣い、動きのキレ、顔色、筋肉の張り、、、、全情報をインプットして整理して、、、今日のプレイスタイルを判断していきます。100パーセントの力で戦うか、80パーセントぐらいにしとこうか、、などです。自我はこれをやっていると思っています。ですが実際には全部気づきの意識が気づいています、、その全ての情報を。そしてその気づいた情報に基づいて作戦が湧いてきます、、その作戦に気づきの意識が気づくのです。

思考を練り上げる

自我の役割の一つが思考を練り上げることにあります、、右に打とうか、左に打とうか、もしくは浮かせるか、もしくは接近戦か、、、よし接近戦にしよう!!!と、、作戦隊長的な役割を自我が担っていると思っています。ところがその全ての思考は勝手に湧いてきています、そしてどれを選ぶかも勝手に湧いてきています。そして湧いてきた思考に気づくのは気づきの意識です。

行動を起こす

練りに練った作戦を通じて実践するのも自我の役割です、、実際にこの体をそう仕向けなくてはならない、、、ところがこれも違います。実際にはその行動が勝手に起きています、勝手にその行動を起こしているのです、この体が。作戦とは全く違う行動を起こすこともあれば作戦通りに動くこともあるでしょう、、その全ては勝手に起きています。そしてその動きに気づくのは気づきの意識です。

あれ、自我は何もしてない

そうなると自我は何もしていないではないか!!そうです、何もしていないのです、、何もしていないのならば自我って本当は存在しないんじゃ、、、そうです、存在しないのです、残念!!!え、、じゃあ、、みんなはこの体の総合責任者、CEOとして自我を持ち上げているけど、、その席には実は誰も座っていないということですか????その通りです。誰も居ません、、、マリオの中には誰も居ないように、この体の中にも誰も居ないのです。じゃあ自我が消滅する、自我が再吸収されるという言葉も幻想???そうです。本当は最初から誰も居ないのです。居ると思い込む感覚、エネルギーが消え去るのです。

引き寄せるのは誰だ?

引き寄せる自分は居ない

引き寄せの法則が一時期流行りましたが、、引き寄せる自分は実在しませんからこの法則は無理があります。ですが自我が緩んで緩んでいくことで究極のリラクゼーションが訪れ見える世界が輝いていくことはあります。ストレスという固い固いエネルギーの塊が緩むことで、、見える世界、触れる世界が変わることはあるのです。例えば1億円の宝くじが当たったとしましょう、、その瞬間世界は輝いて見えるはずです。一時的に自我の緊張が緩むからです。

究極のリラクゼーションを目指して

仕事で大活躍している人に会えば私も頑張らなくては!!!と思ってしまうし、、、輝いている人に会えば、、私もあの人のようになりたい!どうしたら???となるでしょう。ですが本当はそうではなく、、、デフォルト「苦しい」を解除することが一番重要なのです。信じて疑わない「自分」という存在をもう一度解析し本当は居ないことに気づくこと、自由意志を行使する自分など存在しないこと、、、

主人公が居ない生活

五感は全てこの体が担っていると思っているので自動的にこの人生の主人公はこの体になります。ですが本当は気づきの意識が全ての現象に気づいています。そうなると主人公はもうこの体ではない、、この体ではなく気づきの意識が気づいているだけ、、、、主人公は気づきの意識です。主人公がこの体だったからなんとかこの体を大切にしなくては、となるのですがそれももうどうでもいい、、、体なんて小さな物じゃなく気づきの意識が我々の本質なのですから。これが解放です。

気づく

スーパーに行けば

スーパーに行けば、、陳列が並び、音楽が鳴り、店員さんが動き、他の客が歩く、、、全てに気づく、、気づきの意識が、、その気づいた内容を私が認知した、、、という思考が湧く、、それに気づきの意識が気づく。。お買い得商品に気づき、、商品を購入する、、私はラッキー、、、そういう思考が湧く、、それに気づきの意識が気づく。実はこの全ての行動に「私」は関与していない、、全部気づきの意識が気づいただけだから。

人間は可愛い

人間は可愛い動物です、気づきの意識が気づいたことを「私」が気づいたと全て転換する動物、、、そしてその大前提で思考が湧き続け、、それに気づき続ける、、、本当は気づきの意識が全て気づいているのに。人間だけが自分が全部やっているという信じている、、、そういう思考が湧きそれに気づきの意識が気づいています。

自我が完成すると、、

自我という収縮したエネルギーが完成しますと、、、もうそれだけで苦しい、、、苦しいから次から次へと何か手に入れるべき次の目標が必要になる、友人と電話しよう、お茶を誘おう、お酒を誘おう、旅行の計画を立てよう、もっと良い職場を探そう、もっと格好良い洋服を買おう、次々に獲物を探していく動きが始まります、、この全てを気づきの意識が気づきます。

自分が居るという感覚は真実とはかけ離れている

自分が居るという感覚は真実ではありません、、真実はたった一つのエネルギーです、、その中に自分という独立したエネルギーが存在できるはずがないのです。だから自分という感覚を維持するのは苦しいのです、疲れるのです、、、無理をしているから。ということで自分というメカニズムを理解します、、そうすると力が抜けてきます、自分っていう存在を頑張って誇示しようとする動きが無くなっていきます。

自我の動きに気づくのも気づきの意識

どうしたら自我を消滅させれるか

悟り系を学ぶ方々は自我という存在を強く強く意識します、自我さえ消滅できれば、、、ですがこの自我ですが、、今この動きがあるのは気づきの意識がそれに気づいているからです。自我という動きは気づきの意識がそれに気づかなければ全く存在できないのです。全てはこの体の中にいる「自分」という存在が動かしている、、この思考に気づくのが気づきの意識です。

構造を理解する

脳が全現象を知覚しているという事実とは異なる概念を信じたことからこのマリオゲームはマリオが全部やっているという大勘違いが生まれていきます。実際は全て気づきの意識が知覚していてその知覚をゲーム上マリオの脳がやっているという、、、思考が生まれ、、その思考を気づきの意識が気づきます。五感と思考が組み合わさり、、この体の中に自分がいるぞ、、という概念が生まれそれに気づきの意識が気づくことで自我は完成します。コミュニケーションとは相互に自我を肯定しあう行為ですから益々自我は強固になっていくのです。

構造が理解できれば

構造が理解できますと、、、それをやったのは「自分」だという思考が湧いてきても、、いやそうじゃない、、が湧いてきます、、脳という機能を信じると、、脳の中に自分という存在が居るように感じてしまうのですがその嘘のメカニズムを打破できます。現象の変化は変化と同時に気づきの意識が気づいている、、この事実が完全なパラダイムシフトを起こします。主人公が自我から気づきの意識に変わるのです。

ゲーム上は脳が五感を作っているが実際は気づきの意識が気づいている

マリオの脳には五感を作り出す力はない

スーパーマリオが進化して五感の全てを再現したとしてもマリオがその五感を感じているのではありません。感じているのはプレイしている人間ですよね。これは全く人間ゲームも同じで人間の五感はゲーム上脳が作り出していることになっていますが実際には気づきの意識がその場で気づいています。味覚もゲーム上は舌にある組織から脳に繋がってとなっていますが、、、実際には気づきの意識です。

思考に気づくのも気づきの意識

ゲーム上は思考もマリオの脳内で作り出し脳内で感知しているとなっていますが実際には気づきの意識が湧き上がる思考に気づいているだけです。ゲーム上はマリオが思考を作り出したという思考が湧き出しそれを気づきの意識が気づくのです。ゲーム上はマリオの脳が全思考、全行動を作り出したことになっていますが実際には湧き出した思考、行動を気づきの意識が気づきます。この気づきを「私がやった」という感覚が湧きますがそれを気づきの意識が気づきます。

脳が実在しているを証明するのは無理

ゲーム上は全部脳が感知していることになっていますが、、これは全部幻想です。その証拠に脳が実在していると証明するためには視覚、聴覚、触覚、味覚、嗅覚が必要になります、ですがこれは脳がやっていることになっています。ですがその脳が本当に実在していることを証明するにはまた視覚、聴覚、味覚、嗅覚が必要になります。五感を使っている人間が脳の存在を証明するのは不可能なのです。

全てを気づきの意識が気づいている

全てを気づきの意識が気づいているとなると時間の存在が必要なくなります。音が鳴ればそのばで音に気づき、風が吹けばその場で風を感じる、何かを食べればその場で味を感じ、思考が湧けばその場で思考を感じる、、全ての現象は湧き出た瞬間に気づきの意識に気づかれています。それをマリオが作り出した、マリオが感じたんだ、、、という感覚が湧き出した時にその場でそれも気づきの意識が気づきます。つまりタイムラグがないのです。原因と結果の法則が成立しなくなってきました。

スーパマリオには時間はあるのか???

スーパーマリオとうゲーム本体には時間という存在をしっかりと埋め込まれてしるのでしょうか???答えはNOです。TIMEという表示が変化するように設定されているだけです。マリオは動くのではなく、、その瞬間瞬間に移り変わる点灯によって動いているように見えているだけ。その点灯の動きに気づく存在がいて初めて時間があるという思考が湧く、、その思考を気づきの意識が気づきます。

森羅万象の動きも同じ

この人間社会、森羅万象も全く同じです、、現象の動きの全てに気づく存在、気づきの意識がいるので、、その変化に常に気づきます、、、気づいた変化をつなぎ合わせた時に時間があるという思考、概念が湧き出し、、それを気づきの意識が気づくのです。猫という現象、、これが変化していく、、その動きの全てに気づくから、、猫が動いている、、という思考が湧き、、その思考に気づきの意識が気づく。。。です。時間も空間も全現象に気づく気づきの意識があるからこそ、、そのような概念が湧き出しそれに気づく気づきの意識があってなりたつのです。