自作自演

自作自演

このドラマは、、

このドラマは完全無欠の中で繰り広げられるわけですから不幸になるには間違いなく自分の力でなるしかないんです。本当の主人公は完全無欠至福歓喜平和ですし実はその中(本当の主人公)でしかこのドラマは上映できないんです。ですから気を抜けば至福に逆戻りです。つまり偽りの自己を維持することでしか苦しみを感じることはできないのです。だから偽りの自己がやるべきことは「偽りの自己」を維持するこれだけです。

気を抜いたら至福に戻ってしまう

今映画を上映している映画館は「至福平和歓喜」しかない場所です、、この中で至福平和歓喜以外になることは絶対に絶対にできません。もしもこの中で苦痛をかんじることが可能だとすれば上映中の映画の中だけなのです。映画というフィクションの中だけは苦痛を感じることができます。そのために重要なこと「この体この思考この感情のみが自分」という役に入り込むことです、ここを頑張ってもらわないと苦痛を感じることはできません。

偽りの自己が嘘なのは明白

完全無欠の存在(映画館)において上映中以外は平和歓喜至福しかありません。映画の中に入り込むためには「自身はこの体この思考この感情である」という思考が湧き続けるしかないのです、、、これが湧かない時は平和至福歓喜に戻ってしまいます、つまり上映外に。上映内、映画の中に留まるためにはどうするか?????「この体この思考この感情が自分」というデフォルトを一切崩すことなくこの映画の中で彷徨い続けてもらうしかないのです。何があってもこのデフォルトを崩したら終わりです。逆に言えばこの初期設定をしっかりと維持してもらえれば何をしようと何を達成しようとどんな裕福な生活をしてもらおうと全然問題は起きないのです。

偽りの自分に気づく????

ただしここで問題が起こります、、見かけ上の全ての豊かさを手に入れても至福歓喜平和に至れない「偽りの自分」は、、、この延長線上には至福がないことに気づいてしまいます。だって今までの努力が全くもって結果を出していないからです。ではここから「偽りの自分」をどうやって維持するのか????そこで役に立つのがスピの世界なんです、霊的向上、霊的進化です。しかしそこまでくると半信半疑、いやーこれって今までと同じだろ???です。

この辺りから

この辺りから、、、、自分って存在をやっている限りは無理では???という疑問が起き始めます。どうやら悟りってジャンルに入り込まないと難しいんじゃん????となっていきます。観念がそうなりますからそれらの情報が徐々に入ってくるのです。最初の内は玉石混交、、、な情報ばかりですが徐々に真実に近づく内容が集まり始め、、、最終的にこの偽りの自分が壊れ始めるのです。

所詮は自我の右往左往

恋人と別れ困っている、、

友人から相談を受けます、、、「パートナーと別れちゃって、、困っている、、」仲の良い友人であれば、、、何かしてあげなきゃ、、、、という思考感情が生まれてくる、、、、重要なことは、、先ず友人の困っているという思考、感情を感じているのは、、、神だということ、、、、ですから先ず何も問題がない、、、神が困っているを感じているのです、、、、友人ではないのです、、友人の体の中に居る「私」はイメージです、、、イメージは「困った」を感じることができないのです。

本当に辛そうな表情をするが、、、

本当に辛そうな表情をしますが、、、その表情の中に居るのは「私」というイメージであって、、イメージはどこまでいっても辛いを感じることができないのです、、、感じているのは神です、、、、神を心配する????あるわけがない、、、、、、神は全部の感情を機械的に感じているだけであって、、、神を心配するのは世界一の杞憂でしょう。

「私」というイメージを作り、、「その私が困った」というイメージを作り、、「悲しい」をこしらえた

神の完全なる自作自演です、、、神の完全なる自作自演が今目の前で起きたのです、、、さあ、、、その上でどうするか決めればいいのです、、、、、ただしどうする「自分」もイメージでしかないので、、、この「自分」の言動も勝手に神から起こります、、、矛盾だらけの文章になってしまいます、、、、、、全部が全部神の自作自演、、、その気づきが全深刻さを消し去ります。

この世界が苦しい、、当たり前

苦しみも、悲しみも、何もない世界

なぜ人は悟りに興味があるのか???それは当たり前の話です、生命現象に名前さえ付けなければ人はその瞬間から至福の境地に戻るのです。全生命現象に苦しみなどありません、人間が勝手に名前を付け自分も作り出した時に初めて孤独、苦しみ、悲しみ、恐怖が生まれたのです。自分というこの世から完全独立した存在を思考の中で作り出したときに人間は苦しみを開発したのです。人間の脳が苦しみを発明したと言っていいでしょう。本当はただ生命現象が変わり続けるのみでそこには苦しみなど皆無なのです。

名前など一切ない世界に苦しみは存在しない

人間はこの体に名前を付けてしまったがゆえに自分がバカにされた自分が褒められた、自分が虐げられたという想像をするようになりました。事実はこの自分など存在しませんから自分が虐げられたなど空想の世界丸出しです、そして虐げられたと言って涙まで流すのです。思考にはそれほどの力があるわけですが事実は何も起こっていません。虐げる個人は存在せず虐げられる個人も存在しない、、これが事実です。

ユートピアなど大嘘

我々人類はどこか遠くにはユートピアのような平和な世界が在るのではないかと期待をしますが、、こんな滑稽な話はないのです。なぜならば今広がる世界には争いはそもそも全く起きていないのです、人間が勝手に名前を付けて争っているかのように見ているだけなのです。こんな自作自演はありません、本当に間抜けなことを人間はしているのです。この世から名前を無くしてみてください、襲われる個別生命体は存在せず襲う個別生命体は存在しないのです。ただ変化だけが起きています。

あらゆる生命現象に名前をつけてファンタジーにした

名前など何もない世界

この世の生命に名前など本来全くありません。草に名前を付けたのは人間で動物に名前をつけたのも人間です。人間は見える範囲の全てに名前をつけてさも独立した何かがあるかのうようにしました、事実では何もない、、ただ生命現象が移り変わるだけです、その中に居る人間にも名前などなく後付けで名前をつけその中に独立した何者かがいると勝手に想像しているだけです。この現象界に名前が最初から付いているものなど皆無です。

思考が紡ぐファンタジーの世界にようこそ

名前が一切ない全体、根源の現れに名前をつけて我々人間は進化していきました。生命現象に名前をつけてそれを記憶しそれを後進に伝えていったのです。そのようなことが起き続けていきました、その結果名前がつけられた独立した何かがこの世界には溢れまるで独立しあった存在同士の争い、共闘、和平、共存が繰り広げられているように見える世界が生まれたのです、人間の思考の中だけのファンタジーが誕生したのです。そもそも争うなど一切ない世界に名前を付けて独立した何者かが溢れたことによって争っているように見える世界が誕生したのです。

全ての生命現象から名前を取っ払えばあら不思議、、平和が鎮座する

試しに全ての生命現象から名前を取り除いてみてください、、、争いは無くなってしまいます。チーターがシマウマを襲ったという映像においてチーターが居なくなり、シマウマも居なくなれば何かが何かを取り込んでいるように見える映像に変わります、これが真実です。ここには争いが起きようがないのです。名前がない世界には争いが存在できないわけです。

勝手に名前を付けて恐ろしい世界になったと嘆く自分

体の中を観察すれば善玉菌が悪玉菌を殺す、悪玉菌が善玉菌を殺すなどの表現がありますが、、それもせ明現象に名前を付けただけんことであって変化が起きただけです、名前さえなければ争いは起きようがないのです。ただ変化が起きているのみ、、、これは人間社会も同じで名前がついたから争いと表現されますが名前がなければ変化がただ起こっているだけ、、、その変化に対し自分が居るという思考と感情という思考が湧き続けているだけです。全生命に名前を付けてファンタジーの世界にし自分も作って自分ストーリーを日々奏でているのです。自作自演にもほどがあります。

だから人は悟ると何もないと言う

覚者は全員こう言います、何も無かった、、、当たり前の話です。名前は人間が発明した技術であって名前が発明されるまではこの生命には何もなかったのです。そこには生命現象しかなくそして今もそうです。人間が発明した名前の技術が継承され続けているだけです。この世の苦しみとは名前を付けまくった人間が自分という存在(ファンタジー)を作り出しこの自分という檻の中に完全に閉じ込められてしまった錯覚を生きているからです。元々は何もなくそして今も何もないのです、独立した何者かが確実にあると信じ合う世界、独立した何かがあるという共有の中で生きる時のみ苦しみが湧いてきます。

自我すらない、、

ただこれだけがある、、、

ただこれだけがある世界に、、、思考が湧き出てこれに取り込まれます。これのよって初めて自分という存在が生まれます。それまでは自分などどこにいません、ですが思考が湧き出すことで自分も一緒に生まれるのです、これが自我のメカニズムです。そこから思考に取り込まれて続けているうちに自分はより確固たるものになっていきます、幻想上。目の前に友人がいます、本当はただこれだけがあります。そのただこれだけを見て思考が友人であると認識します、そこからその友人が生まれます、それだけです。全部この場所でただこれだけが思考によって切り刻まれ分離錯覚させているだけです。非二元は非二元でしか存在できません、これをその場で切り刻み分離錯覚世界にしているだけです。

そうしたら非二元に戻れるか

究極のギャグです、今も非二元の世界が先ずそこにあり、そこに思考の認識が始まり世界が切り刻まれているだけです。瞬間に人間の思考が解釈を加えます。そしてそこから思考が湧き上がりその思考にしがみつきます。自作自演のメカニズムです。この思考の自作自演に取り込まれている間は苦しみの世界が続きます。非二元は平和、歓喜、安堵ですが、、そこから分離の世界、幻想の世界に入り込むことで非二元が薄くなっていきます、神が薄くなっていきます、ワンネスが薄くなっていきます。ただそれだけです。

思考の自作自演を見抜く

ですが我々は思考を暗記してしまったので、解釈なしの世の中に戻するのはできません。何もない世界に戻すことはできません。だから先ずは五感の感覚にだけ戻していきます、五感は今にしか感じることができません。先ずは今にある習慣を掴んでいきます、そこから思考に流れていきません。今にあることを習慣化していきます。完全に分離して見えてはいますがその世界の中で今にある習慣化をしていきます。

顕在意識(私)は潜在意識(神)が決めたことを私が決めたと錯覚を起こす

顕在意識はただひたすらに錯覚を起こす

顕在意識とは私のことです、この私は潜在意識(神)が決めたことを私が決めたとひたすらに錯覚を起こし続けます。本当は全部潜在意識が決めているにも関わらずただ健在意識はそれを私が決めたと錯覚を起こします。全部が全部このパターンで行われています。だからこそ無自覚であっても料理、掃除、食事、トイレなどの日常生活の行為は勝手に遂行されます。今私はタイピングしていますが自分が打っているという自覚は後付けでしかありません。

顕在意識が私が決めたと錯覚を起こすことすらも潜在意識が決めている

ということは顕在意識がこの錯覚を起こすことすらも潜在意識が決めているということになります。大変面白い事実です。結局のところ「覚者は全て自作自演であると言う」のはこの事実からです。潜在意識から昇ってきたきた衝動を顕在意識が自分が決めたと錯覚を起こし続けるメカニズムが人間(私)です。

何も決めていないならば何も反省できない

このメカニズムを知ると、、顕在意識(私)に決定権は何もなく、、、決定権が何もないにも関わらず慢心したり、反省したりするのは無茶苦茶な行為です。人間(顕在意識)に決定権が何一つないならばこの世界で行われている責任の擦り付けに何か意味はあるのでしょうか。ただしこの責任の擦りつけすらも潜在意識が決めてそれを顕在意識が錯覚を起こしているだけですのでそれすらも顕在意識には関与できません。この世は神の遊び場というのはどこまで行っても本当のようです。

神は人間という狭い箱に閉じ込められ快楽に飢えている

この世のエンタメは神のためにある

お金がある人間はなぜ快楽のために1日で何百万、何千万という金額を使うという狂った行動をするのか???信じられないような大金をなぜ使うのか???この疑問について深く考えた人はあまりいないでしょう。カジノなどで豪遊する富豪が大金をドブに捨ててもなぜまたカジノに行くのか???答えをお伝えしましょう。神が人間という小さな箱に閉じ込められ快楽に飢えているからです。

人間の体に閉じ込められた神は飢える

カジノに狂う、異性に狂う、、、これは決して金持ちの特権ということではなく誰でもこの傾向はあります。なぜならば全員の体には神が収納されていて怒り狂っているからです。なぜこんな小さな体に閉じ込められているのか??と。勿論神は確信犯的にこれを行ったわけですが問題なのはそれを忘れているということです、だから神は狭い空間に閉じ込められて怒り狂っているのです。自作自演のオチです。

人間の欲望を甘くみない方がいい

私は20代の最初、、、仕事なんて何でも同じだから安定したホワイト企業であればいいだろうとそこに苦労して就職しました。ですが入社してみてビックリ、、、自分自身のストレスが尋常じゃないのです、、もっと面白い仕事があるのでは???ひたすらに湧いてくるこの焦燥感、、、この焦燥感には本当に手を焼きました。だから断言できますが人間の欲望は甘くみない方がいいということです。神が人間の閉じ込められて怒り狂っている、その怒りの矛先こそが欲望です。

思考は思考を使う方向に導く

思考の策略を見破る

思考は思考を使う方向に全部導こうとします。問題が全部なくなってしまったら思考は用無しになってしまいます。ですから常に問題点をあぶり出しかき集め、そしてその解決のために思考はフル回転をするという自作自演を延々と続けていきます。すべてを問題化しそれを思考フル回転で解消しようとする、ですがそもそも問題などはなく自分で問題視しているだけですからこの自作自演は絶対に終わることがありません。唯一の解決方法はこの策略を見破ること、これだけです。

問題を作るためには自分が必要

この世に自分が居なければ問題など起きません、雨が降ろうと、石油の値段が上がっても、不景気になっても、、自分が居なかったらどうでもいい話です。ですので先ず自分というモノが居るという大きなる勘違いがどうしても必要になります。そこで思考はこの思考こそがあなたなのだ、この思考を所有している偉大な存在が「あなた」だと騙します。今湧いているこの思考こそがあなたが生きている証拠だと騙します。まんまと騙されて誕生したのがこの「自分」なのです。自分はそのため大変不安定です、そもそも居ないのですから。こんなに不安定で実在しない「自分」を維持発展させるためには常に思考フル回転でいる必要があるのです。思考が無くなってしまったら自分が居なくなってしまうからです。

自分を維持していくために問題は起こり続ける

なぜそんなことで悩んでいるのか?なぜ殺人してしまうまでこんなことで悩んだのか???他人のことならそんなことは頻繁に起こります。ですが自分ごとになるとそうはいかない、、、なぜならば全てを問題化しなければ自分を維持できないからです。問題が起こるから思考がフル回転になり自分が維持できるのです。起こる現象のほとんどを問題化したいのは自分自身なのです。この世から問題がなくなって困る張本人はこの自分なのです。自分がそもそも無い、この思考を自分と勘違いして生きているのだから思考が湧くきっかけを常に常に求めているのです。

問題解決に思考を使えば使うほどに苦しくなる

就職活動をしている、、、、

就職活動をしているとしましょう、、、絶対にやってはいけないことは思考を使うことです。自分はどんな職種が向いているのだろうか?自分はどんな適性があるのだろうか?自分は地方に行ったほうがいいのだろうか?あらゆる不安が湧いてきたときにこれを思考で解決しようとします。思考して思考して思考して何か答えが出ればいいのですが人生の大きな問題においては思考で解決できることなど先ずありません。ですのでこのような状況ではひたすらに情報を集めることだけに徹します。自分の大学の卒業生が行っている就職先リストを作る、自分の適性検査をして情報を得る、去年の卒業生の就職先を手に入れる、、このようにただひたすらに情報だけを取っていきます。そこに自身の解釈、比較、検討を加えません。ひたすらにただ情報を取り続けていくということにします。不安な感情が湧き、思考がグルグル湧いてきますが全部無視します。それを継続していくとどこなら受かりそうでどこは不可能か、、またどの職種なら募集が多く、どの業種が少ないか、、など自身に関係する情報だけが精査されていきます。情報の渦から自身に関係する情報だけが残っていきます。

思考をフル回転させてもただ不安、苦しい、しんどい、、、が溢れてくるだけ

不安、苦しい、しんどいの発生源はこの自分です。この自分という存在こそがこの感情の発生源なのです。にもかかわらずこの自分を肥え太らせればどうなるか?不安感、居心地の悪さ、しんどさ、、、負の感情がオンパレードで湧いてきます。この自分を肥え太らせる一番の要因は何か?それが思考フル回転なのです。思考中毒こそがこの自分を大きく太らせデカくします。自分というものが大きくデカくなっていけばいくほどにこの世界の中に自分と自分以外という大きな境目、ギャップ、鉄の壁ができて孤立するのです。この孤立感こそが負の感情の正体です。これを自我(この思考こそが自分というアイデア)は意図的にやります。意図的に自分を維持するために問題を作り上げ思考フル回転状態に持っていくのです。問題とは自我のためにあるのです。

この世の問題は自我のためにある

なぜ人はtvニュースを観るのか?なぜ人はYAHOOニュースを観ては不安に怯えるという虐待行為を自分に行うのか?答えは簡単、、、、不安をもてば自分(思考)が大活躍できるからです。不安がなかったら自分(思考)の出る幕がない、、、だから自分(思考)はtvニュースを見るように促しそして不安感を煽り思考をフル回転させるという自作自演を行っているのです。問題をかき集め自分を維持しているのです。

マリオのプレイヤーはどこに居る

マリオではプレイヤーは画面の外に居るが、、

スーパマリオゲームにおいてプレイヤーはどこに居るか?TV画面の外にいます。TV画面の近くにファミコンがありそこからコントローラーが伸びそこに人が居る。この人間こそがプレイヤーです。ではこの人間ゲームでは人間をプレイするプレイヤーはどこに居るのか?この視界の外に居るのでしょうか?答えは外には居ないということになります。ではどこか?ここです。今ここに居ます。目の前に広がる、花、テーブル、机、窓、空間、これらを形成するたった一種類のエネルギーこそがプレイヤーです。つまり目の前の全部ということになります。これが神です。

だからこそ人間の中に湧く感情は全部、全体から湧いている

人間ゲームにおけるプレイヤーは今目の前に広がる全部です。この全部が人間を操り、経験させ、感情を湧き出させ、思考を湧き出させます。そしてそれらを自分の中で湧いているという思考も全体から湧いてきます。これによって人間の体(自分)はそれを全て所有するという体験が生まれます。視界に見えるこの全体がプレイヤーですからそこから感情が生まれるのも当然です、思考も生まれます、そしてそれをこの自分が所有するという思考が生まれます。これが人間ゲームのカラクリです。この体が自分であるという思考が固定化していくと、分離感、不足感、居心地の悪さがやはり全体から湧いてきてそれを解消したいという欲求がそこから湧いてきます、これも全体から湧いてきます。ここから人生ストーリ、大冒険が生まれるのです。

神は画面であり、OSであり、ゲーム本体であり、主人公(自分)でありプレイヤーでもある

この人間ゲームでは神がプレイヤーであり、OSであり、ゲーム本体であり、このゲームの主人公(自分)です。そしてその全てが今ここに在ります。それぞれがバラバラに分離してして存在などせずに今ここに全部があります。だから神とは全体、全存在なのです。全ての感情、思考はこの全体、神から生まれ、それを自分のモノとするのも人間扮する全体、神です。神の自作自演、制作総指揮、自分劇場のカラクリです。

ランナーズハイとは?

人間扮する神が、、マラソン中にランナーズハイという状態を経験したします。走っていて全く疲れない状態、気落ちよくもあり、恍惚感が湧く状態。これは人間が走り続けている過程でこれが自分であるという思考(全体からの)が湧かなくなることで自分という存在を忘れてしまった人間の状態です。つまり全体、神が走っている状態なのです、この状態はだからこそ歓喜、安堵、平和そのものなのです。歓喜、安堵、平和を感じるランナーが居ない状態です。