自己超越

なぜ子供の遊びには目的が必要ないのか?

勝敗の要らないゴルフ

子供が外で遊ぶ時に勝敗とか目的とか結果とかを聞くのは無駄でしょう、、子供が外で遊ぶのは「今真の安らぎの中」に居るからです。真の安らぎの中に居るから「遊ぼう!!」が起こるのです。今苦しみの中に居る時「遊ぼう!!」が起きない、、遊んでもいいですよ、、その場合はメリット、目的を教えてください、、です。ゴルフをする時に大人はハンディをつけてでも勝敗を付けて遊びますね、、そしてゴルフは人間関係の潤滑油だったり、商談だったり、、何かその後の目的があったりします。

自我が形成されてから

我々は自我の形成と一緒に目的、メリット、結果がないと動けなくなったのです。なぜならば今苦しいから、、何か嘘でもいいから見える結果が欲しいのです。何か見える結果を見せてくれないと動けない、なぜならば私は「今苦しい」からです。

これって変だよね

小さい子供が何のメリットも求めずに遊べるにも関わらず大人は何かメリットがないと遊べないって完全に退化です。実際にはこの体を守るための必要悪がこの自我ですから退化ではないんですが、、幸福度でいえば完全に退化です。この体を守ることには成功した、ですが幸福度は確実に下がっている、、というのが一般的な大人の惨状です。

自己形成から自己超越へ

子供とはまだ自我が形成されていない状態、自我未形成期、大人は自我が形成された自我完成期、そしてここからは自己超越期です。自己超越期とは自我の動き働きを完全に理解し、、、自我との同一を脱出し、、自我を観察する大いなる存在に自己を戻す時期です。自己超越しても勿論この自分というのは便宜上残りますがそれは便宜上です。もう「苦しい」という感情の湧き上がりが抜け落ち、、ただ全体、大いなる存在としての自分劇場を演じます。

熟睡に比べれば全てはフェイク

昨日は良い夢見たなー

熟睡して目覚めた朝と、、良い夢見てラッキーだたなー、、から目覚めた朝どちらが清々しいでしょうか????間違いなく熟睡ですよね??????スーパーリッチになった夢と熟睡どちらを次の日経験したいですか?????熟睡です!!!そうなんです、、スーパーリッチは楽しい!という刺激、、比べて熟睡は刺激ではなく、、全刺激が落ちた状態なのです、、究極の無です。

スーパーリッチって

スーパーリッチになぜ憧れるかと言えば、、、、苦しいという自分をお金の力で常にごまかせる可能性があるからです。だから皆スーパーリッチに憧れるのです、、今日はフレンチ、今日は寿司、今日は旅行で、今日は温泉、今日はパーティー、今日はコンサートライブ、、、と退屈を凌げそうな予感がするわけですね。これは期待でしかないんですが。。。つまり根底には「苦痛」があることが前提なんです。ところが熟睡状態は根底の苦痛、退屈がないんです。

熟睡とは

熟睡とハッピードリームの違いは、、、自己意識の有無です。熟睡は自己意識が無いんです。一方ハッピードリームは自己意識があります。熟睡には大前提の苦しみがなく、、ハッピードリームは自己意識が生み出す苦しみが大前提にあるのです。ですからハッピードリームは毎日何かしらをして苦痛を解消し続けないといけないんです。だから忙しいわけです。一方熟睡は忙しくないんです、だって忙しくなる自分が居ないんですから。

解放とは

解放とはまさに熟睡状態のこと、、もうそこに自己意識がないんです、消えたんです自己意識が。すると大前提の苦しみが湧かない、、、、だから忙しく楽しい行事を並べる必要がないんです。次から次へとイベントが必要ないんです。退屈にならないからです。自己超越、解放、悟りに、、、自己がどうしても憧れる理由がここにあります。何かをして苦痛を紛らわすという状況自体が苦しみなんです。そこには真の安らぎがあるわけがありません。

仕事に行きたくない

行きたくない!!が湧いてきたら

あー仕事に絶対に行きたくない!!!が湧いてくる時ってあります。その時にポジティブシンキング、、ポジティブシンキング、、、はしんどい。。。。ではなぜ仕事に行きたくないか???を冷静に観察してみましょう。先ず「仕事に行きたくない!!」というのは誰の感情なのでしょうか???間違いなく自分の感情ですよね????その主語は「私」です・I FEEL PAIN ABOUT WORKです。つまりこの痛みは私が作り出したのです。ではなぜ私は仕事が嫌いなのでしょうか????それは仕事をするのが「私」だからです。友人が仕事をするなら嫌じゃないんです。私だから嫌なんです。当たり前ですけど。。。じゃあ「私」がこの世界から居なくなれば当然嫌な感情も生まれないということですよね????大正解!!!

究極の解決

この世界に私がいるという錯覚を強く強く感じている人ほど、、「仕事に行きたくない」が湧きます。「私がいる」の感覚が薄ければ薄いほど実はこの感覚は薄くなります。「この体この思考この感情が私」というのは錯覚なんですね。生まれてきてあとから作り出したアイデアなんです。逆に言えばこのアイデアがあるから「働かなきゃ」が起こるんです。ですがこのままだと本当に苦しいんです。そこで真実に戻ることを選んでいきます。

自我が強いだから働く

なぜ人は働きに行くのか????それは自我が大きく作用します「この体この思考この感情は私」が埋め込まれれば、、この体を私が守らなくては???という思考が湧くんです。すると私は仕事をしなきゃ!!!が湧くんです。。だから就職できたんです。と同時に私で居るのは苦しいんです、辛いんです。圧倒的に自分を意識しないといけない仕事は辛いんです。これが自我のジレンマです。

自己超越

自己超越という言葉があります、大変上手い言葉です、自我の終焉、、、これは辛いんです自我にとって。自己超越とは自己自我を俯瞰するもう一つの自分を作りことです、実際には自我自己を俯瞰する意識を持つことです。自我であり続けるのは辛いんです、そこで自我というのは「この体この思考この感情は自分」という概念感覚ですから、、、そのことを意識し続けるのです。つまり意識が自我になりきらない状態を作るのです。仮面ライダーになりきらない子供みたいなものです。すると、、突然、、、安堵感が漂い始めます、、お風呂に入っているような緊張が溶ける感覚が起こるのです。

火事場のクソ力

別にこれは決して無理ゲーの話ではないのです。家事になれば誰でもそれは経験できます、非常事態になれば誰でも簡単にこのゾーンに入っています。自分というものに意識が向かなくなり、、、火事そのものに意識が向くと何故か平和な感覚が訪れ、、家事の対処に集中できるのです。非常事態そのものに意識が完全集中すると平和が訪れるのです。つまり苦しみを起こす「自分」に意識が向かないことで急激にノーストレスが起きます。

未成年、成年、超成年

子供、大人、超大人

子供の宿題は自我を形成することです、そして大人の宿題は自我を維持することです、そして超大人の宿題は自我を俯瞰することです。子供は「この体この思考この感情が自分である」を認識するのが仕事です。これによってこの体を思考を駆使して敵から守れるようになります。大人は自我を駆使して自身を守るだけではなく子供を産み育て世代交代を図っていきます。超大人は『「この体この思考この感情は自分である」はこの体を守るために便宜上覚えた概念であって本当は違う』ことを思い出します。

これによって

超大人はこの人間社会の中で上手く順応することによってこの体を守りながらも「この体この思考この感情が自分」という自我の概念によって苦しむこともなくなります。大人は「この体この思考この感情が自分」という概念を真実であるかのように盲信することで「嘘からくる憤り」を感じながら生きています、しかもそれすら気づかずに。ですが超大人は心の奥にある苦しみに気づきそれを解消するのは「自我」そのものが真実ではなく概念に過ぎないことに気づくのです。

超大人は

超大人は、、、「自分がこの体この思考この感情」ではないことに気づいたので、、、ではいったいこの私は誰だ???という疑問を持ちます。その結果、、、見えている世界全部、この現象を生み出す存在全部、そしてそれによって生まれる経験の全部こそが自分だという結論に至ります。その時に成し遂げなければならない目標もないし、やってはいけないこともない、、、本当の自由を手に入れるのです。

こうやれば上手くいく

こうやらなければ上手くいかない

これは夢です、完全に夢です。この夢の中で「こうやれば上手くいく」を確信しますと、、その思考、概念、観念がこの夢でそのまま投影しそれが現実であるかのように見えるようになります。逆に言えればこうやらなければ上手くいかない、、、も同時にこの夢の中で投影されていくのです。「都会に行けば上手くいく」この観念が強固になれば「都会に行かなければ上手くいかない」が観念化するのです、そしてこれがこの夢で投影されます。

「都会に行かなければ上手くいかない」が観念化すると

田舎をありのままには見れなくなります、田舎に行くことになればネガティブな感情が湧くようになります。もう田舎が光り輝いてはみえなくなるのです。子供のころは全てが光り輝いていたのが、、観念が投影された世界(夢)を見るようになるのです。その夢はもう輝きを失っています。そして輝きを失わせたのは観念です。

観念に観念を重ねていく

「都会に行けば上手くいく」「高収入を得れば良い生活を送れる」と大人になればなるほどに観念を重ねていきます。これは同時に「都会に行かなければ上手くいかない」「低収入になれば良い生活を送れない」という観念を積み上げていくようになるのです。そしてこの夢でその観念が確実に投影されていきます。本当にそのように見えるようになっていくのです。もうこの世界はありのままで輝く世界ではなくなっていきます、子供の頃に見た世界ではなくなっていきます。

夢からの脱出

子供の頃に見ていた世界があるがままの世界ならば、、大人が見る世界は観念が投影された夢です。世界からはすっかり輝きがなくなりドライで暗い世界(夢)が広がります。そうさせたのは自身の観念です。だけど思考なしに、観念なしに生きるなんて不可能だよね?????が本音のはず。子供の時みたいに何も考えずに無邪気に生きるのも不可能なのです、、、そこで何が必要になるか????超観念です、観念を超えるのです。観念を超えた視点で、、観念を方便として使うのです。

超観念、超自己、自己超越、超常識

観念、自己、常識を持つことで我々は生きていることができます。それにも関わらず今更全部捨てるなんて不可能です。そうではなく全てを超えていきます、観念、自己、常識をさらに大きな視点から眺めていくのです。観念、自己、常識から縛られることなく、、方便として使いこなしていく。。これが悟り、解放、解脱の本質です。

苦しみの終わり

自己責任という地獄

全ては自己責任、大人とは責任を追うということ、、、この縛りに人は苦しみ続けます、、、、責任を追うべき自己が実は居ない、、、、この驚くべき事実が、、、、世界を大転換させます、、、なぜあんな行動を取ったのか???なぜあんなことをしてしまったのか????この連続で、、、、我々は苦しみ続けてきました、、、何千年も、、、天動説が地動説に切り替わったように今自己の大転換が起きます。。。。

自己は居なかった

まさか、、、この体には自己という存在が居なかった、、、これが真実です、、、この真実が誤解され間違った思考が、、、定説化されたことで、、、、この世界は迷い人を増産する結果になりました。脳は自己をこの体の中に作り出すことに成功し、、、この体の安全保持に成功したのです、、、ですがこの自己の存在は同時にあらゆるストレスを生み出すがために完璧ではありません、、、自己実現とはこの自己を完全に俯瞰し、、自己の脱皮を図る試みなのです。

幼虫から蝶に羽ばたく

悟りとは自我というOS、、自我という防衛システムを手放し、、、ストレスなくこの体を保持する状態に居ることです。体を保持するために自我防衛システムは確実に上手く機能してきました、、ですがこのシステムはストレスを伴うがゆえに苦しみが永続します、、、これを卒業します、、、ストレスなく、、、この体を保持するという次の段階へのシフトがあります、、、それが悟り、自己超越、大周天、サマディと呼ばれる状態です。

幻想はこの現実で十分

画面の世界に夢中になる滑稽さ

この現実は完全なる幻想です、、、我々は現実と呼ばれるこの幻想の世界にどっぷり浸かり生きています、、するとこの幻想の世界は現実的に見えます、、、この幻想の世界に疲れると、、、人は画面の中に吸い込まれていきます、、映画、TV、ゲーム、YOUTUBE、TIKTOKなどなど、、、これらはこの幻想の世界の中でさらに幻想の中に引き込んでくれる道具です。今既に幻想の中に居るにも関わらず、、、さらなる幻想に逃げ場を求めているのです。

この幻想をもっと楽しんでみる

ここがまさに幻想ど真ん中です、、この幻想が最高峰のクオリティー、この幻想が、、究極のサバイバルゲームです、、、なぜここを楽しまないのか???です。。。これを幻想と完全に見抜き、、この幻想を楽しみ尽くすのです。この幻想に後悔は禁物です、、、後悔できる自己は存在しません、、自由意志もないのです、、、本当は。。ゲーム中は勿論自由意志をフル発揮するればいい、、、本当はないけど。。

幻想ゲームを楽しむ機能としての自分

幻想ゲームを楽しむ機能としての自分が存在します、、、この体です、、、この体を機能として、、いかにこの幻想ゲーム上で楽しみ尽くすかです、、、宇宙の機能として、、楽しいを追求していきます、、、神としてこの体をフル回転させていく、、楽しいを追求していきます、、こんな役として世の中に貢献したいな、、こんな機能として世の中にサービスを提供したいなーの連続です。自己超越して楽しみます。

成功者から自由意志を取り上げるのは至難の技

自由意思大好き人間

成功者は自由意思大好き人間です、、だってその人の自由意志を最大評価されるのが成功者だからです。最大評価されたのは誰ですか???自我、自分です。、ですから成功者は自分が大好き、、、その自分が自由意志を最大限発揮し成功を手に入れたという御大勘違いをしています。本当は自分も自由意志も一切ないにも関わらず、悲劇です。

成功中に悟るのは難しい

成功者の多くは無我に入るのが得意な人種でしょう、、なにかに集中しなければ結果を出すのは難しいからです。ですがその功績を自我は絶対に手放さない、、、私がこの功績を作り上げたと評価を受けたがります、、そして案の定その評価を受けた自我は悦に浸るのです。一時の安心を得ます、今後の安泰を期待します。ですから成功中の自我に「自由意志はない」「自分も居ない」というメッセージを放てばとんでもない過剰反応が起きるのです。

自己実現から自己超越へ

自己実現を達成した自我は己に酔いしれていますから、、最も危険な状態とも言えるでしょう、、酔いしれているのに苦しいのですからかなりの孤独を感じます、芸能人、スポーツ選手のスキャンダルの多くはこれが原因です。酔いしれながら苦しいのです、、、、そしてこの苦しみを取り除いてくれる最後のメッセージが「自分が居ない」「自由意志がない」です。自己実現を達成した自我の全ての功績を取り上げるこのメッセージが苦しみを終わらせます。これに気づきの意識が気づくと苦しみが消えます。自我に成り切った気づきの意識がこれに気づくと苦しみが消えます。

ワクワクとは自己超越

ワクワクすることを結果を期待せずにやる

結果につながらないことは思考はやらせようとしません、全部見返りを考えて行動します。これが思考です。ですがこの状態ですと逆に結果がでないことになります。なぜならば見返りを期待すればするほど思考が強くなり全体とこの個人がん分離するからです。皮肉にも思考を使えば使うほどに全体から分離が進み全体とのバランスが崩れます。結果を期待せずにワクワクすることをすると思考が介在しないため全体との調和が進み、結果が出ます。なぜならば結果とは外部要因でありその外部とは全体だからです。

全体との調和が結果を導く

なぜか上手くいく、なぜかツイテいる、これって結局個人の行動と全体とが調和が取れている状態です。行動を起こす個人の動きが全体と分離しすぎていない状態、、これぞツイている状態でしょう。つまり個人が全体から完全分離していない状態こそが上手くいっている状態なのです。ではどうしたら全体から分離しない行動を取れるか、、これがワクワクです。見返りを期待しないワクワク行動こそが全体と調和が取れた行動になります。

自己超越とはこのこと

ワクワクすることを見返りを求めずに行動するとは、自己超越の状態です。見返りを求める時「自分」という存在が誕生します、なぜならば見返りを受け取るのは紛れもなく「自分」だからです。つまり見返りを求めれば求めるほどに自分が強くなり全体との調和が崩れるわけです。全体と自分を切り離す要素こそが思考であり、思考おフル回転すればするほどに自分が強化されて分離が進みます。

自己超越とは自我を完全に無視した境地

自我を無視し続けると自我が死ぬ

男性の多くが坂本龍馬に憧れるのは彼の行動が完全なる自己超越の境地だからです。自分という存在を完璧に忘れていないとあのような行動は取れません。だから男性は一度は坂本龍馬に憧れます。大きな目標、今の自分では絶対に成し遂げられないようなゴールに向かっていきますと「自分」を忘れます。「自分」を覚えていたら大きな目標など達成できるわけがないからです。自分が達成できないゴールに向かうから「自分」を忘れることができるのです。自己超越とはそのような行動のことです。

現在の「自分」の延長線上を目指さない

現在の自分が達成できる可能性があることを目指せば「自分」を忘れることなどできません、目標と自分が密接に繋がっているからです。そうではなく今の「自分」では絶対に達成できないような目標を設定します。すると自分の存在を完璧に忘れてしまいます、自分が消えてなくなります、自我が消えてなくなります。悟りが起こります。全体になってしまいます、全体の一部としてのこの行動が起き始めます。

私の今のゴールは「悟り」をスタンダードにすること

私の今のゴールは悟りを新し時代のスタンダードにすることです。今の私では絶対にできません、ですが今の私でなければ出来る可能性があります。そしてこのブログを書き続けています。今の私ではできない目標だからこそ自己超越に辿り着けます、自分の存在を完全に忘れることができます。自分の存在を忘れると自分が死にます、悟りが開きます、全体が現れます、この体は全体の一部として機能します。