欠乏感

自分は対象がなくては存在できない

何かを感じ、何かを思考するからこそ自分が居ると錯覚できる

自分が居るから、何かを感じ、何かを思考し、何かをすることができると思っています。ですが実際は逆です、何かを感じ、何かを思考し、何かを実行できるからこそ自分が居るのだと信じているのです。もしも何も感じず、思考もないのならば自分が居ると信じることはできません。対象があって初めて自分はこの世に存在すると信じることができています。主体客体セットで自分は存在できるのです。

五感があって、思考が湧いて、感情が湧いて、この体の中に自分が居るという思考も湧く

この体に五感があって、思考が湧いて、感情が湧いて、それらをこの体の中の自分が所有しているという思考がさらに湧くことでこの自分は存在できています。何かしらの対象があることでこのプロセスは成就します。コップがあって、それをこの体が視覚で確認し、この体が触って確認し、持ち上げて確認し、このコップは美しいという思考が湧いてきてきて、このコップが欲しいという感情が湧き、それらの感覚を所有するのはこの私であるという思考が湧くと、、この自分の存在を信じます。

この自分という存在を絶対的に信じる限り、苦しみは消えない

対象に対する五感プラス思考、プラス感情を通じて自分が居ることに絶対的な自信を持つわけですが、、、この錯覚を信じる限り、、不足感、欠乏感、欠如感が癒えることはありません。自分という存在は全体が作ったゲームであり、そこにのめり込むほどにギャップが生まれ苦しみが湧いてきます。全体がこの小さな体であると錯覚を起こせば不快感が湧くのは当然なのですが、、この分離の世界に一旦のめり込んでしまうとなかなか脱出できません。

成就することは何もない

成就とは主語述語の世界

至福になる、幸福になる、安定になる、、、これらは何かしらを成就する世界の話です。主語があって述語がある世界です。これは二元の世界の話です、つまりストーリーの話になります。自分というのがあってその自分が何かをするストーリーの話になります。動詞というのは主語が必要です、主語が必要な世界は二元の世界になります。主語が必要な世界は幻想の世界です、錯覚の世界です、、、この錯覚の世界に居る限り本当の至福はありません。あるのは全て時間の中での一瞬の幸福、至福、安堵、平和、歓喜です。我々が本当に求めるのは時間を超えた至福、歓喜、平和です。それがあるのは主語述語の世界ではありません。主語が抜け落ちた世界、自分が抜け落ちた世界です。

それでも食べるためには働かなくてはならない、、

そうは言ってもこの自分は今日も生きるために働かなくてはなりません、これは事実です。この体というものがある限り生き抜いていくには食べなくてはならないのは事実です。ですがそのために自分が必要ということではないのです。この体の中に自分が居なくてはならないわけではないのです。野生動物が生き抜くために狩りをしなすがそのために自分という存在が必要なわけではありません。ただ狩りをして食事にありつくだけです。何かをするためには体の中に自分という存在が必要だというのは錯覚です。この体の中に自分という独自の存在が居るという錯覚を育てますとその自分は不足感を湧き出します。

名前を呼ばれても=自分と錯覚しない

この人間社会に生きていますと名前が必要になります、そしてその名前を呼ばれるようになります。相手が自身の名前を呼べばこの体の中に自分が居るという錯覚が強化されます、ですがそれは違います。相手がこの体に対して名前を呼んでも=自分が居ると錯覚しないことです。人は名前を呼ばれることでこのストーリーに浸かります。それによって不足感、孤独感、欠乏感が湧くというスパイラルに入るのです。

全体の悪趣味「自分」

自分とは全体の苦しみ体験マシーン

自分と書いて「自ら分ける」自分とは全体から分かれる状態のことです。この体には脳があるのでこの体の中に自分が居ると錯覚をすることができます。錯覚という表現をするのはこの世には一つのエネルギーしか存在していないのでその中に独立した何かが現れることは不可能です。ピカソが描く絵の中の登場人物が突然意識を所有し、私はこのピカソの絵とは何も関係がないと言い出すようなものです。本人がどんなに大きな声を張り上げても絶対に独立などできません、なぜならばピカソが描いた油絵具で出来ているという事実は絶対に変わらないからです。その中の登場人物に意識が生まれてもそれは錯覚です。

ディズニーランドのミッキーマウスが突然意識を持つ

ディズニーランドのミッキーマウスに突然が芽生え私はディズニーとは何も関係がないと宣っても誰も信用しません。ミッキーマウスがいかにそれを本気で思っても今日もディズニーに居ます。ディズニーの外には出れません。我々も同じ、この全体の中に生まれた突然変異です、突然意識体です。全体の中から出ることは絶対にできませんし、勘違いを実感しているのも全体です。

全体は勘違いマシーンを作り出し苦しみ体験を今日もする

全体は全体のままでは苦しむことができません。全体が苦しみためには全体ではない存在を作り出す必要がありますが全体が作り出す存在は全体以外にはなれません。そこで全体は肉体に「これが自分だと勘違いする存在」を無理くり作ったのです。こっれによってこの存在は大いに苦しむことができたのです。苦しみためには苦しむという経験が必要になり自分と自分以外を作り出し自分体験記を作りました、分離した自分は全体とのギャップにより不足感、喪失感、欠乏感が湧き出しますから常に苦しむことができるのです。そしてこの苦しみを解消すべく様々な冒険を歩むことになります。

自分が全体を隠すメカニズム

自分とは全体からの分離錯覚状態

自分とは全体から分離できたのではありません。分離していると錯覚できた状態のことです。あくまで錯覚ですから実際には自分は全体から分離できません。全体から分離していると錯覚しているだけです。ここ最重要です。本当に全体から分離できたならばもう全体に戻りたいという衝動は生まれませんし不足感も分離感もないはずです。一つの完成したものですから。ですが自分は実際には分離できません、なぜならば全体は一つのエネルギーであり分離できないからです。あくまでも分離した存在があると錯覚している状態、これが自分、人間です。

自分とは分離したという錯覚のこと

神はいつでもあなたを見捨てはしない、、、これは当然のことです、なぜならば「あなた」という独立した存在はなく、独立しているという錯覚がそこにあるだけだからです。つまり一度もあなたは神でなかったことなどないのです。神から独立したと錯覚をしていただけです。神があなたを見捨てないどころかあなたは実在していないということになります。だからこそ見捨てることなどできません。

自分錯覚ゲームに疲れたら

全体から分離できたと錯覚することの成功した自分はこの体の中に自分が居ると信じ行動します。朝は山に行きキノコをとり、昼は海に行って魚を釣る、夜は自分の寝床に戻って獣に襲われないような場所で休む、、、こうしてこの体を安全に確実に生存させる方法を取得しました。それが現在のこの文明の土台になります。ですがこの分離錯覚には問題点があります、それは分離感、孤独感、欠乏感を伴うということです。全体がこんな小さな体を全てだと勘違いするわけですから欠乏感は半端ないモノがあります。ということでこの欠乏感解消のために分離錯覚した自分は常に次のモノ、ヒトを追い求める旅を続けることになるのです。もしもこの欠乏感に疲れてしまったらこの事実を思い出す他ありません。

夢の中での自由は至福とは何も関係がない

夢の中は自由

毎晩見る夢の中でいくら主人公が自由であってもそれと永遠の至福とは関係がありません。主人公がいかに自由に夢の中で動きまわっても永遠の至福に至ことはありません。動いて動いて動き回る理由とは止まってしまったら不足感が湧いてくるからです。まさか夢の中でもこの不足感は常に湧いてきます。夢の中の主人公は当然全体から分離しています、分離しているから独立した個人として動いているのです。ですがこの分離感こそが不足感を湧き出すのです。逆にいえば自由に動き回れば回るほど分離感は強化され無限地獄に入っていくのです。だからこそ夢の中の自分は止まることなくストーリーが展開していくのです。もしもそのままで至福ならば動くなどという意味のないことはせず夢の中で瞑想でもしているでしょう。ですがそのような自分は夢の中に居ません。

一方リアリティーでは

ではこのリアルな世界では主人公である私はどうなのか?間違いなくそのままで至福ではないでしょう。幸福すぎて今日一日何もしたくない、、こんな日は当たり前ですがありません。至福過ぎて何もしないという状況があるとするならばお腹いっぱい大好物のお寿司を食べた時ぐらいのこと、3時間後にはこの至福感は消え去ります。そしてまた次の食事を考えるという動きの世界に入っていきます。そろそろ気づきましたね、そうです、このリアルな世界も夢の世界と全く同じで動かずにはいられないということです。そのままの状況では至福に至れないのです、そのままにしていたら不足感が滝のように流れてきます。「自身がこの体の中にある」この分離感を持った瞬間から人間は分離感に苛まされます、孤独感が湧いてきます、もう一人ではいられません。この世界に独立した自分がいるという錯覚を所有した瞬間から不足感、孤独感、欠乏感が湧いてくるのです。そしてその感覚を解消するためにモノやヒトを追い求め続けるという無限地獄が始まるのです。

夢の中ですら渇望しているのにリアルな世界で渇望しないわけがない

自分が毎晩見る夢の中ですら主人公は動き回っています、どこかに永遠の至福に至れる道がないかと。ですがありません、ストーリーの中は時間の世界ですからそこに永遠の至福があろうはずがないのです。永遠とは時間の制限を超えています。だとすればこのリアルな世界の中で永遠の至福などあるはずがありません、この体の中に自分がいるという錯覚をもち、この体の外は自分ではないという錯覚も所有します。この錯覚こそが不足感、欠乏感を生み出す原因ですからこれを解放する以外に至福の道はないのです。結論を言ってしまえばこれも夢です、リアルだと感じているこれも夢です。だからこそ毎晩見る夢と同じ苦しみを味わいます。

夢の中での要領の良さは至福とは何も関係がない

毎晩見る夢の中で要領の良さを披露しても至福には至れない

毎晩見ている夢の中で要領を駆使して何かを達成したとしても一時的な快楽にしかなりません。次の瞬間からでは次はどうするか?という疑問が湧いてきます。そして次の展開、次の展開と夢は続いていくはずです。夢の中で永遠の至福を手に入れることができないのは次の展開に移ればまた振り出しなのです。これが夢です。ストーリーです、時間が管理する物語です。残酷なまでに感情は一瞬一瞬であり夢の中でさえ自身の感情をコントロールできません。そしてなぜ夢の中で主人公が次々に行動を起こさなくてはならないかといえば不足感が湧き出ているからです。夢の中ではこの不足感はデフォルトです。なぜならばデフォル分離した自分というものを設定した瞬間から全体から離れ孤独感、分離感、不足感が湧いてくるからです。

このリアリティーにおいてもこれは同じ

このリアリティーの世界、現実社会でもこれは同じでして要領の良さで何かを達成しても至福は一瞬です。次の瞬間から不足感、欠乏感、分離感が襲ってきます。この現実社会の中で自分の体を境界線にすることで自他を作り出した瞬間から分離感がひたすらに襲ってきます。この分離感、不足感を何とかして解消しようとして要領の良さを発揮し一瞬の至福感を得ます、ですが次の瞬間にはまた不足感、欠乏感が湧いてきてその解消に努め続けることになるのです。もうお気づきだと思いますがこのリアリティーと毎晩見る夢はあまりに様子が似ています。そうです、このリアリティーは神が見る夢です。

夢もこのリアリティーも覚めるしか解決方法はない

毎晩見る夢にしてもこのリアリティーにしても分離意識、主人公の中に自分があるという感覚を手放さない限り不足感、欠乏感が解消することはありません。我々は物心が付いた時から不足感と戦ってきました、それは夢の中でもこのリアリティーの中でもです。今日は至福の極みだから何もしないでおこう、、こんな日は1日たりとも無かったはずです。安心してください、この夢の中でそんな人間は一人もいません。毎晩の夢の中でもこのリアリティーの中でも至福過ぎて何もする気は起きない、、こんな登場人物は皆無なのです。分離とはそのようなものです。

これが夢であるという事実から逃げない

人間がこれまで戦争や争いを終えることができず、世の中から紛争を無くすことができないのはこれが夢だからです。たった一つのエネルギーが分離して見えるこの世界は不足感体験ゲームなのです。しかもこの不足感は分離が終わるまで延々に続くというオチです。こうなりますともうこれを夢と認識する以外ありません。勇気を持ってこのリアリティーに向き合うほかないのです。人間はあまりにこのリアリティーに長く触れ続けた結果、不足感、欠乏感にどれほど苦しまされてもうこのリアリティーを手放しません。リアリティーに執着しています。だからこそこのようなメッセージ、ノンデュアリティー、悟りと言われるような内容に嫌悪感すら抱きます。

偽りの自分はメリットを聞きたがる

偽りの自分は不足感でできている

これは夢です、神が見る夢です。この夢の中で神が人間になり切って、人間がいるかのような状況を作り出しこの夢物語を歩みます。人間が実際に実在するわけではありません、人間が実在しているかのように見える世界を神が作ったのです。マリオがいてクッパがいてクリボーがいてスーパーマリオは完成します。同じように主人公(私)と脇役を多数配置してこの錯覚ゲームはリアリティーが出て来ます。これは神が作った夢、ゲームですからリアリティーさにかけては右に出るものはありません。全知全能の神が無知無能の人間を作り出しそれに成り切っているわけですからこのゲーム、夢は不足感全開、欠乏感全開、、これがポイントになります。無知無能の人間が欠乏感全開になった時にどういう行動をとるか?メリットを追求します。コスパを追求します。損得を追求します。これが答えです。

五感+思考+感情、、これに脳の記憶装置を加えて完成

神が見る夢では人間(本当はいない)に五感を与え、見えて聞こえて、触れて、味わえて、嗅げる機能をつけると同時にその世界を現象化、バーチャル化、リアル化しました。人間の五感機能分だけ世界がリアライズされるのです。さらにこれに思考を加え、感情を加えることで不足感をいかに解消していくか、、思考を繰り返しながら観念を作り上げていきます。それに記憶力を加えることで過去を作り出しストーリーが完成します。湧き上がる不足感をあらゆる観念が感情化しそれを思考で解決していこうという試みになります。

不足感全開の無知無能人間は最初はメリットを重視するが、、

神にとって人間は無知無能です。その人間は不足感全開になりそれをなんとかして解決しようと行動します。人間ができることと言えばなるべく損をしないで生きたい、将来後悔しないような人生を歩みたいということになります。周囲から教えてもらう損が少ない人生を目指すようになるのです。進学しかり就職しかり結婚しかりです。ですがどこまで行っても消えないこの不足感は常に自分を追ってきます。この損しない生き方ゲームは死ぬまで続くのだろうか?ということです。神は人間を無知無能に作りはしましたがそれは不幸に浸かれと言っているわけではありません。その状況から神に戻ることを最終ゴールにしています。このブログでは神が教えてくれるあらゆるヒントを掲載します。

思考は「この心身」を永続させるために発達した

この心身は神の化身

この心身は神の化身です。神がこの夢を謳歌するためにこの心身こそを自分だと究極の縮小バージョンの自分を作りました。作っただけではこれを自分だと勘違いすることができないのでこれに思考を与え「この心身こそ自分である」と勘違いできる状態にしました。これが自我です。ということで思考とはこの大いなる勘違い、至上最高のジョークを永続するためにあります。

人間は思考が大好き

人間は思考が大好きです。なぜならば思考がなければ自分を永続できないからです。この勘違いを成立できないからです。野生動物に自他の区別がないのは思考がないからです。人間だけが思考を所有することで自分と、自分以外という世界を作り上げることができます。これは同時に強烈な孤独感、欠落感、不足感を生み出します。まさかこの思考がこの世の苦しみを生み出しているとは気づかずせっせと思考を強化しているのが現代人です。

情報化社会は苦しい

過去の歴史においてこれほどまでに情報が溢れた時代はありません。これはもう狂っているとしか言えないほどの情報が飛び交います。人間はこれらの情報を大いに取り入れて思考を強化していきます、自我が永続されていくのです。ですがこれは同時に分離感、孤独感、欠乏感も増やしていきますから大変苦しいとも言えます。大変苦しいと同時に悟り・ノンデュアリティーなど人間の苦しみメカニズムを解明する情報も手に入れることができるという面白い時代とも言えます。

スピリチュアルな高揚感の危険

インナーチャイルド、退行催眠、オーラソーマ、

私もかつてはスピリチュアルにどっぷりとハマり本を貪って読み込む時期がありました。私の過去世は何をしていたのだろう、自分のオーラの色は?チャクラ開発とは?、、、あらゆる本を貪って読んでいた時の不思議な感覚の一つに高揚感がありました。一般の人達は目に見える世界だけを信じていて狭い視点しかない、現世利益だけを信じて生きている人達はなんて寂しいのか、まだお金や地位、名誉や常識に囚われているのか、、残念な人たちだと他人を見下して生きていたのを覚えています。ですがその一方で高揚感とともに増えていく不安感が確実にありました。何か違う気がする、、

今までと何も違わない、、、

スピリチュアルにハマる前の私は、就職先を誇りに思っていました。安定した大きな組織に勤めていた自身は他人を見てはなんて大変な環境で働いているのだろうか、とやはり他人を見下していました。収入も多く、安定していたのでそこに至らない周囲の人々を見下していました。努力をしてきた自分はこのような組織に勤めれるのは当然でその努力ができない人間はそこに至ことができないのも当然だと見下していました。

自分が居るというこの感覚を捨てない限り延々とこの見下すモードから解放できない

人間というのは常に見下したい生き物なのです。他人よりも自分が上であると感じながら生きていたいのです。私も私の友人も他人よりも上だ、、この感覚を持って欠乏感を埋めたがるわけです。欠乏が先ずは先にあってこれをなんとか埋め続けて生きていきます。神が人間になり切って生きているのがこの人間ゲーム、夢ですがこの夢の中にいる限りこの見下したい願望がなくなることはないでしょう。なぜならば基本が不幸だからです。ですがもしも自分が神であることを確信的に思い出したならばもう他人を蔑む必要はなくなります。なぜ神が自分が作った夢の中の登場人物に対し優越感を感じたがるのか?です。こんな馬鹿げたことはありません。

老人になると穏やかになるのは自我が弱まるから

老人は基本穏やか

老人になると丸くなる、あの人も歳を重ねて丸くなった、、、丸くなるという言葉は言い得て妙、自我が削れていくことをイメージで表現しています。老人になると思考のパワーが落ちてきます。思考に力がなくなっていくのです。するとこの心身こそが自分自身であるという自我が弱まり結果神に近くなります。これは神が見る夢です、神が人間扮する自分になり切ってこの夢物語を活動します。人間に成り切る錯覚力こそが自我力です。この錯覚する力が落ちていくことでまさかの神に戻っていくのです。自我が弱まった老人とは生きる神です。あの穏やかさ、落ち着き、安堵感は神の境地です。

若くてもそれを手に入れるには

若いということはパワーがあります。思考にもパワーがあります。そうなれば必然的に自我が強くなっていきます。この心身こそは自分自身である、、自分というのを異常に意識します。神が完璧に人間になり切っている状態です。分離全開状態です、この状態は不足感全開、欠乏感全開、喉の乾き全開です。この乾きをいかに癒すか、それは何かに無心になってしまうことです、何かに完全燃焼することです、何かに無我夢中になることで神に戻ります。パワーを陽転させていきます。もしくは全作業をルーティン化して思考の出る幕を無くしていきます。イチローのようにルーティンの鬼になって思考の出る幕を削ぎ落としていきます。

穏やかさとは無心さ

無心というものにいかに入るか、ここが重要になります。無思考にいかに入るか、完全燃焼にいかに入るかです。無心という状態に対し意識的である時、神に意識的に戻ることと同じ意味になります。毎日をいかに無心に持っていくか、ここに注力します。そして無心の状態を感覚的にはっきりと認識することは神の感覚を取り戻していくことになります。無心、無我、無思考への積極的行動とは神への積極的帰還です。神を日常にいかに取り入れるかがわかるともう対象への渇望はなくなります。