波と海の関係

なるべく苦労させないであげたい

苦しみの誤解

苦しみとは何でしょうか????苦しみとは「自分」という存在が居るという大誤解が起こすものです。「自分」が存在するという錯覚がこれを起こします。本当は海にも関わらず「波」だと信じることで苦しみが起きています。にも関わらずなるべくこの子には苦しみを味わないように過ごして欲しい、、、そう信じて育てますと、、、地獄に落ちます。

大誤解にいかに早く気づくか

3億円の宝くじが当たったその日に、、、犬の糞を踏みつけて怒り狂って寝ることが出来ませんでした、、、このような話は聞いたことがないですし起きえないのです。なぜか??????嬉しすぎて怒ることができないのです。つまり人間の感情とはその状況によって起こるものであり、、こうなったらこの子は苦しいはずだ、、、というのは真実ではないんです。自分をどう捉えるか、、これによって苦しみの有無が決まるのです。

自分は海だ!!!が分かれば、、、

自分は海だ!!!が分かるためには、、、普段苦しみを味わっていなければこの気づきにはなかなか辿り着かないでしょう。親が表面上の苦しみを取り除いても苦しみは実は全く無くなることはなく、、孤独な「苦しみとの向き合い方」をしなくてはならなくなるでしょう。ですから苦しむことを恐れるのではなく苦しみとの挑み方を教えることです。

女性軽視はなぜ起きるのか?

芸能スキャンダルから考察する

なぜ女性経緯問題は芸能界などから消えないのでしょうか???先ず大前提として、、自身を豊かな存在だと認識できている場合、、人から何かを奪おうという発想は起こりません。海が海の状態にある時、、何かに渇望するということはあり得ないのです。海が海の状態にある時感情というものは基本起きません、そこにあるのは苦しみのない安らぎ、苦しみのない安堵、苦しみのない平安です。これらは感情とはいえず喜怒哀楽には含まれません。この状態にある時に人から何かを奪うという発想は起きにくいのです。

海が波となる

この波を自分であるという認識が生まれた瞬間から苦しみ、分離感、不足感が同時に生まれます。波としてこの負の感情を消し去ろうとする場合「刺激としての喜び、刺激としての楽しさ、刺激としての充実感」を得ることでこれを相殺しようとします。そして結果一時的にそれに成功します。ところが再び我に帰り自身は波であるという感覚が蘇りますと、、再び不足感違和感分離感が起こるのです。そこでまた個人として刺激としての〇〇を求めるわけです。

感情じゃない

何か楽しいことしたい、嬉しいことしたい、、、は全部個人として感情を得ようとする動きです。ですがこれらは全て一過性のものであり、、個人としての分離感を消し去ることができないものです。一方私は波ではない、、波としての感覚を期した時には、、、、感情ではなく、、本質の安らぎ、本質の静けさが漂います。これを味わう、感じる個人は居ません。いかに多くの時間をこの状態で居れるか、、この二つは全くベクトルが異なるものです。

本当は違う

一時的な喜びを得ることが本質からは全くズレていることは、、実は分かっています。ですから女性軽視などをしてそれを行う者は焦っています、、これが付け焼き刃であることをどこかで知っているからです。ですがあまりの苦しさにこれを抑えることが出来ないのです。特に芸能界のように波を自分自身であると自他共に感じやすい仕事の場合は尚更です。苦しさは周囲の予想を遥かに超えるものでしょう。

大人への恨み

子供が大人を恨む理由

今苦しいですか??今不足感を感じますか???今違和感を感じますか???それらネガティブな感情を抱かせた張本人は見かけ上の両親です。なぜならば海として生きていた存在に「あなたは波である」という洗脳を何十万回も行ってそれを固定化させたからです。「私は波である」この感覚を錯覚として覚えることで、、エンドレスに苦しさ、不足感、孤独感を引き起こすのです。そしてこのことを何かが気づいています、だから子供は親を心の底で恨んでいるのです。

先ずは親を超える

この洗脳を脱するためには先ずは親を超えることをお勧めします。親よりも抽象度をあげていくのです、親よりも俯瞰した物の見方ができるようになっていきます。これによって子供は親よりも俯瞰した見方を手に入れいずれ自我をも俯瞰できるようになるのです。自我を俯瞰するとは自我の構造を理解するということ、すると自我の自動反応によって苦しむということが無くなっていきます。自我によって苦しまされるのは自我の動きに無意識だからです。

自我とはこういうものである

自我、エゴとは何か???これを冷静に理解できれば自我の動きが起こった時にそれを俯瞰、観察できるようになります。自我によって人が苦しむのは自我が立ち上がった際に起こる不快感をさらに自我が解決しようとから周りするからです。ですが自我が立ち上がるがゆえの苦しみを自我が解決しようとすることで苦しみがデフォルト化します。つまり絶対に解消されないといううことになります。この動きが俯瞰することで止まるのです。

豊かさはセルフイメージの反映

自分を波と捉えるか否か

これは夢です、完全に夢です。自身を海ではなく小っぽけな波と捉えれば、、、それが反映されたような豊かさを手に入れます。自身を広大な海として捉えれば、、広大な豊かさを引き寄せます。毎晩見る夢でも同じですがその気分がそのまま投影されるということです。自身を小さい小さい波と捉えればその通りの現実(現象)という夢が起こります。

私はこの体思考感情だけではない

多くの方が持つ概念はこの私とはこの体思考感情のみである、、です。この広大な世界でこの小さな体のみが私です、、です。この概念は真実とはかけ離れ貧しい思考なのです、、そうなるとそれが反映された現実という夢が訪れるのです。ですがこの私とはこの体思考感情だけではなく、、本当はこの世界そのものなんだ、、という概念を所有しますと、、それを反映した現実という夢を起こすことができるのです。

私は海だ

私は波だ、、、に比べれば私は海だ、、、というのは途方もなく豊かな考え方ではあります、、ですがこれは概念の外には出れていません。なぜならば海は「私」はという概念を所有するはずがないからです。私という概念は私以外の存在を感じているからこそ起こるのであって、、海は海以外の存在を知るはずがないのです。だから海は「私」という概念を知りません。

あなた(海)なしには何も存在しえない

見える世界は全部あなた(海)が居てこそ

あなたが居ないでこの世界は何一つ成立しません、、なぜならば今見ている世界はあなたの存在があって出現し、認識されているからです。あなたはこの体だけの存在では全くなく、、、見える世界の全てに気づく存在です。目の前に大河が流れているならばその大河を今の姿にして出現させているのはあなたであり、大河に気づいているのもあなたです。あなた(海)なしに大河はその姿を認識してもらえないのです。この広大な大河が自分ありき???海とは大河どころではないのです。。。夜中に望遠鏡で宇宙の星々(波)を眺めてみてください、、これらはあなたが居て初めてその姿を姿たらしめているのです。

急に自分が大きくなった気がする??

そうです、、、あなたはとんでもなく大きな存在であなた以上に大きな存在は居ません。そして同時に目の前のこの人もあの人も、、、全員が海としての活動を今もしているにも関わらず波としてこじんまり生きています。その方が毎日田植えをして生活をしているにせよ、、、海として生きるか波として生きるかによって人生の満足度が全く異なるのです。勿論この体(波)は全体から見れば小さいのですが、、海全体の能力を保持したまま波として生きるのを自覚するのと、自覚しないのでは全く違った人生になります。

特別(波)を目指すのではなく

なぜ我々は常に特別(波)を目指すのでしょうか???今海の能力をフルに発揮しているにも関わらずこれ以上の能力(特別)をさらに手に入れようとするのは滑稽です。既に自分(波)は海であり万能なんだということを認めてしまった方が良いのです。ですが特別(波)であろうとする自我はそれを認めないでしょう、、なぜならば全員が海(万能)であることを認めることは自身の存在(万能を目指す)を否定することだからです。

全員が悟っている

波だけど全員同時に海

音が聞こえ、光が見え、料理を味わえ、触れば感じる、香りも嗅げる、、、、これ全部海でないとできないことです、、波の機能では不可能なのです、、、波が持っている機能では実はこれはできないのです。というよりも波には何の機能もないのです。つまりつまり全員が海の機能を所有し、、それを波の機能と「勘違いて」生きているのです。

海の機能を持ちながら、、波として萎縮して生きる

全員が海でしかできない能力をフルに発揮していながら、、波として萎縮して萎縮して生きています。自分(波)なんてしがない人間ですから。なんの取り柄もない人間(波)でござんす。生きていてもこの先何にも良いことないし。。です。本当は波なんていうちっぽけな存在ではなく、しかも海の機能を全発揮しておきながらメンタルだけは波として生きるというおかしなことをしているのです。

萎縮するのは終わり

見える現象(波)の全てに気づき続けてきた海でありながら、、自身を波として生きている、、この滑稽なコントをしているのが波物語です。ですがそのコントこそが無限(海)のアートでもあるのです。海(無限)は波活動を通じて無限の体験を積んでいるのです。波(自我)とは海の無限体験を積むための道具です。ただしこの体験は苦しみを伴うため全波が海を目指して生きていきます。どこかに桃源郷(海)があるのではないか???と。ところが今自身が海であることには気づきません。

お前(波)は既に悟っている(海)

既に悟っているんです?!

ノンデュアリティ、悟り本にたまに出てくる言葉、、あなたは既に悟っているんです。。。この言葉、、こんなこと言われて全く救われない、、、となります。既に悟っているならなぜ今苦しんですか???という話です。個人にとって自分にとって全く役に立たない言葉「あなたは既に悟っているんです」これってどういう意味なんでしょうか???

音が聞こえて、物が見えて、料理を味わえて、、、

友人との食事会、、友人の声が聞こえて、食事を味わえて、、友人の笑顔をみえて、、この当たり前の人間能力、、五感の働き、、これら全てを当たり前と個人は考えていますが、、これ全部、、海(悟った状態、解放)でしか出来ないことです。波(個人)にはこのような能力は存在しないのです、、、????波は海の上を漂うだけですから五感という能力は持ち合わせれないのです。いやいや、耳、鼻、目、口、舌、、、全部五感を司どる機関がありますけど?????違います、、これらは全部幻想です、実在しません。

実在しない耳、鼻、口、

この物理次元の物質は全て幻想です、あるように見えているだけです。実際には海(スクリーン)が現象(波の動き)全てを認識するのです。海が海の中で起こるあらゆる動きに察知し気づくのです。スクリーンがスクリーン上の画像に気づきスクリーンが気づいたことを個人が所有して自我が発達したのです。その全ては幻想です。だからケンシロウは相手にいうのです、、おはえは既に死んで(悟って)いる。全部知覚できているということはあなたは既に海、スクリーンですよと。

悟りは実生活で役に立つのか???

悟りって結局のところ得があるんですか???

損得勘定で言って、、、悟りって結局のところ意味があるのでしょうか????正直に言いましょう、、全くありません。だって得をすることになっている「自分」が居ないと断言するメッセージだからです。自分が居ないなら得はないですよね!!そうです、この世界のメソッドで最も個人に有害なメッセージです。ではなぜこのメッセージが必要なのでしょうか???簡単です、、個人は個人のままでは絶対に絶対に至福に至れないからです。なぜならば苦しみを作り出しているのがこの個人だからです。

動き回っている波に、、、実はあなたは波ではなく海の一部ですよ!!!

自由奔放、やりたい放題で調子に乗っている波に、、、あなたは波なんて大そうなもんじゃなく海なんです、、波なんていうのは名前でしかなくなて本当は存在しないんですよ!!!!と伝えれば、、冗談じゃない、、こっちは全部責任でやってるんだ!!!!変なこと言うな!!!と一喝されるでしょう、波に。

波という独立した何かは本当じゃない

波はいったいどこからが波でしょうか????海と波を分ける明確なボーダーラインってあるんでしょうか???あるわけがない、、つまり波という完全独立した存在など本当はないんです、便宜上つけた名前です。にも関わらず俺は〇〇○助という波であると宣う輩が生まれました、、それが人間です。これは真実じゃないんです、真実では波なんてものはないんです、、人間も同じ、そしてこの体の中の自分とやらも同じです。どこからがこの体ですか???体毛は??フケは???爪の垢は?大便は???出血中の血は????ボーダーラインがないんです。これって波と全く同じですよね。

悟りは個人には全く役に立たないが

悟りは個人には全く役に立たないのですが、、、究極のリラックスに至るのは間違いありません。究極のリラックスに至るのは個人ではありません、個人が実は究極のリラックスの一部でしかなかったという気づきが起きるのです。個人が実は至福の構成要因でしかないことに気づくのです。個人が気づいていたと思っていた全気づきが、、実は空即是色で自動的に起こっていたことに気づきます。これは究極のリラックスに至ります。

勘違い波野郎の暴走

勘違い波野郎は常に苦しい

勘違い波野郎は常に苦しみます、勘違いしてますからその存在自体が無理があるのです、無理があるのはストレスになります。波が起き上がり波が海面を動いている時に他の波から様々な声かけを受けることでこの波は海とは異なり独立していてこの波の中には自分が居るという勘違いが起きたのです。これはどこまでいっても勘違いですから苦しいのです、なぜ苦しいのか???この波の動きは海の動きに左右されており、、波独自の自由意志など全く関係なく動くからです。にも関わらず波は独立していると勘違いしていますから自由意志で自由に動けると思い続けるということです。

俳優がロックスターを演じ続ける苦しさ

ある俳優がロックスターを演じます、、演じるにはパワーが必要です、なぜならば本当は違うからです。これは海も同じ、本当は海だから波を演じると疲れるのです。だから人間には睡眠が必要になるのです。眠りに落ちるのはなぜか???それは人間としての個人を生きるのに疲れるからです。本当は人間でもないし個人でもないのです。

それでも勘違いは続く

周囲の波の影響で新しく生まれた波は自我を芽生えさせていきます、つまり周囲の影響が自我育成の大きな要因なのです。ですからこの自我は嘘なのでは??と気づき始めても周囲は自我全開で活動していますからこの嘘を完全に見破るのは大変なのです。ですが逆手にとって自我の存在の傾向を研究していきます、どのように自我が働きその人を操っているかを見定めていくのです。

海になった時に迷える波を救おうと思うのか???

波の活動は完全完璧

海の立場になった時、波の活動は完全完璧であったことが分かります。海にとって波は自身の一部であり、、その波が波活動をしていたとしてもその活動が海の本意とは異なることはありえないのです。なぜならば海が関与できない、海がコントロールできない波は存在しえないからです。海にとって波は完全完璧な活動でしかないのです。俺は波だと言い張る輩が現れたとてそれも海の表現でしかないのです。海の見ていない隙に勝手なことしやがってあの波め!!はないのです。

不良の波は存在しない

どのような波も完璧な海の表現です、波がどのような思考、感情を持とうとも、、それも完璧な表現です。海は最初から完璧な海でありこれ以上進化向上などする必要がないのですから波も同様に完全完璧なのです。ただ波としての活動が始まり海としては経験できない無限の経験を積んでいるだけなのです。どのような経験も海としてはできない経験であり全て完璧なのです。

禁止事項があるならば最初からやらせない

波としてこれだけはやっちゃいけない、これをやったらお終いよ、、、そんものはないのです。海は海として経験できないことを全部経験したいのです勘違い波野郎としてなんでも経験したい、、それが海の本望です。勘違い波野郎としての全部の勘違いを経験したいわけです。勘違い波野郎が実は海だったと気づくまでこの流れはエンドレスに続くのです。