ニサルガダッタ・マハラジ

あなたが現実なのだ

ニサルガダッタ・マハラジ

「私は現実に到達したい」という訪問者に対してマハラジは「あなたが現実なのだ」と説明します。私が現実に到達するのではなく「あなた自体が現実なのだと」では現実と「私」という二つは存在しないのか??????しないのです。現実しか存在しません、、この現れ出る世界しか存在しません、、、そこにはそれを分かつ存在「自分」は存在せず、、それは思考に過ぎないのです。

この肉体はこの世界とは別

この肉体はこの世界とは別である、、そう信じる思考が起こり、、、その思考が起こらなければこの世界は完全に絶対の影であり、一つです。この体をこの肉体精神機構を別個と捉える思考が起こることで「私が現実に到達したい」という思考が起こるのです。ですからこの思考を叶えようとする動きは全て無駄に終わるのです。

個人的実体と悟りは共存できない

ニサルガダッタ・マハラジ

マハラジは「個人」と悟りは共存できないと説きます。霊的探究に成功してきたと自覚する女性に対して「あなたが成し遂げたその全てを失うことが悟りである」と説きます。主体の欠落、行為者の欠落こそが悟りです。ですから悟りを成し遂げた個人というのは不可能であり、、、多くの探究者はその矛盾に気づきません。では行為者が居ないにも関わらずなぜ勘違いを起こすことが可能なのでしょうか?????それはその思考を信じたからです。

どうやって信じるの??????

思考とはイメージです、、、思考がそのままに認識されればそのイメージが認識されます。そのイメージがまさに起こるのです。「私は悟りました」という言葉の認識はそのままにイメージ化されます。ただそれが起こっているのです。ですがそのイメージこそが苦しみを作り出しますから今まさに苦しんでいるのです。だからそれは悟りではない、、となります。

直感的認識

マハラジ曰く「そのことの直感的認識」が起こる時、、苦しみがなくなっていくと説きます。個人が成し遂げた、個人が成功した、、、それが苦しみを生み出す幻想に過ぎないことに気づいた時、、、苦しみがなくなります。それは誰に起こるのか???????誰にではなく、、ただ直感的認識として起こるのです。

時間

ニサルガダッタ・マハラジ

マハラジ曰く、、「我々は時間そのものである」移り変わるこの現象、、これこそが我々であり、、この移り変わる現象の中にそれとは異なった「私」が居るのではなく、、、移り変わるこの現象自体が我々です。ですからこの世界に時間があるのならば時間も我々です。移り変わる様子を時間と称すならば時間は我々です。逆に言えば時間を感じる「私」は存在しないのですから時間を感じることはできません。よって過去を感じ未来を感じることもできません。

絶対

マハラジの教え

ニサルガダッタ・マハラジの教えの特徴はなんと言っても「絶対」でしょう、、、我々は「絶対」の存在でありいまここに「私が在る」という観念が起こるのは、、その影がここに起こっているからだ、、ということです。目覚めた時「私が在る」という思考は現れ、、熟睡すれば「私が在る」という思考が消えます。この「私が在る」という思考が消える時、、残されたものそれが「絶対」です。全思考の活動が消えますがそれでもそこには何かが確実に残るのです。それが「絶対」です。

偽物を偽物と理解する

この世界が現れ出る時「私は在る」という思考も起こります。これが第一のマーヤー、ムーラマーヤーです。第一の幻想です。その中に第二の幻想が現れでます、それが「この体は私で在る」という思考です、、これが偽物なのです、、それを見抜きます。偽物を偽物と見抜くのです。これを彼は子供ー原理(child-principle)と呼びます。

世界は幻

朝目覚めた時に起こるこの世界は幻です、、その瞬間「私は在る」という思考も現れますがこれも幻影です。「絶対」以外は全て幻であり、、、その認識はこの「絶対」から起こるのです。二つの観照段階があり、、存在がこの全ての顕現を観照し、、、この存在の観照が、、、絶対から起こります。そしてこの存在と顕現には分離はなく、、さらに存在と絶対にも分離はありません。よって絶対、存在、顕現には分離がないのです。つまりそれらは全てであり一つなのです。