ラメッシ・バルセカール

真実を言い表す全ては観念である

ラメッシ・バルセカール

ラメッシ曰く「どの見かけ上の覚者が話す言葉も観念です。」言葉とはイメージを生み出します、、イメージは真実ではなく、、よって言葉によって作り出される全ては観念(イメージ)なのです。我々は覚者から放たれた観念(イメージ)を認識し、、誤解をイメージ上で解き放っていくのです。そして日々の生活の中で実感に落とし込んでいきます。

意識しかない

意識しかない、、これも観念です、、、「意識しかない」という言葉はそのイメージを起こしますから観念です。そしてそのことを実感することで、、シンプルになります。ALL THERE IS CONCIASNESS。CONCIASNESS IS ALL THERE IS。この言葉がラメッシから放たれた時それは観念でありイメージです。ですがこの言葉の中には「エゴ」が存在しません、よってこの言葉は機能する思考です。

考える思考、機能する思考

ラメッシ・バルセカール

ラメッシは考える思考と機能する思考を分けて考えます。考える思考とは勘違いをベースにした思考です。「私は失敗した」「私は成功した」「私はなぜやってしまったのか??」多くの方々はほぼこの思考で埋め尽くされていて最終的には精神病患者状態になります。機能する思考とは事実に基づいた思考です「私という行為者が存在しない」という大前提をベースにした思考です。明日は何の飛行機に乗るべきか?明日は何の仕事を優先するべきか????などです。

多くの時間

多くの時間を人が持て余すと、、「考える思考」に埋め尽くされてしまい最終的には不安障害のようになっていきます。ですからラメッシは、、何かをしなさいと言うのです。何でもいいから自身の生活を自身で賄えるよう努めなさいと言うのです。それを行えば考える思考が出る幕が減り、、機能する思考が現れ出していきます。

退屈だから

退屈だから、、考える思考が現れ出し、、起こした行動にあらゆる判断を行いますが、、全ては勘違いであってその動きは苦しみでしかありません。「自由意志はない」「行為はあっても行為者はない」この事実に向き合った時、、考える思考が湧く余地がなくなります。その時、、機能する思考が現れでて事実に基づく行動だけが起こります。

パニック

肉体精神機構

ラメッシが言う肉体精神機構にパニックが起こる状態とは何でしょうか??????パニックとは起こった状況に対して思考が起こり続け、その思考の認識が起こり続けることで状況認識が起こらなくなることです。例えば慣れないスポーツの試合をする際に、、思考が起こり続ければボールが見えないという状況に簡単になるのです。そのスポーツに慣れている人は思考が湧かないから状況認識を起こせます。

認識は一つ

向き不向きとは、、、思考の渦が起こらない分野が向き、、思考の渦が起こる分野は向きません。状況を認識する余裕がなく、、思考の認識ばかりが起これば、、、苦しいのです。ラメッシはDNAー外部環境に対する反射がどのように起こるかは運命であってそこには誰も立ち会えないと語ります。そしてその通りです。

シンプルになる

ラメッシ・バルセカール

ラメッシ曰く「肉体精神機構」が完全自動反応に過ぎない、、、このことに気づくと、、、その反応に悩むという時間がなくなるため、、生活がシンプルになる、人生がシンプルになり、、、楽になる、ということです。DNA-環境反応に過ぎない、、このことに気づくことで悩むことが出来なくなるのです。自由意志があるという大前提が悩む時間、悩む心を生み出すわけですが、、その動きが消えます。

私が理解したいという動きも消える

私は「悟り」を理解した、私は「全てがただ起こっている」ことを理解した、、、これも完全に勘違いです。だから正しい理解の後、これらの思考も消えます。ラメッシが「誰が構うもんか?!」というタイトルで本を出したのはそのような理由です。そのことに構っている誰かが存在している時点で、、まだそれは悟りではないのです。

肉体精神機構

肉体精神機構は起こります、そしてその肉体精神機構の中で、「私が自由意志で全てを決めている」という思考が起こります。そしてその前提であらゆる思考が次々に現れ出るのです。この流れがこの流れこそが苦しみを生み出すのです。だからそのことに気づき、、その思考の起こりが無くなる時、シンプルに楽になるのです。楽になる誰かが居るのではありません、ただ苦しみが消えるのです。

巻き込まれる

ラメッシ

ラメッシは「巻き込まれる」という言葉を使います。エゴによって巻き込まれる、巻き込まれない、、、、物事の結果は完全にプログラムの入力と出力に過ぎず、、全自動です。全自動であることが事実です。にも関わらずこのコンピューター(肉体精神機構)はああすれば良かった、こうすれば良かったと考えます。この考えはコンピューターの構造上間違っているのです。遺伝子的反応、外部的環境への反応としてアウトプットがされるのであって、、全ては全自動なのです。

全員が異なる

遺伝的要因、外部環境的要因によってこの肉体精神機構は全く異なった反応をするのですから全員が全く異なった反応をするのです。このことが本当の意味で分かると、、、起こった事実、反応に対して「悩む」ということが起こりにくくなります。なぜならば誰も意思でもってその反応を起こしておらず、、、結果は神のみぞ知る、のですから。あとは個人が思い思いの期待をするだけであってその期待に添う時喜び、添わない時悲しむだけなのです。

分かったとて

そのことが分かったとてこの肉体精神機構から起こるアウトプットをコントロールできることは一切なく、、唯一できることはアウトプットに悩む、妬む、悲しむ、という巻き込まれが無くなることしかありません。なぜそれが無くなるのか????それはアウトプットが完全自動であるという完璧な理解が起こった時、、、結果に悩むということが実質できないからです。

意識とエゴ

ラメッシ・バルセカール

全ては意識です、、全部が意識、、、そうなるとエゴは何ですか???????エゴとはこの世界とは分離した自己意識のことです、、、ところが全てが意識ならばエゴは全体とは分離した何かであることは構造上不可能です。そうです、、つまりエゴとは嘘です。この世界は全て意識ですから分離した何かは存在しないのです。つまりエゴ、自分とは勘違いです。

肉体精神機構

ラメッシはこの体、そして思考を含めて肉体精神機構と言います。この体はこの世界とは分離した存在であるという認識は起こりますが、、その思考は構造的に間違っています。この世界は意識が作り出した現実であり、非現実です。この世界に現れ出る肉体も、、視界が作り出した映像に過ぎず、触覚が作りだした幻に過ぎないのです。

WHO CARES?!

ラメッシ・バルセカール

意識以外は存在しない、、それが彼の教えの特徴の一つです。「意識」は100%あります、意識の存在を疑うことはできません、、、そして「その意識と対象」という分離が100%存在しないのですから意識と対象物という分離はないのです。全ての対象物は意識です。その証拠に対象物の認識は、、認識そのもののみです。五感という認識以外に対象物を認識する術はないのです。

対象物が在ると信じる方法

なぜこのコーヒーカップが在ると思えるのですか??????だって触れるし、見れるますから、、、つまり五感を使ってそれがあると思うことが出来ているのです。逆に言えば五感がなければそのコーヒーカップは存在しません、、その存在が五感が支えているのです。つまり意識がそれを支えているのです。だから意識と対象物があるのではなく「意識」しか存在しないのです。

その意識すらも

その意識すらも「絶対」から起こる現象に過ぎません。熟睡寺には「意識」は消えてなくなりますが我々の存在が消えるわけではありません。つまり意識すらも根源「絶対」から湧きでる現象に過ぎないのです。その意識は根源である「絶対」から影が現れた瞬間に起こります。「絶対」の中には自らを「絶対である」と認識する部分が含まれていて、、その認識がまさにこの「意識」です。移り変わるこの無限の影こそが絶対が絶対である証拠です。