解放

霊的進化もどうでもいい

それはストレス

進化しなくては進化しなくては、向上しなくては向上しなくては、、、これらは実は全く自由からかけ離れています。全くもって楽しくない、ストレスでしかない。向上した方が良いって誰が決めたんでしょうか????誰も決めていませんよね、、そんな独特ルール無限の存在の表現、あるがままの表現に一切ありません。本当はただあるがままの表現があるだけ、その中で向上しようが湧いてきただけです。

重要なこと、それは楽になること(解放)

とはいえ解放を目的に生きれば今度はそれが素晴らしいことという概念を作ってしまいます、ですからそれを目的にしてはいけない、、そうではなく、、ただ気づきを得ること、そしてそうなったら楽になれるかもと俯瞰すること。そしてそれまでの道のりも完全に意図した生き方はできず完全自動運転であることを悟ることです。自我の動きに振り回されて十分にこれまで苦しんできたのですからこれからは苦しまないで生きていくだけです。

自我を主語にしないこと

軽々しく扱われた、、私をこんな扱いするなんて!!!と自我を主語にしたストーリーを辞めるのです。ただそれが自然現象として起きました、そしてこの体の中のは自我、自分は存在しません。にも関わらず怒るのはおかしい、、です。本来だったら怒るのでしょうが、、自我自分私がこの体の中に居ないことを分かっているので冷静に対処します。

被害者になっても受け入れろ、ではない

お金を払ったのにサービスが出てこない、、もしかしたらこの体(私)が軽く扱われたのは事実かもしれない。ですが残念ながらこの体の中には私は居ないので軽く扱われることはできない、ただ事務的にサービスをお願いするだけです。相手は嫌な気持ちにさせるためにそうしたかもしれない、ですが相手の体の中には自我は存在しないのです、、ただの自然現象です。だからハードドラマになり得ないのです。

引き寄せるのは誰だ?

引き寄せる自分は居ない

引き寄せの法則が一時期流行りましたが、、引き寄せる自分は実在しませんからこの法則は無理があります。ですが自我が緩んで緩んでいくことで究極のリラクゼーションが訪れ見える世界が輝いていくことはあります。ストレスという固い固いエネルギーの塊が緩むことで、、見える世界、触れる世界が変わることはあるのです。例えば1億円の宝くじが当たったとしましょう、、その瞬間世界は輝いて見えるはずです。一時的に自我の緊張が緩むからです。

究極のリラクゼーションを目指して

仕事で大活躍している人に会えば私も頑張らなくては!!!と思ってしまうし、、、輝いている人に会えば、、私もあの人のようになりたい!どうしたら???となるでしょう。ですが本当はそうではなく、、、デフォルト「苦しい」を解除することが一番重要なのです。信じて疑わない「自分」という存在をもう一度解析し本当は居ないことに気づくこと、自由意志を行使する自分など存在しないこと、、、

主人公が居ない生活

五感は全てこの体が担っていると思っているので自動的にこの人生の主人公はこの体になります。ですが本当は気づきの意識が全ての現象に気づいています。そうなると主人公はもうこの体ではない、、この体ではなく気づきの意識が気づいているだけ、、、、主人公は気づきの意識です。主人公がこの体だったからなんとかこの体を大切にしなくては、となるのですがそれももうどうでもいい、、、体なんて小さな物じゃなく気づきの意識が我々の本質なのですから。これが解放です。

幼少期はそうだった

自分がやったなんて全く思ってなかった

幼少期は、、ただ昆虫に触り、目に映る花を触り、話しかけられれば反応し、お腹が空けば何かを探し、、、そこに自分などという存在は皆無でした。。。両親から、、、名前を何度も呼ばれ、、、茶碗を落とせば注意され、、徐々にこの体の中に「自分」が居るという概念を学習させられていったのです。そしていつしか常に名前で呼ばれるようになり、友人も名前で呼び、、、自我同士のコミュニケーションが完成していきます。

無視されるのが辛いのは

学校では無視するというイジメがありますが、、これが卑劣なのは、、、自我にとって存在を認知してもらえないというのが一番辛いことだからです。なぜ辛いのか????それは本当はないからです、、他人に呼びかけられてようやく存在を信じることができるだけ、、、本来ないのだから、、、、他人に存在しているように扱われて初めて存在を信じることができるのです。だから学校ではみんなか声をかけてもらいたい、それが人気者。

ずっと人気者は無理

社会に出ると、、人気者の意味が変わってきます、、、男性ならば職場で良い仕事をして認められることだったりします、、家に帰れば良いお父さん、、、本当は存在していないのだから常に他人からの承認を求め続けるのです。これは辛いし苦しいのです。いつまでこんな風に頑張り続けなくてはならないのか?です。

自我の卒業

自我のメカニズムが理解できてきますと、、自然と何かを求める欲求が減っていきます。自我が無いことはもう分かっていますから無理して誇示する必要が全くないのです、、ないのが基本ですから。頑張って頑張って自分はココに居るよ、、というアピールの必要がない。存在が嘘なんですから。自我が嘘だということがハッキリとわかった時に自分の奥にある何かがそれに気づき自我を最吸収します、それが解放です。

どうやって目覚めるのか???

意図して目覚めるは絶対にない

自由意志は本質の世界には絶対にありません、ゲーム上自由意思があるように見えているだけで実際にはマリオに自由意志はないのです。ですからどうやって目覚めるのか???という疑問を持っている間は目覚めが起きない可能性が高い、なぜならばマリオが全力で悟ろうとしているからです。大勘違いが続いています。むしろ真逆でマリオが意図して悟ることはないのだから勝手に目覚め解放が起きるのを待とう、、このスタンスが解放に近い感覚です。眠ってやるぞ眠ってやるぞ!!と鼻息荒く準備するよりも眠りに落ちるのを待つ感覚です。

誤解を解き続けることで準備はできる

自由意志はない、それを主導する自分もいない、、、周囲の人間も実は自由意志はない、このゲーム上には至福(ゲーム本体)は落ちていない、、こういった誤解を解くゲームに夢中になっていきますとリラックスが起き始めます、緊張感が抜けてくる、、よく分かんないけど頑張るって無駄だよね、、よく分かんないけど放っておけば寝れる(解放)よね、、、みたいになっていきます。この段階は小さな気づきが起きやすくなります。もう周囲に振り回されて頑張り続ける、、から卒業できるはずです。

死ぬのが怖く無くなっていく

死の恐怖は大変わかりやすいポイントです、死に対する恐怖は自身の本質に目覚めているか否かが判断できます。本質に深く触れていきますと理屈ではなく死への恐怖が減ります、友人の死、親の死などに対してもネガティブな感情が起きません。どこまで本質として生きているかが大きく出るのです。野生動物が親の死を引きずらないのは冷徹だからではなく本質そのものだからです。原住民族が死をお祝いするのは本質的に生きているからです。

あるがままはなぜ今もこのゲームを続けるのか?

最初から完璧ならば、、、

最初からあるがままはそのままで完全完璧ならばなぜこの意味不明なゲームを続けるのでしょうか???必要ないではないでしょうか、完璧なんだから。そうではないのです、完璧完全ゆえに自分自身が完全完璧であるとういうことを体験できないのです、自分自身がそれを体感したいだからこそあるがままの中に不完全不完璧(マリオ)を作り出し完全完璧を追い求めさせ最終的にそれを味わいたいのです(解放)完全完璧を体験するには不完全不完璧にならなくては成れない、ただそれだけです。

最大の悪趣味

最強のイケメンが自身がイケメンであることを実感するには一度ブサイクになってそこからイケメンに成ってみないとイケメンの素晴らしさ、イケメンの重要さを体験できない。こんな悪趣味なゲームをあるがままはやっているのです。あるがままが無限の存在であるがゆえに無限を体感するには無限そのものでは無限を体験できない、そこで無限ではない形(マリオ)を作り出し無限を追い求め無限の経験を体感しているのです。

だから幼児は全てに感動している

自我が形成されるまでの赤ちゃんは全ての物に興味を持ち感動しています、触って遊んで目を輝かせています。これは自分(あるがまま)が自分(あるがまま)を味わっているのです、面白いのです、楽しいのです。自我が形成されるにつれて究極の不完全(思い込み)になるのですがその場所は苦しいからこそ自我は至福(あるがまま)を追い求め続けるのです。やがて対象(アイテム)には至福がないことに気づき対象でないのならば全体(ゲーム本体)が至福なのではと悟り(画面離脱)に興味を覚えるわけです。

いまここという言葉の難しさ

いまここを感じているのは誰だ?

いまここしかない、、悟り系スピーカーがよく話すワードですね、いまここしかないじゃないか、だから時間なんて存在しないんだ、空間もここしかないのだ、、、ですが結局それを感じているのが「私」ならば本質を理解できていない、、なぜならば「私」は時間と空間の中でしか生きれないのだから。だから常に時間を使って生きるし空間の中で行きますよね。本質は「私」という存在が不在の時に現れるのですからこの言葉を誰に向かって語っているかは重要になります。

今日は良い話を聞けた???

悟り系のスピーカーの講演会に行って本質の話を聞いて帰れば、、今日はなんて面白い話をきけたんだろう、、となります。大変貴重でためになったと、、、ですが恐らく次の日も何か知識を求めるでしょう、なぜならばその話を聞いたのは「私」だからです。そしてその私は次の日に起きればまたより進化した私を目指すはず。ですがどれほど私が進化したつもりになってもゲーム、幻想の中を彷徨っているのに変わりはなく苦しみからは解放されないのです。

「私」からの解放

講演会を聞いているのは「私」ではない、「私」の奥に居るあるがままなのだ、、そしてそのあるがままが「私」を再吸収した時に至福が訪れる、、このメッセージに気づきが起き始めた時に解放は近いかもしれません。「私」は悟ろう、「私」が目覚めよう、、、という主体客体、二元の感覚が抜けないうちは夢の中、ゲームの中にいる可能性が高いのです。

真実と概念は違う

私たちが信じているのは概念

ノンデュアリティ、悟り、非二元のメッセンジャーが伝えるのは真実です、真実は概念ではありません、、、言葉という制限されたツールで真実を伝えていくわけです。多くの人が信じているのは概念です、概念は真実ではありませんからこの概念の中に生きていることで苦しみから解放されないのです。もし今自分が苦しいならば概念の世界に居る、ただそれだけです。

真実と観念は違う

真実と観念が異なります、真実は真実です、、観念とはその人が信じている考え方、概念です。それぞれの人はその人の観念を持ち、その観念に影響された幻想の中に生きているのです。この幻想の世界は苦しいので早くここから出たいと本質レベルでは感じているのです。友人が少ないと寂しく、友人が多いと人間関係が複雑で疲れる、、どこまでいってもこの世界は苦しいのです。

お金を得ても人気を得ても苦しいのは観念の世界に居るから

「自分」がこの世界に生きていると思っている間は常に苦しみに襲われます。「自分」がお金を得て、人気を得ていると思っている間は苦しみに襲われ続けます。なぜならばそこは本当の世界ではないからです、そしてそのことを本質では常に感じています。だから人は救いを神に求めるのです。ですが神とは「自分」とは異なった違う場所にいるのではなく今ここ、「この私」すらも含めて神なのです。今見ている世界そのものが神自身のアート、神そのものなのです。

このことをみんなに伝えてあげなくちゃ

真実の少しでも触れた人間は周囲にこれを伝えなくては!!と思うはずです、ですがそれは喜憂、無駄、大きなお世話です。なぜならば「私」も「あの人」も「この人」も全部あるがまま、神のアートですから最初から救われているのです、あるがままのアートが救われないのならばあるがままはあるがままではなくなってしまいます、神のアートが救われないのであれば神は神ではなくなってしまうのです。ですから全員が最初から救われているこれは神の、あるがままのアートなのです。そしてそのことも全員が本質的には分かっています。

レアアイテム

なぜ人はレアアイテムを収集するのか??

車の収集家、カードの収集家、シューズの収集家、バッグの収集家、世界には様々なアイテム収集家がいます。彼らはレアと呼ばれる希少価値が高いものに目がなく、、世界に一台のポルシェ、世界に一枚のカード、世界に一枚のシューズと目を輝かせて集めていきます。一つ面白い点は、、、彼らは世界に一台のポルシェを集めたその3ヶ月後には再び収集の旅に出るということです。満足は一時的で次の何かを追い求め続けるのです。なぜ満足できないのでしょうか???それはそのアイテムに価値が実はないことを本質では分かっているからです。

分離独立した価値あるものなど存在しえない

あるがままは無分別、無分離、全てが一つですから、、その世界の中に独立分離した価値ある存在など存在しえないのです。人間の脳が作り出した価値でありそれは実は幻想です、誤解です。ですからどれほど惚れ惚れするようなレアアイテム、レアシューズ、レアバッグを手に入れてもまた欲しくなるのです。要は満たされていないわけです。そして満たされたはずの個人も実は存在していないので満たしようがないわけです。

おかしい

アイテムの収集家はどこかでそれに気づく日が訪れます、、なぜいつまでも満たされないのか???満たされないということはこの方法では一生満足できないのではないか???と。世界中のレアアイテムを収集し切るまで満足はこないぞと、、、人間の満足とは、、フェイクなのではないか、、実は本質レベルでは全く満足できていないのではないか、、、そうです、、、その通りです。独立分離した個人が居るという大誤解の元に自由意志でレアアイテムを収集し尽くしても満足は起きないのです。その個人がフェイクですから。

何をしていいか分からない

個人の欲望を満たすことしかしたことがない人類にとってそれがフェイクだと教えられたところで一体これから何をしていいか分かりません。個人の欲望を満たしても満たせないことが分かったところでではどうすればいいのか?嘘を見破るのです、個人という嘘を見破るのです、何かを手に入れることでは幸福になれないことが分かったら、、その嘘の本質を見破ることです。そしてその過程においても自由意志は存在しないことを悟ります。もうこれからは自由意志をどう使うかという悩みから解放されます。完全自動、完全受容で本質に気づくのを待つのです。

自由意思がないならば自分は誰だ???

個が消滅しても残るもの

私たちが絶対的に「自分」という存在に確信を持っているのは、、「自分が居る」という確固たる感覚ゆえです。もしくは居るという感覚です、、、意識の存在を否定する人はいません、、なぜならば今現在も何かを認識する意識が存在するからです。この絶対的な意識感覚こそが自分という存在を信じることに繋がります。ですが本当は意識こそあれ自由意志は存在しないのです、、勝手に湧いてくる思考、感情を、、、自分が作り出したという大誤解が起きているだけです。本当は勝手に思考、行動が湧いてくるだけ、、自分など全く存在していなくても湧き続けるのです。そしてそれを認識し続ける意識もまた存在し続けます。

我々の本質はこの意識

思考が湧けばその思考に気づき、行動が起きればその行動に気づく、何も思考が湧いていなくてもそのことに気づき、何も行動が起きなければやはりそのことに気づきます。この気づきの意識こそが我々の本質です。思考、行動が湧く時だけ現れる「自我」という幻想ではなくそれらに気づく存在こそが我々の本質なのです。いつの間にか我々は気づきの意識ではなく気づきの意識によって気づかれた思考、言動を統括すると言われる自我という幻想に成り下がったのです。

本当は統括する自我などない

我々の言動の全ては自由意志でコントロールされたものではなく勝手に湧き上がった自動システムの産物です、ですからノーコントロールに湧き続けているのです。にも関わらずこれは自分が生み出したモノだという思考が湧き上がり、、それに固執している状態が続いているのです。そしていつの間にか全てに気づく意識ではなく意識によって気づかれた「自我」という思考に成り下がったのです。そしてその大誤解を前提にした思考が湧き続け自我という幻想に翻弄され続けているのです。だから我々はいつまで経っても苦しみから解放されないというわけです、真実とは異なる思考に固執しているからです。

背骨を通す

基本

ヨガ、アーユルヴェーダ、気功、、、、などの基本は最終的に背骨を通します、、、、背骨の浄化、背骨の解体、、、どうやらこの背骨が覚醒しているか否かが、、、重要になる、、、、背骨の覚醒が、、、そのまま悟り、、、感受性の局地、、、あるがままをあるがままに感じる体にする、、、、

下半身という土台

下半身は、、、、しっかりと強靭に、、、、かつ柔軟性高く、、、、これによって、、、背骨をしっかりと支え、、背骨が安定する、、、、そして脳からの指令が、、、的確に届いていく、、、、五感が解放されていく、、、五感が開いていく、、、、五感がこの世界をありのままに捉えていく、、、、

この幻想の世界で、、、

この幻想の世界で、、、、五感を開くとは、、、、幻想の世界に生き生きとした体験を生み出すということ、、、虚という実在しない世界に、、、、実という生命を生み出します、、、それが五感の役割です、、、、何もいらない、、、ただここに居るだけで、、、生命が湧き出し、、、生命と共に在る状態に至ります、、、、何かを手に入れたからではなく、、、、その何かと共に居るだけで充実、、、ここに至ります。