仏教

不在の遊び

不在の鏡

この世界は不在の鏡です、仏教では空の鏡が色、、、色とは現象、、、この現象は空という不在の鏡です。ですがこの不在は無限の不在、、無限ゆえにこの鏡には無限が広がります、不在として。。。だからこそ圧倒的リアリティーに見える物事、人物は、、、実在しているように見えるだけ、感じるだけ、、、それだけ、、、、その世界で、、、どんなにあらゆる物を手に入れても全く満足できないのは当たり前、、実在しないからです。

人からの評価

どんなに周囲から評価を受けても満足できないのも当たり前、、実在しない人物から実在しない私が評価されて誰が満足を経験できるのでしょうか???できません、、満足するためには満足するための心が必要になりますが無いのですからそれは無駄、、、一時の錯覚しか経験できません。批判されればしばらく悔しいですけど????それは批判を実在と勘違いすることで、、、その批判という経験を思考が長期に所有した場合に起きます。

究極の明晰さ

これを不在の遊びと見抜いてください、、すると、、明晰さが取り戻されます、、、もうこの幻想の世界で私を頑張るという茶番が起きなくなります、、、、、そうは言っても生活が、、、違うんです、、幻想を幻想と見破り生活してみてください、、くだらない思考、感情が全く湧いてこない、、、湧きようがない、、、究極の明晰が押し寄せてきます、、、そしてその時に思い出すのです、、これを求めて生きていたと、、、この感覚をどこかに忘れ去っていたなあ、、、と。。。。本当に手に入れるべきはこの明晰さだったと、、、

自動反応を観察する瞑想

全ては自動反応

縁起、因果、、、仏教では現象の仕組みをこの二つの言葉で表現します、、自動反応、自動プログラミング、、なんでもいいのですが我々の行動、思考、感情の全ては自動反応で起き続けていきます、、、本当に絶え間なく起き続ける、、、これをコントロールできる個人は実在しません。ですから生まれて死ぬまで、、、この活動がひたすらに起き続けて死ぬのです、、、完全自動現象システムです。

これをただ観察する

完全自動オートメーションシステムならば我々は何をすればいいのでしょうか???ただ観察します、、、ことの起こりを観察します、、、何を経験し、何を思い、何を行動するかを観察すればいいのです、、、瞑想です、、、圧倒的他者になってこの動きを見守ります、、、するとそこに静寂が広がります、至福が広がります、明晰が広がります、、、観察者ですから湧いてくる思考をどう処理するかが湧いてきません、、、怒りに対し、孤独に対し、どうするかが湧いてこなくなります、、、思考、感情のラリーが止まるのです。

二日酔い、、、

二日酔い、、多くの方は反省します、、、なぜ飲みすぎてしまったのか???あそこで止めておけば、、、違うんです、、、二日酔いが起きた!!!で終わり、、、そういう自動反応が起きた、、、で終わり、、、、また観察者に戻ります、、、自動反応を見守る存在として経験だけを感じていきます、、、24時間瞑想状態、、この状態が至福、静寂、平和です。。。。そしてそのうちに観察者でもなくなります、、、

仏の中で遊ぶ

仏像を拝む

仏像とは、、拝むものではありません、、、実は仏像は、、我々の本質の象徴です、、、我々が仏像という無限の存在であるという気づきを得るものです。。。仏像という無限の存在の中で今はこの体を遊ぶという行為をしているという体感を得る場所です。仏とは対象ではなく、、、まさに自身が完全な仏であり、、これは仏の鏡の姿であり、仏の鏡の姿の中で、、体験だけが存在しています。

無限の体験をできる

一人の人物を大勢で写真を撮ります、、、、一人100枚の写真を撮る、、、、100枚が完璧に違った写真になる、、、たった一人の人物が全く違った絵になる、、、、これがこの世界が無限である証拠です、、、この世界が無限の鏡、仏の鏡の世界である証拠です。鏡の世界の中でなぜ経験が積めるのか????おかしいではないか???感じているのは無限そのもの、仏です。。。無限の経験が起きることで、、無限は自身が無限であることに気づくのです。

本当の神は???

本当の神は???キリスト教、イスラム教、仏教、ヒンズー教、、、、無限です、、、神の本質は無限ですから神は無限の表現をできます、、、、八百万の神、、、無限という意味です。。。どっちが本物か論争は無駄です、、無限の神の表現ができる世界がここだからです。

個人としての経験が観念を作る

勘違いが強化されていく

個人としての経験の全ては記憶されて、、その人の観念、価値観に強化されていきます、、、例えば、、、人から何回もスリにあった人は、、、人は信用できないという価値観が強化されていきます、、、この価値観は人生が長く長くなっていけばいくほどに、、、強固になり、、、その価値観がこの個人という存在を絶対的にしていきます。。すると何をしても苦しい、何を達成しても苦しい、、と無間地獄に入っていくのです。状況が苦しいのではありません、、この個人としての価値観の強化が苦しみを圧倒的に作るのです。

個人が圧倒的になっていく

個人が居るというのは完璧な勘違いですがその勘違いを元にした経験の全てがデータとして蓄積されることで、、、価値観になり、信念になり、、、その価値観を照らし出した経験をさらにしていくことになるのです。個別の体験が自動的に作り出されていきます、、、、人は必ず裏切ると信じている人は、、、、裏切りそうな人に視点がフォーカスされそのような出会いを続けていきます、、、どのような価値観をその人が形成しようと、、この個人を強化することには変わりはなく、、これが苦しみを生み出すのです、、、価値観の差異はここではどうでもいいのです。

全ては「苦しい」に向かっていく

人が歳を重ねると悟りや仏教、禅などに興味がでてくるのは価値観の形成、価値観の強化に伴い、、個人が居るという価値観が圧倒的に強くなっていき苦しさが押し寄せてくるからです。中年のうつ病などはまさにそれで、、苦しいから逃れられない心の叫びを、、禅や仏教に求めるのです。個人といての経験の全てが苦しみを生み出します。。私の価値観は非常にポジティブだ、、、関係ありません、、、価値観の強化こそが大勘違いを強化するのです、、、全ては目覚めに向かっています、、、全員がテトリスのブロックを積み上げ、、必ずゲームオーバー、、究極の諦めに到達するようにできています。

無欲の勘違い

仏教のイメージは間違っている

禅や仏教と言いますと、、何か無欲の世界、、、といったイメージがあります、、、ただ淡々と静寂、、無欲の体現者の世界、、をイメージします、、、これは間違ってはいないのですが実際には、、お腹が満腹なだけ、、、欲を満たし切ったために欲が湧かない状態なのです、、、ですから多くの方がイメージするような世捨て人的なことではないのです、、、美味しい美味しい料理を食べ過ぎて、、もうお腹いっぱい、、その境地です。

全部が全部自分ならばお腹いっぱいに決まっている

お腹いっぱい、、この夢の原理原則が理解できますと、、、この夢の中の現象、現象物、は全部自分自身だということが分かります、、、夜見る夢の中の登場人物、環境全ては夢を見る人間が作り出しました、、、この現象界界は誰が作っているのか???自分です、、間違いなく自分です、、、ですから、、、全部が自分、その動きも自分、そこで起きる経験も自分です。これが分かってこの体は何を求めるのか???

飢餓状態が当たり前

この思考、この体、この動きを、、自分と勘違いし、、、周囲は全部自分以外と勘違いする、、、究極の不足感を感じるゲームを我々は行っています、、、本当は真逆で、、、、コントールできない世界が自分、、、そしてコントロールしているつもりのこの体も実はそういう勘違いが起きているだけであって実は全くコントロールできていない、、つまり全部が全部コントロールできていない、、、つまり全部自分なのです、、、

夢だとしてだから何だ?

夢なのは分かった、、、

これはどう考えても夢です、、、夢を構成するエネルギーがこの私の正体です、、、夢を構成するエネルギー?それを仏教では色と言います、、色がある世界、、これを構成するエネルギーが私です。ではこの夢を見ているのは誰だ??それももう一つの私です、、、気づきの意識とか言ったります、、、、ではこの夢を構成するエネルギーはどこから生まれたのかそれが空です。

なぜ空が現れるのか?

これが夢で、この夢を見ている存在がいて、、この夢を構成するエネルギー(色)があって、、そうすると子の色を生み出す存在が必要になります、、そこで空が登場します。。。これによって色は空を生み出したのです。空が色を生み出しておいて色に気づく存在が現れる(気づきの意識)が現れ、結果空の存在に気づきます。色即是空です。

これが夢だと見抜き、空を見抜く、空と色は一つを見抜く

これは完全ある夢で、、、この夢のことを色と言い、、、この夢を見ている存在を気づきの意識と呼ぶ、、、そしてこの色を生み出す存在、空の存在に気づく、、、色は空であり、空は色でもある、、、私はこの世界を生み出した全存在、夢も私生み出した存在も私、、、私しかいないが、、、この私が作り出す世界は正気に溢れ、生命に溢れ、毎日、毎秒移ろう世界、、、究極のアートです。

分離に生きるのではなく分離の視点で生きる

分離そのものではなく

私たちは分離の世界にのめり込み、、本当に分離していると信じ切って生活していますが、、、本当は分離はなく、、分離の視点があるだけです。ワンネス、大いなる一つ、空そのものであることが真実でそこに分離を作り出したのはこの見かけ上の脳です、脳が名前を記憶することで、、、記憶された現象がボコっと便利しているように見えるのです。この見えるというのが最重要で、実際には一つです。

一つだった

一つだったが腹落ちしますと景色が輝き始めます、、音楽は天国の音色を奏でるようになります、人の中の無邪気が見えます、、、これは子供が世界を眺めている時の状態です。これが大人になってから戻るのです、、、何もしていないのに幸せ、、できればこのまま、、だけでいい。肩にのしかかる重荷は消え失せ、こなさなきゃいけない課題も消えます、、、、本当はないことを知っています。

分離視点で片付ける

ということで本当は一つです、、それが分かると焦ることができない、、、ただこの体(見かけ上)を通して起こる言動をこなすのみです。成否は全部全体任せ、気づき任せ、神任せです。それを判断する自分も実は居ない、、仏教では他力本願という言葉がありますが自力本願が不可能だということです、自力の自とは全体、気づきの存在、大いなる一つなのですから。あくまでも作り上げられた分離視点で淡々と片付けるのみです。

悟りに興味が出るだけ奇跡

悟りに興味は起きない

見かけ上の私は、、とんでもない好奇心旺盛な人間で、、興味の湧くことは片っ端から極めていこうとしました、、幼少期は動物、昆虫遊び、、小学生になるとTVゲーム、、中学は受験勉強、、高校はスポーツ、大学は異性関係、就職後は自己実現、、一直線にそれを満たしていきたい、、そう思う人間でした、、、就職後にどうしても仕事が合わず、、かつ次にやりたいこともない、、、ここで八方塞がりに突入しました。この八方塞がりは見かけ上の私の人生史上最大の壁になり、、さすがに現実から逃げたいという欲求が渦まきました、、、結果仏教、善の悟り関連のメッセージに自然と救いを求めるが起きたのです。

趣味は徹底した、努力も徹底した

自己実現の壁に出会った時に、、、なかば諦めの境地が来ました、、、もしかしたら今回は不可能かもしれない、、何もやりたいことがない、、、、参った、、、その時に染み渡ったメッセージが釈迦、禅などの悟りメッセージだったのです、、ですがこの時は本当の意味など分かるわけがなく、、、ただそこに真実があることだけは分かっていました、、。最後はここに行けばいいのだという、、、

自由意志を手放すには

自由意志を手放すのは怖いものです、、、なぜならば自由意志でこの人生は守られていると本気で信じているからです。ですからこれは完全な人体実験が必要になります、、、何も考えず、、何も計画を立てず、、生きてみよう、、、やってみよう、、、すると不思議何も問題なく行動が起きるのです、、、何も準備なくしっかりと行動が起きます、、、え???本当だっ、、、という気づきが起きます。

現象とは形が現れてること

現象ってつまり蜃気楼

この世界を現象界と表現しますが、、現象とは象(かたち)が現れたということ、、まさにこれは仏教用語で色のことです。かたちが現れた、、、我々は漢字で既に真実を表現していたのです。事実のことを現実と呼びます、、実が現れる、、と書きます。実とは何か物質が詰まったような存在、これが現れるのです。どこに、、空から色が現れたのです、蜃気楼として。3D映像として、、色即是空とは、3D映像是インターネット空間、、空即是色とは、、ネット空間即是3D映像です。我々が使っているこのネット空間はどこに在るのでしょうか、、これぞ空、、、そして目の前のPC、タブレット、スマホに現れる動画は、、3D映像、、これが色です。

この体が自由に動くことで勘違いを継続できる

この体だけは自由に動かすことが一見できます、この体だけは自由意思で動かすことができる、、一見そう見えます。だからこそ我々はこの自分ゲームに完全に騙されます。素晴らしい自分、守らなくてはいけない自分、ししてそれ以外の環境、他人、敵、味方、、、です。ですが実は全部蜃気楼、3D映像であり、、この自分の体も蜃気楼、3D映像です。そして自由のままに動くと信じ切っていたこの自分の体もマリオ同様に完全にマリオの外から操作が起こっていました。マリオの動きをマリオが操作しているという勘違いが起きていたのです。

3D映像が動くことで自分が動いているという錯覚が起こる

街を歩く時に感じてみてください、、実は景色が動いているということを、、景色が動いていることで自分が前に進んでいるということを、、歩くとは3D映像全体を動かす行為だったのです。走るとは3D映像を凄まじく早く動かす行為だったのです。地面を踏み込む足の感覚はこの錯覚を強烈なものにします。吹き抜ける風の感覚はこの錯覚を強烈なものにします。街ゆく人々との挨拶はこの錯覚をリアルなものにします。

探求はどこから生まれているのか?

探求も根源からの現れ

探求したいという欲求はどこから生まれているのでしょうか、仏教を極めたい、神道を極めたい、茶道を極めたい、趣味を極めたい、、なぜ人は何かを極めたいのでしょうか。。。答えは簡単、今に満足できないからです。今が不満足だから何かを究めたいという欲求が生み出されるのです、根源から。自分という感覚は欲求不満生臓器です、自分という全体から分離した感覚を作り出すことで不足感を生み出しそれを埋めたいという欲求が根源から湧き出します。その欲求こそが何かを究めたいという探求になるのです。

探究心が強い、根源を知っている証拠

根源に深く触れたことがある人は再びそこに戻りたいという欲求が強くなります、それが探究心です。何かを究めたらあの感覚に触れることができるのでは、あの感覚に戻れるのでは、、これが探求を始めます。全体は分離感覚を作り分離ゆえの孤独感、悲壮感、不足感を味わうことに成功しました、全体感覚を垣間見ることで全体への帰還意識を強く強く覚えるのです。

気づきが後戻りすることはない

良い音楽に触れてその感覚がなくなることがないように、素晴らしい芸術に触れてその良さを忘れることがないように、気づきとは後戻りすることがありません。探究心というものが衰えることがないのは、一度全体、根源に触れた人間は根源への欲求が衰えることがないのです。それを忘れるということができないからです。ということで今探究心が強いならばそれが衰えるということはなくその事実こそが悟りに触れてきた証拠になります。